作品評価・解説
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三島由紀夫は大江の小説では本作を特に高く評価し、「いちばん感動したのは最後のところで、男が凡俗社会に妥協して、おやじの言うなりに出世して外国へゆくことになった途端、忽ち地下鉄は駆け下りて、もっとも危険な破壊的な痴漢行為をする。あれがとてもいいし、そこらのどんなサラリーマンの心の底にもひそんでいる人間の真実だと思う」と述べている。武満徹も大江の作品の中で、本作を最も愛好していたという。
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作品評価・解説
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未完のまま作者が亡くなったため、作品の全体像が掴めないという難点はあるが、雅俗折衷の文体は当時から華麗なものとして賞賛された。だが、自然主義文学の口語文小説が一般化すると、その美文がかえって古めかしいものと思われ、ストーリーの展開の通俗性が強調され、真剣に検討されることは少なくなった。 1940年頃に企画された中央公論社版の『尾崎紅葉全集』の編集過程で、創作メモが発見され、貫一が高利貸しによって貯めた金を義のために使い切ること、宮が富山に嫁いだのには、意図があってのことだったという構想の一端が明らかにされた。しかし、戦渦の中でこの全集が未完に終わったこともあって、再評価というほどにはならなかった(この件に関しては勝本清一郎『近代文学ノート』(みすず書房)に詳しい)。 三島由紀夫は、金色夜叉の名文として知られる、「車は馳せ、景は移り、境は転じ、客は改まれど、貫一は易らざる其の悒鬱を抱きて、遣る方無き五時間の独に倦み憊れつゝ、始て西那須野の駅に下車せり」を挙げ、この名文が浄瑠璃や能の道行の部分であり、道行という伝統的技法に寄せた日本文学の心象表現の微妙さ・時間性・流動性が活きている部分だと解説し、「『金色夜叉』は、当時としては大胆な実験小説であつたが、その実験の部分よりも伝統的な部分で今日なほ新鮮なのである」と述べている。また小説の主題である金権主義と恋愛の関係については、「金権主義が社会主義的税制のおかげで一応穏便にカバーされてゐる現代は、その実、『金色夜叉』の時代よりもさらに奥深い金権主義の時代なのであるが、これに対する抗議が今ほど聞かれない時代もめづらしい。といふのは、現代では、金権主義に対抗する恋愛の原理が涸渇してゐるからであり、『金色夜叉』において、金に明瞭に対比させられてゐる恋愛の主題には、実はそれ以上のものが秘められてゐたのである」と述べている。
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作品評価・解説
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「風立ちぬ (小説)」の記事における「作品評価・解説」の解説
堀の代表作で、名作とも言われる『風立ちぬ』で描かれている情景、風景描写の巧さはよく指摘されているが、宮下奈都も、悲劇的な題材に関わらず、「悲愴さ」や「感傷」が薄く、作品全体に明るい透明感がある理由として、「情景描写の素晴らしさが一役を買っている」と解説している。 丸岡明は、作中で堀の中の「心に残る一つの印象」が描かれる際に、その印象が、「常に時を隔てた他の印象を呼び起こしながら表現されている」とし、構成も「時の流れが立体的」に感じられるように工夫されていると解説し、「『風立ちぬ』が私達にもたらした最も大きな驚きは、風のように去ってゆく時の流れを、見事に文字に刻み上げて、人間の実体を、その流れの裡に捉えて示してくれたことである」と評している。 三島由紀夫は「独創的なスタイル(文体)を作つた作家」として、森鷗外、小林秀雄と共に堀を挙げている。その堀の長所である自然描写力については、「(堀)氏自身の志向してゐたフランス近代の心理作家よりも、北欧の、たとへばヤコブセンのやうな作家に近づいてゐる」と述べている。また、昭和文学には、「日本人として日本の風土に跼蹐して生きながら、これを西欧的教養で眺め変へ、西欧的幻想で装飾して、言語芸術のみが良くなしうるこのやうな二重の映像を作品世界として、そのふしぎな知的感覚的体験へ読者を引きずり込む」といった一群の「ハイカラ」な作家があるとし、堀もその1人であると三島は解説している。 三島は、『風立ちぬ』を初めとしたその後の堀の小説の方向性について、堀が『風立ちぬ』で試み、さらに『菜穂子』で「もつと徹底的に試みたこと」は、「小説からアクテュアリティーを完全に排除し、古典主義に近づかうとしたことだつた」と思われるとし、堀がそう決断したことは、堀辰雄という作家として正しく、「日本における古典性(これは西欧的な古典といふ意味とは大いにちがふ)の達成においても正しかつた」と述べている。そしてその理由として、「日本で小説が成立する方向は、文体を犠牲にしてアクテュアリティーを追究するか、アクテュアリティーを犠牲にして文体を追究するかのどちらかに行くほかはないから」だと説明し、「堀氏はその一方向を徹底した点で立派なのである」と考察している。
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