散文詩
散文詩
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散文詩の朗読 アロイジウス・ベルトラン『夜のガスパール』より「天使と妖精」(→テクスト) 詳細は「散文詩」を参照 散文詩は散文と詩の両方の性質を見せる異種交配的なジャンルである。超短篇小説(ショートショート、フラッシュフィクション〔en:flash fiction〕)や随筆との区別が困難な場合もある。簡潔さ、隠喩の使用、言語への格別な注意などの理由から詩と見做される。 早期の散文の中にも現代の読者に詩的な印象を与えるものがあるが、一般的には散文詩はアロイジウス・ベルトラン、シャルル・ボードレール、アルチュール・ランボー、ステファヌ・マラルメなどの(象徴派)詩人の実践により19世紀フランスで起こったものと考えられている。 その後、このジャンルには数多くの言語で注目に値する例が現れた: 英語:オスカー・ワイルド、T・S・エリオット、ガートルード・スタイン、シャーウッド・アンダーソン、アレン・ギンズバーグ、シェイマス・ヒーニー、ラッセル・エドソン、ロバート・ブライ、チャールズ・シミック、ジョゼフ・コンラッド フランス語:マックス・ジャコブ、アンリ・ミショー、フランシス・ポンジュ、ジャン・タルデュー、ジャン=ピエール・ヴァロットン (現代)ギリシア語:アンドレアス・エンビリコス、ニコス・エンゴノプロス イタリア語:エウジェーニオ・モンターレ、サルヴァトーレ・クァジモド、ジュゼッペ・ウンガレッティ、ウンベルト・サバ ポーランド語:ボレスワフ・プルス、ズビグニェフ・ヘルベルト ポルトガル語:フェルナンド・ペソア、Mário Cesariny de Vasconcelos、Mário de Sá-Carneiro、ウォルター・ソロン、エウジェニオ・デ・アンドラーデ、アル・ベルト、アレクサンドル・オニール、ジョゼ・サラマーゴ、アントニオ・ロボ・アントゥーネス ロシア語:イワン・ツルゲーネフ、レジーナ・デリエヴァ、アナトリー・クドリャヴィツキー(俳人としても知られる) スペイン語:オクタビオ・パス、ジャンニナ・ブラスキ(西語・英語・スパングリッシュで詩作している)、アンヘル・クレスポ、フリオ・コルタサル、ルベン・ダリオ、オリベリオ・ヒロンド スウェーデン語:トーマス・トランストロメル ベンガル語:マイケル・マドゥスダン・ダット、ラビンドラナート・タゴール 日本語:萩原朔太郎、三好達治、田村隆一、入沢康夫、谷川俊太郎
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散文詩
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翌1884年にモンジュ広場のアパートを出て、モンマルトルの丘のふもと(パリ9区)に越した。サン=タンリのシャイヤン神父に捧げる「ゴルゴタの丘」(『古きもの』所収)を執筆。象徴主義の詩人オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダンから高い評価を得た「ゴルゴタの丘」は、初期の重要な詩作品であると同時に、サン=ポル=ルーの演劇観を知る上でも重要である。ゴルゴタの丘で十字架にかけられるキリストの周囲に民衆が集まって「宇宙的悲劇」である受難を目撃するという、この求心力のある同心円構造は、サン=ポル=ルーの多くの作品に共通する基本構造である。 サン=ポル=ルーが象徴主義的な散文詩を書き始めたのはヴィリエ・ド・リラダンの影響であり、詩「ラザロ」をヴィリエ・ド・リラダンに捧げているが、サン=ポル=ルーに「イル=エ=ヴィレーヌの歌」を捧げた法科大学の同窓生ジャン・アジャルベール(フランス語版)もまた、象徴主義の批評家・作家であった。サン=ポル=ルーはこの頃、ステファヌ・マラルメが英語教師をしていたリセ・フォンタヌ(1883年にリセ・コンドルセに改名)の学生で後に象徴主義の作家として知られることになるエフライム・ミカエル(フランス語版)、ピエール・キヤール(フランス語版)、ルネ・ギル(フランス語版)、スチュアート・メリル(フランス語版)(アメリカ合衆国出身)、ロドルフ・ダルザン(フランス語版)、アンドレ・フォンテナ(フランス語版)らの「フォンタヌ・グループ」と交友を深め、1886年にミカエル、キヤール、ダルザンらとともに文学雑誌『プレイヤード(昴)』を創刊した。この雑誌は第7号をもって年内に終刊となったが、創刊号の序文はマラルメと並ぶ高踏派詩人テオドール・ド・バンヴィルが執筆し、後のノーベル文学賞受賞作家メーテルリンクの処女作『幼児虐殺』が掲載されるなど、文学史上、一定の評価を得た雑誌であり、メーテルリンクとともにベルギーから渡仏した作家グレゴワール・ル・ロワ、神秘主義の詩人ヴィクトール=エミール・ミシュレ(フランス語版)、後の歴史学者カミーユ・ブロック(フランス語版)らも寄稿した。サン=ポル=ルーは「パン(牧神)」、「イタキ宮殿 ― 乞食の姿に戻ったオデュッセウス」、「飛び散る牧歌」、「束の間の超人性」、「美との出会い」、ジャン・リシュパン(フランス語版)に捧げる「贖罪の山羊」、アナトール・フランスに捧げる「知恵」など8篇の詩を寄せている。 1890年から『メルキュール・ド・フランス』誌に寄稿し始めた。1670年代に『メルキュール・ガラン』として創刊されたこの雑誌は、1825年にいったん廃刊となったが、1890年1月1日に、アルフレッド・ヴァレット(フランス語版)とデカダン派の女性作家ラシルド(フランス語版)が、サン=ポル=ルーらの象徴主義の詩人を中心とするパリ6区のカフェ「ラ・メール・クラリス」の常連作家ジャン・モレアス、エルネスト・レイノー(フランス語版)、ジュール・ルナール、レミ・ド・グールモン、ルイ・デュミュール(フランス語版)、アルフレッド・ジャリ、アルベール・サマン(フランス語版)、アルベール・オーリエ、ジュリアン・ルクレルク(フランス語版)とともに象徴主義の雑誌(月刊誌)として再刊し、メルキュール・ド・フランス出版社が創設された。創刊号にはピエール・キヤールに捧げるサン=ポル=ルーの韻文詩「赤い魚」が掲載された。以後、「アンジェリックの歌」、「狩猟」、ジョリス=カルル・ユイスマンスに捧げる「夜想曲」、「盗まれた葡萄」、「幻想の白鳥」、「灰色の時」、「愛の弔いの歌」、(「蜜蜂の分蜂群のような髪をしたルルに捧げる」とし、後にサラ・ベルナールに捧げられた)「サンタンヌの巡礼者」など、後にパリを去ってブルターニュ地方に住むようになってからも1917年頃まで『メルキュール・ド・フランス』誌に継続的に詩を発表した。また、全3巻の散文詩集『聖体行列の仮祭壇』(1893年および1901年から1907年に刊行された増補改訂版)、戯曲『鎌をもつ貴婦人』(1899年)などサン=ポル=ルーの代表作を含む生前の作品の多くがメルキュール・ド・フランス出版社から刊行された。なお、サン=ポル=ルーは忘れられた作家であったために没後に多くの作品が刊行されたが、そのほとんどがルネ・ルージュリー(フランス語版)が1948年に当時ほとんど知られていなかったヴィクトル・セガレン、マックス・ジャコブ、ピエール・ルヴェルディ、ロジェ=ジルベール・ルコント(フランス語版)、ジョー・ブスケ(フランス語版)らの作家を紹介するために創設したルージュリー出版社(フランス語版)から刊行されている(「著書」参照)。
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