詩作品
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「ローレンス・ビニョン」の記事における「詩作品」の解説
Lyric Poems (1894) Porphyrion and other Poems (1898) Odes (1901) Death of Adam and Other Poems (1904) London Visions (1908) England and Other Poems (1909) "For The Fallen", The Times, 21 September 1914 Winnowing Fan (1914) The Anvil (1916) The Cause (1917) The New World: Poems (1918) The Idols (1928) Collected Poems Vol 1: London Visions, Narrative Poems, Translations. (1931) Collected Poems Vol 2: Lyrical Poems. (1931) The North Star and Other Poems (1941) The Burning of the Leaves and Other Poems (1944) The Madness of Merlin (1947) Poems of Two Wars (2016) 1915年にシリル・ルーサム(英語版)は『フォー・ザ・フォーレン』を合唱/管弦楽曲に編曲し、初演はケンブリッジ大学音楽協会(英語版)・作曲者指揮により1919年に行われた。エドワード・エルガーはビニョンの詩3篇(The Fourth of August・To Women・ For the Fallen、詩文選The Winnowing Fanに収録されたもの)を『イングランドの精神(英語版)、テナーまたはソプラノソロ、コーラスとオーケストラのための(1917)』として編曲した。
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詩作品
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シルヴィア・プラスは8歳のときから詩を書いた。彼女の最初の詩は『ボストン・トラヴェラー(英語版)』誌に掲載された。それからスミス大学に入学するまでの間に50編を越える短編を書いており、雑誌に掲載されたものもたっぷりあった。スミス大学では英語を専攻し、優秀なライティングで主要な賞を総取りして奨学金も得た。在学中の夏休みには雑誌『マドモワゼル』のゲスト編集者に抜擢された。卒業の年には Two Lovers and a Beachcomber by the Real Sea の詩でグレイスコック賞を受賞した。ケンブリッジ時代は学内報『ヴァーシティ』に投稿した。卒業後は、 Yale Series of Younger Poets Competition の詩人ランキングに何度も名が挙がり、Harper's Magazine や The Spectator、Times Literary Supplement といった印刷媒体に作品が掲載された。こうした1960年までの創作活動は、同年後半に処女詩集 The Colossus and other poems がハイネマン社(英語版)から出版されるというかたちに結実した。The Colossus が英米語圏の大手の雑誌に載った作品ばかりを集めたものであり、『ザ・ニューヨーカー』誌が作品掲載の契約を結ぶほど、プラスは生前から著名ではあったが、プラスの文学的評価を不動のものとしたのが、没後の1965年に出版された詩集『エアリエル』である。 1971年には『エアリエル』の元になった手書きの遺稿から抽出された未発表の詩9編を含む二分冊の詩集『冬の木立』(Winter Trees)と『川を渡る』(Crossing the Water)がイギリスで出版された。プラスの詩人仲間であったピーター・ポーター(英語版)は『ニュー・ステイツマン(英語版)』誌上で次のように書いた。 Crossing the Water is full of perfectly realised works. Its most striking impression is of a front-rank artist in the process of discovering her true power. Such is Plath's control that the book possesses a singularity and certainty which should make it as celebrated as The Colossus or Ariel. —Peter Porter、 『川を渡る』は完璧な作品集だ。プラスの真の実力を発見していく中で、この作品集から受ける強い印象は第一級の芸術家から受ける印象と同じものとなった。『コロッサス』や『エアリエル』と同等の評価を受けるべき途方もなさや確からしさといったものは、本書の隅々に行き渡るプラスの目配りにこそある。 —ピーター・ポーター 1981年にはテッド・ヒューズが序文を書き、編集した『シルヴィア・プラス詩集』(Collected Poems)が出版された。これには1956年からなくなるまでに書かれた詩が集められている。こうしてプラスは没後にその詩作への評価が定まり、ピューリッツアー賞が追贈された。そのほかには、ヴァージニア・コモンウェルス大学の院生により2006年に発見された、スミス大学に入りたてのころに書いた「アンニュイ」という題名のソネットなどがある。 And IAm the arrow,The dew that fliesSuicidal, at one with the driveInto the redEye, the cauldron of morning. “ ” from the poem Ariel, October 12, 1962 『コロッサス』は発表当時、イギリスで非常に好評を博した。そこでは、プラスの詩の語り口や抑揚が斬新で強い個性があり、アメリカ風であることに対して特に好意的な言葉が寄せられた。ピーター・ディキンスンは『パンチ』誌において、この詩集が「正真正銘の掘り出し物」であり「読んでいて爽快な気分になる」「清潔感がありわかりやすい詩句」で満ちていると評した。T・S・エリオットの専門家バーナード・バーゴンジ(英語版)は『マンチェスター・ガーディアン』誌において、この詩集が「並外れた技巧が駆使されている」ため「完成度が極めて高い」と評した。また、作品を公開してその価値を世に問うという観点から見ると、プラスは『コロッサス』の出版をもって詩歌の愛好家たちの世界に始めて姿を現した。1962年にはアメリカ合衆国でも出版されることとなったが、あまり熱のこもった批評は得られなかった。しかし、作品の評価が高まるに連れ、他の詩人の亜流ではないとみなされるようになった。後の世代の批評においては、奔放な想像力のほとばしりや凝縮性に富むプラスの後期作品と比較して、『コロッサス』のころの作品は、いくぶん若く、まじめで、過渡的な性格を持っていると解説されてもいる。 プラスの名前を急速に有名にしたのは、1965年の『エアリエル』の出版であった。出版直後から批評家たちはこの詩集に詩人のいやます絶望や死を願う心の軌跡を読み取ろうとし、この詩集をそのようなものとして理解した。彼女の悲劇的な死はたしかに彼女を最も有名にし、その現状は今でも変わっていないが、そのような理解は彼女の一面を捉えているにすぎない。雑誌『タイム』と『ライフ』は両方とも、ロバート・ロウエルが序文を書いた薄い詩集『エアリエル』をプラスが亡くなった直後に取り上げている。『タイム』のレビュワーは次のように語った。 Within a week of her death, intellectual London was hunched over copies of a strange and terrible poem she had written during her last sick slide toward suicide. 'Daddy' was its title; its subject was her morbid love-hatred of her father; its style was as brutal as a truncheon. What is more, 'Daddy' was merely the first jet of flame from a literary dragon who in the last months of her life breathed a burning river of bile across the literary landscape. [...] In her most ferocious poems, 'Daddy' and 'Lady Lazarus,' fear, hate, love, death and the poet's own identity become fused at black heat with the figure of her father, and through him, with the guilt of the German exterminators and the suffering of their Jewish victims. They are poems, as Robert Lowell says in his preface to Ariel, that 'play Russian roulette with six cartridges in the cylinder.' —Reviewer of Time、 フェミニズム運動の文脈において、プラスは「しおれた天才女性のシンボル」とみなされ、フェミニストの闘士たちはプラスの詩句が自分たちの経験を語っているかのように感じた。作家のオナー・ムーア(英語版)は『エアリエル』が運動のはじまりを画期したと述べ、プラスは突然「活字となった女性」として現れ、確信に満ちた様子で、大胆不敵に語り始めたと表現した。ムーアは次のように語る。 When Sylvia Plath’s Ariel was published in the United States in 1966, American women noticed. Not only women who ordinarily read poems, but housewives and mothers whose ambitions had awakened [...] Here was a woman, superbly trained in her craft, whose final poems uncompromisingly charted female rage, ambivalence, and grief, in a voice with which many women identified. —オナー・ムーア、
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詩作品
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「ドゥルセ・マリア・ロイナス」の記事における「詩作品」の解説
彼女の最初の作品であるInvierno de almas y Vesperal は、17歳のときにLa Nación紙に掲載された。1920年から1938年の間に、他の作品が同新聞に掲載された。 1929年に、ドゥルセ・マリアは母親と姉妹と一緒に中東へ旅行し、トルコ、シリア、リビア、パレスチナ、エジプトを訪れた。特にエジプトではルクソール博物館やツタンカーメンの墓を訪れ、この地は彼女に影響を与えた。彼女はファラオへの非常にロマンチックで叙情的な手紙を書いた。 1947年に彼女は詩集であるJuegos de aguaを出版し、1950年からスペインの出版社がロイナスの作品に興味を持ち、彼女の作品のいくつかを出版した。 Jardínはこの時期、1951年の出版だとされる。 これに続き、 1953年の『ツタンカーメン王へのラブレター』、1958年の『名前のない詩(スペイン語版)』、『テネリフェ島の夏(スペイン語版)』(紀行文)となる。ロイナスはテネリフェ島への最初の旅行でこの島に夢中になり、スペインを彼女の第二の故郷とした。 そして、スペインでは彼女の作品が人気であったのは確かだ。 1950年には、El País紙とExcélsior紙に毎週寄稿していた。 また、Social、Grafos、Diario de la Marina、El Mundo、Revista Cubana、Revista Bimestre Cubana y Orígenesにも書いている。これらの多くは彼女の夫であるパブロ・アルバレス・デ・カニャスへの協力として書いたものだった。 彼女の散文の中で、自伝的な作品であり、現在まで多くの人が知らないパブロ・アルバレス・デ・カニャスの知名度を高めることに焦点を当てた彼女の著書Fe de Vidaは極めて重要だ。彼は彼女の2人目の夫で、当時ハバナの社交界で名の知れた人物であった。
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詩作品
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「ガダラのメレアグロス」の記事における「詩作品」の解説
メレアグロス自身の詩作品は、そのほぼすべてにおいて官能的であり、恋や美を語るに、少年も少女の区別なくうたの対象とする。メレアグロスの詩の主題は、先達とも言えるカッリマコスや、サモスのアスクレピアデスなどの作品を継承している。アスクレピアデスはカッリマコスにも強い影響を与えた、アレクサンドリア風エロテック詩の創始者であるが、平明な言葉とウィットに富んだ表現が特徴である。 メレアグロスの作風はしかし、異常なほど主題において多芸多才で融通性があり、言葉と表現の適切さや巧みさにおいて高度に発達したものだった。彼の言葉は簡潔であるが、しばしば絢爛華麗というか、けばけばしいまでの華やかさを持っていた。すでに『花冠』の序文で、それぞれの詩人を花や香葉に喩え、華に華を重ねるような修飾過剰なイメージの重なりを記していたが、それはキューピドやその弓矢、愛の灯火や蜂蜜の象徴など、伝統的なステレオタイプの開陳の様相も持っていた。 呉茂一はしかし、メレアグロスの作風を、東洋的な絢爛たる官能の耽美性として評価し、華やかなイメージの燦然を、南国的な情熱の発露とも表現する。着想の豊かさと譬喩の巧みは、ときに直裁で飾らない言葉を交えながら、恋愛のイメージの極致とも言える。その言辞とイマージュにおいて奔放なまで華麗な展開を示すメレアグロスは、しかしその修辞において、音韻の秩序において、きわめて古典的正統な様式をまた維持していた。 Πλέξω λευκόιον, πλέξω δ᾽ ἁπαλὴν ἅμα μύρτοις νάρκισσον, πλέξω καὶ τὰ γελῶντα κρίνα,πλέξω καὶ κρόκον ἡδὺν ἐπιπλέξω δ᾽ ὑάκινθονπορφυρέην, πλέξω καὶ φιλέραστα ῥόδα,ὡς ἂν ἐπὶ κροτάφοις μυροβοστρύχου Ἡλιοδώραςεὐπλόκαμον χαίτην ἀνθοβολῇ στέφανος. プレクソー・レウコイオン、プレクソー・ダパレーン・ハマ・ミュルトイスナルキッソン、プレクソー・カイ・タ・ゲローンタ・クリナ、プレクソー・カイ・クロコン・ヘーデュン・エピプレクソー・デュアキントンポルピュレエーン、プレクソー・カイ・ピレラスタ・ロダ、ホース・アーン・エピ・クロタポイス・ミュロボストリュクー・ヘーリオドーラースエウプロカモン・カイテーン・アントボレー・ステパノス。わが編むは・白きすみれ。 わが編むは・ミュルテと共に・優しき水仙花。 わが編むは・また・ほほえむ・百合の花。わが編むは・なおまた・甘美な・クロッカス花。 重ねて編むは・ヒヤシンスあてなる紫の花を。 わが編むは・愛の喜び・薔薇の花(以下、二行未訳) — 『ギリシア詞華集』V巻147. メレアグロス「ヘーリオドーラの花冠」
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詩作品
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初期の作品を除くと、ほとんどの詩において、文末に句点が用いられている。そのかわりに読点はほとんど使われていない。『第四の蛙』から『侏羅紀の果ての昨今』まで新仮名を採用していたが、それ以前と以後は旧仮名である。 「蛙の詩人」と俗に言われるほどに、生涯にわたって蛙をテーマとした詩を書き続けた。この分野では、蛙の鳴き声がさまざまなオノマトペで表現されている一方、いくつかの前衛的な試みが行われている。たとえば「冬眠」を構成するのは黒丸1文字のみである。また、「Nocturne. Moon and Frogs」「天気」などでは絵画的な手法が用いられている。 「 るるるるるるるるるるるるるるるるるるるる 」 蛙について心平は『第百階級』のあとがきで「僕は蛙なんぞ愛してゐない!」と叫んだことがあった。実際、蛙についての詩作をやめようと思ったこともあったと詩集『第四の蛙』の「覚え書I」にはある。1948年(昭和23年)に『定本 蛙』を出したいきさつについて、「もう蛙も年貢の納めどきだろうから」と語っている。しかしその後も心平は蛙の詩を書くことを止めなかった。 『第四の蛙』の最初の後書きである「覚え書I」は1961年(昭和36年)1月に書かれた。すぐに出版されたわけでなく、蛙に関する詩を作り続けた結果、同年10月に「覚え書II」を残すことになる。詩集では、最初の覚え書と2番目の間に8篇の詩が書かれている。その後も蛙の作品をいくつか作り、結局、「覚え書III」「覚え書IV」を入れて、ようやく1964年(昭和39年)に出版された。出版によって「一応の終結」(「覚え書IV」)をみせたと語りながら、「III」の中では再び蛙の作品を書きたくなったと告白している。「IV」においては、蛙の詩に「終り」をつけようとしながら、一方で「蛙に関する詩がこれで終ったとは言い切れないような気がする」とも書いている。そして、蛙のモチーフはこの後、『こわれたオルガン』や『太陽は東からあがる』などにも現れ、最後の詩集『自問他問』にも2編の詩がある。「かへるのコはかへる」「性・性」である。 この生物に関する詩集を4冊(『第百階級』『蛙』『定本 蛙』『第四の蛙』)残しているが、蛙の詩群は、心平の詩作品の全てではない。富士山をはじめとした山についてのもの、海に関するもの、シルクロードを扱ったもの(詩集『絲綢之路』はこれを集めたもの)もある。身辺雑記に属するものもかなり書かれているが、中原中也の訃報に寄せた詩篇「空間」(『絶景』所収)では、「地球」という言葉を用いて、作者(あるいは語り手)が冷酒を飲む詩「豊旗酒」(『乾坤』所収)では、「八岐大蛇」「古事記」「富士(山)」という言葉を配置している。 富士山は心平の詩句に頻出し、これを題材とした詩集『富士山』も編んでいる。1940年(昭和15年)から富士についての詩を発表しはじめた。同じ年、南京に渡り、以後数年間この地を中心に創作活動に従事する(「作品第壹」では本文中で、「作品第拾参」では注釈のなかで、実際の山を見ているわけではないことが示されている)。1943年(昭和18年)に、17篇をまとめて『富士山』として昭森社から刊行する。その後も、折に触れて富士にまつわる詩を発表した。『大白道』『日本沙漠』『牡丹圏』『天』におさめられた9つの詩篇は、『草野心平詩全景』(1973年〔昭和48年〕)において、作品番号が振られ、26の連作詩集『富士山』の一部となった。これとは別に、1966年(昭和41年)には岩崎美術社から同名の詩集を刊行している。18の詩篇から成り、先の26篇と重複するものはない。 心平が蛙と同様、生涯にわたって追い求めた「富士山」は、やはり最後の詩集にも登場する。「何何富士」という詩では、富士山が唯一無二であるという前提の下、「富士」という名のつく山を皮肉りながらも、それぞれの山の美しさや独自性などを讃美しようとする。 また「天」という言葉もよく現れ、この言葉を題名にした作品も少なくない(「天のベンチ」「猛烈な天」「空気天」「宇宙天」など)。 「 コウノトリの。鳴き声の。あと。音なく。一切なく。ここは地球の。 ドまんなか。 動かない。天の。戸鎌の。月。「夜景」から 」 昭和30年代を除けば心平は多作な詩人であり、『第百階級』以前にも1923年(大正12年)から1925年(大正14年)にかけて8冊の詩集が編まれている。1973年(昭和48年)には、それまでの詩業の大部分をおさめた『草野心平詩全景』が筑摩書房から刊行されたが、その翌年から同社の協力の下、1年に1冊のペースで詩集を出版する企画がスタートした。いわゆる「年次詩集」である。出版社が倒産した1978年(昭和53年)を除き、1986年(昭和61年)まで刊行が続けられた(1985年〔昭和60年〕刊『絲綢之路』は思潮社からのものであり、年次詩集には含まれない)。この間に、同社から『草野心平全集』(1978-1984年 全12巻)が刊行されたが、出版年から分かるように、年次詩集は途中(『乾坤』)までしか収録されていない。『侏羅紀の果ての昨今』からは、『第四の蛙』のように一度覚え書(後書き)をしたためた後にできた数篇の詩が覚え書の後に配置され、「覚え書 II」が書かれるようになる。 晩年の詩のいくつかでは、過去の自作からの引用が積極的に行われている。たとえば、『牡丹圏』(1948年〔昭和23年〕)収録の「ゆき」は、教科書にも掲載され、広く知られる詩の1つであるが、この作品に登場する文章を一部改変した上で『幻象』(1982年〔昭和57年〕)の同名詩に使用した。そして、「ゆき」の擬音は、「童詩・ゆき」(1985年〔昭和60年〕刊『幻景』)でも取り入れられている。また、『全天』『植物も動物』『原音』に収録された「dying-fantasy」「Okhotsk-fantasy」「Nojiri-fantasy」というタイトルの詩は、いずれも『絶景』(1940年〔昭和15年〕)の冒頭詩「Bering-Fantasy」を意識したものと見られる。 心平の詩(特に蛙もの)はいくつも曲がつけられている。例えば「蛇祭り行進」(『第百階級』)は、清瀬保二、多田武彦、堀悦子、南弘明によって男声合唱曲にされ、いずれも出版されている。「蛙の声明(しょうみょう)」(『こわれたオルガン』)という詩は、石井眞木によって、実際に声明化された。心平は、詩人と作曲家の共同によって、新しい歌曲を生み出そうとする音楽グループ「ランディの会」に参加していたことがあり、自身の詩の音楽化に関心を持っていた詩人の1人である。清水脩の「蛙の歌」はここで発表されている。1992年に三木稔が作曲したフォークオペラ「よみがえる」は、心平のさまざまな詩を素材に、ふじたあさやが物語として構成したものであり、登場人(ではなく蛙)物の「ごびらっふ」「ぐりま」「るるる」などは原作にも登場している。 草野の詩の評価としては、宇宙的なまでに広がった世界観のなかで存在の孤独をニヒリスティックに、あるいはまた瑞々しく描いたともいわれ、彼の詩には「存在の愛(かな)しさ」と孤独が強調されながら、一方で野性的なまでの生命力に満ちている。だが、その世界の時空間が宇宙的・太古的に昇華されることで、社会的関係性が欠如しているという批判もかつてはあった。
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