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江藤淳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/31 11:04 UTC 版)
| 江藤 淳 (えとう じゅん) |
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江藤 淳(撮影時期不明 30代の頃か)
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| ペンネーム | 江藤 淳(えとう じゅん) |
| 誕生 | 江頭 淳夫(えがしら あつお) 1932年12月25日 東京府豊多摩郡 |
| 死没 | 1999年7月21日(満66歳没) 神奈川県鎌倉市 |
| 墓地 | 青山霊園 |
| 職業 | 文芸評論家 |
| 言語 | 日本語 |
| 国籍 | |
| 教育 | 博士(文学) |
| 最終学歴 | 慶應義塾大学英文科 |
| 活動期間 | 1956年 - 1999年 |
| ジャンル | 文芸評論 |
| 主題 | 日本の近代・近代文学 |
| 代表作 | 『奴隷の思想を排す』(1958年) 『小林秀雄』(1961年) 『成熟と喪失』(1967年) 『海は甦える』(1976年) 『漱石とその時代』(1970年 - 1999年、未完) |
| 主な受賞歴 | 新潮社文学賞(1962年) 菊池寛賞(1970年) 野間文芸賞(1970年) 日本芸術院賞(1975年) |
| 処女作 | 『夏目漱石』(1956年) |
| 配偶者 | 三浦慶子(1957年 - 1998年) |
| 子供 | なし |
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影響を受けたもの
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江藤 淳(えとう じゅん、1932年(昭和7年)[注釈 1]12月25日 - 1999年(平成11年)7月21日)は日本の文学評論家、文学博士(慶應義塾大学)。戸籍名は江頭 淳夫(えがしら あつお)。慶應義塾大学教授、東京工業大学教授等を歴任した。
目次 |
人物
戦後日本の著名な文芸評論家で、小林秀雄亡き後の文芸批評の第一人者[1]。20代の頃から長らく文芸時評を担当し、大きな影響力を持った。『奴隷の思想を排す』(文藝春秋)や『夏目漱石』(新潮文庫)を20代で書き上げ、特に、日本の近代的自我に対する批判を描き出した『奴隷の思想を排す』は、吉本隆明を始め多方面の文学者に大きな影響を与え[2]、大江健三郎・司馬遼太郎らと共に気鋭の新人として注目され始める。1960年代初頭から文壇・論壇での活動を本格化させ、1966年(昭和41年)に遠山一行・高階秀爾・古山高麗雄の4名で『季刊藝術』を創刊・主宰。1969年(昭和44年)末から約9年間に渡り毎日新聞の文芸時評を担当。
大衆迎合に属さない復古的な保守派の論客として論壇で異彩を放つようになり、しばしば戦後保守派や新保守主義派の論客とは対立し、『アメリカと私』(文春文庫)では「日本人をアメリカ史のゲームから解放せよ」と主張。先駆的な「反米」の思想家と目されるようになり、しばしば「右翼」とも形容されるようになった。一般的には、文学者としての立場から「父性原理」や「治者の理論」にこだわり、敗戦による時代と国家の喪失の物語を自らの体験に重ねて作為し、戦後神話の解体を通して主体の回復に挑んだ稀有なる個性を、文学史と思想史の交点に描き出す事を論点とし、三島由紀夫や清水幾太郎、福田恆存とはしばしば対比された。作家を評価する際には思想性にはこだわらず、左派の中野重治などを積極的に評価し、文壇に登場してまもなかった石原慎太郎などをいち早く発見した。プリンストン大学留学中に、三島由紀夫から5点の書簡を受け、自作長編『美しい星』の英訳本刊行への助力などを求められている[3]。自身の米国留学経験から、巨大なアメリカ社会とどう向き合うかというテーマに生涯取り組み、西欧模倣の近代化を、他の言論人に先駆けて鋭く批判した。
また、エッセイ「『ごっこ』の世界が終ったとき」(『諸君!』昭和45年1月号)では、全共闘運動を「革命ごっこ」、三島由紀夫の楯の会自決(三島事件)を「軍隊ごっこ」と斬り捨てた。更に、三島由紀夫が自決した直後に『諸君!』紙面上で開催した小林秀雄との対談では、「三島由紀夫は、一種の病気」であると断言[4]。吉田松陰的に崇拝されていく三島像に対して明確に否定する考えを表明した。
江戸城無血開城に際し敗れた幕府側の人間でありながらも、理想的な治者としては勝海舟を見出し、松浦玲と共に『勝海舟全集』の編纂に参画し、『氷川清話』『海舟語録』(講談社学術文庫)『海舟余波――わが読史余滴』(文春文庫)を手がけた他、特に歴史の中で滅び去っていく死者や敗者への挽歌を綴り、晩年には西郷南洲の伝記『南洲残影』(文春文庫)を発表した。
『小林秀雄』(講談社)により新潮社文学賞受賞、『漱石とその時代』(新潮選書)で菊池寛賞と野間文芸賞を受賞している。代表作『成熟と喪失』は第三の新人の作品を素材にして文学における母性について論じた代表作である。また、『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』・『一九四六年憲法-その拘束―その他』(いずれも文春文庫)などでGHQによる戦後日本のマスコミへの検閲、GHQの呪縛から脱却できない戦後民主主義を鋭く批判した。『海は甦える』は「文藝春秋」に長期連載し、薩摩藩出身の山本権兵衛を軸に、開国からの日本海軍の創立・興隆にいたる過程を描いた長編歴史文学である。
1975年(昭和50年)に第32回日本芸術院賞受賞し、1991年(平成3年)から日本藝術院会員となる。1994年(平成6年)から日本文藝家協会理事長。日本文学大賞、文學界新人賞、群像新人文学賞、文藝賞、三島由紀夫賞などの選考委員を務めた。江藤淳というペンネームが本名に由来していることは明白だが、本人の言では「照れ隠しのようなものにすぎない」という。初め「あつし」と読ませていたがいつのまにか「じゅん」と読まれるようになった。なお1941年(昭和16年)から1948年(昭和23年)まで鎌倉の極楽寺に、戦後は市ヶ谷加賀町など東京都心部での在住を挟み、1980年(昭和55年)以降は、鎌倉市西御門に居住した。鎌倉文士の一人。
日本人の在り方や国語文化について積極的に発言し、『自由と禁忌』(河出書房新社)では、「アメリカを代表する占領軍当局によって、このように『存在させられている』のであり・・・・」と、日本は独立国家ではなくなっている、と主張。ほか、アメリカ政府の極秘の日本弱体化計画だとする『ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム』の存在を最後まで主張し続けた(なお、江藤は歴史家ではない)。1988年(昭和63年)には『新潮』5月号の創刊1000号記念にて、「文学の不易と流行」と題した座談会を、大江健三郎、開高健、石原慎太郎ら同世代の作家と共に開催している。
66歳にして脳梗塞を起こしてからは、文章に以前のようなキレが無くなり、リハビリに苦しんだ。更に妻を癌で亡くしてからは生気を無くしていった。遺書は「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし 以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。 乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日」。最後は自らを「形骸」とし、自刃した。
墓所は青山霊園。
経歴
銀行員江頭隆、廣子の長男として東京府豊多摩郡大久保町字百人町(現在の東京都新宿区)に生まれる。
1937年、4歳半の時、母を結核で失う。1939年、戸山小学校に入学するも、病弱な上に教師と合わず、不登校になる。自宅の納戸に逃避して、谷崎潤一郎や山中峯太郎や田河水泡を愛読。「学校のない国に行けたら」と夢想した。
1942年、神奈川県鎌倉市の鎌倉第一国民学校に転校してから学校が好きになり、成績が上昇。
1946年、神奈川県藤沢市の旧制湘南中学(現在の神奈川県立湘南高等学校)に入学。1級上に石原慎太郎がおり、石原との交際は生涯続いた。
1945年5月、空襲にて東京大久保の生家が焼失。亡母の遺品がなくなったことを悲しむ。
1948年、旧制の東京都立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に転校。古書店で伊東静雄の詩集『反響』に出会ったことが、文学の道に進むきっかけとなる。在学中はベレー帽を被るなど、ちょっと斜に構えたところもあった。在学中、学制改革に遭う。
1951年、健康診断で肺浸潤が発見され、高校休学して自宅療養する。フョードル・ドストエフスキー、谷崎潤一郎、福田恆存、大岡昇平などに読みふける。なお、高校では優等生だったが、数学だけはまるで駄目だったという。
1953年、東京大学文科二類(現在の文科三類に相当)を受験して失敗、慶應義塾大学文学部(教養課程)に進む。日比谷高の教師から「慶應は経済学部かね。なに、文科? 君も案外伸びなかったね」とあからさまに軽侮されたため、以後二度と日比谷高の門をくぐるまいと誓った。ただ晩年は、日比谷高校のOB講演会「トワイライトフォーラム」の講演を引き受けるなど、そのことは、自己の内面では既に氷解していたようである。
なお慶應入学前後に福沢諭吉を読んで感銘を受け心酔、福沢は主著『作家は行動する』において重要なモチーフとなっている他、度々福沢について論じた。以後も母校慶應には愛着を隠さず、教授として招聘された時の喜びを後に素直に語っている(『国家とはなにか』)。
1954年4月、専門課程への進学に際して英文科を選ぶ。吉田健一『英国の文学』の影響が大きい。
1954年6月、喀血して自宅で療養。
1955年、当時の編集長だった山川方夫の依頼で『三田文学』に「夏目漱石論」を発表。初めて江藤淳を名乗る。
1957年3月、慶應義塾大学文学部文学科(英米文学専攻)を卒業。卒業論文のテーマはローレンス・スターン。同年4月、慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程に進む。指導教授西脇順三郎からは嫌われていた。西脇は、江藤の姿を教室に認めるや「今日は江藤君がいるから授業しない」と宣言したこともあった。同年5月、大学同級生だった三浦慶子と結婚。後年、先輩の安岡章太郎から「慶子さんと付き合うためにわざと東大に落ちたんじゃないか」と揶揄されたが、江藤は「ぼくは真面目に受けて落ちたんですよ」と答えた[5]。
1958年、大学院生でありながら文芸誌に評論を執筆し原稿料を稼いでいたことが教授会から問題視され、退学を勧告されたが、授業料のみ納入し、抵抗の意味で不登校を続ける。同年11月、文藝春秋から『奴隷の思想を排す』を上梓。
1959年1月、講談社から『作家は行動する』を上梓。同年3月、退学届けを提出し、正式に大学院を中退。
1958年には、石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。
1962年、ロックフェラー財団の研究員としてプリンストン大学に留学。滞在中に、『小林秀雄』が新潮社文学賞受賞の知らせを受けた。
1964年に帰国。帰国後、愛国者にして天皇崇拝者の様相を帯びる。
1971年から東京工業大学助教授、のち教授となる。『勝海舟全集』の編纂に携わるが、これは海舟を、江藤が理想とする「治者」の典型と見てのことである。
1974年、「『フォニイ』考」で、加賀乙彦、辻邦生らの長編を、純文学ならざるものとして批判し、論争となる。
1975年、博士論文『漱石とアーサー王伝説』を慶應義塾大学に提出し、文学博士を取得。この論文は、江藤が漱石と嫂登世との恋愛関係に固執するあまり恣意的に『薤露行』を罪と死と破局の物語と読む誤りを犯していると大岡昇平からは、批判を受け論争になった[6]。
1976年には、NHKのドキュメンタリー・ドラマ『明治の群像』のシナリオを手掛ける。1977年、『文學界』1月号掲載の開高健との対談『作家の狼疾』で「武田(泰淳)さんの物心両面の継続投資」が「埴谷雄高さんをいままでサーヴァイヴさせ」たと発言して埴谷を激怒させ、『江藤淳のこと』を『文藝』に掲載し批判した[7]。
1979年頃から、米軍占領下の日本人がいかに洗脳されてきたか、日本国憲法が戦後の日本の言語空間を縛っているといったことを問題とし始める。
1980年の田中康夫の文藝賞受賞作『なんとなく、クリスタル』は、「ブランド小説」として文壇内では激しく批判されたが、江藤は高く評価した。1982年には、『海』4月号で吉本隆明と対談(『現代文学の倫理』)。このとき編集後記で同誌編集長宮田毬栄が、この対談について私見を述べたところ、江藤はそれに激怒して社長嶋中鵬二宛に抗議の手紙を送った[8]。
1983年、「ユダの季節」で、保守派の論客である山崎正和、中嶋嶺雄、粕谷一希の党派性を批判し、保守論壇から孤立することとなった。
1990年、東工大を辞職して、母校の慶應義塾大学法学部客員教授を経て、1992年、慶應義塾大学環境情報学部教授。
晩年、理想とする治者とは正反対の人生を送った永井荷風、西郷隆盛を論じ、意外の感を与えた。
1998年暮れ、慶子夫人が死去。
1999年7月21日、鎌倉市西御門の自宅浴室で剃刀を用い、手首を切って自殺、66歳没。妻の葬儀のあとのことで、自身も脳梗塞の後遺症に悩んでいた。ライフワークであった『漱石とその時代』は、数回を残し未完に終わった。妻の闘病生活を綴った『妻と私』を残し、続く『幼年時代』も未完に終わった。
門人には福田和也、兵頭二十八、大久保喬樹などが、交流・影響を受けた外交評論家に田久保忠衛・森本敏らがいる。
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