男声合唱
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男声合唱(だんせいがっしょう)とは、変声期を過ぎた男性のみによる合唱の一形態。インドネシアのケチャや、日本の木遣、仏教の声明などにも見られる形態であるが、本項においては、特にクラシック音楽における男声合唱について記述する。
- ^ 日本で最初に名乗った合唱団は関西学院グリークラブだという(山中源也『関西学院グリークラブ八十年史』関西学院グリークラブ部史発行委員会、1981年、p.14)。ただこの団体は、音楽形式としてのグリーを愛唱するために設立されたわけではない。
- ^ たとえば男声八部と弦楽のための「水の上の精霊の歌」は、ヨハン・ヘルベックによって1857年に再発見され、彼とウィーン男声合唱協会によって再演されている。彼はシューベルトの作品発掘および演奏に尽力し(「未完成交響曲」のそれで名高い)、1866年には合唱作品全集を出版している。
- ^ 1660年7月21日、9月10日など。
- ^ リストも会員として、フリーメイソン主催の演奏会のために男声作品を書いているが、モーツァルトほどには知られていない。
- ^ たとえば、第1回(1927年)においては、11の参加団体のうち、男声合唱団は6(女声2・混声3)、第6回(1932年)においては、22団体のうち、男声合唱団は14(女声4・混声4)。長木誠司「“運動[ムーヴマン]”としての戦後音楽史 1945~」第6回、第7回(『レコード芸術』音楽之友社、2004年6月号-7月号)。
- ^ たとえば、山田耕筰編『世界音楽全集9 日本合唱曲集』(春秋社、1930年)に収録されている合唱曲81作品のうち、男声合唱曲はたったの4曲に過ぎない(それに対して、混声41曲、女声23曲、同声11曲、重唱2曲)。
- ^ 青島広志は「日本の戦前の合唱曲というと、男声合唱曲が女声合唱曲をしのぐという現象が起きている」(『作曲家の発想術』講談社現代新書、2004年、p.155)と書いているが、実際にはその逆であった。
- ^ 彼の男声合唱曲については、呉市昭和地区郷土史研究会編『作曲家藤井清水』大空社、1996年。
- ^ 対して、混声三部合唱曲はNHK全国学校音楽コンクールをのぞくと、もっぱら出版社の委嘱により作られている。混声四部、女声合唱、児童合唱曲もその経由でたくさん作曲されているが、男声合唱においては少ない。
- ^ 委嘱作品のみで構成された楽譜『現代男声合唱曲集』(東京男声合唱団編)が音楽之友社から出版されている。
- ^ 東京コラリアーズを離れた後もさまざまな合唱団のために編曲を行っている。編曲作品の一部は福永陽一郎『演奏ひとすじの道』の巻末や、2001年に行われた「福永陽一郎メモリアルコンサート&回顧展 陽ちゃんといっしょ in 藤沢」のパンフレットに掲載されているが、全容については不明。
- ^ 福永は『合唱事典』(音楽之友社、1967年)の「編曲」の項目で、編曲に慎重な態度をとる一方、男声合唱や女声合唱によい曲が少ない現状から、編曲はやむを得ないものとしている。また、畑中は慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団の定期演奏会のパンフレットにこう書いている。「男声合唱曲は、オリジナルなものだけでは、真にすぐれた音楽性を持つ曲は限られて来る。オリジナルの曲数の多い割に、演奏する者の一生の宝となるような曲は、ほんとに少ない。」[1]一方、「良いオリジナル男声合唱曲が少ない」という認識を共有しつつも、それを作曲家の新作によって改善させていこうと考える者もいた。田中信昭がその代表的人物である。
- ^ 木戸敏郎「聲明という音楽概念の開発」(木戸敏郎編『日本音楽叢書 三 聲明〔一〕』音楽之友社、1990年)によると、「聲明」は「仏教の声の音楽全般」を指す概念として、著者らによって再定義されたもの。旧漢字を使うのは、労働組合運動の文脈で用いられていた「声明(せいめい)」との混同を避けるためである。「現在定着している」という著者の見解に従い、本項でも「聲明」を上述の意味で用いる。
- ^ エクトル・ベルリオーズ、リヒャルト・シュトラウス『管弦楽法』音楽之友社、2006年、p.472。
- ^ 皆川達夫『合唱音楽の歴史 改訂版』全音楽譜出版社、1965年、p.403。
- ^ 遠山音楽財団付属図書館編 『山田耕筰作品資料目録』遠山音楽財団付属図書館、1984年。
- ^ 浜辺の歌音楽館編『「浜辺の歌」の成田為三』秋田文化出版社、1998年、p.38。
- ^ 『からかれても……――東京男声合唱団創立五十周年記念誌』東京男声合唱団、1999年、p.13。
- ^ 福永陽一郎『演奏ひとすじの道』《CONDUCTOR》編集部、1996年、p.72
- ^ 木戸敏郎「『聲明』現代の音楽概念へ飛躍」 『日本音楽叢書 四 聲明〔二〕』p. 7。
男声合唱
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柳河風俗詩(北原白秋) 初演:京都大学男声合唱団(1954年12月5日)合唱組曲第1作。白秋の第2詩集『思ひ出』から4篇がテキストになっている。第1曲「柳河」は、全日本合唱コンクール課題曲の佳作として、先に世に出た。 富士山(草野心平) 初演:京都大学男声合唱団(1956年2月2日)合唱組曲第2作。同名の詩集から5篇に作曲。 雨 初演:明治大学グリークラブ(1967年5月28日)数年の休筆の後に初めて書いた作品。休筆直前は混声合唱組曲「京都」など技巧的で難解な作品が多くなっていたことへの反省から、この作品は原点回帰の意味も籠めて平易で分かりやすいものをと意識して書かれている。全曲が単曲として取り上げられる完成度を持っていながら、難易度はそれほど高くなく、聴き易く親しみやすい。特に終曲の「雨」は多田の代表作の1つとして愛唱されている。また多田自身この作品を書いた際「第2曲『武蔵野の雨』を作曲し始めてから、芸術の神ミューズが宿った」とライナーノートに記したり、あちこちで「終曲『雨』は私自身の鎮魂歌である」といった旨の記述をしたりなどから、多田にとって特別な作品であると考えられる。 なお、第4曲は当初「十一月に降る雨(堀口大學)」であったが、のちに「雨 雨(尾形亀之助)」に差し替えられている。同様に、「人間の歌(堀口大學)」の第6曲も「年の別れ」→「宮城野ぶみ」に、「中原中也の詩から」の第3曲も「朝鮮女」→「間奏曲」に、それぞれ差し替えられている。 雪と花火 初演:同志社グリークラブ(1957年3月16日) 北陸にて(田中冬二) 初演:上智大学グリークラブ(1962年11月24日) 海に寄せる歌(三好達治) 初演:崇徳高校グリークラブ(1977年9月14日) わがふるき日のうた(三好達治) 初演:明治大学グリークラブ(1977年5月7日) 草野心平の詩から 初演:慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団(1961年12月16日) 山村暮鳥の詩から 初演:城北高等学校合唱団(1983年6月27日) 父のゐる庭(津村信夫) 初演:京都大学男声合唱団(1961年12月3日) 中勘助の詩から 初演:関西学院グリークラブ(1959年1月31日) 山の印象 初演:上智大学グリークラブ・早稲田大学コールフリューゲル(1967年10月27日) 中原中也の詩から 初演:関西学院グリークラブ(1967年6月18日) 中原中也の詩から・第二 初演:神戸大学グリークラブ(1985年12月12日) みどりの水母(大手拓次) 初演:京都大学グリークラブ(1976年12月6日) 尾崎喜八の詩から 初演:関西学院グリークラブ(1975年1月18日) 尾崎喜八の詩から・第二 初演:神奈川大学フロイデコール(1986年12月7日) 尾崎喜八の詩から・第三 初演:城北学園グリークラブ(1993年6月27日) 三崎のうた(北原白秋) 初演:明治大学グリークラブ(1969年5月18日) 三崎のうた・第二(北原白秋) 初演:西南シャントゥール(1997年11月8日) 北斗の海(草野心平) 初演:早稲田大学グリークラブ(1968年12月7日)組曲のタイトルは草野心平が本作品のために考えたものである。なおこのタイトルを貰う際に心平邸を訪問した際、多田は心平による蛙の詩の朗読を聞いている。それが後年、組曲「蛙」「蛙・第二」の誕生につながった。 雪国にて(堀口大學) 初演:上智大学グリークラブ(1978年) 若しもかの星に(百田宗治) 初演:東京オルフェオン(1978年9月17日) 優しき歌(立原道造) 初演:立命館大学メンネルコール(1971年6月29日) 吹雪の街を(伊藤整) 初演:小樽商科大学グリークラブ(1979年2月19日) 東京景物詩(北原白秋) 初演:東京大学音楽部コールアカデミー・東京大学コールアカデミーOB合唱団アカデミカコール(1991年12月14日) 遠い母に(大木惇夫) 初演:FACE:北村協一バースデイ記念コンサート男声合唱団(2001年9月8日) 遠いふるさと(山村暮鳥) 初演:崇徳高校グリークラブ・30年記念合唱団(2000年9月10日)
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