作品評価・解釈とは? わかりやすく解説

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作品評価・解釈

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 10:04 UTC 版)

白痴 (坂口安吾)」の記事における「作品評価・解釈」の解説

白痴』は、終戦後大きな反響呼んだ随筆堕落論』の次に発表され小説として、共に注目されて、戦後における坂口作家特異な地位築いた作品である。奥野健男は、敗戦昏迷中にいた日本人、特に青年たちに、『堕落論』と『白痴』は「のごとき衝撃」を与えたとし、「ぼくたちはこの二作によって、敗戦虚脱から目ざめ生きる力得たといって過言ではない」と述べている。そして奥野は『白痴』について以下のように評している。 ひたすら霊を追い求めていた作者が、空襲下に肉体本能だけのせつないかなしい魂を見いだした絶対孤独表現している。その大胆な表現は、日本における実存主義、そして戦後文学出発点となったかなしみの街を過ぎて安吾ここから肉体思考基調既成道徳超えた堕落中に全人間性回復夢見る。 — 奥野健男坂口安吾――人と作品宮元淳一は『白痴』の構成について、「偉大な破壊」の戦火により人々は「焼鳥のやうに」死んでゆくという異常な状況下における主人公が、そこに「運命従順な美しさ」を感じてしまうが、その「美」寸前のところで思い留まり拒絶して、「平凡」に生きること決意する概説している。そして、伊沢女に、「俺の肩にすがりついてくるがいい。わかったね」と言う場面が『白痴』のハイライトであり、その決意一瞬極めてヒロイックであるが、その場面に反し戦火という「デモーニッシュ」な美をくぐり抜け小川へたどり着いた二人には、「勇壮な面影」はなく、豚のような鼾をかいて眠る女の横の伊沢凡夫となり、「戦争という“偉大な破壊”に身を任せること」を拒絶したことにより、安月給汲々とするような「“卑小な生活”が再来する」とし、「それこそ伊沢選んだ道なのであり、彼は正しく堕落”という“驚くべき平凡さ”を正面から引き受けているのである」と解説し、『白痴』がエッセイ堕落論』の主題呼応していることを論考している。 福田恆存は『白痴』に見られる男女間の愛情について、安吾は「精神肉体との対立」という旧来の主題追求しているが、安吾男女間の付き合いを「肉体的なもの」だと断定しているわけではなく、「そうではないかと問を発しているまでのこと」で、「かれは処世術ぶちこわしてみたいのである」と考察し男女間の「精神肉体との対立」に妥協してうやむやに穏便に事を進めるという処世術妥協から生まれる「無意識」というものに福田言及しながら、「坂口安吾無意識の虚を突き妥協安定くつがえすのである。なんのために――精神の純粋熾烈な発光陶酔したいという、その一事のために。坂口安吾度しがたい夢想家なのだ」と解説している。そして福田は、安吾精神はもともと「現実観念」の間に安定欠いていたために、「処世術虚偽」を見抜いたのであり、処世術否定により、安定欠いたのではないとし、そういった事実安吾が「自己の宿命として自覚」したからには次に「逆の運動も可能」となり、それにより安吾精神はますます安定欠いてしまうのだと論考している。 七北数人は、坂口の『南風譜』にみられるピグマリオン奇談テーマ発展が『白痴』にもみられるとし、「この女はまるで俺のために造られ悲しい人形のようではないか」という主人公伊沢の心のつぶやきが、「自閉的な恋」であることを暗示していると述べ、以下のように評している。 白痴の女との空襲下の道行きが夢のような幸福感包まれているのも、二人の世界がまるで伊沢一人内面世界であるかのように閉ざされているからだろう。男が女を犯しながら女の尻の肉をむしりとって食べる、そんな不気味な夢想行き着くラストは、初期作品から続く神経症的な不安が覆いかぶさってくるようで狂おしい。 — 七北数人解説

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R62号の発明」の記事における「作品評価・解釈」の解説

人間ロボット機械鉱物)になる『R62号の発明』について渡辺広士は、「単なる人間対機ではなく機械になった人間機械発明して人間復讐するというところに、安部流の二元連立方程式の少しこみいった解き方がある」とし、この作品にも、安部の他の短編散見される疎外観念」から人間が「物」に変身したり、「動物人間という混合形」となる「観念物質化」の発想があり、それは「現代科学野心」から見て未来ありうること」を利用し、「一種SF未来物語と見ることが可能な側面」を持っているが、「安部公房の〈人間中心主義〉へのアンチ決し非人間主義ではなく人間の運命という問題意識中心に据えたのであること」がその作品結論から看取され、「この動物・植物鉱物主義は、その問題意識において人間主義的である」と安部作品傾向解説している。 ゴーシュ・ダスティダー・デバシリタは『R62号の発明』の主題について、戦後復興遂げた日本社会産業アメリカ産業急速な導入と共に、「テクノロジー人間世界支配しはじめていることへの批判姿勢明確だとし、ここでロボットは「人間社会支配し人間労働力尊厳侵しているメタファーとなっている」と解説している。またデバシリタは、チェコ作家カレル・チャペック戯曲R.U.R.ロッサム万能ロボット会社)』と『R62号の発明』の両者共通する問題意識触れ、『R62号の発明』は、一般人がほとんど気にかけることのない、「機械存在」が長期的に人間与え影響脅威への警告示され、「人間性機械化焦点当てられ将来人間危機予言されている」とし、そこでは、「機械としてのロボット人間知識モノ化した物体であり、忠実な仲間として作動するものでありながら、それが逆転して人間さえ機械化犠牲になってしまうというパラドックス」が浮かびあがり、「ロボット発明社会構造変化させ、人間存在にかかわる重大な問題証明する。ここにロボット役割移行または逆転が起こる」と論考している。 またデバシリタは、主人公冒頭では無名であったのが、ロボット化されてからR62号の存在認められ高水社長復讐をするという構図触れ、それは逆に見れば産業社会が高度になればなるほど人間無力化されるという諷刺なのではないかとし、以下のように論考している。 それは勝利悲劇象徴である。R62号はロボットになって非人間的な社会から脱出しようとするのはパラドックス極限表といってよかろうその意味からすると本作品は人生否定拒否から始まり回復解放に終わる。人間としてできなかったことはロボット化されてから可能になり、労働者ロボット)は資本家を殺す。しかしここで概念衝突する技術支配されないよう警告する一方で主人公ロボットになったからこそ社長を殺すことができた。彼は管理社会外側逸脱したからこそそれに立ち向かう力を得たのである作家自身果たしロボット人間象徴見ているのかテクノロジー見ているのか、それとも両方なのか。疑問読者投げ出されている。 — ゴーシュ・ダスティダー・デバシリタ「安部公房にとってのロボット文学――短篇小説R62号の発明』をめぐって

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燃えつきた地図」の記事における「作品評価・解釈」の解説

燃えつきた地図』は、従来小説慣習プロット人物の自然な展開)を破る安部前衛的な手法が「長編小説」において最初に活かされ作品とされている。また、他人への通路探検」というテーマへの一つ到達点をなした作品だとされ、その後の『箱男』『密会』へと、そのテーマ展開して引き継がれている。 三島由紀夫は『燃えつきた地図』を、安部小説中に会話天才」を見事に活かし、『砂の女』や『他人の顔』よりも、「はるかに迅速に疾走してみせた小説」だと高評し、以下のように解説している。 これは動いてゐる小説である。動いて動いて、時々おどろくほど鮮明な映像があらはれながら、却つて現実の謎は深まつてゆく。たえざるサスペンス、そして卓抜な会話社会投影図法描き犯罪の匂ひと、尾行襲撃と、……その結果イリュージョンがつひに現実打ち克ち、そこから見た現実自体構造が、突然すみずみまで明晰になるラストのモノロオグが、この小説怖ろしい解決篇であり、作品全体再構築であるところに一篇主題がこもつてゐる。失踪者前にのみ、未来が姿をあらはすのだ。 — 三島由紀夫推薦文ウィリアム・カリーは、『燃えつきた地図』の文体反復表現構造を「円環パターン」と名づけ、それを、疎外され人間はてしない苦境見出す構造であると分析しつつ、「終わりのない疎外」という問題体現強調するための構造だと述べている。 徐洪は、ウィリアム・カリー指摘した燃えつきた地図』の構造分析敷衍しながら、その反復表現もたらす表現効果として、「時間線条性が意味をなさない世界の創造」という効果について考察しながら文体解析し、以下のように説明している。 「輪」の反復表現は、物語冒頭終結現われることにより、冒頭終結つながり始め終わりとなり、また終わり初めとなって時間循環するものとして提示されることにより、線条的な時間の流れ破棄されるまた、尻取り式」反復表現は、物理的に与えられテクスト上の空白を同じ言葉繋げることにより、両出来事の間に存在していた時間断絶埋められてしまうのである。 — 徐洪「『燃えつきた地図』における反復表現」 そして作品一つ生地譬え、「この生地平らな生地ではなく反復表現により、多くの襞を持つ生地作り上げられている」とし、その表現方法物語時間縮めたり、元に戻したりすることにより、「生起順の時間」は意味を持たなくなり、「線条的な時間の概念廃棄により、因果律破られる」と考察しながら、「原因はなく結果だけが存在する失踪〉という本作品の内容はより浮き彫りになる」と解説している。

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東京のプリンスたち」の記事における「作品評価・解釈」の解説

三島由紀夫は『東京のプリンスたち』を「心情美しさ充ち作品」だと評し、「刻々に移りゆき、刻々に変幻する十代少年男女心理は、ここではそのまま音楽化身してゐる。これは現代そのものフーガだ。今まで誰もが求めながら、誰もが実現しなかつた真の若さ』の純粋な表現がここにある」と賞讃している。また、深沢作中多く流行語をまじえながらも、「完全に現実遮断した文体」を作っていることに敬意を表する述べつつ、作品最後一人青年激し睡魔おそわれる場面触れ、「重い眠りの姿で登場人物の肩にのしかかりながら『現実』が姿を現はすおそろし効果すばらしい」と解説している。 日沼倫太郎は、『東京のプリンスたち』を、「何ものにもとらわれることのない人間理想生き方を、ロカビリー熱狂する一群青年たちの姿をかりて追求した小説」だと評し深沢七郎の旅好きな面に触れつつ、「ここに日本近代文学明治以降一度定着出来なかった旅の思想、『伊勢物語』や芭蕉源流とする流転文学系譜がよびもどされている」と考察しながら、この「旅にも似た束縛のない生き方」を、十代明る世界置きかえてはいるが、「本質的にはかなり暗い小説」だと解説している。 また、複数登場人物交互に並行して描くという構成触れつつ、そういった深沢の「メタフィジック周到な配慮の下にかたられている」場面特徴的に示されているのは、「正夫エルヴィス聴きながら、明治時代出版され天文学書物拾いよむ場面」だと解説している。そして、深沢天文学文章パラグラフを六個所執拗に入れている理由について、「世界が、その本質としてエネルギー速度もないノッペラボーの空間であること、個人もまた発生終末を無によって包囲されていることを強調したかったからだ」とし、主人公高校生たちの「明るい生活」は、「未来に無を約束された生活の束の間あかるさのである」と解説している。

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二流の人 (小説)」の記事における「作品評価・解釈」の解説

1940年昭和15年)の35歳時に切支丹ものや歴史興味抱きはじめる以前坂口安吾1935年昭和10年)から1936年昭和11年)にかけて、矢田津世子との恋愛自己の半生に決着をつけるために、渾身の力を込めて野心作である長編吹雪物語』を執筆したが、それは失敗作終わっていた。奥野健男は、そのことと『二流の人』の主題関連づけながら、「自分才能限界知らされ二重の失意」に陥った安吾がその「挫折痛み」を、「ついに志を得なかった黒田如水」に託して描いた歴史小説が『二流の人』だと解説している。 上野俊哉は、ビートルズからしたら、明らかにローリング・ストーンズ二流だろうが、ザ・フーから見たら、ストーンズの方が一流になるかもしれないというふうに、「二流」とは常に「相対的な価値づけ」にしかすぎない述べつつ、『二流の人』の主人公黒田如水は、「覇を競う天下人の間で、彼らにときに畏れを抱かせながら、いささか邪魔な軍師策士としてふるまい、そのかぎりで〈二流〉を生きつづける」と解説している。そして「知略の人」と言われながらも、この知略において苦労重ね、「何度も失墜しては浮かび上がる芸当」を見せた黒田如水の「食えない感じ」を、「安吾どうにも愛してたように読める」とし、次のような作中一節を引きながら、優等生にも一流二流があるが、安吾後者二流)に惹かれしまっていると考察している。 崩れ自信と共に老いた駄馬如くに衰へるのは落第生で、自信崩れるところから新らたに生ひ立ち独自の針路を築く者が優等生官兵衛も足もと崩れてきたから驚いたが、独特の方法によつて難関対処した。 — 坂口安吾二流の人」 そして、「豪放見えて繊細磊落ふるまいながら天下御免とはいかない虚心企み背中合せ〉の黒田如水安吾惹かれたのは、この「二流の人」如が「自分を〈モノ〉のように突き放してなおかつ自分を見つめ、その巨星たちに弄ばれる運命位置取りを自らの創造発見原理にしてしまうような者であったからだ」と上野述べつつ、秀吉家康英傑の中で自らの才能出過ぎず、「その〈機能〉(他人から見た使い方)の塩梅勘案する策士黒田中に、「もうひとつのいきいきとした堕落〉、今ひとつの〈戦後〉」を安吾読み取っていたと、『堕落論』と関連させて、安吾が「二流キャラクターたちの位置取り歴史筋目見てとり、同時に様々な価値相対化転倒積極的に生きぬいた」と考察している。

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密会 (安部公房)」の記事における「作品評価・解釈」の解説

密会』は、『箱男』から約4年半後に発表され長編であるが、その前作複雑な作品構造小説空間比較され論究される面があり、『箱男』が「覗き屋の小説」であるなら、『密会』が「盗聴者の小説」であるとみなされることもある。 高野斗志美は『箱男』を、「都市廃棄物」「死んだ有機物」の群れ群衆への「鎮魂散文詩」とするなら、それに対して密会』では「残酷な無機物による管理システム」が描かれているとしている。そして高野は、妻を捜していた主人公が、「出口のない迷路全体そのもの巨大な管理構造」だと気づいた時に、「すべての行為無益」であり、自分が「管理迷路病院)のなかにとじこめられていること」を知り、〈申し分のない患者になること〉を院長訴え様相を、「疎外状況とじこめられることは、出口みつけないかぎり、さらに深い疎外へと追放されることなのであり、見はられ管理され追いつめられていく日常のなかで、人間感覚の断片転化していくということ」だと解説している。 平岡篤頼は、現代の「未曾有の性的表象氾濫状況を、性が解放されスポーツ化されただけでなく、「営利目的をもって煽り立てられ、常に鼻先突きつけられ、増産され薄利多売されている」とし、それは、「公娼制度以上に管理統制の色を濃くし、社会全体神経ピンク漬にしている」状況であり、社会煽動個人色情互いに増大させ合う関係性となり、いわば『密会』はそういった悪循環エスカレートした果て現出する、色情地獄という逆ユートピア」を描いていると解説している。

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聖家族 (小説)」の記事における「作品評価・解釈」の解説

聖家族』は、文壇から認められ出世作であるが、日本の文学史的に見ても、ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』やコクトー小説心理分析の手法をうまく取り入れて成功させた意味は大きいとされている。当時聖家族』を高く評価した作家一人横光利一初版本序文で、文学史的な位置づけ含めて以下のように評している。 聖家族内部外部同樣に恰も肉眼見得られる対象あるかの如く明瞭にわたくし達に現実内部示してくれた最初新し作品一つである。それは譬へば海底典雅な未知の世界溢れてゐるのと等しく聖家族構造端整妍美馨香時に溢るともいふべき雍容をもつて姿勢の妙を尽してゐる。確にこれは堀氏一時代頂点を示す作品であつて、堅密非常、暗移漸轉、綿密廻環、まことに得難い逸品である。 — 横光利一序文」(『聖家族』) ラディゲコクトーフランス心理小説の手法から学んだ聖家族』の論理的理知的な心理描写について丸岡明は、「何んとも解き難い方程式が、幾度か繰返して因数分解されてゆくうちに、遂に綺麗に解かれてゆく――そういった印象読者与える」と評している。松田嘉子は、主人公・扁理が旅立った後の、細木夫人絹子心理描き方において、コクトーの『山師トマ』や、詩『表と裏』などの類似見られるとしている。 『聖家族』は、師・芥川龍之介の死という現実元に執筆されたものであるが、堀は芥川の死の後に、自らの小説理念として、「現実よりもつと現実なもの」が「どれだけ確実に、しつかりと捕まへられてゐるか」により、芸術作品価値決定されるとし、そういった現実超えたもの」には、ただ「それらのよい作品通してしか、触れることが出來ない」と考え翌年には、ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』について、「作者が少しも告白をしてゐない」ところに感動したとし、「さういふ少しの告白もない、すべてが虚構属す小説こそ、僕は純粹の小説であると言ひたい」と述べている。 源高根は、堀が述べている「現実よりもつと現実なもの」や、堀が自身文学について述べた以下のような言葉や、『聖家族』の冒頭文を引きながら、『聖家族』も、「堀辰雄切実な人間的体験が、次第文学的体験転化して行く」一つの例であると解説している。 私の興味は、何と言つても、その作家自分棄てるのにどれだけ独特の苦痛かけたか、といふ点に専らかかつてゐるやうである。(中略)私の作品は――といつて悪ければ、それらの作品書いた感興多くは、――フィクション組み立てることにあつた。私は一度も私の経験したとほりに小説書いたことはない。(さうかと言つてまた、自分感じもしなかつたことは一ぺんも書いたことはないが…) — 堀辰雄小説のことなど」 水島裕雅は、堀は『聖家族』を書くことで、師・芥川の死を形象化し、「自己のあり方確立すること」を試みたとしている。丸岡明は、象徴的な冒頭文で始まる『聖家族』を、堀の作家としての「最初脱皮であり、宿命的な作品であった」とし、堀が随筆小説のことなど』の中で重視している「作家自分棄てるのにどれだけ独特の苦痛かけたか」という言葉を受け、「(堀の)その独特の苦痛は『聖家族』のあの心理小説の手法と、芥川龍之介の死から受けた打撃の処理の仕方のうちに、見られる」と解説している。また、堀の文学は、身近な人々の死を体験し、堀自身も健康を害していたことから、「生は常に死に裏づけられて存在し風景描写までが、常に死を背景にして、生き生き陽に輝く」と考察している。 福水明人は、芥川死の影響最大受けたのが堀辰雄だとし、『聖家族』で扁理(堀自身)と九鬼芥川)の関係性類似について堀自身自覚していた点に触れながら以下のように考察している。 堀は、芥川自己の弱さ世間隠しながら、そうすることでかえってその気弱さたえられなくなる性格であった故に芥川悲劇があったとするこうした気弱さの点で芥川性格的類似自覚した堀にとって、芥川の死は自己の危機であった。この危機乗り越えるためには、堀は芥川弱さ隠そうとする人生態度とは別の態度を取らねばならない。「そこで彼とは反対にさういふ気弱さ出来るだけ自分表面持ち出さう」という、芥川の裏面を表面とした堀の人生態度決定されるのである。 — 福水明人芥川龍之介研究堀辰雄へのつながり―」 そして福水は、この堀の人生態度が、その文学方法密接な関係を持ち自身人生における「苦悩する自己の魂」を「文学」として位置づけた堀の魂を支配した問題が「死・生・愛」であったとしている。また、文学が「私小説」を感じさせない文学である点も、芥川から受けついでいるとし、芥川晩年の「告白小説」が小説形式喪失していたのを見逃さなかった堀が、「告白だけの悲劇」を芥川の死の中に見て、「自己の最も求心的問題」をしながらも、芥川文学の特色であった小説構想性」や「虚構」をそこに付加して復活させたと福水解説し、「『聖家族』『菜穂子』の主題の展開の中にみられる知的構想性こそ、一見私小説的に見える堀文学私小説との間に一線を画するのである」と論考している。

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水中都市」の記事における「作品評価・解釈」の解説

水中都市』は安部公房日本共産党員だった頃の作品であるが、発表から25年後に安部公房は『水中都市』について、以下のように述懐している。 舞台化ようとして久し振りに読み返しながら、びっくりした。あれは僕がコミュニストとしていちばん活躍していたときの作品なんだよ。除名されても無理ない思ったな。あの頃僕は、下丸子へんでオルグして壊滅しかかっていた工場組織再建をやっていた。その時期なんだよ、『水中都市』を書いたのは。いわゆる党の方針とはしじゅう衝突していたけど、まださほど懐疑的ではなかった。 — 安部公房都市への回路田中裕之は、『水中都市』のへの「変形の意味について、同時期の短編洪水』の液体人間変身の意味とはやや異なる面はあるものの、共産党新聞売りの言う、〈をなくすためにはこのなくする必要があります。この氾濫すべての根本的な原因です〉という言葉や、『水中都市』のへの変形前提には街全体水中世界変わっているという変化があり、この作品でも「」と「変革」が関係性持っている解説し刑事でもある〈念珠屋〉の言う、〈それに、この水加減どうです舶来ですぜ。ジャズの粉で味つけしてあるから育ちがいい〉という言葉や、当時安部共産主義的立場文学運動考え合わせ共産党新聞売りの言う〈この氾濫〉は、「アメリカ植民地化されている日本悪しき経済状況――いわゆる水浸し経済状況――を表しているもの」と受け取れる考察している。 ドナルド・キーンは、『水中都市』を気に入っているユーモアの多い作品として挙げ冒頭文章から興味そそられる述べている。そして、「安部氏短編説明したら、詩の説明歌舞伎あらすじみたいなものになってしまう恐れがある説明できないところにこそ安部文学魅力籠っているのである」とし、「安部文学中に存在する哲学的な要素現代絵画写真との関係」など学問的な研究ひとまず置き、初期短編すなおに楽しく読んでもらいたい解説している。

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人間そっくり」の記事における「作品評価・解釈」の解説

福島正実は、『人間そっくり』を一種独特の構造雰囲気持っている述べ、「読者は、それに引きまわされ目まい似たもの感じないではいられない――ほとんどが会話と、ト書きに近い状況説明しかない小説なのに、状況そのものくるくる二転三転して、何が事実何が妄想なのか、その区別がしだいに曖昧化していく。ついに“人間”とは何か“火星人”とは何かの概念規定までが失われ、すべては単に“そっくり”なものでしかなくなる」と解説している。 高野斗志美は、SF小説の『人間そっくり』にも、他の作品同様に「他者」「関係」への安部関心看取され、「関係の構造逆転という角度から読むことができる」作品だと解説している。 永野宏志は安部の「仮説文学」という語を用い、「認識されないほど環境自己電子メディア接続され現代という実際世界を、「仮説文学」から説明するモデル」だと指摘する

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棒になった男」の記事における「作品評価・解釈」の解説

中野孝次は、安部ガルシア・マルケスの『百年の孤独』を讃辞した文章一節の、〈現代というこの特殊な時代人間の関係を照射する強烈ななんです〉という言葉着目しながら、安部の他のいくつかの作品同様に棒になった男』も、「現代における生の構造そのもの」を照射している文学だとし、地獄の男が〈われわれの仕事は、彼等の生を忠実に記録しておくことなのさ〉、〈人間の、見せかけの形に、つい迷わされてしまうんだな。しかし、棒はもともと、生きている時から棒だったってことが分ってしまえば……〉という台詞引いて、このときの〈棒〉は、戯曲友達』における「〈家族〉のイメージ同様に、「われわれ自身問題としていろんエコー呼び起しだす」と考察している。 ゴーシュ・ダスティダー・デバシリタは、第三景の「棒になった男」において、「他者道具にしか過ぎない棒と似たような人間存在」を集め分析する地獄からの使者たち」は、「人間世界他者」、「大胆残酷な世間」を表わすとし、それにより、「人間生きている世界他者の目で見つめることで世の中混乱している様々な状況」を浮き彫りにし、「人間社会制度のなかに取り込まれ生存争、所有欲などによって人間性失いつつあることが示されている」と解説している。 また、デバシリタは、都市生活する個々人間他者葛藤しながら生きているのは、生育環境家庭環境仕事交友関係物事考え方価値観習慣かかわらず共通しているとし、そういった近代消費社会の中で、それぞれの道を選択しながら生きている人間存在を「現代都市における〈孤独〉〈アイデンティティー喪失〉などのシチュエーション」で取り上げ戯曲化し、「現実社会存在する問題」を提示するのが安部意図だと考察し、以下のように解説している。 現代社会広がる人間疎外状況はますます深刻化している。都市発達に伴う価値観多様化は、一方で価値観混乱人間関係危機アイデンティティー喪失拡大させている。さらにいえば、現代社会危機現象に陥っていることを公房は作品通して読者伝えようとしていた。 — ゴーシュ・ダスティダー・デバシリタ「『棒の』の超時代性めぐって安部公房棒になった男』論―」

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緑色のストッキング」の記事における「作品評価・解釈」の解説

緑色のストッキング』は読売文学賞戯曲賞を受賞するなど、同時代評は高い評価をされた作品で、ドナルド・キーンも、「輝かし成功」作だと評し幕が上がる前から鳴る効果音(腹の鳴る音)は、草食人間主人公のこの戯曲に「最もふさわしい〈音楽〉」だと述べ主人公下着泥棒だと家族見抜かれてしまうところを「実によく出来た場面」としている。またドナルド・キーンは、登場人物たちに「名前」付けられていないのは、必ずしも「普遍性」を狙っているというわけでなく、それが芝居必要のないものと安部捉え、「個人悲劇よりも社会ないし地球悲劇喜劇に最も深い関心寄せている」と解説している。

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完全な遊戯」の記事における「作品評価・解釈」の解説

完全な遊戯』は、精神障害女性陵辱して殺すというその内容が、あまりにも反道徳的だと発表当時弾劾されたが、それと同時に文学的な面から擁護する作家評論家もいた。なお、『処刑の部屋とともに2010年平成22年)の東京都青少年の健全な育成に関する条例改正でも石原都知事のこの作品問題になった佐古純一郎は、「もういいかげんにしたまえ叫びたいほどのものである君たちこういう小説書けることに若さ特権誇っているのかもしれないが、いったい人間というものを少しでも考えてみたことがあるのか。石原はどこかで自分文学人間復活の可能性探求だとうそぶいていたが、作家として良心失っていないのなら、少しは自分言葉責任を持つがいいのだ」と怒り露わにしている。 平野謙は、〈完全な遊戯〉という題名作者石原思いついた時、「ニヤリほくそえんだかもしれぬ」と述べ、以下のように批判している。 作者はすでに昨日流行しかないドライ派の青年どもをラッしきたって、残酷を残酷とも思わぬ彼らの完全に無目的な行動を描破したつもりらしい。私はこういう作品マス・コミセンセーショナリズム毒され感覚の鈍磨以外のなにものでもない、と思う。美的節度などという問題はとうに踏みこえている。私はこの作者の『処刑の部屋』や『北壁』には感銘したものだが、あの無目的情熱につかれ一種充実した美しさは、ここでは完全にすりへらされ、センセーショナリズムワナ落ち込んだ作者身ぶりだけがのこっているにすぎない。 — 平野謙文芸時評江藤淳は、「果たして〈完璧〉という観念人間的なものがあるか。石原氏がここで試み成功したのは、この観念のほとんど厳粛な空虚さを、抽象化された運動の継起のなかに象徴しようとすることである。〈純粋行為〉がとらえられればよい」と述べている。 三島由紀夫は、『完全な遊戯』に集中した文壇悪評」に対し、「日本批評はどうしてかうまで気まぐれのであるか」と異議唱え、『太陽の季節』から『処刑の部屋』へと読み進んだ読者にとり、『完全な遊戯』はその「透明な結晶成就」で「筆致澄んでゐる」とし、作品性質は、「抽象的な美しさ」に集中している「モダン・バレエのやうなもの」と評しながら、「ここには肩怒らした石原氏はゐず、さはやか悪徳進行化身してゐる。一連の汚ならしい暴行輪姦が、透明な流れのやうにすぎる。ここには自分方法をちやんとした芸術方法高めた石原氏がゐるのである」と考察しその作品構成を以下のように説明している。 感情皆無がこの作品機械のやうな正し呼吸韻律成してゐる。相手狂女であり、こちらには無頼の青年たちがゐる。一瞬詠嘆の暇もなしに、行為出会ひから殺人まで進む。しかも人物の間には、狂女そこはかとない恋情除いては、感情交流は少しもないのである。(中略)そのために狂女純粋な肉になり、かうした暴行にお誂へ向き存在になり、青年たちに「完全な遊戯」を成就させるわけであるが、「完全な遊戯」を望んだ青年たちと、それを理想的に成就させた女との間には、何ら感情交流はないのに、一種完璧な対応関係があつて、そこにこの小説の狙ひがあることに気づかなければ、ただの非人道的物語としてしか読まれない。 — 三島由紀夫解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』) そして、『完全な遊戯』の主眼は、「青年たちと女との、不気味な照応虚しさ」であるとし、三島は以下のように解説している。 おとなし狂女純粋な肉にすぎずその内部が空洞にすぎないことは、青年たちのがむしやらな行動の虚妄無意味とを象徴してゐる。青年たちは谺のかへらぬ洞穴へ向つて叫び水音のしない井戸へむかつて石を投ずるのと同じことで、最後にそのやうにして女は「片附け」られる。しかも最後まで、青年たちは自分の心の荒廃へ、まともに顔をつきあはせることがない。このやうな無倫理性は、「太陽の季節」のモラリストが、早晩到達しなければならぬものであつた。(中略石原氏は、倫理真空状態といふものを実験的に作つてみて、そこで一踊り踊つてみる必要があつた。その踊りは見事で、簡潔なテンポを持つてをり、今まで誰も踊つてみせなかつたやうな踊りなのであつた。「完全な遊戯」は、人々が見誤つたのも尤もで、小説といふよりは詩的な音楽的な作品のである。それは対立ではなく対比を扱つてゐる。 — 三島由紀夫解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』) また、完全な遊戯発表から13年後、文芸評論家古林尚三島対談において、古林が、「石原慎太郎が『完全な遊戯』を出したとき、三島さんが、これは一種未来小説今は問題にならないかもしれないけれど、十年二十年先に問題になるだろう、と書いていたように記憶していますが…」と問うと、三島は以下のように答えながら、カトリック的な絶対者概念神的なものへの信仰崩れてしまうと、「エロティシズム」もなくなり石原作中描いたような虚しい頽廃的セックスだけしか残らない論じている。 あれは今でも新し小説です。白痴の女みんなで輪姦する話ですが、今のセックスの状態をあの頃彼は書いていますね。ぼくはよく書いていると思います。ところが文壇はもうメチャクチャけなしたんですね。なんにもわからなかったんだと思いますよ。あの当時、皆、危機感持っていなかった。そして自由だ解放なんていうものの残り滓がまだ残っていて、人間解放することが人間性解放することだと思っていた。ぼくは、それは大きな間違いだと思う。人間性を完全にそうした形で解放したら、殺人が起こるか何が起こるかわからない。つまり現実に起こる解放というものは全部相対的なもので、スウェーデンであろうがどこの国であろうが、ルスト・モルト(快楽殺人)というものは許されない人間社会生活を営む以上は、そういう相対的な解放のなかでは、セックスというものは絶対者到達しない。 — 三島由紀夫古林尚対談)「三島由紀夫 最後の言葉秋山大輔は、上記のような三島の『完全な遊戯』評から、「(三島は)人間思考止めて欲望のみで行動する時代到来石原小説から眺めていたのかもしれない現代社会情勢セックスの低年齢化や、性犯罪多様化ドメスティック・バイオレンス横行三島予見していた、極論かもしれないが、『完全な遊戯』の評論は、的を得ているのかもしれない」と述べている。 中森明夫は、『完全な遊戯』に対す三島作品評を踏襲する形で構成など考察しながら、「これは石原文学最高峰であることは間違いない」と述べ100年200年後石原慎太郎という名や存在忘却される時代が来たとしても、「必ずこの作品だけは生き残る」と断言したいとし、「『完全な遊戯』は日本語書かれ短編小説最高傑作である」と賞讃しつつ、以下のように解説している。 『完全な遊戯』は未来小説とも実験作とも称されたが、考えてみれば、この物語のなかで描かれている蛮行いつでもどこでも現実起こりうるものではなかったか。いや、21世紀今日に生きる我々は、既に頻発する少女拉致監禁事件や、あるいは1980年代末女子高生コンクリート詰め殺人事件として件の小説酷似する事態現実化していたことを知っている。(中略)『処刑の部屋』の非道なエピソードまた、近年、世を騒がせた大学生サークルによるスーパーフリー事件としてすぐに誰もが想起するだろう。こんな衝撃的な事件とそっくりの物語を、はるか半世紀前に執筆していたというのは、作家想像力よるものか、(中略)いや、単に当時の若い“太陽族作家が、おそらく自分周りで起こる不良少年たちの蛮行いささかデフォルメして書き留めたにすぎないのかもしれない。そう、ちょっとしたチンピラ話を一丁小説”にでもでっち上げただけなのだと。そして、そう思わせるところが、石原慎太郎という作家真の才能”の恐ろしさでもある。 — 中森明夫解説石原慎太郎墓碑銘

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作品評価・解釈

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夕映少女」の記事における「作品評価・解釈」の解説

夕映少女』は、少女少年の悲しい恋愛と、画家夫婦と、不思議な性格を持つ宿の女中(窃視症の女)との絡まりを、瀬沼という男の視点描いているが、この瀬沼作者川端康成分身的な人物とされている。巖谷大四は、この男の視線を「遠くの方から射るように眺めている」と表現し、『夕映少女』を、「一幅名画を見るような哀しく美し作品」と評しながら、美し少女画像が、「物語一つのかなめ」になっている解説している。 瀬沼作者川端)の観察者視点鑑みながら、『夕映少女』を、「『禽獣』の主題」の明確な発展だと考察している三島由紀夫は、『夕映少女』では、 官能的な女中・「お栄の体」に「作者の目」が喰い入っているようでいて、実はそれよりも窃視症癖のある「お栄の目」に「作者の目」が喰い入っているとし、しかしそれは、『禽獣』の主題が「客観性得た」と簡単に言えるものではなく、「さらに錯綜して苦しみ増した」と説明している。そしてその複雑さについて三島は、「お栄性格秘密」が、「お栄にとつて無意識なもの」(『母の初恋』の雪子や、その他の川端作品ヒロイン少女たちのように)である限りにおいては作者川端)の目」を逃れることは不可能であり、「お栄秘密」(窃視症)が「作者にとつて既知のものであり、意識されてゐる」限りにおいては、「お栄の目」には「作者の目」が憑いて来ると三島解説している。 そして三島はその理由について、作者川端自身の目は、「未知不可知である“いのちの核心” “いのちそれ自体”(少女禽獣のようなもの)以外のもの」に対しては、多かれ少なかれ、「それらの持つ眼差に、苦く痛々しく混じって来る習わし」だからだと説明し、この『夕映少女』では、「お栄通じて、『禽獣』の苦痛二重の苦痛になり、ある意味では救はれ、ある意味ではますます救ひがたくなつてゐる」と論考しつつ、それは、お栄がそれ自身一匹の「禽獣」でもあるからだと、その二重性について解説している。

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壁 (小説)」の記事における「作品評価・解釈」の解説

『壁―S・カルマ氏の犯罪』は発表当時画期的な作品として反響呼びそれまで日本近代文学において主流だった「私小説伝統とそこに密集する近代的自我という人間中心主義幻想」を打破したという点で、その2年前発表され三島由紀夫の『仮面の告白』と双璧をなす作品だと高野斗志美解説している。 芥川賞選考審査員川端康成は、『壁―S・カルマ氏の犯罪』を、部分によっては鋭敏でなく、冗漫思えたところもあるとしながらも、最も高く評価し強く推した理由について、「『壁』のやうな作品の現はれることに、私は今日必然感じその意味での興味を持つからである。(中略作者目的作品の傾向も明白であつて、このやうな道に出るのは新作家のそれぞれの方向であらう」と述べて新味があり好奇心誘った作品だとしている。同じく芥川賞推薦した瀧井孝作は、「寓話諷刺作品にふさわしい文体がちゃん出来ている。(中略文体文章がちゃん確かりしているから、どんな事が書いてあっても、読ませるので、筆に力があるのです。自分スタイル持っている。これはよい作家だと思いました」と評している。 『壁―S・カルマ氏の犯罪』の文体について市川孝は、小説文脈説明的饒舌な、蔓衍体的な一面を持つと同時に簡潔な手法テンポ速さきびきびした会話の展開を含むとし、また具象的印象的な図形類を配している点が特色だと述べ、その特色が、「切れることなく続く全体の構成と、印象的なクライマックスと共に超現実的な世界を描く観念的な作風一つ調和をなしていると解説している。 この市川孝の解説評を受け、安部は『壁―S・カルマ氏の犯罪』で「意識的に工夫」した説明的な文章について、「形式的に説明だが、内容的には、単なる前文繰返しにすぎないのである分かりきったことを、もっともらしく、あるいは驚きをもって反復しているにすぎない」とし、それは市川感じた理屈っぽい傾向」というより、「むしろぎこちない思考」であり、〈ので〉〈から〉等の接続助詞多出も、「関節単純さのために、すべての行動たやすく予見でき、予見できすぎることによってかえって謎めいてくる、あのマリオネットとぼけたおかしさに近いもの」や、「即物性から飛躍できない子供の〈理由さがし〉のこっけいさ似たもの」を意図した文体だと説明している。 『赤い繭』について森川達也は、「この作品生命は、何よりもまず、『赤い繭そのもの持っているイメージ美しさ、にある」と評し、『赤い繭』が一般的に言われるように、「ユーモアアイロニーをこめた寓話的な手法によって、現代の人間置かれ状況描き出した短篇」には違いないが、単にその寓意探って合理的に解釈することよりも、作品全体詩的イメージ美しさ重視したいと解説をしている。

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作品評価・解釈

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菜穂子 (小説)」の記事における「作品評価・解釈」の解説

菜穂子』は、永年ロマン」を目指していた堀辰雄生涯唯一の長編小説となり、晩年代表作である。『菜穂子以後病苦のために長編書かれることなく、堀は亡くなるが、釈迢空折口信夫)はその死を悼み、以下の弔歌詠んだ菜穂子の後 なほ大作ありけりそらごとをだに 我に聞かせよ釈迢空 菜穂子物語であったはずの『菜穂子』が、徐々に都築明比重大きくなっていったのは、立原道造夭折関わりがあり、明の比重が増すにつれて本当小説に近づいていった小久保実解説している。堀の創作ノートによると明と菜穂子は、「冬の旅Winterreise彼の生き方は、彼の死によつて、一層完成す。夭折者の運命The snow)彼女の生は、彼女の耐へた生によつて、一層完成す。生者運命。」という対位法的な主題となっている。また、「秋 絶望視せられてゐた荒地からの真の夫婦愛誕生貧しけれども匂なけれども、誇らか美し。――このあたりより、Rembrandt-ray を与へよ」と記されていたが、この主題実現されなかった。 この最後主題暗示的な予感のままだけで終わってしまったことについて佐藤泰正は、日本的な風土において、「〈受胎告知〉的なモチーフ」、「神の人間界への問いかけ」という一種メタフィジックテーマ実現難しいことを、この作品逆説的に示しているとし、この困難な課題は、最も日本的な風土背景用いた堀の最後小説曠野』でも試みられていると解説している。 少年時代に堀文学愛読していた三島由紀夫は、『菜穂子』の副主人公都築明石原慎太郎の『亀裂』の主人公同姓同名であるという着眼から、書かれ時代作風青年性格も全く異なる二作品詳細に比較し評論している。三島は、石原の『亀裂』がその破天荒な悪文にもかかわらず、「為体しれない活力」の効果により「現代小説」として成功している一方、堀はその優れた文体名文家にもかかわらず、『菜穂子』は成功とならず息切れしてしまい、都築明老人子供のようで、黒川圭介凡俗の悪が足りないことを指摘しつつも、堀の動植物描写美しく巧緻な点や、都会人別荘人種描写得手思われている堀が、実は村娘早苗のような素朴な田舎人物の描写長じある意味早苗菜穂子より「ヴィヴィッド」に描かれている利点挙げている。 また、都築明黒川圭介人物造型に、逆にもっと「多量のアクテュアリティー」を与え実在感を持たせてみる修正案三島提示しながらも、ヒロイン菜穂子については、「どんなに周囲物語変貌しても、菜穂子だけは古びない」とし、その理由は、「菜穂子だけが作者真に創造した人物であり、作者文体にしつくり合つて、その文体と共に呼吸してゐる人物だから」だと解説している。そして、堀が『風立ちぬ』で試み、さらに『菜穂子』で「もつと徹底的に試みたこと」は、フランス古典小説の手法や日本の王朝女流日記蜻蛉日記和泉式部日記)の伝統沿って、「小説からアクテュアリティーを完全に排除し古典主義に近づかうとしたこと」だったと指摘し、もしも自分三島)の修正案のように、副人物に「多量のアクテュアリティー」を与えてしまうと、菜穂子と副人物が「異質異次元」の「別の星の住人」になるため、「(堀)氏が決然と小説のアクテュアリティーと身を背けたことは、氏として正しかつたのであり、日本における古典性(これは西欧的な古典といふ意味とは大いにちがふ)の達成においても正しかつた」とし、その理由は、「日本小説成立する方向は、文体犠牲にしてアクテュアリティーを追究するか、アクテュアリティーを犠牲にして文体追究するかのどちらかに行くほかはないから」だと説明し、「堀氏はその一方向徹底した点で立派なのである」と解説している。 さらに三島は、『菜穂子』を支えている三つの「方法論」として、「情念の純粋化による菜穂子創造フランス方法)」、「形而上学的な生の模索主題」、「自然描写」を挙げ、堀は、「二つ異質抽象化と自然描写とを一応みごとに結合させ、氏一流文体のうちに、さしたる不自然もなく融解させてしまふ」と説明し、それは堀の中に雪舟光琳宗達と同じ東洋人風土的な抽象衝動」が本能的に潜在していたためで、それゆえに「形而上学自然と人間との、東洋人らしい、また日本人らしい混同融和が可能であつた」とし、堀の文体についても、「いかにも西欧的な文体見えながら、氏は根本において、知的精神的なものと無縁な抽象衝動によつて動かされ、独自の装飾的文体創始した」と論考している。 そして最後に、「現代における純粋行為不可能」という、『亀裂』と『菜穂子』に共通性のある主題三島触れ、『亀裂』の「現実の意味は、「はしなくも菜穂子があのやうに誘はれあのやうに追ひ求めた“生”の意味に似通つてくる」と解説し、『亀裂』も『菜穂子』も共に、「暗い穴の記念碑」であり、「到達不可能の現実対す絶望的な模索試み」であるとし、その点で『菜穂子』は、「小説広義自然主義的要請しりぞけず、それにこたへ得てゐるのかもしれない」と考察しながら、「作家信じた“生”や“現実”の存在は、それへの到達不可能であることによつて、却つて作品鞏固な存在条件をなす」と論じている。また三島は『菜穂子』の先蹤作品として、芥川龍之介短編『秋』を挙げ、そこにはすでに「近代心理小説見取図」が出来上っていて、「あとは作者エネルギー持続を待つだけだつた」と解説している。 竹内清己は、母・三村夫人自己省察する、「自己の外貌自己の実在なのか、第三者の目にみえない自己の内界実在なのか」という問題菜穂子にも引き継がれているとし、三村夫人が、自己の内面が「気まぐれ仮象にしかすぎない」のではないかという疑問を持つ点に触れ、以下のように解説している。 この「仮象」の内界を生の準拠としようとすることこそが三村夫人存在律である。その「仮象」の表象としての、「絶えず生の不安に怯やかされてゐる」「悲劇的な姿」こそ彼女の本体のである。娘の菜穂子も全く同様の存在様式持っている小説菜穂子』における唯一の実在は、菜穂子その人の「内面仮象」(もはや仮象ではない実在)である。さらに明も圭介すら例外でなく、自己の内面目覚め菜穂子との対位関係に入ってはじめて実在性獲得している。小説内在律即菜穂子内面律動であるといってよい。 — 竹内清己堀辰雄菜穂子』論――存在様式極北また、この存在様式は、堀が「生をかけて得ようとした芸術的形象」であり、「ロマネスク」とは、作中見られるそういった感応想念ドラマを「古雅静謐のなかに存立させること」だと竹内解説し、そのロマネスク帯びていた母に反発しつつも菜穂子内界は、「母へ同化回帰志向」し、この二律背反菜穂子孤独虚無厳しくする、「大いなるクラシシズム喪失した近代そのもの悲劇」であり、「ロマネスクなるものをもはや望みえない近代人実存」だと考察している。 そして竹内は、その堀が求めてやまないロマネスクなものを抱ける「新しクラシシズム」は、リルケの『愛す女性』に見られる「ついに苦しみがきびしい氷のよな美しさ変貌」していくような、「心の中だけは自分一人かな世界を守る孤独な方法」を、『かげろふの日記』のヒロイン付与したものであったが、『菜穂子においてはそれが、「その戸口立っただけで終り、“孤独な方法”をみいだし生活のなかで実践しうるかどうか今だ提示していない」と解説している。また竹内は、三島由紀夫が、ヒロイン菜穂子新しく古びないと解説したのは正しいとし、それをさらに敷衍し、菜穂子古びないのは、「菜穂子の生が人間存在様式極北示している」からだ考察している。

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作品評価・解釈

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不器用な天使 (小説)」の記事における「作品評価・解釈」の解説

不器用な天使』は、主人公「僕」意識中心にして描かれており、「僕」恋する娘の容姿などが具体的に詳らかに描写されてもなく客観的な物語の進行を書くというよりも、「僕」心理分析するような描き方主眼となっている。こうした作風は、当時日本文壇としては新風として受け止められ、〈ジャズが僕の感覚の上に生まの肉を投げつける〉といった文章や、〈その時、この友人たち彼等一緒にカフェ・シャノアルに行くことに僕を誘つた〉という翻訳調の文章新し書き方であった発表当時作品評では、平林初之輔が『東京朝日新聞』にて、「ブルジヨア社会末端からほとばしり出た生産階級の生活とイデオロギイを現してゐる」と批判しているが、室生犀星宇野千代は、形式新しさ賞讃している。 室生犀星は、『時事新報』の文芸雑筆にて、「感覚から起る心理への速度速度新し飛躍」、「横光以後作家であり、或意味で横光君よりも素晴らし新時代にゐるものかも知れぬ」と新しさ強調し、「過去文壇の垢や埃をあびてゐない」、「その描写には自然主義文学から全然隔離された、別種神経感覚から作為されたものであることに注意ねばならぬ」と全面的に高評価している。 宇野千代も、『時事新報』の月評にて、小説から色彩匂い感じられるとし、「何と言ふ手の切れるやうな斬新さだ」、「ここでは一切心理描写動作になる。そしてそれはスバラシイ速度を持つてゐる」、「このやうな小説があるならば、私はもうあの好きな活動を見に行くまいかと思つてゐる」と全面的に賞讃している。 川端康成は、平林初之輔ブルジョア批判的な感想について、「そんなに仰々しい形容持ち出す程の生活も事件描かれてゐない」と疑問視し、また一方の、室生犀星宇野千代賞讃評も大袈裟なものと捉え、『文藝春秋昭和4年4月号の文芸時評にて、室生犀星賞讃した過去文壇の垢や埃をあびてゐない」堀の形式上努力才能否定しないとしつつも、「この作品徹頭徹尾作者誤算成り立つたものとしか思はれない」、「多くの点から若々しい誤算」が感じられると以下のように手厳しい作品評価をしている。 女給学生達の感情、及びその感情客観的価値にも、若々しい誤算感じられる一言にして云へば、こんな下らない材題を書いたのは、作者の勇ましい誤算としか感じられない。その若々しい誤算いいとしても、その若々しい誤算のままに我々を捕へるやうな積み重なつて行く魅力のないのは、作者経験の不足よりも、小説家としての肉体的健康の不足のせゐではないかとさへ思はれる。詩人であつても、小説家としては不足なのだ。これは形式に就ても云へる。 — 川端康成堀氏の『不器用な天使』」 澁澤龍彦は、自身翻訳したことのあるジャン・コクトーの『大胯びらき』(少年期恋愛心理題材とした作品)との類似見て、『不器用な天使』がそれを下敷きにして書かれたものだと推察している。澁澤は、『不器用な天使』の「ロマネスク設定、筋や人物の出し入れから、スタイルレトリック細部にいたるまで」コクトー作品の影響染みついているとして具体的な文体類似例挙げ、「主人公の僕が『大胯びらき』のジャック・フォレスティエだとすれば、そのライヴァルでもあり、奇妙な同性愛的感情対象でもあるは、オックスフォード大学出の幅跳び選手ピーター・ストップウェルである。そしてカフェ・シャノアルの娘は踊子ジェルメーヌであろう」と解説している。 文章圧縮すればするほど密度濃くなり、したがって読む側から見ればスピード感が増したように感じられるのだという創作上秘密を、堀辰雄コクトーから学んだのである。たぶん、これが堀辰雄コクトーから受けた何より大きな贈物であった実際、後の『風立ちぬ』あたりにも、この教訓はよく生かされているのが感じられるのである。 — 澁澤龍彦堀辰雄コクトー中村真一郎は、『不器用な天使』の特徴を、「その才気満ちた表現連続の下に、実に微妙な心理小説〉が隠されていること」だとし、堀辰雄小説魅力が、「正にこの、人物たちがその動機を自ら知らず演ずる行為、またそのための行き違いドラマにある」と、堀のジョイスプルースト影響鑑みながら解説している。 主人公は彼が気に入りたがっている友人の、その夢中になっている娘に惚れてしまうのである友人気に入られるために、友人感情移入する。友人の目でその娘を見る。それがこの小説ドラマ起原である。(中略伝染現象は、二人人物のあいだの意識上の反応ではない。より深部における、ほとんど動物的な感応現象であり、これは第二次大戦後に、フランス女流作家ナタリー・サロートが「トロピスム」と名付け描写した心理小説としては最も深層心理属すドラマである。(中略)これは彼の生来繊細鋭敏な気質が、現実交友関係のなかで、いわば男女関係にたとえれば女性役の受身の心の働かせをすることによって、感得したもの相違ない。(中略最初気に入られたく思っていた友人の眼で少女見ていた主人公は、今度はその少女の眼で、もう一度見かえすことになる。 — 中村真一郎堀辰雄―その前期可能性について」 また中村は、堀の心理小説は常に「愛の心理研究」であり、その愛は「苦痛の別名」であるとし、その苦痛肉体苦痛のような鋭い感覚として表現されるため、苦痛除去しようとする心の動き外科手術のように喩えられるとしている。 池田博昭は、『不器用な天使』の主題処女作ルウベンスの偽画』と同じくアンドレ・ジッドの『贋金づくり』の影響のもとで書かれたとし、『贋金つくり』の登場人物小説家エドゥワール)の日記中の言葉愛する者は、愛している限り、また愛されたいと願っている限り自分ありのままの姿を示すことができない〉、〈何を見ても、何を聞いても、すぐに「彼女は何と言うだろう?」と考えずにはいられない〉というような恋愛心理分析的に描くことが『不器用な天使』の目的であったしながら、『贋金づくり』の中の〈真に愛する者は、自己への誠実さなど、放棄するものなのだ〉、〈現実の世界と、現実からわれわれが作りあげる表象との間の競合〉という命題同様のものを主題にしていると解説している。

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作品評価・解釈

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美しい村」の記事における「作品評価・解釈」の解説

美しい村』は堀辰雄軽井沢文学代表的作品一つであるが、その美しい自然描写評価高く横光利一も堀へ直接賛辞の手紙を送るなど、総体的に評論家作家からも評価が高い作品である。 丸岡明は、『ルウベンスの偽画』に始まる堀辰雄文学活動は、『聖家族』において一つ頂点示しその後いくつかの作品経て、この『美しい村』に到達したとし、『美しい村』の各4章は、「互いに精巧な歯車直接小説核心結びつき、ここでは論理理知とが、一体に溶け合って雪の華のような不思議な均衡保っている」と評している。 三島由紀夫は『美しい村』を、「人物が自然の陰に、ちやうど赤い木の実葉むら陰に見えかくれするやうに見えかくれしてゐる不思議な小説」だとし、作者堀辰雄目を通して見た精緻な人工的な自然」が、ほぼこの小説の「音楽的主題」を成していると評している。そして、物語そのものよりも「自然描写」が小説価値決定づけている例として、堀が藤づる美しく描写している部分引用し日本の小説が「小説よりも詩に近い要素」を多く持っている一例として解説している。そして、本来西欧的な意味において「小説」とはあくまで「人間関係物語」で、その発生過程そもそも自然的なものではあるが、堀のような日本作家のもつ「自然描写特殊性」は、そういった人間ドラマの「ダイナミックな要素」より、「自然の静的象徴的な要素」の方が、昔から今に亘る日本作家にとり、強い吸引力持っていることの表われであり、それが「独特な日本の小説特殊性作っている」プラスの面であると三島考察している。 前田愛は『美しい村』が、主人公が4本の散歩道何度か辿るうちに、「小説テクスト生成しはじめる」という「入れ子構造」を持っていることに触れ堀辰雄小説のなかの風景を描くというよりも、「風景のなかの小説」を描くという独創的な試みをしようとした解説している。また「序曲」の章(かつての恋人におくる手紙の章)が、「寄物陳思(ものによせておもひをのぶる)の作法」にかなっているとし、「誰にも見られずに散つてしまふさまざまな花(野薔薇躑躅)」を自分1人だけでいくつしもうとする堀の感性はたらきは、『古今集』の中の「五月待つ花たちばなの香をかげば昔の人袖の香ぞする」(読人知らず)の心と通じるものがあり、「戦後雑駁な世界」に生きている現代人よりも、よほど「平安時代風流心」に近づいているとし、以下のように解説している。 この野薔薇モチーフサナトリウムの道へ、水車の道へと変奏させて行く、『美しい村』の音楽的手法理解するためには、ラディゲプルースト影響をつよく受けていたと信じられている昭和初頭堀辰雄が、ごく自然に古典的な美意識枠組そくした発想くりひろげることができた文化逆流思いを致すことが必要なのである。 —  前田愛「幻景の街文学都市を歩く」 また堀の作品中でも、特にプルースト影響強くあらわれている『美しい村』には、『失われた時を求めて』の架空の町・コンブレの風景描写が溶かし込まれ、4本の散歩道沿って現れるそれぞれの心象風景微妙に描き分けられるところは、『失われた時を求めて』のスワン家の方の道と、ゲルマントの方の道で回想される恋人たちとの出会い二つ切り分けているところとの共通性鑑みられ、花と少女重ね写しになるところの着想は、『失われた時を求めて』の中の「花咲乙女たちのかげに」からヒント得ていると前田指摘しつつも、『美しい村』は『失われた時を求めて』の単なるミニチュアではなく、「ミニチュア上の何か」であるとし、向日葵少女矢野綾子との「偶然の宿命といってもいい幸運な出会い」が作品生成の力となり、彼女の登場する「夏」の章からは、「失われた時を求めプルースト風の小説」から「現在時の小説」へと成長しはじめ、風景が「呼吸づきはじめる」と評している。

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作品評価・解釈

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アメリカひじき」の記事における「作品評価・解釈」の解説

アメリカひじき』は、野坂自身アメリカへの複雑な思い描いている作品であり、直木賞同時に受賞した『火垂るの墓』は、家族の中で一人だけ戦後生き残ったということ贖罪うしろめたさや、妹への鎮魂執筆動機となっており、共に戦争体験モチーフとなっている作品である。 しかし野坂には、そういった敗戦体験対すうしろめたさ怯え定式化ようとする意思はなく、「概念化することでなく、そのもの自体をそれとして描き発見することにつとめている」と、尾崎秀樹述べ野坂独特の劇作的な文体饒舌的な語り口も、「ふかく彼の体質まつわるものだ」とし、以下のように解説している。 彼は小説書くことによって、焼跡闇市への回帰くり返してきた。死んだ肉親過ぎ去った過去悼むというよりも、内発的な声にしたがってそれをまとめたというところに、彼の文学独自性があるのだろう。事柄概念化したり、図式化したりするには、あまりにも大きな体験だった。したがって書くことだけが唯一の方法だといった彼のありかたが、語り口個々言いまわしのなかにまでしみとおっている。 — 尾崎秀樹解説

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ルウベンスの偽画」の記事における「作品評価・解釈」の解説

堀辰雄処女作である『ルウベンスの偽画』は、『聖家族』の序曲的な作品であり、堀の特徴的な文体がよく表れている作品であるが、三島由紀夫は堀のその文章の特徴について、「まるでどの文章にも堀辰雄といふ印鑑が捺されてゐるやうに誰の眼にもすぐわかる特徴」を持つとし、「作家これほど特徴のある文体をもつことは、作品世界狭くする危険もないではないが、堀氏はそれを堂々と押し通して、長く病床ありながら自分芸術的世界守り通した稀有作家」だと評している。 そして三島は、作中の「彼女の顔はクラシックの美しさを持つてゐた。…」から始まる有名な二段落をその特徴文体一例として引用しながら分析し、堀がフランス文学のエスプリ・ヌーヴォーの作家たちの影響を受け、その文章一見まるで日本文学伝統から遠いように見えながら、堀が後年傾倒した王朝女流日記文体よりも、「むしろ鏡花のやうな作家文体に近い」とし、その類似性を、「自分の気に入つたものだけを取り上げて自分美しいと思つたものだけに筆を集中しながら、自分の気に入つた言葉だけでもつて、美し花籠編みます」と表現し、堀の文章一見フランス的な明晰さ」を持っているように見えながら、そこに「おそろし強さ」はなく、「明晰さ仮装された感覚の詩」であると解説している。 池田博昭は、堀がアンドレ・ジッドの「(筋とか、事件とか、風景など)小説特有でないあらゆる要素を、小説から取除く」という理念や、レイモン・ラディゲのいう「ロマネスク心理学としての心理小説書くこと意図して自身も「純粋小説」を目指し、「古典主義原理に従って作品創作していたことを解説し、それに関連させながら、『ルウベンスの偽画』の主題も、アンドレ・ジッドの『贋金づくり』の作中言葉である「愛する者は、愛している限り、また愛されたいと願っている限り自分ありのままの姿を示すことができないのみならず相手の姿も見ることができず、その代り自分飾り立て、神として祭り上げ創作した偶像見ているにすぎない」という考え影響され、それを取り入れていると考察している。 そして池田は、『ルウベンスの偽画』はジッドの『贋金づくり』よりはるかに小規模作品ではありながらも、「現実世界と、現実からわれわれが作りあげる表象との間の競合ということ根本主題となっているとし、そこには、「諸人物の現実からつくりあげる表象現実そのもの抗争して、崩れてゆく過程」が描かれていると解説している。

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処刑の部屋」の記事における「作品評価・解釈」の解説

処刑の部屋』の文学的な評価石原文学の中では比較評価高く酷評混じっている『太陽の季節』や『完全な遊戯』に比べる総体的に安定した評価なされている。 山本健吉は、『処刑の部屋』について、「背徳をえがきながら実に健康」で、「小説原型への郷愁さえこの中脈打っている」とし、以下のように評している。 「太陽の季節」の方が、虚飾的な文体だけにかえって感銘ナマであり、世の母親たちをして怖れさせるような要素があるのだ。「処刑の部屋」も、リンチ描写はもっと簡潔に書けるはずだし、結びの独白のごとき、ヘミングウェーの「誰がために鐘は鳴る」の結末の手法そっくりでもある。だがともかく、この作品新人石原成長ぶりを認めたい。 — 山本健吉文芸時評」 『処刑の部屋』と『黒い』が石原慎太郎小説で「最もいいもの」と評する三島由紀夫は、その会話場面リアリティーがあるとして以下のように解説している。 『処刑の部屋』にゑがかれた世界は、映画ではそんなに珍らしい世界ではない筈だが、ああいふ世界描いてあれだけリアリティーのある会話駆使したものは、映画にも小説にも見当たらないあの会話に、作者および現代若い人たちの生活感情がよく出てゐる。ぶつきらぼうで、叩きつけるやうな会話口に出して言へないやうなことを物の見事言つてしまふ会話、あのスピード、あの行動性、……ああいふ会話は、今まで会話部分に来ると、描写停滞する感のあつた日本伝来小説正に逆である。 — 三島由紀夫「『処刑の部屋』の映画化について」 その設定構成については、『太陽の季節のようなブルジョア家庭の背景がないため、主題矛盾なく提示され舞台と登場人物も「特殊化」され、「いきいきとして写実的な会話物語つながれながら全体抽象化」し、「甘さ印象を与へかねない〈愛〉の主題」が引っ込められている代りに、「反理知主義反知性主義正面押し出されてゐる」とし、「インテリ劇画」的な吉村という「非力な」登場人物配置され、「多分にメロドラマティックな調子で、血なまぐさいクライマックスへ向つて押しすすめられる物語の構成には「ほとんど瑕瑾がない」と三島評している。 また、作中の「反知性主義」の最も重要な一行として、〈これが夢か、こんなに手応えがあるじゃねえか〉という主人公克己言葉挙げ、その「ひたすら張って行く肉体〉に対す克己信仰」には、自らの行動の「無意味」を要請するものがあり、克己は〈本当に自分やりたいこと〉をやろうとするが、それが何であるのかを知らない状況に自らを置きつづけるために、「最後に彼が縛られあらゆる行動剥奪される成行」は、いかにもそれを象徴的に表すが、作者石原主眼その先にあると三島説明しつつ、「抵抗責任モラル持たない行為が、肉体苦痛強烈な内的感覚還元されるところに一篇主題がこもつてゐる」とし、その理由を、「肉体苦痛究極は、(彼が克己であつてもなくても)、知性介入厳然と拒むから」だと考察している。そして、苦痛が「厳密に肉体的なのであるということに、「克己今まで求めて来た本当の〈無意味〉」があり、「どんな野放図な行動にも平然と無意味見てゐた主人公が、自分置かれ究極無意味中に、意味を見出さうとするところでこの作品終る」とし、以下のように論じている。 だからこの死苦は、彼自身必然的帰結であり、彼が自ら求めたものなのだ。克己の言ひたいことは、肉体にはかうした自己放棄が可能であるのに、知性にはそれが不可ではないか、といふ嘲笑的思想であらう。皮肉なことに、これは又、多く宗教家肉体的苦行者が内に抱いてゐる嘲笑的信念と同じものである肉体知性よりも、逆説的到達が可能である。何故なら肉体には歴然たる苦痛がそなはり、破壊され易く滅び易いからだ。かくてあらゆる行動主義の内には肉体主義があり、更にその内には、強烈な力の信仰外見にもかかはらず、「脆さ」への信仰がある。この脆さこそ、強大な知性に十分拮抗しうる力の根拠であり、又同時に行動主義肉体主義にまとはりついて離れぬリリシズムの泉なのだ。石原氏共感が、いつも挫折する肉体的力、私刑される学生敗北する拳闘家向ふのは偶然ではない。 — 三島由紀夫解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』) また三島は、「力の勝利」と「知性勝利」がオリンピックの冠のように相似るのは、「勝利」の性質が「肉体向う側」へ人を放り出し、「勝利」(幸福)を人は「厳密に肉体的に味はふことができない」からであり、「幸福といふのは精神発明物」であるからだとし、しかしそれが「敗北においては二者(力と知性)が「截然と」違う様相となり、肉体と力が「生々しい知性への侮蔑」を表わすのは、「肉体的敗北明白な苦痛」だからであり、「苦痛こそ純肉体的領域であつて、どんな精神的苦痛目前歯痛鎮めることはできないのだから」と説明しつつ、〈これが夢か、こんなに手応えがあるじゃねえか〉の一行に、『処刑の部屋』の芸術的特色があるとし、その時克己は、「夢」と「手応へ現実)」の中間にいて、その場面は、克己考えた現実」が、物語の始まりからどんどん「限局」「圧縮」され、「かつて思ひのままに行動した世界花やかひろがりは、記憶の中の喚起にすぎず、圧縮され現実はつひにベルト縛られた掌の感触一点にまで絞られて、ともすると夢がこの現実をくつがへしてくれさうな予感にをののきながら、主人公小さな一点感触に向つて必死に集中する」と考察しながら、「この件りは、石原氏書いた最も美し文章一つである」と評している。

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桜の森の満開の下」の記事における「作品評価・解釈」の解説

桜の森の満開の下』は坂口安吾作品中でも評価が高いだけでなく、その幻想的な作風からも人気があり、翻案作品も多いが、初出当時はあまり注目されておらず、安吾死後讃辞されるようになった作品である。 奥野健男は、『白痴』、『青鬼の褌を洗う女』、『夜長姫と耳男と共に桜の森の満開の下』を挙げ、「これは天才なければ絶対に書けおそろし傑作であり、坂口文学最高峰いえよう」と述べている。また、坂口全作品でどれか一つ選べと言われれば、『桜の森の満開の下』を挙げるとし、「芸術の神か鬼」が書いたとしか思えず、世界文学中でもこれほど美しくグロテスク恐ろしい作品」は稀だ評している。 『桜の森の満開の下』の主題について福田恆存は、「人間存在そのもの本質つきまとう悲哀」を追求しようとして安吾執筆に至たり、素材のもつ現実性避けるために説話形式をとったと解説している。 王愛武は、『桜の森の満開の下』は、『堕落論』や『白痴』に引き続き安吾が「反逆の筆」を取りメタファーの手法を用いて、「孤独虚無」を描写していると述べ安吾の言う「救いがないということ自体救いである」(『文学ふるさと』)という言葉を引きながら、そこに老子とほぼ同じ思想見られるとし、「自然は人間の力を借りず物事をその軌道乗せるのである孤独救いのないものなら救いのないままにすれば自然に救われる孤独人間本質なので、人間人間らしくするものではないだろうか」と論考している。そして終結部での、山賊はもはや孤独怖れず、「彼自らが孤独自体」という箇所触れ、それは安吾一連の作品共通する堕ちるを堕ちきる」べきである主題通じ人間孤独強調して描いていると解説している。 七北数人は、『桜の森の満開の下』と『夜長姫と耳男』を、「年々人気評価高まり幻想作家として一面鮮烈に印象づけている」作品だと評し、「残酷で気高い女王歓心を買うため、命をすりへらす下賤の男」というその構図は、泉鏡花の『高野聖』や谷崎潤一郎諸作とも通底し、西洋説話文学の『雪の女王』『石の花』『タンホイザー』などにも多くみられる話型である解説し、「安吾作品では、女が残酷であればあるほど無垢な聖性がきわだち、血みどろ世界ふしぎな透明感が漂う。マゾヒズム陶酔境見いだす谷崎とはこのあたりが決定的に違う」とし、「(安吾には)恋するがゆえに死を賭してでも被虐堪えようとする、恋の苦しみのほうに関心あったように思われる」と考察している。

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舞踏会 (小説)」の記事における「作品評価・解釈」の解説

舞踏会』は芥川龍之介中期代表する名品一つで、この作品を好む作家も多い。 芥川短編の中で『舞踏会』に「もっとも愛着覚える」という江藤淳は、「多分私は、鹿鳴館夜空きらめいて消え花火好きなのである」と述べながら、「一切道具立てこの花火のために存在する」ように見えると評している。 なお、H老夫人フランス人青年を、ピエール・ロティだと知らなかったことになっているが、初稿では、最後の場面青年小説家から海軍将校の名前を訊ねられた夫人が、それに答え部分は以下のようになっており、彼女がロティ素性知っていたことになっている。 「存じておりますとも。Julien Viaud(ジュリアン・ヴィオ)と仰有る方でございました。あなたも御承知でいらつしゃいませう。これは『お菊夫人』を御書になった、ピエル・ロテイと仰有る方の御本でございますから。」 —芥川龍之介舞踏会初稿)」 芥川は、この結末刊行本収録の際、夫人ロティ素性を全く知らないということ改変している。芥川終結部で、対照的な夫人青年の関係を描いていることについて、江藤淳は、青年小説家の「教養主義空虚さ」を浮き立たせるのである解説している。また、三好行雄は、「名を知ることで実を喪失する知的教養主義の〈空虚さ〉」を批判するためだと考察している。 芥川の『舞踏会』を下敷きにして戯曲鹿鳴館』を創作した三島由紀夫は、『舞踏会』を「短編小説傑作」、「芥川長所ばかりの出たもの」と評し後期衰弱したものより「よほど好き」だと述べている。また「美し音楽的な作品とも評し、以下のように作品解説している。 芥川の持つてゐる最も善いもの、しかも芥川自身軽んじてゐたものが、この短篇結晶してゐるやうな感じがする。それは軽やかさと若々しさうひうひし感傷とである。時代思潮毒され擬似哲学的憂鬱ではなくて青春只中自然に洩れる死の溜息のやうなものである。(中略)この短篇クライマックスで、ロティ花火見て呟く一言美しい。実に音楽的な一閃して消えるやうな、生の、又、死のモチーフ。この小説中に一寸ワットオのことが出てくるが、芥川本質的にワットオ的な才能だつたのだと思ふ時代と場所をまちがへて生れてきたこのワットオには、本当のところ皮肉も冷笑不似合だつたのに、皮肉と冷笑仮面をつけなければ世を渡れなかつた。「舞踏会」は、過褒当るかもしれないが、彼の真のロココ才能幸運に開花した短篇である。 — 三島由紀夫解説野村圭介は『舞踏会』を、「まことに珠玉名品と呼ぶにふさわしい作品」と評しヒロイン明子の名前は、文明開化明治の「明」を表わしていると解説している。そして、作中随所描かれている「菊の花」は、この作品の「基調」をなし、冒頭の「殆人工に近い大輸の菊の花」は、花火照応していると考察しながら、明子がその花火見て、「殆悲しい気を起させる程」その花火美しく思う部分触れ、「明子の味う始めて悲哀。彼女は花火を、已れの恋の幻影に、一瞬燃え上って今たちまち遇ぎ去ろうとしている恋の幻影に、何程かは重ね合せて見つめる故にことさらそれを悲しいまでに美しいものと感じるのであろう」と評している。 そして、菊の花を見るたびに、鹿鳴館思い出H老夫人となった明子が、汽車鎌倉向うことと、17歳明子馬車乗って鹿鳴館に向った時代対比触れ32年前の馬車鹿鳴館も、一緒に同乗していた父親ももういないが、老夫人の中の「おびただしい大輸の菊の花ならびに夜空咲いた人工の大輸の」は、青年小説家持っていた小さな菊の花束に、「収縮され収束されて、網棚の上にひっそりと存在する」とし、それは夫人追憶の中で、「再び一挙に数多の大輸のとなって華やかな舞踏室の中に秋の夜空に開花する」と解説している。

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砂の女」の記事における「作品評価・解釈」の解説

砂の女』は日本国内のみならず海外でも注目され、「現代文学最良収穫」という高い評価をされている。この作品機に安部公房は、国際的な作家みなされることになった大佛次郎は、「『砂の女』は変わったもので、世上繰り返されている小説ではなく、また二度と書き得ないもので、新鮮である」と評し、「私は新しイソップ物語りとして愛読した」と述べている。 三島由紀夫は、「詩情サスペンス充ち見事な導入部再々脱出スリル、そして砂のやうに簡潔無味乾燥な突然のオチ、……すべてが劇作家才能小説家才能との、安部氏における幸福な結合示してゐる」と評し、以下のように解説している。 日本現実に対して風土的恐怖を与へたのは、全く作者フィクションであり寓意であるが、その虚構は、綿々として尽きない異様な感覚の持続によつて保証される。これは地上のどこかの異国物語ではない。やはりわれわれが生きてゐる他ならない日本物語のである。その用意は、一旦脱出して死の砂に陥つた主人公を救ひに来る村人の、「白々しい、罪のないよう話しっぷり」一つをとつても窺はれる。 — 三島由紀夫推薦文」(『砂の女』) 阿刀田高は、「小説の一番の面白さは、謎が提示され、それが深まり最終的にそれが解けてゆくことだが、この作品はその構造持っている。砂がもう一つ主人公になっていて、砂は日ごと変わり、独特の模様描き無機的である。生きているような様相持っているし、何もないように見えながら、生命体隠していたりして、非常に不思議な存在の砂に目をつけたというところが、この小説面白さじゃないかと思う。人間の自由とは何なのか? 自分たちが接している日常とは何なのか? と、根本から問いかけるような側面があって、男と女根源にも問いかけるようなことも持っているこれだけ小説の望ましい姿が詰め込まれている作品は、なかなか見当たらないこのぐらい小説生涯一つ書けたら、死んでもいいぐらいに(同作品に)惚れている」と評している[要出典]。

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幽霊はここにいる」の記事における「作品評価・解釈」の解説

清水邦夫は、『幽霊はここにいる』に登場する幽霊そのもの」が何を意味するか、という「象徴主義的な」捉え方ナンセンスで、そういった哲学的価値判断」の観点作品そのものへのアプローチをすでに最初から間違えてしまうことになるとし、『幽霊はここにいる』は、そういう判断がずっと背後押しやられた世界だと解説している。そしてそこが単なる諷刺劇」と大きく違うところで、「安部公房が常に目ざす実在物のような顔をして日常の中をうろついている(非実在物)の姿をあばき出す作業優れた有効性を示すところ」だと説明しそういった実在物のような顔をしている非実在物の発見」は、「今日の状況複雑な相」を新しユニークな視点からいくつも重ね合せて衝突させるところからなされるものであり、その内容は、「思いもかけぬ出会い満ち満ちた巨大な迷路”としかいいようのない、そら恐ろしいもの懐深いもの」に思える評している。 高橋信良は、『幽霊はここにいる』の元となったとされる小説人間修行』や未発表戯曲仮題人間修行』と比較し、元作品では幽霊実体持ち観客読者の「感情移入の対象となっているのに対し、『幽霊はここにいる』の幽霊には「ブレヒト的な異化効果」が機能しているとし、観客を「何者にも同化させない効果」として、論理的な人物ミサコ)が重要な役割果たし唯一幽霊見えていた深川も、「幽霊おかげで論理的にならざるをえない人物であり、深川(実は吉田)は、「観客代わりに幽霊論理化を試みる」存在だと説明している。そして高橋は、安部公房自身が〈幽霊たち事業が、ますます繁栄約束されたところで、幕になるのである。幕がおりた瞬間舞台観客とは、完全に逆な方向をむいている〉と語っている構図鑑みながら、「深川にとっての幽霊は、論理化され消滅することで、枯尾花となってしまう。しかし、深川観客という存在パロディ役割を果たすとき、枯尾花でない〈幽霊より強い幽霊〉は消滅しない」と解説している。

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楢山節考」の記事における「作品評価・解釈」の解説

『楢山節考』発表当時多く作家評論家から反響をもって迎えられ、この一作深沢七郎の名が有名となった出世作でもあり、処女作である。 辛口評論家として知られる正宗白鳥も、「ことしの多数作品のうちで、最も私の心を捉えたものは、新作家である深沢七郎『楢山節考』である」とし、「私は、この作者は、この一作だけで足れりとしていいとさえ思っている。私はこの小説面白ずく娯楽として読んだじゃない人生永遠の書の一つとして心読したつもりである」と絶賛している。また福田宏年も、「私は戦後三十年の日本文学作品の中でただ一作選べといわれたら、ためらうことなくこの『楢山節考』挙げたいおもいます」と評している。 中央公論新人賞審査員であった武田泰淳は、「いかなる残忍なこと、不幸なこと、悲惨なことでも、かえってそれがひどくなればなるほど、主人公無抵抗抵抗のような美しさがしみわたってくる」と選評し、伊藤整も、「僕ら日本人が何千年もの間続けてきた生き方この中にはある。ぼくらの血がこれを読んで騒ぐのは当然だという感じですね」と選評している。三島由紀夫は、その読後感を、「総身浴びたような感じがした」と選評し、「何かこわいというか説教師』や『賽の河原』や『和讃』、ああいうものを読むと気分がずっと沈んでくる、それと同じ効果感じる」とも語っている。 また三島は、後年エッセイの中で、審査員新人作品を読む時の心境を、年ごとに祭の神輿の若い担ぎ手が下手になっていくのを嘆く町会旦那衆の心境喩え同時に審査員は「これが小説だ」という新人出現密かに期待して、「天才珠玉前にひれ伏したい気持」も伴っているとし、そういった慄然たる思ひ」を只一度感じたのが、深沢七郎『楢山節考』生原稿読了した時だったと振り返り、「はじめのうちは、なんだかたるい話の展開で、タカをくくつて読んでゐたのであるが、五読み読むうちに只ならぬ予感がしてきた。そしてあの凄絶クライマックスまで、息もつがせず読み終ると、文句なし傑作発見したといふ感動に搏たれたのである」と述懐しながら、以下のように語っている。 しかしそれは不快な傑作であつた。何かわれわれにとつて、美と秩序への根本的な欲求をあざ笑はれ、われわれが「人間性」と呼んでゐるところの一種合意約束踏みにじられ、ふだんは外気さらされ臓器感覚急に空気さらされたやうな感じにされ、崇高卑小とが故意にごちやまぜにされ、「悲劇」が軽蔑され理性情念二つながら無意味にされ、読後この世にたよるべきものが何一つなくなつたやうな気持させられるものを秘めてゐる不快な傑作であつた。今にいたるも、深沢氏作品対する私の恐怖は、「楢山節考」のこの最初読後感に源してゐる。 — 三島由紀夫小説とは何か」 日沼倫太郎は、『楢山節考』印象について、孝行息子が「はりさけんばかりの心」で母を捨てに行くという「残酷な行動」と、それに背馳した「肉親間の美し愛情」とが、「奇妙にないまぜられ、全体として酸鼻とも明るさともつかぬイメージをみなぎらせている」と評しそういった深沢作り出すイメージ世界のつよさ」に定評がある理由については、「あらゆる素材が物として処理されているから」、あるいは「物としてとらえる存在把握ないしは存在透視力、ないしはメタフィジックもとづいているから」だとし。その世界観について以下のように解説している。 深沢氏にとって世界とは、それ自身としては何の原因もない「自本自根」のものすなわち無であり、空間拡がるかぎり時間の及ぶところ、何時はじまって何時終るとも知れない流転である。万象はその一波一浪にすぎないあらゆる事象は「私とは何の関係もない景色」なのであるこのような作家が、作中登場させる人物たちをあたかも人形将棋コマのように扱ったとしても無理はないだろう。(中略このように深沢氏は、近代人間中心的な思想はまった対蹠的な地点立っている。これは深沢氏徹底したアンチ・ヒューマニストであることを示している。 — 日沼倫太郎解説」(文庫版『楢山節考』木村東吉は、「おりんは死ぬべき人間として運命づけられており、彼女は自分の死を完全無欠のものにするために全力傾注している」とし、自ら歯を折り自分死後家族困らないように全ての知識伝授する、その振舞い生き方触れ、「自分本能的欲望主張しようとする姿はまったくなく、彼女は自己犠牲の道を誇り高く歩んでいるのである」と解説している。そして、そのおりんの行動無言感じ息子辰平隠れて泣くのを、またおりんも無言で知るような、「あらゆることが相互に理解されている」関係性があることを指摘しながら、「おりんの生き方誇り地域社会価値体系合致」し、それはすべて無言のうちに辰平村人通じているため、おりんは孤独に陥ることなく自分行き方貫徹でき、自己犠牲ありながらも十分幸福であった論考している。 そして木村は、こういった強い「おりん像」は、作者深沢自身母親の像と重なっているとし、深沢肝臓癌死んだ母親を、「誇り高いであった」と述懐し葬儀夕方から振り出したを、「私はあんなに美しいと思ったことはなかった」と『楢山節考』彷彿させる場面語って母親と同じ肝臓癌で死ぬのを理想としていると日頃から口にしていたことを鑑みながら、「根っこのおりんの生き方は、そのまま作者自身理想であった考えられるのである。すなわち、おりんは作者の母理想化された像であると同時に作者の夢を託した人物だったということができる」と解説している。 大木文雄は、日本独特と思われる『楢山節考』外国人留学生たちにも感動持って受け入れられたことから、その民族越えた感動源泉」を探るため、フランツ・アルトハイムが『小説亡国論』の中で説いている要旨説明し、アルトハイムが賞讃するダヌンツィオロレンス小説は、その中に根源神話孕んでいるゆえに飼い慣らされ文明突き抜け根源にひそむものに触れ得る力を持った文学」であり、「人間以前動物的な深淵触れさせることによって飼い慣らされ文明風穴を開けさせ、革命させることのできる文学」であると纏めながら、『楢山節考』の「感動源泉」もまた、アルトハイムの説く根源神話」と同じ次元から来ているとし、「姥捨伝説」は「太古から存在し、現在でも生きている根源神話で、世界中類似のものがあると解説している。 そして、「姥捨て」は「高齢者福祉」という21世紀大きな問題として現在し介護施設に親を入れることは、「楢山まいり」に行くことと重なり老いと死は人間根本的な問題の「根源神話」であるとし、大木は以下のように考察している。 まさに「飼い慣らされ文明」を突き抜けてさらに太古にまで溯る動物的なロレンスの言う「血と肉」と結びつく根源神話である。子孫のために自ら死を選ぶというありようは、突き抜ける動物本能にまで溯る。産卵のために壮絶な死を選ぶ。生のための死。それは自然の根源法則支配する世界である。それはゲーテのあの「至福なる憧憬」の詩の中にある「死して成れよ」Stirb und werde! の次元である。それはもはや神秘世界属する。それは汚すことのできない神聖な領域である。「楢山」には神が住んでいるというのはそういうこと意味する。 — 大木文雄深澤七郎小説『楢山節考』とフランツ・アルトハイムの『小説亡国論』」 また大木は、「姥捨伝説はなかった」と主張する古田武彦根拠一つである、「親子みんなで、腹をへらしてがんばる、というのが本当じゃないかな」という発言を、まさに「飼い慣らされ文明」の世界で発言だと指摘し、「誰かが死ななければ子孫生き残れないほどに生活が苦し状況」に直面した際に、そんな言葉は「戯言にすぎない」と反論して、誰もが持つ人間生存本能死の恐怖突き抜けた世界は、「それよりもはるかに壮絶な動物的な愛の本能にまで触れ世界」であり、「おりんの『楢山まいり』とそれをいやいやながら手助けする辰平の姿は、恐ろしく壮絶だが、しかしそこには壮絶故の美が宿っている」と述べている。

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南京の基督」の記事における「作品評価・解釈」の解説

南京の基督』は谷崎潤一郎の『秦淮の夜』に依拠しているが、フローベールの『聖ジュリアン』の文学的技法描写法影響もあるのではないか西原大輔考察している。 なお、『南京の基督』は芥川技巧冴えた傑作短編一つとして評価の高い作品であるが、その一方で、よく出来た作品ながらも、前作『秋』でせっかく近代心理小説新し転換図ったのに、また以前得意な作風になったことを惜し久米正雄の評もある。 三島由紀夫は『南京の基督』を、「実によく出来た、実に芥川的な短篇」としながらも、「古典的名作」とされているこういった作品が、案外「芥川のもので一等早く古びさうに思へる」とし、その理由を、芥川が本来的に持っているナイーブさが見られないという主旨で以下のように解説している。 それはあながち一篇主題の、アナトオル・フランス的な悠々たるシニシズムのためばかりではない。十九世紀趣味物語手法のためばかりではない。似たやうな手法谷崎潤一郎初期作品比べると、短篇技巧では谷崎のはうが粗雑かもしれないが、あの悪童泥絵具おもちやにしてゐるやうなヴァイタリティーがここにはない。「南京の基督」を成立たしめてゐる作者人生観が、谷崎より幼稚でないならばないなりに、それだけ作者の本来のものではない感じを与へる。つまり完全にナイーヴィテが欠けてゐる。 — 三島由紀夫解説」(芥川龍之介著『南京の基督』) しかし三島は、こういった評は、「後人ないものねだり」で、短篇小説というジャンルを、その当時時代ここまで完成させることは、芥川以外の他の誰にもできなかったことであり、「近代日本急激な跛行発展一つ頂点文学的あらはれ」だと賛辞している。そして、その巧さを、「日本人本来の繊細なクラフツマンシップ職人芸)が、ここまで近代芸術としての短篇小説完成せしめたのは、現在のカメラ工業の発展とも似てゐる。この精妙カメラは、本場物ライカをさへ凌いでゐる」とし、これに比して昭和文学短篇」はだらしない作品増え、「川端康成梶井基次郎堀辰雄のみが短篇小説孤塁を守るにいたる」と解説している。 主題関連するもの芥川龍之介示唆していたものとしては、南部修太郎批評巧い作品だとしながらも〈ただそれだけのものに過ぎない〉という辛口評)に応えて、以下のような反問の手紙を芥川書き記している。 僕等作家人生から Odious truth掴んだ場合その曝露躊躇する気もちはあの日本の旅行家悩んでゐる心もちと同じではないか。君自身さういふ心もち感じるほど残酷な人生対した事はないのか。君自身無数の金花たちを君の周囲見た覚えはないのか。さうして彼等の幻を破る事が反つて彼等不幸にする苦痛を甞めた事はないのか。 — 芥川龍之介南部修太郎への書簡 大正9年7月15日付」 この手紙の中で芥川は、人生がOdious truth醜悪な真実)に満ち残酷なものだとしたら、「幸福とはしょせん無知恩寵ではないのか」という答えのない懐疑を問うていると三好行雄説明しながら、「芥川はここでも架空幻影に生をゆだねた少女をあわれんでいる。いや、芥川好みの語を借りていえば、ほとんどなつかしんでいる」と、『南京の基督』のモチーフ考察している。 また三好行雄は、未見の土地雰囲気芥川がよく描き無邪気な娼婦人物造型それなりに血が通っているとし、「手馴れ技巧が、しかもうわすべりのない重さで、かっちりとした小宇宙造型するのである」と評している。そして、芥川南部修太郎宛て大正9年7月17日付)に送った手紙梅毒について言及したもの)に、金花病状完治していないことが示唆されているとして、金花知らない残酷な真実」は、外国人キリストでもなんでもないという事実だけではなく、彼女が夢み奇跡梅毒根治)が起こっていないということだとし、以下のように解説している。 これが芥川本音だとしたら、奇跡信じた金花目に見えぬところで、梅毒はもっとむざんに彼女の肉体蝕んでいたことになる。娼婦奇跡不毛に醒める日も必ずくる。〈西洋伝説のような夢〉はけっして永遠ではないのである。〈晴れ晴れと顔を輝かせ〉た金花背後には、芥川だけに見え暗黒人生広がっている。巧緻仕上がりとはうらはらに、作者の暗い認識を底に沈めた作品である。 — 三好行雄作品解説」(文庫版杜子春南京の基督』)

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作品評価・解釈

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ドルジェル伯の舞踏会」の記事における「作品評価・解釈」の解説

ラディゲ遺作である『ドルジェル伯の舞踏会』は、フランス心理小説傑作とされ、日本作家評論家からも多く讃辞なされている。 舟橋聖一は、『ドルジェル伯の舞踏会』の読後感を、「こいつは当分、他の小説は、読むに耐へぬぞ 」と思いそれほど素晴らし傑作だった評している。そして、これほど心を動かされ小説は、谷崎潤一郎の『蓼喰ふ虫』が浮かぶが、それ以上に『ドルジェル伯の舞踏会』は戦慄したとし、20歳青年ラディゲが、〈この小説の中では、心理ロマネスクなんだ〉と明瞭な意識の元で執筆したことに尋常でないものを感じさせる述べて、それが「怪奇」でないためには、コクトオの言うように、〈日附のない本の年齢のない作者〉だと思うことで辛うじて許されるばかりだと讃辞している。 堀辰雄は、『ドルジェル伯の舞踏会』が我々に感動起こさせるのは、そこに描かれている「ごく普通な感情特異さ」によってであり、そこにいわゆる古典主義」なるものを発見したいはそうするいいとし第一次世界大戦後当時作家たちは、「心理新し発見」のみを心がけ、「異常さ」に導かれ誇張デカダンス」の作品ばかりを積み重ねているが、ラディゲは「平凡さ」を持していると論じながら、ラディゲの「平凡であろうとする努力」ほど、ラディゲ作品貴重にしたものはないとし、「ラディゲ持っている平凡」というこの一点中心にして、「僕は大きな感動をもつて一つ円周を描かう」と強い感銘受けている。 三島由紀夫は、プルーストラディゲ別な形で、「小説といふ文学形式終末予言したやうな究極小説」を書いたとし、プルーストでは「時間の純粋持続小説現実再現能力極限君臨」するために、作者プルーストが「完全な受動的状態」に置かれ、「永きにわたる“私”の文学的懐疑のおわるところ」で同時に小説終結するに対してラディゲ場合は、「〈時〉は捨象され、作者ラディゲ)は完全に身を隠し作品古典劇のやうに、純粋な空間展開される情念機敏な運動の図式」になり、マオフランソワ生き方は、「光輝ある典型になっている解説している。 また三島は、そこでは「人間の心が血を流す場面」が飽きもせずにくり返され終盤の数節において、「流血惨事」が看取されるとし、「古い酸鼻叙事詩忠節といふ倫理的主題貫かれてその血の匂ひを清らかなものにしてゐるやうに」、『ドルジェル伯の舞踏会』にもその意味で「貞節」という主題用いていると考察しつつ、血は自然の凝結作用があるため流れきらないが、折に触れて流れ人間死に至るまで絶えることのないということに、「愛が一生人を責め苛む秘密」があると喩えて悲劇の、より一層大き要素も、この「凝結作用」にあり、小説結末近くのドルジェル伯爵心理描写で、それが暗示されていると解説している。 さらにマオ終盤において〈別の世界に坐って〉変化した女になる展開については、それまでの「人間心理ミニアチュール画面」が突然と破られて、その奥に広がる壮麗な自然の風光」が現われ、「王朝風のゆたかな雅趣」が、「古代かがやきなかへ放り出される」と三島説明しつつ、ラディゲ取り入れたクレーヴの奥方』の「古典的節度」も、『危険な関係』の「肉感的な抽象性」も、マオフランソワがロバンソンの踊り場飲み合う「媚薬」に象徴される『トリスタン・イズウ譚』の主題も、その瞬間に、「一つ異常な啓示の同じ光のもとに照らし出され、それが一せいに目をみひらききらめく瞳で目まぜをする」とし、それまで「重い端麗な均整中にとぢこめられた希臘苦悩垣間見られるのはこの時だ」と解説している。

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作品評価・解釈

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他人の顔」の記事における「作品評価・解釈」の解説

平野栄久は、〈仮面〉の作成過程や、〈ぼく〉の〈仮面〉との分裂対立を描く安部の筆は、「自由かつ精緻」で、安部力作であることが充分うかがえるとし、「〈純粋な自由の消費が、じつは性欲だった〉ということについての綿密な考察や、仮面大量生産されたらという仮定から出発し、その社会的な意味を問いつめることにより、〈国家自身一つ巨大な仮面ではなかろうか、という結論出されるまでの着想論理などすぐれた部分少なくない」と評している。しかしその一方作品全体としては物足りなかったとし、「『デンドロカカリヤ』や『壁』以来――殊に戯曲の中で――安部文体に常に蔵されていた、しぶといフモール(の精神)といったものや、『第四間氷期』がもっていた無意味さや、また『砂の女』が与えてくれたアクチュアリティ感じなかったものである」とも述べている。 三島由紀夫は、近来ほとんど見られなくなった横光利一傑作『機械』のような思考実験小説」の位置安部文学全般期待しつつ、『他人の顔』は作品として『砂の女』よりも重要であるとし、主題対す安部意図について、以下のように解説している。 顔はふつう所与のものであつて、遺伝やさまざまの要因によつて決定されてをり、整形手術でさへ、顔の持つ決定論的因子破壊しつくすことはできない。しかも顔は自分属するといふよりも半ば以上他人に属してをり、他人の目判断によつて、自と他と区別する大切な表徴のである。つまりわれわれは社会とのつながりを、自我社会といふ図式でとらへがちであるが、作者はこの観念不確かさ実証するために、まづ顔と社会といふ反措定を置き、しかもその顔を失はせて、自我底なし沼突き落とすことからはじめるのだ。この自我絶対孤独仮面作り出すにいたる綿密きはまる努力は、あたかも作者芸術的意慾とおもしろく符合してゐて、読者作者と共にこんな難事業取り組むことを余儀なくされる仮面作る当つて、古典的客観的基準といふものは存在しないし、たとへ存在して何の役にも立たない第一、純粋自我がそのやうにして「他」の表徴生み出すことができるかどうか論理的な難点先行するわけである。 — 三島由紀夫現代小説三方向」 そして、「仮面」作製作業は、その問題性突き詰めれば、「やがて、宇宙秩序にひびを入れ、自然の歯車を狂はせるやうな、とてつもない作業」で、それは「もつとも徹底的な認識による革命」であり、「この世界にもし一個完璧な仮面が現はれたが最後社会秩序崩壊はつい目の前にある。もちろんこれが、芸術行為真に社会的現実性を帯びることを禁じられてゐる根本原因のである」と三島説明しつつ、作中主人公が、仮面作製完成途上で、「芸術的昂奮」「戦慄的な陶酔」を語る部分美しいと評している。 また三島は、『他人の顔』と同時期に発表され大江健三郎の『個人的な体験』と比較しつつ、技術的な面では『個人的な体験』の方が優れ大江苦闘的な文体、「言語エロス」で導かれる文体、「誘惑的な汎神論的な」な文体の方が、安部簡素な文体、「拒絶的な一神教的な」文体よりも三島好みであると述べつつも、大江の『個人的な体験』の方は、副人物像や、暗い主題に対して安易に明る偽善的なラストをつけてしまったことにがっかりした評し芸術的な面では安部の『他人の顔』の方が優れている総評している。

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作品評価・解釈

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太陽の季節」の記事における「作品評価・解釈」の解説

太陽の季節』は発表当時新しい風俗として話題作となり、賛否両論文壇賑わせたが、文学的な観点からの本格的な論究はあまり多くはない。この件について、奥野健男文庫版解説の中で「既成文学者たちが、先入観持ってこの作品否定的に眺めまともに取り上げようとしなかったため」と分析している。「新しい風俗」とされたことについても奥野は「このような風俗は昔から避暑地にはざらに転がっていた。ただ世間作家もそれを知らなかっただけ」としている。 山本健吉は、「スポーツ青年無道徳な生態」を描いた太陽の季節』について、以下のように評している。 これはたいへん魅力富んだ小説だが、現代小説行動性は、このような思考停止の状態においてしか、現われないのであろうか。似たような青年描いても、三島彼の抱いている小説美学必然として現われてくるが、この小説では、完全に風俗小説的な場に風化している。そしてそれを、深刻に意味づけようとする作者試みが、宙に浮いている。 — 山本健吉文芸時評村松剛は、三島由紀夫の『沈める滝』のドライ青年主人公・昇が、その3か月後発表の『太陽の季節』の主人公先駆的存在となっているとし、三島文体石原影響したことを指摘している。 『太陽の季節』が発表され時期三島由紀夫随筆の中で、学生学校卒業したばかりの人の中にもいる「通人」が、その知識披露する時に能弁になり、無意識に不自然な老い」を装う傾向となり、かつて自分自身も「学生文学通的文章」を書いていたため、そういった「若い趣味人」の文章出会う恥ずかし思いがあると語り、「学生にふさはしい趣味は、おそらくスポーツだけであらう。そして学生にふさはしい文章は、その清潔さにおいて、アスリート文章だけであらう。どんなに華美な衣裳をつけてゐても、下には健康な筋骨が、見え隠れしてなくてはならない」と考察しながら、「最近私は、『太陽の季節』といふ学生拳闘選手のことを書いた若い人小説読んだよしあし別にして、一等私にとつて残念であつたことは、かうした題材が、本質的にまるで反対文章、学生文学通の文章で書かれてゐたことであつた」と評している。 また『太陽の季節発表5年後三島はこれを本格解説しあらため読み返すと、多くスキャンダル捲き起し作品にもかかわらず、「純潔な少年小説」、「古典的な恋愛小説」としてしか読めないことに驚いたとし、「『太陽の季節』の性的無恥は、別の羞恥心にとつて代られ、その徹底したフランクネスは別の虚栄心にとつて代られ、その悪行別の正義感にとつて代られ、一つ価値破壊別の価値肯定に終つてゐる。この作品さういふ逆説的性格が、ほとんど作者宿命をまで暗示してゐる点に、『太陽の季節』の優れた特徴がある」と評しながら、極度に「〈愛〉といふ観念」を怖れる竜哉は、「〈愛〉といふ観念」に奉仕するため恋愛をする「ロマンチック文学恋人たち」とは逆だが、それはオクターヴスタンダールの『アルマンス』の主人公)不能のために「〈愛〉といふ観念」を怖れるのと同様、男女関係進行過程に、「いやでも〈愛〉が顔を出さなければならぬといふ強迫観念」を読者与え、それは一般的な恋愛小説主人公が「〈心ならずも愛するにいたるサスペンス」と同じで、『太陽の季節』では、「英子の死」により、「〈愛〉はあからさまにその顔を現はす」と説明し、「ここに小説家の工みがあるけれど、こんな救ひのために、『太陽の季節』は作品として本質的な恐怖もたらさない」とし、その代り竜哉の「たえざる恐怖」が深い印象与えると解説している。 また、一定の系列がある「竜哉恐怖対象」は、「情熱必然的な帰結である退屈な人生」と、「情熱必然的な帰結を辿らなかつたときの、人生と共に永い悔恨」の二つで、「この二つどちらか一つを、人は選ぶやうに宿命づけられてゐる」と三島説明し、『太陽の季節』が「夏の短かいさかりのやうな強烈迅速な印象」を与えたのは、この二つの「恐怖」に対す青年層共感があり、象徴的意味看取したためで、竜哉が「〈愛〉の観念の純粋性」を救うためには、「愛の対象」(英子)が死に竜哉自身は「悔恨」に沈まなければならず、竜哉が「〈愛〉の観念」を全面的に受け入れるなら、「世俗屈服」し、古い慣習的な象徴であるところの〈丹前をはだけ〉て子供を抱かなければならないという、「観念的な図式」が明確に作品示されていると解説している。また、作者石原意図した、その観念的図式構成とは無関係に竜哉別の顔を見せる細部美し挿話について、以下のように評している。 この作品そのものよりも、この物語水溜りうかんだ油の虹のやうに光彩を放つてゐるとすれば、その水溜りのはうで人を感動させたのだとも言へよう。従つて、この小説にちらりと顔を出す、最も美し水溜り一部は、固い腹筋を誇る父の腹にパンチくらはして血を吐かせ、その償ひに自分のめちやくちやにされた顔を示し、しかもそれが生温かい肉親の心配をしか呼び起さぬのを見て失望する竜哉別の肖像画である。志賀直哉氏の「和解以来、かういふ美し父子場面は、あまり描かれたことがなかつた。 — 三島由紀夫解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』) さらに三島は、『太陽の季節』はスキャンダラスどころか、「つつましい羞恥にみちた小説ではないか提起し障子紙破って突き出される男根場面も、「中年図々しい男ならそのまま障子をあけて全身あらはす筈」だとし、英子の愛に素直になれない竜哉の「羞恥」について以下のように解説している。 ひたすら感情バランス・シート帳尻を合はせることに熱中し恋愛力学的操作夢中になり、たえず自分の心をいつはり素直さ敵対し自分情念のゆるみを警戒するのは、ストイシズム別のあらはれにすぎないではないか? 恋をごまかす優雅な冷たい身振の代りに、恋をごまかす冷たい無駄な性行為くりかへすのは、結局或る純粋な感情ときめきを描くために、ロマンチック作者が扇や月光を使つたやうに、扇の代り性行為を使つただけではなからうか?……これだけ性的能力誇示した小説にもかかはらず、この主題奇妙にスタンダール不能者を扱つた小説似てゐるのは偶然ではない。 — 三島由紀夫解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』) そして、その「〈愛〉の不可能と〈現実〉との関はり合ひ」という石原の「もつとも大切な主題」は、のちに発展して秀作亀裂』を生む三島解説している。 中森明夫は、『太陽の季節』の主人公竜哉の「心性」は、「〈おたく〉(個に自閉して、他者性欠いた心性ありよう総体)」の「メンタリティー」と極めて近く、それはいわば、「もてる〈おたく〉、アクティブな〈おたく族〉」と呼べるかもしれないとし、「〈おたく〉の誕生豊かな社会―すべて(物質的に満たされている、ゆえに個に引きこもり他者性欠いて決して(精神的に満たされることのない社会―という存在条件不可欠」であるゆえに、「『太陽の季節』の主人公心性存在環境は、〈おたく〉の誕生三十年は先行していたとも言える」と考察している。また中森は、オウム真理教による地下鉄サリン事件(「おたく世代テロ犯罪」とも呼ばれた)の、「すべて満たされている、ゆえに変化のない日常息苦しさに耐えられず、世界破壊夢見る若者たちが現れる―という透視図」は、1950年代後半石原慎太郎の『亀裂』と、三島由紀夫『鏡子の家』1960年フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』にすでに先見的に描かれていたと分析している。

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作品評価・解釈

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箱男」の記事における「作品評価・解釈」の解説

箱男』は複雑な構成持ち読み手それぞれの断章転換や、その関連性理解するのが困難な作品で、安部自身自作解説で、〈アンチ・ロマン〉(反・小説)としているように、その構造簡単に見通せない工夫となっており、最終的には、「小説を書くという問題」にまで発展する構造孕んでいるために、物語世界読解も複雑で多く論究なされているが、成功作か失敗作か、未だ定まった評価はなされていない総体的には、その複雑な構成実験的な手法だと評価されている傾向があるが、否定的な評価見られ岡庭昇などは、『箱男』は物語世界の「図式しか」書かれていないと、その手法について手厳しく批評し主人公が「自分現実なのだろうか幻影なのだろうかと、そういうことばでいっているだけ」と指摘している。 高野斗志美は、〈箱男〉とは「都市内部失踪し無視され廃棄された者たち」を象徴し、「見る=見られるという関係から脱落することは、市民社会日常性から脱落していること」であり、〈箱男〉は「内部他者喪失している群衆の生の状況」の形象だとし、以下のように解説している。 見られずに見るという特権は、箱男が、見られるという位置を失うことで社会から廃棄され一種死んだ有機物にすぎないことをしめしている。廃棄物がだれであるかは問題にならないだれでも箱男になることができる。かぎりなく交換可能な箱男運命は、だれのものとも分らぬモノローグ紡いでいく迷路のなかに分解されていく。「箱男」はこの点で、都市深部にひそむ疎外へのあらたな照射をしめす転機作品である。 — 高野斗志美悪夢としての都市田中裕之は、自分だけの世界閉じこもる箱男」に、おたくや引きこもり若者たち想起し、「箱男」が、夜中病院の窓を覗いて〈彼女〉(見習看護婦)に欲望抱いてゆく過程に、「ストーカー行為」の類似看取し、社会現象対す安部先駆性見出している。 苅部直は、『箱男』が多種な「再構成」を読者投げている作品ではあるが、挿入され写真や詩などを除けば、「小説のほぼ全体一つながらりの物語として把握することも、見かけほど困難ではない」とし、小説最後3章を、元カメラマンの〈箱男〉が実際に見聞あるいは思い描いた記録解釈して、〈贋医者〉と〈見習看護婦〉が、元カメラマン現実出会った人物定めて《死刑執行人に罪はない》の章の話者を、〈贋医者〉に殺された〈軍医殿〉と見ることは可能だとしている。 そして苅部は、「箱男」を目撃した者もまた、やがて感化され箱男になってゆくという側面について、「他人との交流回路を失ない、みずからの周囲に壁を築いて閉じこもる姿は、いまの社会生きる自分自身ではないか。――そう感じたとき、人は自分もまた〈毒〉に感化され箱男になってしまう」と説明しつつ、この作品執筆作業また、安部公房自身ゆっくりと箱男仮装してゆく過程だったのかもしれない」とし、終結部で「箱男」の居場所が、部屋空間から路地裏となる転換について以下のように解説している。 閉じられ病院建物は、外の雨風や音をほぼ遮断できる点からすれば段ボール箱よりもずっと完璧なであろう。そのなかへの閉じこもり達成できたと思った瞬間に、目の前風景都市空間転じてゆく。(中略都市もまた「閉ざされ空間」であるという言葉は、『砂の女』の主人公が、日常の生活も砂の穴のなかの暮らし同じだ見きわめ決意思い出させる。「迷路としての都市の姿も『燃えつきた地図』の読者にとってはおなじみである。ここに、都市主題にした安部公房仕事の、一つ到達点を見ることができるだろう。 — 苅部直「窓から覗く眼」(『安部公房都市』) 平岡篤頼は、『箱男』における「ノート」の書き手を「〈記述者=箱男〉」(前半登場する〈ぼく〉)一人だけに統一して作品物語を同じ世界で起こる出来事と見ながら、時系列順に解釈している。平岡は、《書いているぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって》の章において、〈贋箱男〉が「ノート」の中で「ノート自身言及することから生じる「矛盾に関しては、「〈記述者=箱男〉」の書かれうる未来選択肢として捉え、「〈記述者=箱男〉」は、箱を脱ぎ〈贋箱男〉の前にいるか(記述者であることを止めるか)、海岸で「ノート」を書いているか(交渉諦めて正当な箱男であることを容認するか)のいずれかを選ばなければならないとし、「〈記述者=箱男〉」は結局、「記述者」を捨て行為者」を選択するが、その「矛盾」を引き受けながら書き続ける説明しつつ、「ああ、なんという矛盾! そう書いているのも〈ぼく〉なのである」と述べて別の記述者の可能性が仄めかされている「ノート」は、「フィクション」領域位置づけている。そして平岡は、「箱男」(認識者)となり「自由」であったはずの〈ぼく〉が、ぼく自身なくなった〈贋のぼく〉にならざるを得なくなる経過が、全体物語収まっていると解説している。 平岡は、『箱男』では「〈見る〉ことが〈見られる〉ことを呼び、〈ほんもの〉が〈贋もの〉を誘発する」とし、それらが絶え相互に交換され、「対になることばを誘い出す言語そのもの自律的な運動の発現」と同じになるとし、物語連続性が、「言葉の概念概念呼応、音と音との呼応」により成立し、「〈死んでいるのかもしれない〉→〈変死体発見〉」、「〈贋箱男〉→〈贋医者〉→〈贋供述書〉」の連動の例を挙げている。よって、この小説展開されているのは、「箱の覗き窓から見た外の光景」という実在ではなく、「すべて箱の内側記され落書」、「現在進行中の〈物語〉」であり、「そこに吹き荒れているのは、フィクション熱風」だと平岡説明しながら、「その〈物語〉を記録してゆく箱男とは誰なのだ」ということは、「現代小説における作者位置」について思いめぐらすことと同様だとし、作家安部公房存在示唆し、それに関連して以下のように論考している。 小説を書くという作業大きな部分言語解放するということだとしたら、書くのは作家なのか、言語なのか。〈贋箱男〉の職業医者としたのは作者安部公房かも知れないが、彼を〈贋医師〉にしたのは安部公房だろうか彼の解放〉した言語なのだろうか作家は何かを表現しようとして言語という道具用いるのか、それとも言語という一つ空間のなかで、みずから言語の道となって書くものなのか。 — 平岡篤頼二重化象徴迷路小説11)」 真銅正宏は、『箱男』の本文と「写真」の関係に着目し、「(カメラの)ファインダー箱男覗き窓極めて相似的な関係」にあり、その両者の「相似」は、「読者覗き視線共有」し、「小説というジャンル自体越境が、写真という表現行為により為され」ていると指摘して本文と「写真」の関係の中に、「言葉の内容のみならず表現自体着目を誘う技法」の存在看取しながら、『箱男』の「写真」が、「箱男」の視界だけではなく読者自体眼差しへも注意を促す機能があることを示唆している。そして真鍋は、終結部の以下のような安部「箱」対す言及を、「まさしく安部公房小説観の寓意」だと指摘している。 じっさい箱というやつは、見掛けはまった単純なただの直方体にすぎないが、いったん内側か眺めると、百の知恵の輪をつなぎ合せたような迷路なのだ。もがけば、もがくほど、箱は体から生え出たもう一枚外皮のように、その迷路新しい道つくって、ますます中の仕組みをもつれさせてしまう。 —安部公房箱男八角聡仁は、カメラ人間の二種の眼差しについて、「有用なものだけを、意味のあるものだけを取り出し無用なもの、無意味なものを捨象すること」により、「初めて何かを見ることができる」人間知覚と、「一切無差別無関心に見てしまう」写真視点違いから、『箱男』の「写真」が「見慣れていたもの異化し、いわば無意識の領域写し出す」と説明している。 杉浦明恵は、『箱男』の構成従来小説のように読者が「物語世界」に没頭できない仕組みで、「〈語り行為そのもの」に読者意識注意を向けさせ、「小説を読む読者態度問い直している」とし、作品における「語り手錯綜する点」と、「物語成立関わる語り問題」(物語世界出来事登場人物が、語り手の「想像産物」だと、「虚構性の自己言及」がなされている点)の二つ側面から分析考察している。 杉浦はまず、〈軍医〉の語る章《Cの場合》が、〈軍医〉=〈ぼく(箱男)〉が語っているのだとしたら「視点侵略」になるとし、「〈ぼく〉の語る物語無関係な軍医〉が語り手となりうる仕組み」を分析しながら、語り手が〈ぼく(箱男)〉以外の人物変ったからといっても、「語り手としての箱男という立場」が「客体」になるわけではなく、〈ぼく〉が完全に語り手記述者)としての立場失ってはいない点(自分本物でなくなることを自覚しながらも一貫して主体」として語っていること)などを指摘し、「物語世界内の出来事のすべてを統一するような視点持った特権的な語り手不在により、〈ぼく〉と〈贋箱男〉、〈軍医〉は同列立場となり、語り手錯綜するという事態が起こった」と説明し本物贋物対立という「読者期待感起こさせる手法」を用いながらも、それを「空所」(読者知った感じた真相解釈絶え否定破棄され更新されるという繰り返し作品構造)にさせて、従来小説ジャンルの手法の機能を「意図的に否定すること」を目的にしている語り構造解説している。 そして杉浦は、もう一つの「物語成立関わる語り問題」の側面から分析し、「虚構性の自己言及」がなされる〈ぼく〉と〈贋箱男〉の対話(《書いているぼくと、書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって》の章)において、人物たちが「空想産物」であることを自覚していることで「物語決壊」が起こり、〈語り〉は内容伝達するための「透明な記号」でなく、〈語り自体注意向けさせる不透明な記号」となるため、上記考察してきた「語り手変遷」の分析はすべて無意味となり、〈贋医者〉は〈ぼく〉の空想産物となることで、〈贋医者〉も〈軍医〉の存在消滅し、すべては〈ぼく〉の創作したフィクション語り手〈ぼく〉による一つの物語)になると説明し、『箱男』は「物語の中で〈誰が語り手となっているのかというよりも、物語外部向けて物語ること、それも語り手虚構性を認識しながら語ることに重点置かれている」とし、「虚構性の自己言及は、物語世界〈の〉ことではなく読者受け取物語世界〈について〉の言及で、物語世界一つ上の水準、いわばメタレベルに属する」と解説している。 永野宏志は、安部が『箱男』で掲げている〈帰属〉のテーマは、読者観客との「コミュニケーション空間・編成仕方を問う作品」をそれまで送り出してきた安部の「本質的な課題」であり、安部がそこで実験してきた「異化」の点から、〈帰属〉のテーマがどう構成されているかに着目し、『箱男』を読む際に最も問われるのは「読者自身の〈帰属〉」だとしながら様々な側面から論考している。永野は、安部が『燃えつきた地図執筆時期に、〈いま必要なのは、けっして都市からの解放などではなく、まさに都市への解放であるはずだ〉と述べていたことから、『燃えつきた地図』が「物語世界のみならず読者同時代の生活を、現代環境として描く役割」を担うとし、「〈都市〉という言葉の意味転換」を作品課す際、「作品物語世界内側収束させず、むしろ、読者促し、〈都市〉の〈相対化〉と〈物〉の断片性の体験促す契機必要になる」と考察している。 そして、『燃えつきた地図』の終盤において、「〈都市〉もまた物語世界読者実際世界をメタレベルで包括する環境なる類ではなく両者知覚次元で〈相対化〉する一例ではないか解釈できる場面」(過去の作品記述引用される場面)があることや、『人間そっくり』で語られる「そっくり」の論理トポロジー論)の挿入には、「物語の経過する時間一瞬止め物語から離脱して他の作品注意を向ける契機」があり、読者にとって、「物語時間によって消去されつつある書物ページ物質性読者生きる実際世界へ通路となる可能性秘めている」と永野説明しつつ、これらの「手法」が、「読者物語世界の外の作品埋め込んだページ知覚する次元への指示引用)と、読者物語世界入りつつも実際世界そのまま投影できない空間指示挿入)という、『箱男』の知覚次元における書物と、虚構内に広がる無際限の〈ノート〉の広がりの関係」に繋がるとし、『箱男』では「〈ノート〉の物質性虚構内で主張する写真別紙挿入へと展開」し、それらの「時間的整序から逃れて出現する空間」の断片散在は、安部の描く〈都市〉〈都市的なもの〉のようだ考察して、以下のように解説している。 この時、書物物語作者発想指示する閉じた時空ではなく読者の関与によって開かれる「都市」転換するのではないだろうか。ここにおいて都市的なもの」は、作者主張離れ書物として手渡され読者との対話という段階に移ることが可能となるだろう。というのも、諸部分世界強調し包括する自体拒否することは、作者包括的な位置をも脅かしているからである。個別性優位世界では習慣がメタレベルを形成しようとすると、「都市的なもの」のダイナミックな対話が、作品の外へと「可能な展開」を始めといえる。 — 永野宏志「書物の「帰属」を変える (II) : 安部公房箱男』の折込付録「〈書斎たずねて〉」の展開可能性工藤智哉は、『箱男』の物語内部書き手である「箱男」と、『箱男』という物語書き手である「作家安部公房」の相似性の関係から考察し安部がスタインベルグの漫画自分自分肖像描いている画家が、その自分の姿を同じペンで絵に描くというパラドックス)に言及していることを鑑みて、『箱男全体を貫くテーマが、物語因果律否定するパラドックス」により、「作品内部で確定不能な状況作り出されるというカラクリではないかとし、物語世界にある「ノート」(挿入的な記述除いて一人記述者と想定される)を「架空ノート形式」と呼びつつ、様々な側面からその「ノート」の語り手実在人物物語世界において)なのかを分析している。 工藤は、〈軍医〉が〈贋医者〉の「供述書」を見て書き写すという物理的な不可能性や矛盾点から、〈軍医〉の記述する章は〈軍医〉の妄想仮定できるとし、一冊の「ノート」の記述者という「連続性」を考慮するなら、挿入注解除いて基本的に一人であると想定されるため、一見、〈軍医〉=〈ぼく〉(箱男)と見なされるが、時間的な矛盾から〈ぼく〉と〈軍医〉は同一人物ではありえず、どちらか架空なければならず、〈軍医〉が架空人物仮定できるが、そうなる必然的に〈贋医者〉も存在しなくなりパラドックス陥る説明し、〈軍医〉の死体死臭)があり、〈軍医〉の存在が仄めかされている点などを挙げつつ、どちらにしても整合性とれない構造となっている物語世界指摘し、『箱男』が「実に反物語的な物語」であり、「〈架空ノート形式〉の持つ危険性逆手に取って物語性否定した位置」に立ち、さらには、「作家存在証明」も脅かされる小説観の寓意」にもなっているとして以下のように評している。 作家として作品提示することはできる。しかし、我々読者作家と作品を結びつけているものは制度以外の何物でもない。この結びつき否定することはできないが、そこには何ら根拠もない。自分書いているということ書くこと、つまり自己の存在証明を自ら書くこと不可能なのであるこのような「書く」ということに関する根源的な矛盾は、おそらく論理的に解決不可能だろう。しかし、そのような矛盾演じることはできる。『箱男』という物語は、作家安部公房自己の存在証明をも犠牲にして、「書く」という行為の持つ矛盾演じて見せた物語と言えよう。その意味でこの物語は「物語」という形式の持つ根拠不在不確かさ寓意のである。 — 工藤智哉「『箱男試論物語書き手めぐって手塚治虫は『ばるぼら』の作中において『箱男』に言及している。

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作品評価・解釈

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榎本武揚 (小説)」の記事における「作品評価・解釈」の解説

河野基は、安部が「思想転向相対化する〈意義〉」に自覚的になり、それを作品形象化しようとした理由を、1956年昭和31年)に安部チェコスロバキア作家同盟招聘で、新日本文学会代表としてプラハ訪問し帰国後に書いた旅行記東欧を行く――ハンガリア問題の背景』(1957年3月)が、日本共産党の批判を受け、党から除名処分1962年となったことが原因ではないかしながら思想の〈相対化〉の契機は、ソヴィエト・ロシアの“覇権主義”を安部目の当たりにしたことと、日本共産党からの除名処分にその要因があったと推察し小説榎本武揚』は、「政治的原理主義」を無力化するために、転向まつわる従来思想思索を“パラダイムシフト”することを目的創作された」と考察している。 武井昭夫は、「節そのもの否定が、変節のすすめとして横行しつつある今、この安部榎本像は、どこでそれらの動向自己区別できるのか? 安部はこの作でそれに答えていない。現代との緊張関係がこの作者には決定的に欠落しているのではないか。この疑問が、不快な緊張を強いるのである」と述べ、『榎本武揚』を、「安部公房アリバイづくり」と批判し現代の「転向問題」を扱った、「新しい型の転向文学」だという見解示している。 こういった武井のような批評に対して安部は、小説榎本武揚』のテーマは『砂の女』や『燃えつきた地図』で一貫して追求してきた「人間社会における個と全体問題」であるにもかかわらず忠誠問題アレルギー性反響起こり、「転向小説」と決めつけられたため、戯曲ではその批判答えるように配慮した述べている。石田健夫はこれを受け、『榎本武揚』を「転向小説」として読もうとするならば、そもそも転向」とは何かという「転向論」に対する反措定作品なるとししかしながら、「忠誠概念」は、個と全体問題を解く「補助線」として設定された、というのが安部真意のようだ解説している。 磯田光一は、浅井十三郎という人物を、仮に三島由紀夫書いたならば、浅井主人公にして一人殉教者描き花田清輝書いたなら完全なコメディーになり、その中間安部公房位置していると考察している。そして、「浅井的な状況」というのは最先進国ではコメディーになってしまい、起こり得ない考え安部に対して磯田は、最先進国でもある意味では逆にニヒリズム裏づけられたテロリズム」という形をとることもある得るのではないか提示し日本トロッキスト中にも浅井感じると述べている。安部は、浅井的なものは右翼限らず左翼中にもあるとし、『榎本武揚』の中の寓話的なものとして、小説にはない戯曲版のねらいを、「入札制(選挙)という、もっとも反浅井的な手段によって、浅井選ばれてしまうという皮肉にあった」と説明している。 伊藤整は、戯曲版榎本武揚』について、「僕は榎本武揚になるよりも浅井十三郎のほうになっちゃうんですよ。まだ僕の年代では」と、入札場面でも、自分だったら浅井投票してしまうとし、明治天皇の後を追って殉死した乃木大将記憶残っている年代自分には、やはり榎本思想的なものに対しては、「本質的な本当のところ」がよくわからないという見解示しながら、自分よりも若い世代一般大衆的な人でも「古き侍的」になる人や、インテリ階層でも情緒みになると、侍になってしまう人もいるとし、「(舞台を)見ているうちに侍になってやっぱり榎本武揚は嘘言うじゃないかと、感ずる」という感想述べている。 そして伊藤は、安部テーマ一つ挙げる人間同士間の関係においても、機械対す電子工学のような精密さと、「非常に楽しい孤独感」とが並行するような密接な関連性可能なではないかという提起に対して、「ちょっと僕はそこまではわからなかったな。わからなかったけれども、一般観客として言うと、やっぱり浅井十三郎活躍がうまくやればやるほどあそこにしがみついて、いまあなたの言ったことの前段階のもっと前段階のところでもって情緒的にゆさぶられるわけです」とし、自分浅井方にどうしても心情的に惹かれる述べている。 松原新一は、「すべては相対的であって時代新しくかわれば、それに対応して人間生きていけばいい(というほど)それほど単純な存在ではありえない転向・非転向問題は、明快な論理によっては処理されない人間内的な痛みをともなう」と解説している。 中野孝次は、戯曲榎本武揚』で榎本は、「時代抜きんでた自由な思想持主」として現れ、「その自由こそが忠義側から裏切り疑われたり、変節漢とそしられたりし、つまりは彼を孤独な人間たらしめている」とし、そこでは歴史劇描かれているのではなくその人関係図は、「根っこではやはり『友達』に共通するものがあるのに、慧敏観客気づくであろう」と解説している。

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エロ事師たち」の記事における「作品評価・解釈」の解説

野坂昭如処女作エロ事師たち』は発表時、明治時代以来近代日本文学見られなかった型破りな作品評され赤裸々露骨な現実表現しているにもかかわらず野卑ならない世界醸し出す古典的な語り物文芸口調リズム駆使した文体特徴的で、吉行淳之介三島由紀夫らが、雑誌文藝』のアンケート・ベストワンに選ぶなど、高い評価をされている。内容的に社会の裏面的な性のグロテスクな素材のため、同じ野坂名作『火垂るの墓』のように一般化されることはないが、野坂文壇認められるきっかけとなった出世作として位置づけられている。 澁澤龍彦は、野坂という小説家を「男女からみ合うベッドシーンばかり書きたがる当節通俗流行作家とは全く反対にひたすら観念エロティシズム欠如としてのエロティシズムにのみ没頭する一種独特な性の探究家」と呼び、その表現方法悪趣味的であるが、独自の「庖丁さばき」(文体)により調理され下品に陥るとがないとし、その「庖丁さばき」は、「既成文壇作家ストイック潔癖な趣味とは明らかに趣味異にするけれど、しかもなお、現実調理することによって文学真実救い出すという、その一点においては全く変りがない」と解説しつつ、社会の裏側の「ポルノグラフィックな最低な現実文学素材として用い、しかもそれを見事な庖丁さばきで料理した作家」は、それまで日本文学において野坂以外にはいなかったと評している。 そして澁澤は、「エロ事師」である主人公野坂が、「物語途中から容赦なくインポテンツ立場追い落としている点」に、作品全体の「辛辣なアイロニー」が生きそういった操作は、女嫌いオナニスト美青年ダッチワイフ人工美女惚れるころなど各所散見されるとし、さらには、「小説全体象徴する最大アイロニー」となる最後主人公死に方滑稽な状態は、「性そのものアイロニーとぴったり重なっている」と解説している 三島由紀夫は『エロ事師たち』を、「武田麟太郎風の無頼の文学」と呼び、「文壇良識派」が「微笑うかべて頭を撫でてやる」ような〈よく出来た中間小説〉という代物とは正反対の、「醜悪無慚」でありながら、「塵芥捨場真昼の空のやうに明るく、お偉ら方が鼻をつまんで避けてとほるやうな小説」だとし、「『プレイボオイ』などと言つて空うそぶいてゐる野坂氏が、こんなに辛辣な人間だつたとは、面白いことだ」と述べている。そして、村松梢風晩年想起させる野坂のその文章を、「身も蓋もないその筆致は、雑駁さで雑駁を、卑俗さ卑俗を、そのまま直下映し出すやうな透明な作用を持つてゐる」と解説している。 また、誘った女が迷った末に、なびく瞬間表情にだけ「女の最高の美」を見てその後行為月並達観して自瀆耽り、「何も人間人生と相渉らない」青年や、他人にエロ・ショーを提供するうち、陶酔する客の顔だけ見て満足し、「自分直接行為の愉しみ」など捨ててしまう登場人物たちを、「われわれの芸術行為劇画」だと、作家暗喩として看取する三島は、「野坂氏は別にそんな大それた小説書いたつもりではないが、現代社会性的態度売淫性が、そのもつとも低い形態において、芸術行為象徴性にまですり代るといふ着眼点は、リアリティーつかんでゐる」と述べて、以下のように解説している もつとも低いものがもつとも高いものに出会ふといふ無頼の社会観には、われわれの還流噴水のやうな社会構造見透かしてゐるところがあり、それではこのエロ事師たちだけが「見者」であるかといふと、彼らも亦、その性における窮極的な態度余儀なくとらされる点で、一つ役割を荷はされてゐるのである。これは一種悪漢小説であるけれど、おそろしいほど停滞した、追ひつめられピカレスクであり、谷崎氏の「鍵」や「瘋癲老人日記」のやうな有閑老人性生活はちがつて、一つ職業非合法な)の報告であるところに味があるのだ。この小説警抜オチを持つてをり、自動車事故死んだ中年男が、打ちどころがわるくて死後勃起つづけてゐるさまを、「どちらが顔かわからなかつた」と書作者は、西鶴時代生れてゐれば、「知らずいづれか顔なりけん」と結んだことであらう。 — 三島由紀夫極限リアリティー

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高野聖 (小説)」の記事における「作品評価・解釈」の解説

高野聖』は、泉鏡花代表作というだけでなく、その語り味わいや独特の文体で、妖怪世界がより効果的に表現され日本文学史的にも、怪奇小説幻想小説名作として評価されている。 笠原伸夫は、「三層異質時間」が「入れ子構造」をとりながら組み立てられている『高野聖』の構造を、「語りのなかに別の語り嵌め込まれ、その別の語りのなかにさらに別の語り参入する」と説明し、その構造により、「想像力自己増殖とでもいうのか、奇異妖変の気配内側行けばゆくほど濃密になる」と解説している。山田有策は、その鏡花の「〈語りの〉枠組」が、「必ずしも整然としたスタティックな形をとっていず、絶え融化し流動する点にこそ鏡花文学の〈語り〉の最大魅力があるとみてよい」と評している。 『高野聖』を、「鏡花想念みごとに落ちこぼれなく凝縮した短篇」、「軽佻脱して成熟」した文体だと評する三島由紀夫は、この作品の構成が、「能のワキ僧を思はせる旅僧」が物語るという伝統的話法枠組みにより、「幻想世界」と「現実」との間に「額縁がきちんとはめられる」ことで、読者徐々に天外境」に導かれ、その世界へ共感がしやすくなる構造に、成功一因があると解説している。また主題成功要素に関しては、「ヨーロッパの『洞窟の女王英語版)』風な、不老不死魔性美女の、悪にかがやく肉の美しさと、わが草双紙風な、みにくい白痴良人とのコントラストが、人々にすでに親しまれる要素秘めてゐたといへるであらう」とし、山蛭場面描写については、その「写実的手法みごとさ」が、後段の「超現実的な場面成立たせる大切な要素になっている解説している。 また〈優しいなかに強みのある…(後略)〉という一文言い表されている「鏡花永遠女性」像が具現化し、それが、「手を触れただけで人を癒やす聖母的な存在が、その神聖な治癒力の自然な延長上に、今度は息を吹きかけるだけで人をに変へる魔的な力の持主になり、しかも一方では、白痴良人対す邪慳ともやさしさともつかぬ母性愛愛情残してゐる」女になっていることに三島触れ鏡花にはそういった「〈薄紅ゐの汗〉したたりさうな無上肉体の美をそなへた女」に、「生命人間性の危険を孕んだ愛し方で愛してもらひ、しかも自分だけの特権として、格別恩寵によつて、命を救はれて帰還したい」願望があるとし、その裡にある「特権意識」こそ、鏡花の「詩人確信ではないか考察している。 そしてその特権は、「努力戦い成果」でなく、「清らかで魔的な美女自分にだけ向けてくれた例外的なやさしさのおかげ」で助かるという「愛」で「堕罪免れる」ことであると三島解説し、以下のように論考している。 鏡花は、かくて、芸術家としての矜りをここに賭け、そのやうな免罪符的な愛を受ける自分資格は、あの馬に変へられる憐れ富山薬売などとはちがつて、美を直視し表現する能力いかなる道徳的偏見にも屈せずありのままに美を容認する能力自分恵まれてゐるからだと考へたにちがひない。では、そのやうな芸術家とは何物であらうか。彼自身半ば妖鬼世界属し半ば妖鬼支配し創造する立場に立つことである。 — 三島由紀夫解説」(『日本の文学4 尾崎紅葉泉鏡花』) 吉田精一は、『高野聖』の舞台である飛騨天生峠の、「蒼空にも雨が降るという飛騨越え難所棲む山道」は、「人生行路苦難」を意味し旅僧があえてその道を選ぶのは、「ブルジョア卑俗功利化身のような富山の売薬憎んだため」だと解釈しつつ、そこに「この時代ブルジョアモラルに面を反ける者のたどらねばならぬ宿命暗示される」とし、以下のように解説している。 愛情なくただ肉欲をもってのみ婦人近づく世の男性、それが人間化した馬やむささびの姿であって旅僧ひとりが身を全うしたのは、その愛情無垢純一なためであったとすれば、ここに作者のもつ恋愛観見られるかように見れば高野聖』の舞台布置は、ロマンティック詩人の目に映じた人生縮図である。 — 吉田精一解説」(文庫版歌行燈高野聖』) そして、そういった分析の「概念的な影」は、物語堪能している間には感じさせない高野聖』の、「月光に輝やく」谷川風景妖艶な裸体美女」など、「ドイツ浪漫派情景」を思わせる神秘幽怪な書き割りの中」で、鏡花は「デモーニッシュな感情奔騰身を任せ」ていると吉田解説しながら、「や、滝の水沫や、〈動〉を写して神技に近い作者筆致には、妖魔実感し神秘に生き切った作者体験の裏打ち」があるとし、上田秋成の『雨月物語』と並び日本文学史上、「絶えて無くして稀にある名作」だと評している。 河野多恵子は、以下のように述べている。 鏡花文学には、芸者身辺はじめ当時風俗が沢山取り入れられている。また、今日見方からすると同調しかねるような考え方にも出会う。だが、そういう属性拘泥って、彼のすばらし世界の秘密触れ歓び知らずに終わるとすればまことに残念なことだと思われる鏡花天才は、人間というもの、異性というもの、生きるということ不思議さを、実に鋭く深く掘りまた、高らかに謳いあげている。すばらし体操競技のように、自由自在に柔軟に奇抜に、何ものにも捉われずに……。そして、鏡花文学でしばしば非現実世界繰り展げられるのも、古風な物語性の必要からではなく、むしろ意識下意識ともいうべきものの飛翔する美しい姿なのだ。だからこそ鏡花文学場合は、一見荒唐無稽な設定も、少しも不自然な感じ与えず、その世界へ読者誘い込むのでろう。/そのような鏡花文学特色属性的な部分においてではなく本質的に特によく感じさせてくれるのは、「高野聖」などではないかと思う。 — 河野多恵子鏡花文学との出会い塩田良平は、「作者神秘主義への強烈な信仰ある種アニミズム虚実のりこえて、有無をいわせず読者を引きずって行くところに作品魅力がある」とし、以下のように解説している。 要する物語としては、最初から色々の捨て石をおき、次第にそれらの因果関係解いて行くというやり方であるが、筋の起伏話し手呼吸とがぴったりとあい、話の運び緩みがないところに構成力の巧みさがある。 — 塩田良平作品の解説鑑賞」(文庫版高野聖歌行燈

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秋 (芥川龍之介)」の記事における「作品評価・解釈」の解説

『秋』は芥川龍之介初めて、現代日常題材しながら自身実生活主題取り込んでいる心理小説であるが、後の作品本格的な発展なされて開花するまでの可能性切り開くところまではいかなかった。三好行雄は、この作品のモチーフ芥川の「もっと切実なモチーフだったに違いない」が、『秋』の最後は「抒情的な処理で円環閉じ」られ、「現代取材しながら現実の生そのもの内部にはけっして深く降り立ってはいない」と解説している。 『秋』を、堀辰雄の『菜穂子』の「先蹤のような作品で、芥川にしては、「ボヴァリスムを扱つた小さな珍らしい作品」だと評する三島由紀夫は、『秋』は傑作ではないが、「流露感」があり、もっとこういった「非傑作」を芥川はどんどん書くべきだったとして、以下のように解説している。 この短篇には芥川らしい奇巧機智はなく、おちついた灰色のモノトオンな調子出してゐて、しかも大正期散文らしい有閑的な文章の味はひがあつて、飽きの来ない作品である。かういふ方向掘り下げ、拡げてゆけば、芥川にとつて最適の広い野がひらけたと思はれるのに、時代熟してゐなかつたせゐもあるが、この作品一個試作に終つたのは惜しい。ここには近代心理小説見取図がもう出来上つてゐて、あとは作者エネルギー持続を待つだけだつたのである。 — 三島由紀夫解説」(芥川龍之介著『南京の基督』)

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作品評価・解釈

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ゼーロン」の記事における「作品評価・解釈」の解説

堀切直人は『ゼーロン』に代表される牧野中期幻想的作品について、「明朗で、たいへん風通しがよく、軽妙で、すこぶる痛快」と評し、そこには、それ以前私小説の「暗い翳」がやや残り続けているものの、「健康な活力」「酒神讃歌高らかな笑い声」といった要素が、それらを凌駕するようになったとし、それを「いじけた幼虫」からのへの変化喩えている。 牧野多く作品の舞台である足柄上郡架空鬼涙村」について三島由紀夫は、そこは生涯転居繰り返した牧野にとっての「精神的故郷」であり、「そこに住む異邦人としての知識人牧野は、教養によつてのみ現実離脱成し遂げ、その愛馬にすら『ゼーロン』と名付けて、中世騎士道古代ギリシャ幻想へ、日本ドン・キホーテとして旅立つよすが」にしたと解説し、以下のように評している。 ドン・キホーテ自己諷刺と、その幻影完成とは、小説ゼーロン」をして、現実幻滅現実壮麗化の二重操作可能ならしめる。この日本私小説ドン・キホーテは、一瞬の幻の中で、緋縅の鎧を着てゐるのだ。 — 三島由紀夫解説 牧野信一河上徹太郎は、『ゼーロン』を傑作評し、「正しく現代の神話である」と述べている。そしてそれは、「現代神話化したといふ意味ではなくて現代の中の神話的要素描いた多彩な劇画」だとしている。また河上文芸時評で、「胸像背負つてゼーロンに打跨つた主人公の姿は、比喩アレゴリーではなくて象徴だ」と語り佐藤泰正は、そういった象徴の影の濃さ」がそのまま河上の言う「作者自意識の影の濃さ」につながるとしている。 そして佐藤泰正は、河上の論を敷衍し、主人公が、背中の「重荷」である「マキノ氏像」と、自分父親とが「寸分違はぬ」ものであることを知らされ、「得も云はれぬ怖ろしい因果稲妻」に打たれることや、騎馬行の間に背中にぶつかる「重荷」の「猛烈な苦悶」に殉じる点などに触れ、「重荷」の存在は、「寓意をこえて作者の心肉に喰い入」り、牧野の夢の背後で、「見えざる血は流れつづけていた」と考察し、「宿命の血につながる『重荷』を背部ににない、己の夢を運ぶ無二の従者ゼーロンにまたがる主人公の姿は、夢を抱く作者等身そのまま切りとって、まことに比喩ならぬ一個象徴化する」とまとめている。 小倉脩二は、「背中の像」「父親肖像画の主」「私」ゼーロン」が、ロココ調の「四人組踊り」を踊る幻と、水中走っているかのような幻視で終わる場面を、「夢幻的美しい」と評しつつ、この場面は、「ギリシャ牧野」と呼ばれた中期文学の「幻視在り方」を典型的に表しているとしている。しかしその美し幻視世界は、主人公背中重み意識がふいに現実意識引き戻すという基調があるため、「ブロンズ像」である「自分の影」におびやかされ、「自らを嘲笑せざるをえない自分の姿を増幅した像」であるとも述べ、以下のように考察している。 その幻視の像に克明に刻まれているのは、実は、不安におびえたそういう自画像の方であった。そこに、彼の幻視世界まやかしから出発しながら、単なる荒唐無稽ではない意外な原質感を我々に与え所以があったといっていだろう。 — 小倉脩二「ゼーロン柳沢孝子は、主人公が「己のブロンズ肖像」と「父親の顔」との酷似気づき、「怖ろしい因果」に打たれる場面触れそういった絶対因果」とは、「自分知らぬ間に定められているもの、自分には責任がないにもかかわらず引き受けなければならないもの」、「もはや自力では如何ともしがたい何ものか」だとし、それは「血のつながり」というものだけではなくて、「そもそも牧野信一という人間この世存在することそれ自体」という不可抗力の「絶対因果」であると解説し、その牧野の「執拗な因果』へのこだわり」は、「存在する形あるものへの懐疑」でもなく、「存在することそれ自体対す疑いと不安」ではないか論考している。

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夫婦善哉 (小説)」の記事における「作品評価・解釈」の解説

夫婦善哉』は1947年昭和22年)にも再刊されるなど大衆的な人気博し織田戦後流行作家第一号ともいうべき位置押し上げた作品一つで、今日まで映画ドラマなど数多く翻案作品生まれ今や古典名作位置づけとなっている。 青山光二は、若書きの『夫婦善哉』には、「文章未熟な個所目立ち構成にも起伏乏しい」といった弱点があるとしながらも、以下のように評している。 この作品今日まで多く読者獲得しつづけ、名品風格さえ高いと思えるのは、題材渾然たる調和をなす斬新な文体と、それによって一分弛みもなく作品支えている高度の緊張感、さらに作品根底にある、作者の煮つまった情熱が、そくそく伝わってきて、読者の心をうつからである。 — 青山光二解説

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月澹荘綺譚」の記事における「作品評価・解釈」の解説

月澹荘綺譚』に対す論評あまりないが、同時代評は賛否分かれている。 否定的なものとしては、山本健吉が、三島が『月澹荘綺譚』で「古典的な事件ロマネスク」を目指したことを、「今日小説界」にとって「一種解毒剤的な効果」があるとしつつも、照茂死の原因が「性的倒錯によるという種明かし」は、三島が「奇」を力んで見せただけで、照茂の話が「〈綺譚〉の名」に価するとは思えないとし、「〈綺譚〉の背後人生皆無である」と評している。江藤淳は『月澹荘綺譚』を含めた前後作品に、「個人的な事情超えた戦後終焉、「日本浪曼派的な思考復活」の影響からの、三島の「岐路」「転機」を看取し、「三島氏は、今や正説と化しつつある思想を、逆説を語るために練磨した芸によって語らなければならない」として、「三島氏はあるいは行為者となることに一方活路求めようとしているのかも知れない」と鋭い指摘しながらも、「ここに描かれた行為は、行為というより行為に関する儀式にすぎない」と評している。 その一方磯田光一は、「輝かし過去喚起によって現在の空白埋めようとする作者の心」は、ボードレールの「強靭な現実呪詛の心」と比類するものと高評し、「どれほど頽廃的見えようと、これを充足した人間劇と呼ばずして何と呼ぼう」と述べている。 渡辺広士は、『月澹荘綺譚』について、「見つめる目と愛の不能言い換える意識行為絶対的な溝というテーマの、グロテスク美しフィクションである」と評している。 柳沢善治は、『月澹荘綺譚』の「水路」の描写が、『絹と明察』の終結部の「」の描写や、『天人五衰』の「波」の描写酷似していることに着目しながら、『月澹荘綺譚』の照茂君江との関係と、『天人五衰』の安永透絹江との関係の類似性探り、『月澹荘綺譚』を『天人五衰』のエスキース捉えている。また、「見る人」としての照茂人物造型とその死を、『豊饒の海』などの「覗き」や「認識」のモチーフとの比較から探る必要性や、〈月澹荘綺譚〉が焼けたのが〈四十年前〉という、三島当時年齢符合することの考慮提起している。

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友達 (戯曲)」の記事における「作品評価・解釈」の解説

中野孝次は、『友達』の「善意家族」の「ぞっとするほど無気味」なイメージを「必然たらしめる語り口」が完璧だ評し観客知らず知らずのうちに、「わが身にふりかかった事件」として体験させられ、そこで繰り広げられる台詞は、日常でもどこかで聞いた覚えがある感覚となる効果があるとしながら、以下のように解説している。 家族なり、会社なり、学校なり、なんでもいい、自分の中を探ればこれと同じ状況発見させられるのが、この芝居おそろしいところである。安部公房心理人情リアリズム通してではなく、生を一度解体し抽象的に再構成してみせることで、いわばわれわれの生の構造そのものつきつけているのだ。 —  中野孝次解説」(文庫版友達棒になった男』) 三島由紀夫は、谷崎潤一郎賞選評で『友達』を「構成的にも間然するところのない戯曲」で、「安部氏抽象主義実験が、ここでは比類のない肉感性を克ち得てゐる」と評している。また、安部公房氏の傑作である」とも述べ、以下のように讃美している。 何といふ完全な布置、自然な呼吸みごとなダイヤローグ、何といふ恐怖充ちユーモア微笑あふれた残酷さを持つてゐることだらう。一つ主題の提示が、坂をころがるの玉のやうに累積して、のつぴきならない結末へ向つてゆく姿は、古典悲劇を思はせるが、さういふ戯曲形式上きびしさを、氏は何と余裕を持つて、洒々落々と、観客鼻面引きずり廻しながら、自ら楽しんでゐることだらう。まことに羨望堪へぬ作品である。 — 三島由紀夫安部公房友達』について」 また、こういった「純粋な作品」は、あまり暗喩に心をわずらわされない方がいいとし三島は以下のように評した後、観客がこの芝居を「不自然なところのない家庭喜劇」かと思っているうちに、殺人がすでに行われているとし、「これは決しアンチ・テアトルなんかではない。これこそはテアトルのである」と解説している。 連帯思想孤独思想駆逐し、まつたくの親切気からこれ殺してしまふ物語は、現代のどこにでもころがつてゐる寓話であるが、この社会的連帯怪物どもは、日本的ゲマインシャフト臭気放つことによつて、一そう醜く、又、一そう美しくなる大詰幕切れの、光り浴びて次の犠牲求め出発する家族像は、ほとんど聖家族面影をそなへてゐる。その疑ひを知らぬ理想純潔、その善意その人類愛は、幕切れ光彩を只ならぬ感動を以て増幅するにちがひない。人類最美の、そして人類最醜の家族像! — 三島由紀夫安部公房友達』について」 一方で日本における不条理劇第一人者である別役実は、『友達』を、「演劇性」と「文学性」の奇妙な混合みられる、として、批判している[要出典]。

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未必の故意 (戯曲)」の記事における「作品評価・解釈」の解説

高橋信良は、団員らの互い本音が、模擬裁判通じて明らかになる従い実際に手を下した若者たちを「全島民の期待」という偽善の下、被害者江口同様に島を我がものにしようとする消防団長意図次第明確になり、島民力関係個人欲望といったものが浮き彫りなると作品経緯説明しつつ、その消防団長偽善が、「共同体意識というものが幻想であることを証明することになる」とし、共同体意識が、個人行動正当化する同時に、「共同体そのもの幻想が、個人孤独感強調」し、「消防団長は、共同体中心にいると認識していながら、それが幻想であることを確認していくことで、孤独である状態に気づくのである」と解説している。 さらに高橋は、この「現実制御していると信じた虚構の世界が、逆に現実追い詰めていく」現象は、「舞台ウソ認識している、観客舞台との関係にも当てはまることであり、演劇そのものへの問い孕むことになる」とし、「個人は、常に、〈他者〉を意識し外在する〈他者〉を内在化させようとする。そして、ありもしない自己同一の〈他者〉という幻想が、現実として認識されるとき、虚構現実侵蝕し始める」と説明しながら、以下のように『未必の故意』の「劇中劇」という構造について論考している。 安部公房は、このような虚構現実の危うい関係を劇中劇という方法で、観客突きつけている。ごっこ芝居目撃する登場人物は、ごっこ芝居という虚構に対して現実であり、それと同時に劇場に来た本当観客にとっては、ウソであり続ける。さらに、その最中に、客席ドア開けて入ってきた人にとって、現実自覚している観客たちが、ウソとしか映らないとしたら……あなたが、合せ鏡間に立った瞬間無限に連続する自分の姿の一つ切り取って、私に差し出すとき、あなたを含め誰がその姿をウソといえるだろうか。 — 高橋信良「劇中劇――安部公房演劇論 IIIドナルド・キーンは、『未必の故意』の最も劇的瞬間一つとして消防団長反抗するつんぼの補聴器を、「ゆっくり、しかも正確に踏み砕く」場面だとし、「人間踏みつぶすのと余り変らない恐ろしい瞬間であるが、消防団長冷静さ失わない」と解説している。そして『未必の故意』は単なる芝居止まらず安部の「思想延長」であるには違いないが、単に「安部公房思想賜物として分析することは適切ではない」とし、「実に面白芝居であり、読みものとしてもみごとな盛りあがりがある。安部公房文学最高峰一つである」と評している。

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愛の眼鏡は色ガラス」の記事における「作品評価・解釈」の解説

石沢秀二は、冒頭シーンゴム人形についてその人形が単に「小道具ということではなくて、「一つ実体」として出ていて、小説箱男』に共通するテーマである「狂気正気」の関係が明確に出ていることが感じられるとし、ずっと読み進むうちに、そのテーマが「絶望と希望」という問題次第変化していくのが分かる解説しながら、「狂気正気、また今度出口が鏡だし、見る、見られるという関係が、線や面でなく点で対応している感じを受ける」と評している。 ドナルド・キーンは『愛の眼鏡は色ガラス』について、「安部さんの劇作家として才能ばかりでなく、優れた演出家舞台対する深い理解証明している」とし、安部演出作品の中で一番の成功作だと評している。そして、この作品のあらすじ述べることは極めて難しいにもかかわらず観客は「走馬灯のように去来する人物の動きやせりふ」に見惚れ、「芝居の意味何だろうかと疑問感じる暇さえなかった」と、劇の様子を以下のように解説している。 「旅仕度の男」がシャベル水筒その他の七つ道具下げて何回も違うドアから登場する度に観客爆笑した。オレンジ・ヘルメットの学生やグリーン・ヘルメットの学生当時大学紛争思い出させる。又、「白医師」と「赤医師」は東大医学部卒業した安部さんの諷刺お好み対象である(安部さんだけではない。世界諷刺文学の最も頻繁に選ばれ対象女性であろうが、その次は医者ではないかと思う)。この芝居見たことのある読者なら読みながら安部さんの奇抜な演出思い出すだろうが、見たことのない読者もせりふの早いテンポ乗って同様に楽しむだろう。 — ドナルド・キーン解説」(文庫版緑色のストッキング未必の故意』)

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作品評価・解釈

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ファンキー・ジャンプ」の記事における「作品評価・解釈」の解説

ファンキー・ジャンプ』は、戦後日本初め出現したモダン・ジャズ小説とされ、石原作品の中では比較的に高く評価されている。主人公ジャズ・ピアニスト松木敏夫(マキー)のモデルは、1955年昭和30年)に自殺した守安祥太郎だとされ、守安にチャーリー・パーカー重ねて造型されていると指摘されている。 平岡正明は『ファンキー・ジャンプ』について、「俺はあの小説評価(か)っている」と述べ、単にジャズBGM使っているような「風俗小説とは類を異にする」とし、「ジャズ演奏物語派生させる」と作品構成自体音楽的であることを解説しながら、「本物ビーバップ小説」だと高い評価をしている。また平岡は、石原がエリオット・グレナードの『スパロー最後ジャンプ』を参考にして書いたではないか推測している。 三島由紀夫は『ファンキー・ジャンプ』を「見事な傑作」だと述べ、「現実脱落してゆくありさまを、言葉のこのやうな脱落でとらへようとする石原)氏の態度には、小説家といふよりは一人逆説的な詩人があらはれてゐる」とし、一曲毎のジャズ題名付けた節の構成については、「非常に粋で、卓抜なのである」と評している。また、戦前のモダニティー文学比べ、この作品の特色が「モダニティーの極致厳粛なものを内包している」とし、「次第に狂ほしくなつてゆく主人公が、麻薬陶酔苦痛の裡に、〈俺あ今 完璧にいんじゃないか〉と自問する件りには、ひどくパセティックなものがある。表現への焦燥表現との一致といふ、決して新らしくはない文学的課題が、かくも先鋭な神経的昂奮頂点に、ありありと映し出されたのは新らしい」と解説し、「(石原)氏はあきらかに抒情詩書いた」と評している。 また三島作中の、〈夕焼けているのは俺たちだ〉という一行を引きながら、石原言葉感性について以下のように評している。 このやうなイメーヂへの直接変身に、この作品の音楽目的とでもいふべきものがあるのだが、それがいちいち音楽を介してゐるのはいかにももどかしく言葉は、この一篇の裡を流れ高調してゆく「本物音楽」「本物ビ・バップに対して従者立場に立つてゐるにすぎない。だから計らずしてこの作品は、完璧な言葉といふものの文学的劇画になり、氏の言葉対す軽侮を、ひとつの芸術にまで高めたのである。 — 三島由紀夫解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』)

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作品評価・解釈

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かげろふの日記」の記事における「作品評価・解釈」の解説

かげろふの日記』は、堀辰雄描こうとしていた「恋する女たち永遠の姿」を、日本の王朝女流日記文学見出し執筆した第一作目の作品であるが、依拠とした『蜻蛉日記』の作者で「道綱の母」として語られる女性は、堀の『かげろふの日記』で、新たな光が与えられたと、縄田一男解説している。 神品芳夫は、堀辰雄リルケの『マルテの手記』を愛読しリルケ称揚する愛に生きる女たち」の生のかたちに最も印象づけられたとし、「愛されることを求めず愛すること徹していつしかその愛が相手突き抜けて高まってゆく」という生き方をするのが、リルケのいう「理想の女性」であり、その具体例としてリルケ挙げたサフォーエロイーズ、『ポルトガル文(ぶみ)』のマイアンネ・アルコフォラド、イタリア詩人ガスパラ・スタンパなどは、いずれも失恋その他の不幸に堪えて、愛を保ちつづけた女性ばかりであることを説明している。 そして堀がリルケ作品通じ、そこに描かれる女たち生き方感動して日本の王朝女流日記作者たちにもそれに類似した「生のかたち」があることに思い至り、『かげろふの日記』や『姨捨』などの一連の王朝ものが書かれることになったことに言及しつつ、『かげろふの日記』が堀の意に満たないものになってしまったことを自ら告白していることを神品鑑みて世評では、堀がリルケ触発され王朝物書いたとして好評価しているが、そのリルケが堀にもたらした愛の女性イメージが、堀の内面で膨らみ発展した未来ロマン空間大きさ」に比し実際に出来上がったものは、その「未来ロマン空間」にほんのわずか着手したものにすぎなかったのだろうと考察し、その「愛の女性イメージ」は、のちに執筆される『菜穂子』の方によく生かされていると解説している。 山本裕一は、終盤の章「その七」で「逆転した女の心理」が描かれ、その「別人のやうに」思える女に不安になり、嫉妬苦しみ暴になる男が描かれている「その八」には、『聖家族』にある「どちらが相手をより多く苦しますことが出来るか、私たち試して見ませう」という言葉象徴されるような「苦しめ合う愛」のモチーフ見受けられるとしている。また原典の『蜻蛉日記』に見られる沸騰して逆巻く女の激情怨念」が、堀の『かげろふの日記』では「萎え冷え」ているという批評 があることにも山本触れながら、堀のヒロインには、「分析的自嘲的な、しかし夢みがちな近代的な女性としての性格設定があるとして、他の評者分析ヒロイン客観的分析的態度があることなど) を鑑みながら解説している。 また山本は、『かげろふの日記』が『菜穂子』の前編物語の女』(「楡の家第一部) の続編として構想されたと思われるふしがあることが福永武彦によって指摘されていること を敷衍し、『かげろふの日記』が単に王朝小説嚆矢ばかりでなく、『聖家族』、『物語の女』、『菜穂子』など、生涯にわたって書き継がれるロマン菜穂子サイクル」の作品群に繋がる作品だと解説している。 三島由紀夫書簡形式自作みのもの月』が、「王朝日記世界模写」であり、「日本古典、および堀辰雄によるその現代語訳」から影響受けた文体作品だと自作解説し、堀の王朝ものが影響にあったことを示唆している。そして、堀の『かげろふの日記』が、堀の愛した『ユウジェニイ・ド・ゲランの日記』などの女流日記文学系統繋がっているように、三島自身もまた同じく、『美徳のよろめき』などの執筆に際して自身文学意識的に王朝女流日記の「隠され熾烈な肉感性」を掘り起こそうとしていたと語りとりわけ堀の『物語の女』や続編ほととぎす』が好きで、堀の仕事意識していたことを述べている。柳川朋美はこれを敷衍し、三島の『みのもの月』と、堀の『かげろふの日記』を論考し、原典にはない堀の最終部の展開が、三島作品影響与えていると指摘し主人公の女が自分苦しめた夫を、逆に自分の方が翻弄し苦しめるようになるという部分影響関係解説している。

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