尾崎喜八
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尾崎 喜八(おざき きはち、1892年1月31日 - 1974年2月4日)は、日本の詩人、随筆家、翻訳家。
注釈
- ^ 父の大厄の歳に生まれ、所謂四十二の二つ子であった。捨て子が拾われた形で里子にやられた。のち五つの歳に引き取られる。串田孫一「愛と感謝と郷愁」『日本の詩第17巻 八木重吉、尾崎喜八、小熊秀雄 集』集英社、1979年 p.245
- ^ 二艘の大きな船を持ち、隅田川に臨んだ家には専用の物揚場と桟橋とがあり、酒や米や海産物の充満した倉庫がならび、帳場格子や厚い上り框の飴色に光る暗い厳めしい店があった。串田孫一「愛と感謝と郷愁」『日本の詩第17巻 八木重吉、尾崎喜八、小熊秀雄 集』集英社、1979年 p.245
- ^ 晩年には、廻漕問屋をやめて、しもた屋になっていた。串田孫一「愛と感謝と郷愁」『日本の詩第17巻 八木重吉、尾崎喜八、小熊秀雄 集』集英社、1979年 pp.244-245
- ^ 講演も多く、テレビやラジオの出演もかなりあった。串田孫一「愛と感謝と郷愁」『日本の詩第17巻 八木重吉、尾崎喜八、小熊秀雄 集』集英社、1979年 p.248
- ^ 胃からの吐血を繰り返していた。串田孫一「愛と感謝と郷愁」『日本の詩第17巻 八木重吉、尾崎喜八、小熊秀雄 集』集英社、1979年 p.248
- ^ 巻頭に高田博厚作の尾崎のブロンズ像写真が付けられている。「我がリトム」の章は高村光太郎への献呈。「空と樹木」の章は千家元麿への献呈。この詩集をロマン・ロランに手紙を添えて贈ったところ、ロマンから手紙が来て、尾崎は「狂喜」した。山室静「鑑賞」『日本の詩歌17 堀口大学、西条八十、村山槐多、尾崎喜八』中央公論社、1968年 pp.295-296
- ^ 串田孫一編による。
- ^ 「長與善郎君の家庭にありし日の記念のために」と献呈の辞あり。原著“Musiciens d'aujourd'hui”の英訳Mary Blaiklock“Musicians of To-day”からの重訳。『近代音樂家評傅』 譯者序言 p.1
- ^ 原著“À travers chants”の英訳Edwin Evans“Critical Study of Beethoven's Nine Symphonies”からの重訳。『ベートーヹン交響樂の批判的研究』 譯者序
- ^ 尾崎の訳編による。
出典
- ^ a b c d e f g h 尾崎喜八「尾崎喜八年譜」『日本の詩歌17 堀口大学、西条八十、村山槐多、尾崎喜八』中央公論社、1968年 pp.409-410
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 小田切進編「年譜 尾崎喜八」『日本の詩第17巻 八木重吉、尾崎喜八、小熊秀雄 集』集英社、1979年 pp.264-267
- ^ 草野心平・編『日本詩人全集 第五巻』創元文庫、1953年 p.91
- ^ a b 尾崎喜八 - 『デジタル版日本人名大辞典Plus』講談社(コトバンク)
- ^ 山室静「鑑賞 『田舎の夕暮』」『日本の詩歌17 堀口大学、西条八十、村山槐多、尾崎喜八』中央公論社、1968年 pp.303-306
- ^ 千家元麿『詩・美・自然』國民社、1943年 p.47
- ^ 草野心平・編『日本詩人全集 第五巻』創元文庫、1953年 p.91
- ^ a b 串田孫一「愛と感謝と郷愁」『日本の詩第17巻 八木重吉、尾崎喜八、小熊秀雄 集』集英社、1979年 p.247
- ^ 文壇・詩壇・歌壇の三百五十人が参加『東京朝日新聞』(昭和12年1月19日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p705 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ “文学に触れるプレミアム紅葉 ウォーキングコース”. 富士見町. 2022年2月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月13日閲覧。
- ^ a b 串田孫一「愛と感謝と郷愁」『日本の詩第17巻 八木重吉、尾崎喜八、小熊秀雄 集』集英社、1979年 p.252
尾崎喜八
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詩人、随筆家、チェロ奏者。セロ購入し、自邸で習得しに訪れた賢治を指導する。
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