作品評価
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緻密な設定とシナリオ、クオリティの高いBGM、エンディングの主題歌などにより、フリーノベルゲームのさきがけとして人気を博した。さらに、いくつかのフリーソフトの同人コンテストで受賞するなど、非常に高い評価を得ている。
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作品評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 21:18 UTC 版)
「ボクサー (1977年の映画)」の記事における「作品評価」の解説
清水健太郎は「おかげさまで評判は悪くなかった」と述べている。 当時、大作主義を盛んにぶち上げていた岡田茂東映社長は、「最近の映画は大きな仕掛けのある映画でないと大ヒットしないね。『ボクサー』はシングルヒットだな。ひょっとすると大きく化けるかも知れんと思っていたがネ。しかし、菅原文太が清水健太郎の脇に回っているのがいいよ。とかくスターというのは自分の企画だと自分中心になりがちだが文太は違う。彼はプロデューサーとしても立派に通用するよ。ワシは東映に優秀なプロデューサーが一人誕生したと喜んでるんだ」などと述べた。 黒井和男は、「東映という日本的アクション映画の会社の番線を寺山修司がどうこなす作品を作ってくのか注目されるが、そういう興味は、いわば、プロの社会のことで、一般ファンにはあまり関係のないことだ。清水健太郎と菅原文太といういわば異色の組合せが、どう興行バリューとなるかだが、残念ながらスターシステムが観客を動員できる時代は終わりを告げている。映画を観る側の好みが、テレビでやれない力量感ある作品に走っている現在、短期決戦型の作品は稀にしかヒットしない傾向になりつつある。ここがプログラムピクチュアの泣きどころだ。映画は極端になりつつある。つまりリラックスかデラックスだ。極論してしまえばこの極端しか商売にならないのが現状だ。その意味で『ボクサー』は中途半端といえる」と論じ、各社映画の封切り前に黒井は「映画の出来は『幸福の黄色いハンカチ』が一番。『ボクサー』もそれなりによくできている。しかし観客動員数からいえば、一位が『人間の証明』、二位が『八つ墓村』、三位、四位がなくて五位が『ボクサー』『幸福の黄色いハンカチ』『天国と地獄』という順でしょう。結局のところいい映画でも見ようと思う気を起こさせなくては見てもらえない。良し悪しをいうのは見てからですから。ある程度以上の映画なら、観客動員数は宣伝費に比例するんです。それに『人間の証明』や『八つ墓村』が女性、子ども向きのファッション映画、オカルト映画だという点も動員数に大きく影響してきます。映画がヒットする条件は、女、子どもに見られることなんです」などと述べている。小林久三は「いまの映画は、入場料1300円のうち、850円の値打ちがあればいいんです。残りはファッションを買うお金。この映画を観ないと流行に遅れちゃうという強迫観念が人を映画にかり立てる。そんな映画が結局多くの人に見られる映画になる」などと述べている。 大久保賢一は「第3回の城戸賞を受賞した大森一樹の『オレンジロード急行』が松竹で映画化されることになったこと、第18回日本映画監督協会新人賞を受賞した『星空のマリオネット』を橋浦方人が自主制作し、ATGで公開することになったのは、自主映画にとって大きな前進で、二人にその条件が与えられたのは、東宝が大林宣彦に『HOUSE ハウス』を監督する機会を与え、東映が寺山修司を『ボクサー』の監督に起用したこれ以前の映画企業の動きと関係している。『ボクサー』はカメラマン・鈴木達夫の作り出す画面と、この作品でのみ生きている清水健太郎という役者、この二点だけを取り上げても力を持ち得る作品だ。寺山が東映映画を見続けてきた観客とどんな出会い方をしたか、彼はこれ以降も東映のプログラムピクチュアを撮り得るか、注目したい」などと評した。 田山力哉は「菅原文太演じる中年男と清水健太郎演じる若者の挫折感、生きるエネルギーがよく出てなかなか面白かった」と自身が選ぶ「1977年の日本映画ベストテン」7位に挙げた。 山根貞男と山田宏一は「菅原文太と清水健太郎に寺山修司監督というんで、これは面白いんじゃないか、東映もよくやった、という期待し過ぎて肩透かしを食った感じ」と評している。山根は「拳闘シーンはあるがその肉体の暴力性のシーンが作品の核心になることはなく、ただ拳闘とか闘うこととかをめぐっての心情、思い入れが画面を流れるばかり。ボクシングを描く映画だからといって、アクション映画以外のものであって悪いことはない。しかし、闘うことをめぐるセリフが全編に散りばめてある以上、そうしたセリフによる心情性よりもまず、描写としてのアクションがなければなるまい。『ボクサー』が象徴するのは、どんな形であれ暴力を描こうとすれば、暴力性ではなく、暴力をめぐって余計な抒情的感慨ばかりが作品に纏いついてくるという、現在の映画のありようである」などと論じている。 堤昌司は「『あしたのジョー』似のストーリーだが、登場人物が多彩で"寺山ワールド"は健在」と評価する。 大槻ケンヂは「ボクシングファンで、ボクサーに憧れていた寺山がボクシング映画を撮ろうと思った気持ちはよくわかる。しかしアングラ演劇人の撮るボクシング映画なんて、よく企画が通ったものだ。この映画はボクサーを目指す青年と中年トレーナーの"活劇"シーンと、彼らの周りにいる妖しげな貧乏人たちの"アングラ演劇"的シーンにくっきり区分けされた不思議な構成の映画だ。"活劇"シーンはさておき、スゴいのは"アングラ演劇"シーンである。もう何というか露骨に天井桟敷。単に『田園に死す』の世界なんである。これがまた"活劇"の方とまったく噛み合っていない。ソビエト映画とインド映画を同時に輸入して無理矢理一本にまとめたようなアンバランスなのだ。一言で言ってただの失敗作なわけだけど、失敗の仕方、破綻の仕方があまりにスゴすぎて、立派なおマヌケ映画に昇格した怪作である。いつかボクは『おマヌケ映画祭』を開催したいと思っている。世界中からよりすぐられたおマヌケ映画の数々が一堂に会し、満場の客席からは『ブラボー』の声と喝采が鳴り響く『第一回世界おマヌケムービーフェスタ』。上映第一回作品は、我が愛する『ボクサー』だ。この映画を見て、ロジャー・コーマンは言うだろう。『この映画を撮った男は狂気に近い才能を持つ天才に違いない!』 答えてボクは彼にこう言いたい。『ミスターコーマン。まさにその通り。寺山こそ、狂気に近い才能を持つ天才でした』と」などと評している。 岩井俊二は「革命的に感動したのは『ボクサー』です。なんじゃこりゃって。当時、僕のばーちゃんやおじさんも寺山が好きで、みんなで寺山、寺山って盛り上がって、文芸坐なんかではしかにかかったように嵌って見まくった。カルチャーショックでしたね。でも好きなのは、青森をどうのこうのという部分より、耽美的なヴィジュアルの部分です」などと述べている。岩井の2011年の自作『ヴァンパイア』で"レディーバード"というハンドルネームの女性の地下室の天井に空の写真が貼ってあったのは『ボクサー』のパクリという。
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「限りなく透明に近いブルー」の記事における「作品評価」の解説
本作の優れている点は、なによりも「僕」が物事を常に客観視する中で、感情移入を排したフラットな表現でセックスや暴力を描ききった部分であると多くの作家・評論家が本作の解説で評価することが多い。衝撃的な内容を題材として捉えていながら、その文章自体は異常なまでに平易であり「清潔」である。たとえば登場人物について、本作では様々な人物が現れるが、その人物が一体いつどのように現れたのかは明示されず、そしていつの間にか消えてしまっている。通常の小説ならば不審に思われる点を自然に忘れさせてくれるのが、この「存在感の無い」と言われながら同時に衝撃的な文章そのものであり、その点が大いに評価された。
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作品評価
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『不連続殺人事件』が発表されるとファンの間で評判となり、探偵小説関係者にも高い評価を得た。江戸川乱歩からは、「日本の純文学作家の探偵小説は谷崎潤一郎、佐藤春夫両氏の二三の作など極く少数の例外を除いて、見るに足るものがなく、(中略)見事にこの定説を破ってみせ、ある意味では我々探偵作家を瞠目せしめたと云っていい」、「トリックに於いては内外を通じて前例の無い新形式が考案されていた」と絶賛され、1949年(昭和24年)2月に、第2回「探偵作家クラブ賞」(現在の日本推理作家協会賞)長編賞を受賞した。 松本清張は、「日本の推理小説史上不朽の名作で、(中略)欧米にもないトリックの創造である。人間の設定、背景、会話が巧妙をきわめ、それに氏の特異な文体が加わって、その全体が一つのトリックだと気がつくのは全部を読み終わったときである」と評している[要文献特定詳細情報]。文芸評論家の七北数人は、安吾が「怪奇耽美の味わい」を出すことに長けているにかかわらず、あえて「文学的な要素」を排除し、謎解きのゲーム性を重視しているとし、「複雑な人間関係そのものがトリックになる本作では、この書き方が必然でもあった」と解説している。 下記に、一連の被害者名と殺害方法を挙げる。 1. 望月王仁 (刺殺) 2. 歌川珠緒 (絞殺) 3. 南雲千草 (絞殺) 4. 内海明 (刺殺) 5. 歌川多門 (毒殺) 6. 歌川加代子 (毒殺) 7. 宇津木秋子 (墜死) 8. 歌川一馬 (毒殺)
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作品評価
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「アラトリステ (映画)」の記事における「作品評価」の解説
スペイン映画芸術科学アカデミーによって設立されたゴヤ賞の第21回選考(2007年)において全28部門中15部門でノミネートされた。最終選考の結果、製作監督賞をクリスティーナ・スマラガ(Cristina Zumárraga)、美術賞をベンハミン・フェルナンデス(Benjamín Fernández)、衣装デザイン賞をフランチェスカ・サルトーリ(Francesca Sartori)が受賞した。 Web版バラエティ誌2006年9月16日付けの記事においてジョナサン・ホランドは「スペイン帝国の没落が始まった17世紀前半に設定された英雄的な剣士、というのは映画にとって魅力的な題材だ。しかしエピソード過多で慌ただしく盛り上がりに欠けるストーリーを贖うことは、素晴らしい映像やスペインの役者陣による優れた演技をもってしても出来ることではない」「原作小説から過剰にエピソードを取り込むというヤネス監督の決定により脚本は酷いものとなった。そのせいで物語は要約的かつブツ切れになっているように感じられる」と記した。映画評論家の細谷美香は、「駆け足でヒーローの奮闘を追いかけた印象は否めない」が「ヴィゴ・モーテンセンの熱演が、映画のマイナス面をカバーしている」と評した。恩田泰子はアラトリステの「男の美学には、日本の侍にも一部通じるものがある」としたが、「その物語を楽しむには、見る側にも、主人公の周囲でうずまく数々の謀略に翻弄されて迷子にならない覚悟が要求される」とした。高橋諭治は「登場人物の因果関係が少々つかみづらくて戸惑う」、大場正明は「20年以上に渡る主人公の半生を145分に収める窮屈な構成であるため、物語のうねりは伝わりにくいが、それでも見応えはある」とした。
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作品・評価
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張愛玲は多くの作品を残したが、小説のほかにも散文、映画脚本、文学論も書いている。また彼女の書いた書簡も研究者の研究対象となっている。張愛玲の作品のうち『怨女』『流言』『半生縁』『張愛玲短編小説集』は、1960・70年代前後に台北の皇冠出版社から改めて出版され、1980年代に海外で大いに売り出された。張愛玲の小説のスタイルは、戦後台湾の文壇における小説の流派に、大きな影響を残している。 また、上海は租界都市として発達したが、太平洋戦争勃発によって英米租界、仏租界ともに陥落すると、作家や知識人たちの多くは重慶などの「内地」に向かったため、文壇は空洞化していた。上海の人々が読むものに飢えていたときに彗星のように現れた張愛玲は「干からびた水土に奇跡のように咲いた花」(フランス文学者傅雷による論評)として歓迎され、評価された。1956年、アメリカで出版したThe Rice-Sprout Songは好評を博し、当時アメリカにいた胡適に激賞されたが継続の作品は出版の幸運に恵まれなかった。1961年には創作のため単身で台湾に渡った。この時は台湾の文学雑誌「現代文学」の同人に歓待された記録が残っている。 2004年2月、台湾皇冠文化集団が設立50周年を記念して、張愛玲の遺作『同学少年都不賎』を出版すると公表した。中国でも簡体字版が天津人民出版社によって発行されており、現在は、台湾・香港・大陸全域で広く読まれ、その文体と才能が賞讃されている。 また、海外学界での評価も著しく高い。南カリフォルニア大学教授のDominic Cheungによれば、「国民党と共産党の政治的分裂がなければ、ノーベル賞を受賞していたはずだ」と述べ、世界的な中国文学評論家夏志清(英語版))は、二十世紀最高の中国文学者は魯迅と張愛玲の二人であると述べ、特に『中国現代小説史』においては張愛玲を魯迅を越える面が多いとして激賞している。魯迅の相対的に低い評価は批判を招いたが、張愛玲の評価が高まるにつれて理解されつつある。なお、それに比べ、日本においては、魯迅に比べて知名度が極端に低く、訳書も少ない。魯迅の文体は簡潔であり、思想に重点をおいているため、日本語に翻訳しやすいが、張愛玲の特長の一つは華麗な文体にあり、読みやすい日本語に訳せば彼女の美文が消えてしまい、美文を残そうとすれば成語(四字熟語)ばかりの中国語直訳調になってしまう。この翻訳の難しさが訳書の数を少なくしている上、訳書では彼女の美麗な文体が消えてしまっていて作品の魅力が半減している、と考えられる。
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