ツタンカーメン
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ツタンカーメン(翻字: twt-anx-imn, エジプト語英語化: Tutankhamun[4][11], Tutankhamen, King Tut, 紀元前1341年頃 - 紀元前1323年頃)は、古代エジプト第18王朝のファラオ(在位:紀元前1332年頃 - 紀元前1323年頃)。より厳密な表記では、トゥトアンクアメン[1][4][5]。
注釈
- ^ Tutankhamen, Tutankhamonとも呼ばれる。なお、英語圏ではTutankhamunが一般的である。
- ^ Tutankhatonとも。
- ^ B.C.1335-B.C.1327, B.C.1361頃-B.C.1352[1],酒井傳六はB.C.1363-B.C.1354[2] ,von BeckerathはB.C.1335-B.C.1325[3],B.C.1347-B.C.1338[4][5]、マーチャントはB.C.1321-B.C.1312[6]とする。
- ^ ツタンカーメンの名前は、音節の句切れはTut ankh amenであるが、これをtu tan kha menと最初期の訳者が誤って区切り音写してしまったものが定着した可能性がある[要出典]。
- ^ 現状、英語版ウィクショナリーは"i"の音を"j"と翻字する方式を採用しているため、jが用いられている。
- ^ "twt-anx-itn"の訳については異説があり、例えばBattiscombe Gunn(en)はよりアクエンアテンの神学に沿った訳を考案した。彼は"twt"を名詞ではなく動詞だとみなし、"The life of Aten is pleasing"と訳した。また、Gerhard Fecht教授も同じく"twt"を動詞と考えており、"One perfect of life is Aten"と訳した。教授はアクエンアテンは別の単語である"tit(wik[注釈 5])"を"image"の意味として用いたと考え、"twt(wik)"は"To be perfect/complete"という意味なのではないかと解釈した[8]。
- ^ 生没年に関しては不詳であるとしたり[9]、B.C.1345-B.C.1327とも、B.C.1370頃-B.C.1352[1]ともされる
- ^ カーターによる発掘番号の最後は620番[16]であるが、遺物の正確な数については不明である。ザヒ・ハワス博士は5000点と言及している[15]。
- ^ 吉村(1984)は、ツタンカーメンの崩御した時期を紀元前1324年の1月としている[22]
- ^ このDNA検証の流れは複雑である。流れとして、まずKV55のミイラがツタンカーメンの父で、かつアメンホテプ3世の息子であることが判明した。そこで、KV55のミイラが、候補であるアクエンアテンとスメンクカーラーのどちらであるかが分かればツタンカーメンの父が特定できる、という方法を用いた。KV55のミイラにはアクエンアテンだけに関係のある言葉が刻まれていた考古学的証拠に加え、通称「年配の淑女」と呼ばれているKV35ELのミイラである、アメンホテプ3世の妃ティイとKV55のミイラに血縁関係が見つかったのである。よって、アメンホテプ3世とティイの息子で、ツタンカーメンの父親であるKV55号墓のミイラは、ほぼ確実にアクエンアテンだと結論づけられるとされている[15]。
- ^ アクエンアテンの両親であるアメンホテプ3世とティイの娘の名前はほとんど判明しているが、この若い方の淑女の名前だけは現在不明である[15]。
- ^ キヤがツタンカーメン(およびスメンクカーラー)の母であったという説の強力な状況証拠は王家の墓の壁面に描かれた出産の場面である。これは恐らく彼女が難産のため出産時に死亡したことを示す[29][30]。またウィルキンソンは2007年の著作で、ヘルモポリスで発見された石材の銘文が、キヤがツタンカーメンの母であるということを強く示唆するとしている[31]。ただしこれはハワスらによるDNA鑑定前の見解である[32]。
- ^ のち改名してアンケセナーメン(正確にはアンクエスエンアメン)となった。
- ^ アクエンアテンとネフェルティティの三女[33]。
- ^ 王即位以前、アケトアテン(テル・エル・アマルナ)にて結婚したと、ハワスはみなす[33]
- ^ この即位時推定年齢はザヒ・ハワスらによるミイラのCTスキャン結果からも支持される。この検査ではツタンカーメンの死亡年齢が18歳前後と分析された。確認されているツタンカーメンの最後の治世年は治世第10年のため、逆算によって即位時年齢が導き出せる[44]。
- ^ ただし、トゥトアンクアテンとトゥトアンクアメンの両方の名前が記された玉座や戦車が発見されており、両方の名前を併用していた時期が存在した可能性がある[44]。
- ^ ツタンカーメンの王妃の元の名は Ankhesenpaaten(anx-s-n-pA-itn)で、アンクエスエンパーアテン・アンケセンパーテン・アンケスエンパーテンなどと様々に呼ばれる。なお変更後はAnkhesenamen(anx-s-n-imn)
- ^ マネトの著作(題:Aegyptiaca)は散逸しており、完全には現存していない。しかし、ヨセフス、アフリカヌス、ヒエロニムス、エウセビオスなどの歴史家たちが引用した部分から彼の記述をある程度推定できている。
- ^ 具体的には、女性化乳房、マルファン症候群、ウィルソン・ターナーX鎖知的障害症候群、脂肪性器性異栄養症、クラインフェルター症候群、アンドロゲン不応症、アロマターゼ過剰症候群、頭蓋骨縫合早期癒合症、アントレー・ビクスラー症候群、またはその亜種のいずれかに苦しんでいた可能性があるとされる[要出典]。
- ^ ともに生没年未詳だが、トトメス4世は在位10年、アクエンアテンは在位17年とアメンホテプ3世の38年よりかは短い。
- ^ 千葉工業大学の研究グループは、鉄隕石を1000℃以下で加熱して製作したと推測する“世界初 ツタンカーメンの鉄剣の元素分布分析を実施”. 2022年1月31日閲覧。
- ^ ツタンカーメンの(父がアクエンアテンであるとすれば、)祖父であるアメンホテプ3世の妃、ティイの兄弟がアイである。これは、ツタンカーメンから見て大おじにあたる(#系譜)。
出典
- ^ 翻訳元原文(ドイツ語)は"Sohn des Königs von seinem Leibe, von ihm geliebt, Tut-anchu-Aton."別の出典では"the king's son of his body Tutankhaton"[33]となっている。なお、"The king's son of his body"の原文は、"zA-nswt.n Xt.f"[34]
- ^ 原文は"the daughter of the king, of his body, his great desire of the king of Two Lands, Ankhesenpaaton"[33]
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