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まつもと-せいちょう ―せいちやう 【松本清張】
探偵作家・雑誌・団体・賞名事典 |
松本清張(まつもと・せいちょう)
1909年(明42)、福岡県北九州市小倉生まれ。文壇作家の探偵小説勉強会「影の会」会員。
1929年(昭4)、借用した左翼雑誌「戦旗」が元で小倉署の留置場に入れられる。
1951年(昭26)、国鉄、日本交通公社、全日本観光連盟共催の全国観光ポスター公募に、「天草へ」が推薦賞受賞。
1951年(昭26)、「週刊朝日」の「百万人の小説」募集に「西郷札」が三等入選し、「週刊朝日」に掲載。当時は朝日新聞九州支社広告部に勤務していたため、同じ朝日新聞社員を一等入選させるわけにはいかないため、降格されたという。同作は同時に1951年(昭26)の第26回直木賞候補となる。
1952年(昭27)、木々高太郎に勧められ、「或る「小倉日記」伝」を「三田文学」に発表し、1953年(昭28)、第28回芥川賞を受賞。はじめは直木賞候補作だったのだが、芥川賞にまわされたもの。また、同時に日本文藝家協会の「創作代表選集 第11巻(昭和27年後期)」に収録される。
1953年(昭28)、「オール読物」に掲載された「啾啾吟」が第一回オール新人杯佳作第一席に入選。
1955年(昭30)に「文藝春秋」に発表した「家康と山師」は日本文藝家協会の「代表作時代小説 昭和30年度」に収録される。
1955年(昭30)、初めての探偵小説「張りこみ」を「小説新潮」に発表。
1955年(昭30)、小倉から東京の練馬区へ移住。
1956年(昭31)に「オール読物」に発表した「ひとりの武将」は日本文藝家協会の「代表作時代小説 昭和31年度」に収録される。
1956年(昭31)、「小説新潮」に掲載された「顔」を中心に編まれた短編集により、1957年(昭32)、第十回日本探偵作家クラブ賞を受賞。同時に「顔」は日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1957年版」に収録される。
1956年(昭31)に「オール読物」に発表した「いびき」は日本文藝家協会の「代表作時代小説 昭和32年度」に収録される。
1957年(昭32)に「小説新潮」に発表した「地方紙を買う女」は日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1958年版」に収録される。
1958年(昭33)、「点と線」を「旅」に発表し、今まで一部愛好者のものだった探偵小説を解放した画期的な作品となった。日本探偵小説史上、屈指の名作。
1958年(昭33)に「小説新潮」に発表した「巻頭句の女」が日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1959年度版」に収録される。
1959年(昭34)に「文春」に発表した「上申書」は日本探偵作家クラブの「推理小説ベスト15 1960年版」に収録される。
1959年(昭34)、「文芸春秋」に掲載された「小説帝銀事件」は第16回文芸春秋読者賞を受賞。
1960年(昭35)、「黒い福音」を「週刊コウロン」に発表。この作品は「ヒッチコックマガジン」の1961年(昭36)ベストで1位に選ばれている。
1961年(昭36)に「週刊朝日」に発表した「水の中の顔」は日本文藝家協会の「代表作時代小説 昭和36年度」に収録される。
1961年(昭36)に「小説新潮」に発表した「偶数」は日本探偵作家クラブの「1961 推理小説ベスト20」に収録される。
1961年(昭36)、「」を「宝石」に発表。
1961年(昭36)に「婦人公論」に発表した「万葉翡翠」は日本探偵作家クラブの「1962 推理小説ベスト20」に収録される。
1962年(昭37)、「時間の習俗」を「旅」にて発表。この作品は「ヒッチコックマガジン」の1962年ベストで3位に選ばれている。
1962年(昭37)に「小説中央公論」に発表した「閉銷」は日本推理作家協会の「推理小説ベスト24 1963年版」に収録される。
1962年(昭37)、日本文芸家協会理事就任。
1963年(昭38)に「小説新潮」に発表した「たづたづし」は日本推理作家協会の「推理小説ベスト24 1964年版」に収録される。
1963年(昭38)、「日本の黒い霧」(1960年(昭35)文芸春秋)、「深層海流」(1961年(昭36)文芸春秋)、「現代官僚論」(1965年(昭40)文芸春秋)により、第5回日本ジャーナリスト会議賞受賞。
1963年(昭38)、日本推理作家協会理事長に就任。
1964年(昭39)に「文芸春秋」に発表した「脊梁」は日本推理作家協会の「推理小説ベスト24 1965年版」に収録される。
1965年(昭40)に「小説新潮」に発表した「六月の北海道」は日本推理作家協会の「推理小説ベスト24 1966年版」に収録される。
1965年(昭40)、「草の陰刻」を「読売新聞」に発表。
1966年(昭41)、「婦人公論」に掲載された「砂漠の塩」(1965年(昭40))により、第5回婦人公論読者賞を受賞。
1966年(昭41)、「新本格」を提唱する。
1966年(昭41)に「宝石」に発表した「雨」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1967年版」に収録される。
1967年(昭42)に「小説新潮」に発表した「家紋―十二の紐<橙色の紐>」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1968年版」に収録される。
1967年(昭42)、「週刊文春」に掲載した「昭和史発掘」、「小説現代」に掲載した「花氷」(1966年(昭41))、「逃亡」などで、第一回吉川英治文学賞を受賞。
1968年(昭43)に「オール讀物」に発表した「山」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1969年版」に収録される。
1968(昭和43)、「Dの複合」を「宝石」に発表。
1969(昭和44)、「アムステルダム運河殺人事件」を「週刊朝日カラー」に発表。
1969年(昭44)に「オール讀物」に発表した「新開地の事件」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1970年版」に収録される。
1970年(昭45)、「週刊文春」に連載した「昭和史発掘」(1964年(昭39)~1971年(昭46))などで、第18回菊池寛賞受賞。
1970年(昭45)に「オール讀物」に発表した「奇妙な被告」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1971年版」に収録される。
1971年(昭46)、「小説現代」に掲載された「留守宅の事件」により、第三回小説現代ゴールデン読者賞を受賞。同時に日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1972年版」に収録される。
1971年(昭46)、日本推理作家協会会長に就任。
1972年(昭47)に「小説新潮」に発表した「理外の理」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1973年版」に収録される。
1973年(昭48)、「風の息」を「赤旗」に発表。
1973年(昭48)、「ベトナム古代文化視察団長」就任。
1973年(昭48)に「オール讀物」に発表した「駆ける男」は日本推理作家協会の「推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1974年版」に収録される。
1977年(昭52)、第29回NHK放送文化賞受賞。
1981年(昭56)に「週刊文春」に発表した「十万分の一の偶然」が「週刊文春」の81年「傑作ミステリーベスト10」の5位に選ばれる。
1987年(昭62)に「小説新潮」に発表した「紙碑」は日本文藝家協会の「現代の小説 1988」に収録される。
1989年(平1)、社会派推理小説の創始、現代史発掘などの作家活動により朝日賞受賞。
1992年(平4)、肝癌のため死去。
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松本清張 | |
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松本清張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/15 12:08 UTC 版)
松本 清張(まつもと せいちょう、1909年(明治42年)12月21日[1] - 1992年(平成4年)8月4日)は、日本の小説家。“せいちょう”はペンネームで、本名は、“きよはる”と読む[5]。
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- ^ a b c ここでは公式記録としての誕生日を記述したが、実際の誕生日は異なる。詳細は経歴及び、以下の脚注を参照。
- ^ a b 松本清張自身は広島で生まれたと話しているが、信憑性の低い公式記録では福岡県企救郡板櫃村(現・北九州市小倉北区)生まれ。清張本人の言及と公式記録が異なるといういびつな状態についての詳細は経歴及び、以下の脚注を参照。
- ^ 出生地の相違についていえば、松本清張本人の言及と公式記録が違うというのは本来あり得ないから、当然公式記録(とされているもの)が間違っているということになる。「松本清張=小倉生まれ」が定着した理由として、作家として世に出た時、清張は既に長く小倉で育ちまた居住していたこと、小倉で出生届が出されているとされることなどが考えられるが、最も大きな理由は清張の年譜の記述ではないかと考えられる。清張の年譜の初出は1958年の角川書店『現代国民文学全集27 現代推理小説集』の著書略歴とされるが(『松本清張書誌研究文献目録』368-372頁)、それから今日に至るほぼ全ての年譜の記述が「福岡県小倉市篠崎に生まれる」「福岡県小倉市に生まれた」というように「小倉生まれ」という書き出しで始まっているからである。これは初出あたりの年譜を全て踏襲していったから思われるが、やはり「小倉生まれ」という書き出しで始まるこれら年譜の影響力は非常に大きなものであったと推定される。これが清張人気と相まって世間一般に定着していったのではないだろうか。年譜の作成にあたり清張が「小倉で生まれた」と言及したのなら何ら問題はないが、清張は年譜の作成に関与していないと考えられる。何故そういえるかと言えば、清張が「小倉で生まれた」とはっきり言ったのなら、後年のインタビューで「小倉で生まれたことになっている」とは絶対に言わないからである。「小倉で生まれていない」のに、第三者によって「小倉で生まれた」ことにされ、世間一般に「小倉生まれ」と広まったことに対する不満から「小倉で生まれたことになっている」と話したものと推定される。清張は自身の過去についてはあまり話さなかったといわれているから(『人間松本清張-専属速記者九年間の記録』256頁、『霧の中の巨人 回想・私の松本清張』84頁)年譜の作成は清張抜きで出版関係者が「清張の自伝的小説」を基にして作ったものと考えられる。過去を話さない人が自身の資料を提供したとも考えにくい。特に出生から作家として世に出るまでの記述は主として『半生の記』を基に作成されているが(『松本清張 その人生と文学』9頁)、『半生の記』の出生に係る部分の記述は「広島から峯太郎とタニとが九州小倉に移った事情はよく分からない。(中略)それで、炭鉱景気で繁昌している北九州の噂を聞いて、ふらふらと関門海峡を渡ったのではないかと想像する。明治四十二年十二月二十一日に私が生まれている。(「父の故郷」)」と書かれ、これだと小倉で生まれたようにとれるが(『清張とその時代』38頁)、はっきり「小倉で生まれた」と言ってはいない。清張はインタビューや自伝的小説と呼ばれる作品の中でも「小倉で生まれた」と言ったことはない。「広島で生まれた」とはインタビューで答えている他、清張自身が「これまでの作品の中で自伝的なものの、もっとも濃い小説」と話した(『松本清張傑作選 戦い続けた男の素顔―宮部みゆきオリジナル セレクション』新潮社、306頁)『父系の指』の中でも「広島のK町に生まれたと聞かされた」と書いている。この『父系の指』は『半生の記』の中で「私の父と田中家の関係はほとんど事実のままこれに書いた」と紹介するくだりがある。「私の父と田中家の関係はほとんど事実」にあたる部分がどこからどこまでかは分かり難いが「広島のK町に生まれたと聞かされた」の記述は、その説明の途中に出てくる。この清張本人が自伝的小説の中で書いている「私は広島で生まれたと聞かされた」の記述が、これまで軽んじられてきた理由は分からない。と言うよりも無視されてきたという言い方が適当か。もし清張が「小倉で生まれていない」ということになると、広島を出た後、祖父母のいる下関に10年近く定住していることから、最初から下関に定住する目的で広島を出たものと思われ、その間の小倉滞在は、旅の途中か、ごく短期間と考えるのが自然で、小倉定住は10歳、11歳頃からと推定されるから、これでは「小倉出身」ともいえないような状況が生じる。このため、清張自身が「広島で生まれた」と話しても、自伝的小説の中で「広島で生まれたと聞かされた」と書いていても、清張に関わる人たちにとっては「小倉生まれ」でないと都合が悪いということなのかも知れない。「松本清張の公式記録」というのは公式な、例えば公立図書館などに、前述したように年譜を基に作成された「松本清張=小倉生まれ」と記載された文献がある、ということではないかと推定される。間違っているなら清張が何故それを訂正しなかったかについては、郷原宏が「出生の環境を恥じる思いもあって、あえて(年譜を)訂正しなかったのだろう」と考察している(『清張とその時代』36頁)。
- ^ 清張の作品分野は多岐にわたるが、ここでは図録『松本清張記念館』(1998年、北九州市立松本清張記念館)の分類を参照して記述した。
- ^ 音読みのペンネームは小説家の中山義秀(「なかやまぎしゅう」、本名の読みは「よしひで」)に倣ったもの。もっとも清張は、「ぎしゅう」が本名であると勘違いをしていた。森史朗 『松本清張への召集令状』(2008年、文春新書、15-16頁)参照。実際には、1950年代中盤まで編集者も「きよはる」と読んでいた。半藤一利らによる座談会「週刊誌創刊時代の松本清張」(『松本清張研究』第8号(2007年、北九州市立松本清張記念館)収録)参照。
- ^ 北九州市立松本清張記念館にも展示されている清張の幼児期の記念写真の裏や台紙には、広島市内の地名「広島京橋」と、撮影した写真館の名前がはっきりと記述されている(藤井康栄 『松本清張の残像』(2002年、文春新書)31-35頁、郷原宏『清張とその時代』(2009年、双葉社)、33-36、386頁)。また、清張の作品中、最も私小説的で、半分は事実という『父系の指』の中で、「私は広島で生まれたと聞かされた」と書いている。さらに、清張自身、読売新聞のインタビューで「生まれたのは小倉市(現北九州市)ということになっているが、本当は広島なの」と話している(読売新聞、1990年11月12日夕刊、5面、同インタビューはのちに『文学の森・歴史の海』としてエッセイ集『グルノーブルの吹奏』(1992年、新日本出版社)に収録、『中央公論Adagio』2009年4月25日号「特集 松本清張と日比谷を歩く」、読売メディアセンター、4頁)。北九州市立松本清張記念館の館長を務める藤井康栄も、著書『松本清張の残像』(文春新書、2002年)の中で、「古い一枚の写真は広島生れの傍証となるものかもしれないけれど、だからといって生年月日や出生地などの公式記録を書きかえることはできない。それらは本人が生涯なじみ、確認しつづけたものなのだから」と説明しつつも、同書の記述では、清張が実際には広島生まれであることを否定していない。藤井は朝日新聞(2009年12月10日29面)や中国新聞(2009年5月28日11面)誌上でも同様に、清張は広島生まれと言及しているものの、清張の戸籍謄本他、全ての公式記録の出生地が小倉になっており、清張本人が出生地の訂正をしなかったものを他人が換えられないと説明している(朝日新聞、2009年12月10日29面)。清張の「小倉で生まれたことになっている」発言からは、藤井のいう「本人が生涯なじんでいた」とは思えず、また第三者が「本人が生涯なじんでいた」と決められるものでもない。藤井のこのような独自の判断が、公式記録を書き換えない理由として適切なのかは不明であるが、藤井の著書以降、清張の研究本、及び公的文献に於いても、「松本清張=広島生まれ」と記述するものが増えてきている(郷原宏『清張とその時代』、権田萬治『松本清張 時代の闇を見つめた作家』、中央公論Adagio第14号『松本清張と日比谷を歩く』、『松本清張の黒の地図帖 昭和ミステリーの舞台を旅する』、『週刊朝日百科 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄JR33』2010年3月7日発行、朝日新聞出版、34頁、島根県 : 第503号ひろめーる第173号 ひろしま、松本清張傑作選 戦い続けた男の素顔―宮部みゆきオリジナルセレクション―)。清張研究の第一人者といわれる[1]郷原宏は「小倉は本籍地であって出生地とは考えられない」「出生の環境を恥じる思いもあって、あえて(年譜を)訂正しなかったのだと考えられる」「清張は机の前に自分の年譜を掲げて自伝を書いていたというから、おそらくは年譜にあわせて事実を改竄したのである」と解説している(郷原宏 『清張とその時代』、33-38)。ただ藤井が館長を務める北九州市立松本清張記念館は、清張の出生地が広島であるとの報道について「新説」として触れたものの(『松本清張研究』第12号(2011年、北九州市立松本清張記念館)巻末の「記念館だより」)、「松本清張は小倉生まれ」との見解を変えていない。このため、同記念館に協力を仰いで製作されたテレビ番組、雑誌文献などでは、現在でも、「松本清張=小倉生まれ」と紹介する場合が多い。
- ^ また、これも自伝的小説といわれる『父系の指』の中にも「私は広島のK町に生まれたと聞かされた」と書かれている。郷原宏は、私小説に書かれているすべてが事実とは限らないが、ここは誰が見ても事実を曲げる必要のないところであり、しかも単に「広島」と書けばすむところをわざわざ「広島のK町」と具体的に踏み込んだ書き方をしており、記念写真の件と合わせて郷原も「小倉は本籍地で出生地とは考えられない」清張の出生地は広島と言及している。また、この「K町」とはおそらく広島駅近くの京橋町(現在の南区)と話している(郷原宏 『清張とその時代』、33-38、386頁、中国新聞、2009年4月2日、25頁)。
- ^ 下関の同級生や関係者の証言、また清張自身の記述には、相互に食い違いも見られ、決め手になるデータは得られていないものの、清張の家族が下関から小倉に転居したのは小学校5年生の時とする説が有力(『松本清張の残像』、35-37頁、郷原宏 『清張とその時代』、61、62、389頁)。
- ^ 峯太郎の松本家への養子入りは、田中雄三郎・とよ夫妻の離別が契機。しかし雄三郎ととよはのちに復縁し(のち峯太郎の弟に当たる嘉三郎を生む)、峯太郎を田中家に返してくれるよう松本米吉に交渉したが、米吉夫妻には子供がなく、峯太郎を離さなかった。『松本清張全集 第60巻』(1995年、文藝春秋)付属の月報を参照。
- ^ 清張の生前において、各種資料の記述が「松本清張=小倉生まれ」で統一されてきた背景の一つとしては、『松本清張全集』(文藝春秋)の編纂などの機会にあたって、清張が特に年譜の訂正を行わなかったという事情もある。しかし後に記述する晩年のインタビューでは、「(小倉で)生まれたことになっている」と述べており、清張自身、自分の出生に関してこだわりを見せることもあった。『松本清張の残像』30頁参照。
- ^ 読売新聞、1990年11月12日夕刊、5面。同インタビューはのちに『文学の森・歴史の海』としてエッセイ集『グルノーブルの吹奏』(1992年、新日本出版社)に収録。
- ^ この件に関しては、『松本清張の残像』31頁、34-35頁参照。「正式に出生届を出す前は、キヨハルは清張でなく、この字(清治)をあてていたらしい」。
- ^ a b ひろしま
- ^ 2010年、広島市郷土資料館にて特別展「松本清張展~清張文学との新たな邂逅(かいこう)」が7月11日まで開かれ、清張の広島出身の可能性を、多くの資料展示により検証する試みが行われた。『朝日新聞広島版』2010年5月8日付を参照。
- ^ 広島から小倉に移った両親が、まだ出生届を出していなかったことに気づき、あるいは他人から指摘されて届け出を出した日か、その際、届け出の遅れを吏員に叱責されるのを恐れ、届け出日の数日前を記入した、などの事情が考えられる。『松本清張の残像』31-35頁、 『清張とその時代』33-36頁、「週刊 松本清張 1号 『点と線』」ディアゴスティーニ・ジャパン、2009年10月27日発行、28-30頁)参照。
- ^ 『清張とその時代』、33-39頁。同書38頁で、郷原宏は「清張は机の前に自分の年譜を掲げて『半生の記』を書いていたというから、おそらく年譜に合わせて事実を改竄したのである」と述べている。もっとも、清張は『半生の記』に対して「自叙伝めいたもの」と用心深い表現をしている。
- ^ 終戦後は小倉市内の黒原営団(現、黒住町)の元兵器厰の工員住宅に住み、砂津に在った朝日新聞西部本社まで歩いて通勤していた。20坪前後の敷地に一家8人で生活していた。『松本清張全集 第59巻』(1995年、文藝春秋)付属の月報を参照。
- ^ 『西郷札』に関わるエピソードを自ら語ったものに「『西郷札』のころ」(『実感的人生論』(2004年、中公文庫)などに収録)、「運不運 わが小説」(エッセイ集『名札のない荷物』(1992年、新潮社)、また『松本清張全集 第65巻』(1996年、文藝春秋)に収録)がある。
- ^ この時の選考委員の「選評」と清張の「感想」は、『松本清張の世界』(1992年、文藝春秋臨時増刊、2003年、文春文庫)に収録されている。
- ^ 芥川賞を受賞した『或る『小倉日記』伝』は、通常書籍に収録されている作品とは厳密には異なっている。これは原稿を『三田文学』にいったん送ったあとで改稿を行ったが間に合わず、送った原稿がそのまま芥川賞受賞となったためである。清張によれば、「(改稿を行ったのは)『三田文学』に掲載されている他の作品の文章がわたしなどよりも格段にしっかりしていて、小説とはこういうものかと教えられる一方で、打ちひしがれた気持ちになって、せめて少しでもマシなものにしたいと思ったからである」という。清張による自伝エッセイ『雑草の実』(『読売新聞・夕刊』1976年6月16日~7月9日掲載、「自伝抄〈1〉」(1977年、読売新聞社)に収録)参照。
- ^ 朝日新聞東京本社広告部長の矢野伊三見宛てに、東京への転勤を希望する清張の手紙が残されているが、手紙中では、文学で成長するためにも早く東京に出たいと述べている。手紙の全文は、『松本清張全集 第59巻』付属の月報に掲載。
- ^ 当初単身赴任となった清張は、まず杉並区荻窪の田中家(田中嘉三郎は清張の父である峯三郎の弟。嘉三郎はすでに死去していたが、その家族が住んでいた)に寄宿した。翌年1954年の7月に一家が上京、当初は練馬区関町の借家に住んでいたが、3年後の1957年に石神井に転居した。藤井 『松本清張の残像』末尾の年譜に加え、『松本清張全集 第60巻』(1995年、文藝春秋)付属の月報を参照。
- ^ 退社の直接の契機は井上靖からの助言であった。清張『雑草の実』、または『文学の森・歴史の海』参照。
- ^ 清張の多作は同時代の作家にとっても驚きであり、種々の憶測も呼んだ。作家の平林たい子は、「朝から晩まで書いているんですけど、何人かの秘書を使って資料を集めてこさせて、その資料で書くだけですからね。松本と言えば人間ではなく「タイプライター」です」(『思想界』(韓国の雑誌)1962年8月号掲載)と発言した。これに対し清張は「事務処理をする手伝いの人が一人いるのみで、事実に反する」(日本読書新聞1962年10月22日・11月12日掲載)と反論している。
- ^ 日本推理作家協会理事長に就任した経緯に関しては、山村正夫『続々・推理文壇戦後史』(1980年、双葉社)227-233頁を参照。会長に就任した経緯、また会長職が清張一代限りとなった経緯に関しては、佐野洋『ミステリーとの半世紀』(2009年、小学館)212-216頁を参照。それまでの探偵作家クラブが「社団法人・日本推理作家協会」に改組された際、清張は百万円を出資した。これは江戸川乱歩の信託預金と共に、個人としては最高額であった。佐野の同書140頁を参照。この他、協会内での清張の活動をめぐる話題も佐野の同書を参照。
- ^ 自身、短編の執筆を好んでいたことをはっきり言明していた。「短篇小説ほど作者の考えをはっきりとさせるものはない。(中略)エドガー・アラン・ポーや、アントン・チェーホフ、ギ・ド・モーパッサン、サマセット・モーム、上田秋成の諸短篇が、他の長篇小説に比べていささかも遜色がないばかりか、かえって、そのテーマの明快さのために力強い感銘を与えている。短篇小説はたった一つだけ焦点を設定し、それに向かって可能な限り直截な方法で効果を集中させてゆく。これは短篇の形式でなければ得られない妙味である」(『松本清張短篇総集』(1963年、講談社)巻末の「書いたころ」参照)。「わたしは、どちらかというと長篇よりも短篇が好きで、短篇の数が多い。短篇は、焦点が一つに絞られて、それへの集中が端的だからである。短篇小説が長篇小説ほどに迎えられないというのはふしぎだし、書き手が長篇を多く指向するのもわからない」(『着想ばなし(15)』(『松本清張全集 第56巻』(1984年、文藝春秋)付属の月報に掲載)参照)、など。
- ^ 例えば、文芸評論家の平野謙は、「『或る「小倉日記」伝』から『菊枕』『断碑』などにいたる一連の作品群のなかに、松本清張の作家的真面目があるのではないか」(『平野謙 松本清張探求』(2003年、同時代社)参照)と評し、推理小説評論家の権田萬治は「むしろ短編のほうが上だという気がしてならない」(「『点と線』から『霧の会議』まで - 清張ミステリーの系譜」(『松本清張の世界』(1992年、文藝春秋臨時増刊、2003年、文春文庫)収録)参照。)と述べている。
- ^ 前述の平野謙に拠る表現。平野は作者がこれらの作品の主人公へ共感を寄せると共に、その限界を客観的に洞察しているとして評価し、「私小説のように見えるが私小説ではない」「世のつねの被害者意識いっぱいの私小説をつきぬけたところがある変形私小説」(平野「純文学論争以後」(『群像』1971年10月号掲載)参照)などと評している。また、あわせてこれらの作品に後の作品の萌芽を見い出し、「犯罪者への傾斜と、人間的社会的条件をひとつひとつ追求する名探偵の眼」と付け加えている。なお、芥川賞受賞時の選評において坂口安吾が、「この文章は実は殺人犯人をも追跡しうる自在な力があり」と評したことはよく知られている。
- ^ エッセイ「日本の推理小説」(『随筆 黒い手帖』(1961年、中央公論社)収録)参照。
- ^ 後に作家となって以降も、牧逸馬の自宅を訪れ、蔵書を一覧し、原資料について質問している。『日光中宮祠事件』、『アムステルダム運河殺人事件』のような作品を書くようになったのは牧逸馬の影響であると述べている。尾崎秀樹「『新青年』と松本清張」(『松本清張研究』第2号(1997年、砂書房)収録)参照。戦後の作品としては、香山滋『怪異馬霊教』の強烈な個性に関心を持ったという。山村正夫『続・推理文壇戦後史』(1978年、双葉社)43頁を参照。
- ^ 1962年初め頃、清張は欧米の推理小説に詳しいアシスタント(清張の速記者を務めた福岡隆の親戚)を使い、トリック分類表を作成させた。分類表は江戸川乱歩「類別トリック集成」(『続・幻影城』(1954年、早川書房、2004年、光文社文庫など)に収録)の形式に倣ったものであり、6つの大カテゴリと各カテゴリ内での分類によって構成され、コナン・ドイル、アガサ・クリスティから乱歩に至る実作例が付されている。大カテゴリは以下の通り。(1)「犯人(または被害者)の人間に関するトリック」(一人二役など)(2)「他人が出入りした痕跡についてのトリック」(密室など)(3)「犯行の時間に関するトリック」(乗り物、時計、音など)(4)「凶器と毒物に関するトリック」(5)「人および物の隠し方トリック」(死体の隠し方など)(6)「その他の各種トリック」(童謡殺人、迷路など)。トリック分類表の詳細は、福岡隆 『人間松本清張-専属速記者九年間の記録』(1968年、大光社、1977年、本郷出版社)122-129頁を参照。また、日本推理作家協会の理事長時代、中島河太郎と山村正夫に委嘱して、国内中心の150例近くを補充したトリック分類表を作成させた。詳細は日本推理作家協会の機関誌『推理小説研究』第7号(1969年)を参照。
- ^ 推理小説に現実性を持たせる主張自体は、清張の独創ではない。古典的な探偵小説の非現実性に対する批判として有名なものに、アメリカの作家レイモンド・チャンドラーのエッセイ「The Simple Art of Murder」(1944年、「素朴な殺人芸術」「むだのない殺しの美学」などと訳されてきた)がある。ただし、清張は「推理小説が謎解きの面白さを骨子としている以上、トリックを尊重するのは当然である」とする立場を捨てず、動機の重視など、チャンドラーとは異なる方法へと進んだ。
- ^ 推理小説で人間を描くこと、あるいはその文学性との関わりについては、清張以前から議論が続けられてきた、古典的な問題である。特に有名なものは、のちに清張が作家として世に出る際大きな役割を果たした木々高太郎と、甲賀三郎による論争である。論争の概要は、江戸川乱歩の自伝『探偵小説四十年』(1961年、桃源社、2006年、光文社文庫など)中、「甲賀・木々論争-昭和十一・二年度」の「甲賀・木々論戦」などを参照。また、木々を中心とした新人推理作家グループによる、「探偵作家抜打座談会」(『新青年』1950年4月号掲載)も行われたが、乱歩によれば「探偵小説本格主義打倒の純文学論を高唱したもの」であったという。概要は乱歩の評論集『幻影城』(1951年、岩谷書店、2003年、光文社文庫など)中の「探偵小説純文学論を評す」を参照。「探偵小説純文学論を評す」に関しては、のちの清張『随筆 黒い手帖』、特に「推理小説の魅力」も参照。
- ^ 「社会派推理小説」という用語(あるいは宣伝用のキャッチコピー)がいつ・どこで使われ始めたか、正確な初出は明らかではない。筒井康隆との対談『作家はひとり荒野をゆく』(1977年)中で清張は、「(社会派推理小説という呼称は)編集者がつけた」と発言している。『随筆 黒い手帖』においてすでにそうであるが、清張は「社会派」の呼称が推理小説に使われることを好まなかった。晩年の「グルノーブルの吹奏」(『小説現代』1988年1月号掲載、『松本清張全集 第65巻』に収録)でも、社会派の呼称は適当ではないと明言している。
- ^ 具体的には以下の通り。「正直に言って、この時期に推理小説はその本来のあるべき性格を失いつつあった。その理由の一つは題材主義に倚りかかりすぎたためであり、一つはジャーナリズムが多作品を要求したため不適格な作品が推理小説の名において横行したことであり、もう一つは、その結果、推理作家自体の衰弱を来したことである。これは反省すべきことであった」「今や推理小説は本来の性格に還らなければならない。社会派、風俗派はその得た場所に独立すべきである。本格は本格に還れ、である」。叢書『新本格推理小説全集』序文を参照。
- ^ 「いい作品が少ないですね、社会派ということで、風俗小説か推理小説かわからないようなものが多い。推理小説的な意味で言えば水増しだよ。それで、トリックオンリーの探偵小説、たとえば横溝さんのものなど、どんでん返しもあれば意外性もあって、コクがあるでしょう、それで読者に迎えられているんだよ」(「調べ推理する楽しみ」(エッセイ集『グルノーブルの吹奏』に収録))。他に佐野洋との対談「清張ミステリーの奥義を探る」(『発想の原点-松本清張対談集』に収録))も参照。
- ^ フランスの推理作家・評論家のフランソワ・リヴィエールとの対談において、推理小説には骨格としてアイデア・トリックの独自性が必要であるが、他方単調さを回避するために副主題を伴うべきで、既成事実への疑問追及や既成観念への挑戦がテーマとしてうってつけである、と主張した。『国際推理作家会議で考えたこと』(文藝春秋1988年1月号掲載、『松本清張研究』第8号(2007年、北九州市立松本清張記念館)収録)参照。
- ^ 「グルノーブルの吹奏」(1988年)中の講演記録を参照。日本の作家のトリックは欧米よりもすぐれているものが多くある、とも述べている。
- ^ 『国際推理作家会議で考えたこと』参照。
- ^ 権田萬治『松本清張 時代の闇を見つめた作家』(2009年、文藝春秋)に拠る表現。
- ^ 歴史小説に関して清張は、以下のように述べている。「鷗外流に史実を克明に淡々と漢語交じりに書くのが「風格のある」歴史小説ではない。史実の下層に埋没している人間を発掘することが、歴史小説家の仕事であろう。史実は結局は当時の人間心理の交渉が遺した形にすぎない。だから逆に言うと、歴史小説は、史実という形の上層から下層に掘られなければならないことになると思う。歴史小説と史実が離れられないゆえんである」。「推理小説の周辺」(『随筆 黒い手帖』収録)参照。
- ^ 1981年頃には、鑑真をテーマにした歴史小説を『群像』に連載する構想を持っていた。同誌元編集長の天野敬子による「幻の歴史小説」(『松本清張研究』第12号(2011年、北九州市立松本清張記念館)収録)参照。
- ^ 上田正昭京都大学教授によれば、織田信長の比叡山焼き討ちを、延暦寺側から描く作品の構想も持ち、1992年春から取材を開始していた。「『日本の黒い霧』-私はこう読んだ」(『松本清張研究』第5号(2004年、北九州市立松本清張記念館)収録)の上田正昭の部分を参照。
- ^ 帝銀事件は当時すでに最高裁で被告に死刑の判決が下されており、裁判は終わっていた。それを踏まえて改めて事件を「推理」することは、裁判批判を意味した。ただし当時は裁判批判が高まった時期であり、清張が特殊であったわけではない。松川事件に対しては、作家の広津和郎が裁判批判を書き、宇野浩二は「世にも不思議な物語」(『文藝春秋』1953年10月号掲載)を執筆、清張も広津を支援するなどの活動を続けた。下山事件に関しては、清張は広津や南原繁元東京帝大総長とともに「下山事件研究会」を結成、「推理は推理、真実の追及は別になければならない」として真相究明を訴え続けた。
- ^ 清張によると、「最初、これ(『日本の黒い霧』)を発表するとき、私は自分が小説家であるという立場を考え、「小説」として書くつもりであった」(『なぜ「日本の黒い霧」を書いたか』(『朝日ジャーナル』1960年12月4日号))。
- ^ 『日本の黒い霧』は、すでに連載中から様々に議論を引き起こした作品である。掲載誌の文藝春秋には、あくまでも推理の一文ではあるが多くの国民に事件の疑問解明の素材を提供するもの、として好意的な評価も寄せられる一方、作家の大岡昇平は以下のように批判した。「私は松本清張を大体雑誌に掲載されるに連れて散漫に読んで来たのだが、(中略)初期のものははじめて(読ん)だが、そこに作者の精神構造が端的に出ていて興味深かった。私はこの作者の性格と経歴に潜む或る不幸なものに同情を禁じ得なかったが、その現われ方において、これは甚だ危険な作家であるという印象を強めたのである。「小倉日記」「断碑」は、国文学や考古学の町の篤学者が、アカデミズムに反抗して倒れる物語である(中略)。学問的追及を記述するという点で、推理小説の趣きであるが、推理がモチーフではない。と言って感傷的な悲憤慷慨小説でもないので、学界、アカデミズムというものの非情さと共に、それに反抗して倒れて行く主人公の偏執も、冷たく突放して描いてある。後日社会的推理小説家になってから書いた「小説帝銀事件」「日本の黒い霧」は、朝鮮戦争前夜の日本に頻発した謎の事件を、アメリカ謀略機関の陰謀として捉えたものであり、栄えるものに対する反抗という気分は、初期の作品から一貫している。しかし松本の小説では、反逆者は結局これらの組織悪に拳を振り上げるだけである。振り上げた拳は別にそれら組織の破壊に向うわけでもなければ、眼には眼の復讐を目論むわけでもない。せいぜい相手の顔に泥をなすりつけるというような自己満足に終るのを常とする。初期の「菊枕」「断碑」に現われた無力な憎悪は一貫しているのである」「(『日本の黒い霧』が)政治の真実を書いたものと考えたことは一度もない」「無責任に摘発された「真相」は松本自身の感情によって歪められている」「彼(清張)の推理は、データに基づいて妥当な判断を下すというよりは、予め日本の黒い霧について意見があり、それに基づいて事実を組み合わせるというふうに働いている(→謀略史観)。」(「松本清張批判」(「常識的文学論」(12)、『群像』1961年12月号掲載)参照)。大岡の批判に対して、清張は以下のように反論している。「(真実を)描き出していないと断定する以上、大岡氏はその真実の実際を知っていなければならぬ」「大岡氏がどれだけ真実の実際を知っておられるか教示を乞いたいものである」「『日本の黒い霧』をどういう意図で書いたか、という質問を、これまで私はたびたび人から受けた。これは、小説家の仕事として、ちょっと奇異な感じを読者に与えたのかもしれない。だれもが一様にいうのは、松本は反米的な意図でこれを書いたのではないか、との言葉である。これは、占領中の不思議な事件は、何もかもアメリカ占領軍の謀略であるという一律の構成で片づけているような印象を持たれているためらしい。そのほか、こういう書き方が「固有の意味での文学でもなければ単なる報告や評論でもない、何かその中間めいた"ヌエ的"なしろもの」と非難する人(→歴史学者の成瀬治を指す。松本清張全集第30巻参照。)もあった。これも、私という人間が小説家であるということから疑問を持たれたのであろう。私はこのシリーズを書くのに、最初から反米的な意識で試みたのでは少しもない。また、当初から「占領軍の謀略」というコンパスを用いて、すべての事件を分割したのでもない。そういう印象になったのは、それぞれの事件を追及してみて、帰納的にそういう結果になったにすぎないのである。」「「松本清張批判」をよく読んでみると、これは単独に私に向けられた矢だけとは思えない。私への批判はその間に、伊藤整氏(→「「純」文学は存在しうるか」において、「プロレタリア文学理論やその党派的行きがかりに全く煩わされなかった松本清張」により「資本主義の社会悪をえぐって描き出す大きな作品」が実現されたと書き、清張を一時高く持ち上げた文芸評論家)、平野謙氏(→清張や水上勉を高く評価し、純文学論争の中心となった文芸評論家)という二枚のフィルターが嵌められていて、光線が水中で屈折するがごとく向かってくる」「(大岡の言う)個人の拳が組織の悪を散々に破壊する力を持たないことは明白であり、そのようなものを書こうとしたら、チャチな活劇映画も顔負けするような茶番になる」「大岡氏の一連の「常識的文学論」は、多分に実証的批評で大変面白かったが、こと「松本清張批判」に関する限り、蓋然たる気分でものを云っておられると思う」(「大岡昇平氏のロマンチックな裁断」(『群像』1962年1月号掲載))。『日本の黒い霧』を歴史学的視点から検証したものとして、藤井忠俊「「日本の黒い霧」の時代認識と評価―「黒地の絵」と帝銀・下山・松川事件諸作品の資料検証」(『松本清張研究』第5号(2004年、北九州市立松本清張記念館)収録)がある。
- ^ 筑摩書房「世界ノンフィクション全集」は1960年4月の刊行開始であるが、探検記・旅行記・戦記などが中心の内容であった。吉村昭のノンフィクション小説「戦艦大和」が刊行されたのは1966年であるが、ドキュメンタリーあるいはルポルタージュ的内容を持ったノンフィクションが広い支持を得て、専門のノンフィクションライターが職業として成立するのはさらに後の時代である。藤井淑禎「清張 闘う作家-「文学」を超えて」(2007年、ミネルヴァ書房)中の「小説とノンフィクション」、または藤井の論文「ノンフィクションの展開」(『岩波講座 日本文学史 第14巻 20世紀の文学3』(1997年、岩波書店)収録)も参照。
- ^ 『昭和史発掘』連載中には、右翼の大物からの抗議もあった。呼びつけられたが、根拠を示して説明すると解放してくれたという。藤井康栄 『松本清張の残像』、181-182頁参照。
- ^ 日本近代史専攻の有馬学の証言によれば、『昭和史発掘』中で清張の駆使する史料は、当時の研究者から見ても、相当な水準のブレーンがいなければ集め得ないものであったという(「事実・発掘・史料-いま再びの「昭和史発掘」」(『現代思想』2005年3月号(青土社)収録)参照。)。このため種々の憶測も生まれたが、清張は「資料の捜索蒐集は、週刊文春編集部員の藤井康栄が一人であたった」と明言している(『二・二六事件-研究資料』(1976年、文藝春秋)の「まえがき」参照。)。さらに清張没後、藤井による『松本清張の残像』(2002年、文春新書)が刊行され、清張の史料探索の実際を知るための資料となっている。
- ^ 歴史学者の成田龍一と日本文学者の小森陽一は、「松本清張と歴史への欲望」(『現代思想』2005年3月号収録)において、『日本の黒い霧』と『昭和史発掘』は、清張の戦後歴史学(アカデミズム)に対する批判意識が見出せると述べている。戦後歴史学が、権力対民衆運動の枠組みに縛られ、権力(=天皇)の問題を考察する(=天皇制は封建制の残滓であり日本の遅れの象徴という)イデオロギー構造になっていたのに対し、GHQの謀略という視点を持ち込み、また、法則性に基づいた歴史の発展(=マルクス主義)ではなく、個別ばらばらの事件を追求して背景を探るという発想自体、当時の歴史学にはなく、『日本の黒い霧』の手法が新しいものであったこと、『日本の黒い霧』は天皇をめぐる議論には触れていないため、当時の多くの歴史学者は清張の議論を軽視・無視したが、のちに清張は『昭和史発掘』でファシズムの問題に取り組み、戦後歴史学が、大政翼賛会を念頭に思想統制や治安維持法に代表される上からのファシズムを強調するパターンを取っていたのに対して、清張は下仕官や兵のレベルまで資料発掘・言及する対象を拡大し、二・二六事件で決起した青年将校やA級戦犯に戦争の全ての責任があるのではなく、国民一人一人が戦争への欲望を持ち、下からファシズムを望んでいたことを論証しようとした、と指摘している。
- ^ 「松本清張の時代に生きて」(『松本清張研究』第4号(2003年、北九州市立松本清張記念館)収録)参照。
- ^ 『二・二六事件-研究資料』。清張が文藝春秋の出版局長に直接交渉して出版された。「資料集はたとえ商売にならなくても、大切なものは世に還元すべき」と主張したという。藤井康栄 『松本清張の残像』、162-165頁参照。
- ^ 事情により頓挫した文藝春秋の企画の一つとして「戦後内閣論」がある。森史朗 『松本清張への召集令状』、307頁参照。
- ^ 晩年の清張に同行していた藤井康栄がノンフィクションは無理と判断した。「『草の径』取材随行者座談会 あの旅行は楽しかったね」(『松本清張研究』第3号(2002年、北九州市立松本清張記念館)収録)参照。
- ^ 朝日新聞社勤務時代には歴史書を雑読し、広告部校閲係の先輩から民俗学の雑誌を借りて読んでいた。また樋口清之の考古学入門書を愛読していた。小野芳美「古代史・考古学への目覚め-朝日新聞社時代の松本清張-」(『松本清張研究』第7号(2006年、北九州市立松本清張記念館)収録)参照。
- ^ 古代史に関心を持つ理由について、清張は以下のように述べている。「わたしの書く「歴史」ものでは、古代史と現代史関係が多く、その中間が抜けている。人からよく訊かれることだが、これは「よく分からない」点に惹かれているからだろう。古代史には史料が少ないために、現代史は資料が多すぎるがその価値が定まっていないために、どちらも空白の部分がある。「歴史」はやはり推理の愉しさがなくてはならない」。『私を語る-思考と提出』(『國文學 松本清張と司馬遼太郎』(1973年第18巻7号、學燈社)収録)参照。
- ^ 『陸行水行』発表(1963年11月 - 1964年1月)後、古代史探究を深めていく経緯を、清張は以下のように述べている。「この小説(『陸行水行』)は、論文として書かれたものでもなければ、私の邪馬台国論を小説化したものでもない。(中略)本にまとまるとかなりの反響があった。そこでこういうものが私の邪馬台国論と思われては困ると思い、その後二年して「中央公論」に『古代史疑』を執筆した」。『松本清張自選傑作短篇集』(1976年、読売新聞社)巻末の自作解説「私の推理小説作法」を参照。また「怨霊のなぐさめ」(エッセイ集『名札のない荷物』、また『松本清張全集 第65巻』に収録)にも同様の言及がある。
- ^ 井上光貞や上田正昭は、清張が『古代史疑』を発表した時点でこれに高い評価を与えている。井上・上田・牧健二・佐原真「松本清張『古代史疑』を考証する」(『中央公論』1967年新年号掲載)参照。この対談にも参加した考古学者の佐原はのちに、清張の考えそのものには従えないところも多いが、研究者には到底思いもつかないその発想・着想は大いに刺激的であると評している。また、清張の古代史論は基本的に文献からの学習に基づいていたが、普通の研究者があまり着目しない明治期以来の古い研究史をも熟読しており、学史の学習が清張を強くしたのではないか、とその特色を分析している。『松本清張全集 第65巻』巻末の佐原による解説を参照。歴史学者の門脇禎二と考古学者の森浩一は、対談「清張古代史の現在を再検討する」(『松本清張研究』第6号(2005年、北九州市立松本清張記念館)に収録))において、清張没後に進んだ三内丸山遺跡の発掘結果により、清張説が否定された例もあるものの、当時の政治史中心の学界に対して、国際的な人的交流、貿易史の視点を強調したこと、あるいは朝鮮文化の影響を大きく評価する当時の研究風潮に対して、ゾロアスター教などペルシア文化の影響力を強調したことなどは、学界に大きな刺激となったこと、また清張がいる間は、学者もテレビなどでいい加減なことは言えない雰囲気があったことなどと述懐している。同じく森による「清張古代史を語る」(『松本清張研究』第5号(1998年、砂書房)収録)も参照。他に2009年時点での清張古代史の評価を述べたものとして、『火の路』(2009年、文春文庫)巻末の森による解説など。
- ^ 以下のトピックの記述は、藤井康栄『松本清張の残像』(2002年、文春新書)の巻末年譜に準拠し、その他の資料に基づく場合は適宜補注した。
- ^ 「論争」については『小説推理』1974年7・10月号(清張の指摘)、9・11月号(高木の反論)参照。経緯に関しては、佐野洋『ミステリーとの半世紀』277-281頁も参照。
- ^ 「かのように」「魔唾」「佐橋甚五郎」など鴎外の作品を清張が推理小説と関連づけた文章として、「鴎外の暗示」(『森鴎外・松本清張集<文芸推理小説集Ⅰ>』(1957年、文芸評論社)掲載、のちに『松本清張研究』第2号(1997年、砂書房)収録))がある。
- ^ 国文学者三好行雄との対談の中で、清張は「私は鴎外にそんなに影響を受けたとか、あるいは鴎外に私淑して、一生懸命文体なり、あるいはテーマの取り方なんかを学んだとは思いませんね。鴎外と漱石というのを比べてみますと、大人という言葉を使えば、鴎外が漱石よりはるかに大人です。」と語っている(「社会派推理小説への道程」(『国文学 解釈と鑑賞』1978年6月号掲載)参照)。対して、夏目漱石に対する清張の言及は、以下のように否定的なトーンのものが見られる。「批評家が『こころ』を漱石晩年の傑作のように言っているのが私には不可解です。要するに漱石の作品は、実生活の経験がなく、書斎に閉じこもって頭で書いたものだからです」(『菊池寛の文学』(『オール讀物』1988年2月号掲載、『松本清張研究』第2号(2001年、北九州市立松本清張記念館)再録)参照)。
- ^ その一例として、赤塚正幸・藤井淑禎・山田有策「松本清張にとって鴎外とは」(『松本清張研究』創刊号(2000年、北九州市立松本清張記念館)収録)がある。
- ^ 『大島ができる話』『啓吉の誘惑』『妻の非難』『R』など、菊池寛の「啓吉もの」が自分の読書歴の古典であり、今でも文章の一部を暗記しているくらいであると清張は述べている。『随筆 黒い手帖』中の「推理小説の周辺」参照。より詳細には『形影 菊池寛と佐佐木茂索』参照。
- ^ 清張が共鳴した菊池寛の考え方を示すものとして、「小説家たらんとする青年に与ふ」(『文芸倶楽部』1921年9月号掲載)がある。この中で菊池は「とにかく、小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、そんなものよりも、ある程度に、生活を知るといふことと、ある程度に、人生に対する考へ、所謂人生観といふべきものを、きちんと持つといふことが必要である」と述べている。
- ^ 『形影 菊池寛と佐佐木茂索』中で、文学史上における菊池寛を、清張は以下のように位置づけている。「菊池のいうテーマ小説の出現は、それまでの自然主義的傾向の小説、白樺派の人道主義的小説の流れと切りはなしては云えない。田山花袋らに代表される自然主義的小説は「あるがままのものをあるがままに描く」ことをモットーとしたが、それは自己の経験を中心にしたものであり、題材はきわめて狭かった。狭いゆえに描写の深化はあったが、その深化は行き詰りにつながっていた。(中略)自然主義的小説は人間生活の暗黒面が強調され、題材も主として女と貧乏にかぎられるようになった。大正末期までの「私小説」は、葛西善蔵に代表されるように生活落伍者と女関係とが主題になっている。(中略)「告白」はトルストイなどからの影響だが、その「告白」を皮相的にあるいはストイックに解釈し、または意識的に自己流に歪曲したのが大正期の私小説といえようか。自然主義小説は、人生を観照しても、実人生に解決がない如く、小説にも解決がない。自我を主張するが、その自我も因襲的な家族制度と社会機構に押し潰される。かくて自然主義小説は絶望の文学となり、虚無的となる。しかし、ここにも感傷的なロマンチシズムがあるのは見のがせない。これが愛読者を得た理由でもある。けれども題材が自己の経験や周囲の観察に限られているため、同じような話をくりかえして書く結果になり、マンネリズムに陥って、衰弱した。わずかに徳田秋声や正宗白鳥などが命脈をつぐ。その自然主義小説に反抗してあらわれたのが白樺派である。彼らはトルストイの告白面よりも、その人道主義に共鳴した。有島武郎、武者小路実篤、志賀直哉、長与善郎など学習院卒の、貴族の子弟がそのグループだった。(中略)白樺派の小説は、一部に熱狂的な支持者を得ても、一般からはひろい共鳴を得られなかった。いわば、貴族のお坊ちゃんのひとりよがりの小説としてその底の浅さを云われ、嘲笑された。そこに登場したのが、菊池や芥川のテーマ小説である。人間の暗黒面、無解決、いつはじまっていつ終わったかわからないような叙述、小説の興味を抹殺したような平板、単調な構成の自然主義小説や私小説類、もしくはそれとは対蹠的だが白樺派の感傷的な人道主義小説または楽天的な理想小説に不満だった読者は、明快で理知的な人生裁断を前面に押し出した菊池の小説を歓迎した。菊池の小説は「自我」がテーマになっている。自然主義小説にも自我はあったが、それは内在的なものとしてしか扱われていなかった。菊池はそれを正面に押し出した。(中略)彼はその自我をテーマに、現代小説にしても歴史小説にしても、存分に面白い物語をつくりあげた」。清張の菊池作品に対する評価は、芥川龍之介や志賀直哉の作品に比べても高い。例えば「芥川を讃美するのはよいが、芥川作品の構成の脆弱よりも、寛の鉄骨で組み立てたような構造の見事さは、もっと再評価されてよいのではなかろうか」(『随筆 黒い手帖』)、「菊池だったら文章に効果的な省略はあっても、肝要なところは手抜きなどしないで、きっちり書くだろうと思われるのである。それは志賀と菊池の生活経験の違いから来る。『暗夜行路』の主人公は(中略)居所を転々とし、その間「放蕩」などするような自分の使う金に反省がないのみならず、社会的感覚がまったくなく、あるのは都合のいい自己だけである」(『形影 菊池寛と佐佐木茂索』)、など。
- ^ 「その前から小説は好きで読んでいた。しかし、小説を本気で勉強したり、小説家になろうとは思っていなかった。だが、この本を読んだあと、急に小説を書いてみたい気になった。それほどこの本は私に強い感銘を与えた」「(思い出の一冊にとどまらず)いまでも私に役立っている」(「一冊の本」(朝日新聞企画のシリーズエッセイ)1960年11月3日参照)。清張のこのエッセイを読んだ木村は以下のように書いている。「私のながい文学生涯において、これほど私にうれしかった文章はめったにない(中略)、若き松本清張君の訪問は、私をよろこばせ、自信をつけ、再生の思いをさせた」(「『小説研究十六講』の縁」(『私の文学回顧録』(青蛙房、1979年)収録))。鶴見俊輔の指摘によれば、『小説研究十六講』は、「昭和初期まで相当の影響力を持っていた」はずだが、文学者の「最初に自分の眼をひらいてくれた本のことをあまり言いたがらない習慣」ゆえに、無視されるようになったという(鶴見による「解説-時分の花」(『松本清張全集』第34巻収録)参照)。
- ^ 「(清張は)会見後はいよいよ私の支持者となって、ただに『小説研究十六講』ばかりか、私の書くたくさん著作を飽きもせず渉猟して、埋没した明治史の発掘者として、文藝春秋社のどれかの雑誌に講演をして、長々と私をほめ、「えらい人」と言っている」(木村「『小説研究十六講』の縁」)。
- ^ 同文中で清張は「それまで私は小説はよく読んでいるほうだったが、漫然とした読み方であった。小説を解剖し、整理し、理論づけ、多くの作品を博く引いて例証し、創作の方法や文章論を尽くしたこの本に、私を眼を洗われた心地となり、それからは小説の読み方が一変した。」「高遠な概念的文学理論も欠かせないが、必要なのは小説作法の技術的展開である。本書にはこれが十分に盛られていた。」「私は33歳のころまで乏しい蔵書を何度か古本屋に売ったことはあるが、この「小説研究十六講」だけは手放せず、敗色濃厚な戦局で兵隊にとられた時も、家の者にかたく保存を云いつけて、無事に還ったときの再会をたのしみにしたものだった」と述べている。国文学者の石川巧による「「小説研究十六講」から「小説研究十六講」へ-菊池寛・木村毅・松本清張」(『松本清張研究』第2号(2001年、北九州市立松本清張記念館)収録)も参照。
- ^ 水上と井上ひさしの対談「清張さん、ちょっといい話」(『松本清張の世界』(1992年、文藝春秋臨時増刊、2003年、文春文庫)収録)参照。
- ^ 清張と司馬の対談としては、『日本の文化と日本人』(別冊小説新潮1973年1月号掲載、『文学と社会-松本清張対談集』(1977年、新日本出版社)収録)、「天下を分けた大激戦の明暗」(『司馬遼太郎の日本史探訪』(1999年、角川文庫)収録)など。
- ^ 清張が自らの歴史観を述べた一例として、以下のものがある。「ぼくの史観? それはイデオロギーとか、政治学ではなくて、やはり人間を、あるいは組織をですね、見下ろすんじゃなくて、底辺のところで見まわす、あるいは上を見上げるというか、そういうことだろうと思うんだ。ぼくは上から人間を描いたことがないと思いますけどね」(『文藝春秋』臨時増刊「日本の作家100人」1971年12月号)。他方、司馬は以下のように書いている。「俯瞰、上から見下ろす。そういう角度が、私という作家には適している」(司馬『歴史小説と私』(『歴史と小説』(1969年、集英社文庫など)収録))。半藤一利『清張さんと司馬さん-昭和の巨人を語る』(2002年、日本放送出版協会)も参照。
- ^ 川端康成と谷崎潤一郎は清張を加えることに必ずしも反対せず、妥協案も示したが、三島は譲らなかった。中央公論で清張を担当していた宮田毬栄による『追憶の作家たち』(2004年、文春新書)、あるいは「松本清張の仮想敵-全集「日本の文学」をめぐって」(『松本清張研究』第2号(2001年、北九州市立松本清張記念館)収録)を参照。三島側の視点からこの件を論じたものとして、橋本治『三島由紀夫とはなにものだったのか』(2005年、新潮文庫)中の「松本清張を拒絶する三島由紀夫-あるいは、私有される現実」など。
- ^ 三好行雄との対談で清張は以下のように述べている。「三島由紀夫があんなふうに最後に、右翼だとか、国家主義者だとか言われているのは、皮相な観察だと私は思う。彼は題材を求めてそこに流されていったと思うんです。(中略)そのことは大江健三郎でもある程度言えそうです。あの人はもともと左翼でもなければ、いわゆる進歩的文化人のタイプじゃないと思う。学生からすぐに作家生活に入った。だから「死者の奢り」のような感覚的文章が本来の大江健三郎だと思います。ところがたまたま反米的な材料をとるというようなことから、これは小説のために材料をとったと言っていいところがある。(芥川龍之介・三島・大江の)三者に共通しているのは、材料の(生活に根ざしていない)人工的な面ですね」(「社会派推理小説への道程」(『国文学 解釈と鑑賞』1978年6月号掲載))。山崎豊子との対談『小説ほど面白いものはない』(『小説新潮』1984年3月号掲載、山崎「小説ほど面白いものはない 山崎豊子 自作を語る3」(2009年、新潮社)に収録)中でも、三島・大江に関してほぼ同じ見解を述べている。思想史家の仲正昌樹は、自らの実生活から作品の材料を掘り出していると自負する清張にとって、美の世界に自己を同化させようとしたり特殊な体験に基づき創作する芥川・三島・大江は異質の存在であったと述べている(「松本清張と三島由紀夫」(『松本清張研究』第4号、1998年、砂書房に収録))。もっとも清張も三島の才能そのものは高く評価しており、『過ぎゆく日暦(カレンダー)』「昭和五十六年十一月十五日(日)」の項では、「芥川(龍之介)は三島の前にはあまりに小さすぎる」「才能は三島のほうがはるかに川端(康成)を凌いでいる」などと述べ、三島の豊かな天分は特に短編に発揮されたと評している。
- ^ 乱歩と清張による、記録として残っている唯一の対談「これからの探偵小説」(『宝石』1958年7月号掲載、『江戸川乱歩と13の宝石 第2集』(2007年、光文社文庫)等に収録)参照。ちなみに『零の焦点』は、横溝正史『悪魔の手毬唄』や高木彬光『成吉思汗の秘密』と同時期の連載であった。
- ^ 乱歩による、清張作品に対する踏み込んだ評論は特に残されていない。もっとも、乱歩は極端な本格原理主義者と見られることも、あるいは極端な文学主義者と見られることも望まず、評論集『幻影城』中の「探偵小説純文学論を評す」では、自身の見解を「文学的本格論」と称していた。乱歩の自伝『探偵小説四十年』中の、特に「「幻影城」出版と文士劇-昭和二十五・六・七年度」の「抜打座談会」、「英訳短篇集の出版-昭和三十一年度」の「探偵小説論争」なども参照。他方、国産の本格推理の昭和20年代の状況に関しては、横溝正史や高木彬光の活動にもかかわらず、悲観的な認識を持っていた。『探偵小説四十年』中の「涙香祭と還暦祝い-昭和二十八・九年度」の「翻訳ブームの曙光」などにそうした記述があるが、清張との対談『これからの探偵小説』中でも、清張に対して同様の見解を述べている。
- ^ 『随筆 黒い手帖』、特に「推理小説の魅力」参照。
- ^ 「江戸川乱歩論」(雑誌『幻影城』1975年7月増刊号掲載、エッセイ集『グルノーブルの吹奏』に収録)参照。
- ^ 最晩年の乱歩と清張の最後の会話(1965年6月30日)の様子については、山村正夫『続々・推理文壇戦後史』(1980年、双葉社)312-315頁を参照。清張の乱歩への弔辞は、同書322-323頁を参照。乱歩と清張の関係に触れた文献は多いが、ここでは上記注に挙げたもののほか、藤井淑禎『清張 闘う作家-「文学」を超えて』(2007年、ミネルヴァ書房)を参照した。
- ^ 木々はのちにこの時のことを以下のように回顧している。「この作家(清張)はね、もしも養成すれば、たいへんにいいものが出るのではなかろうか、と思って返事を出しましてね。これ(西郷札)一つじゃ困る、これくらいのものを二・三編送ってくれ、そうすれば自分も『三田文学』に紹介するつもりでいる、という返事を出した」。座談会「松本清張を語る」(『宝石』1963年6月号収録)参照。
- ^ 清張の木々論の一例として、『随筆 黒い手帖』(特に「推理小説の魅力」)、エッセイ「木々作品のロマン性」(日本推理作家協会編『マイ・ベスト・ミステリー(4)』(2007年、文春文庫)などに収録)など。また、木々の死去を受けて、清張は日本推理作家協会の機関誌『推理小説研究』第7号(1969年)巻頭に追悼文を掲載している。山村正夫『推理文壇戦後史・4』(1989年、双葉社)88頁も参照。
- ^ その一例として、『横溝正史読本』(2008年、角川文庫)中の小林信彦と正史の対談、また栗本薫と正史の対談「探偵小説への見果てぬ夢」(『別冊幻影城 「横溝正史Ⅳ」』(1977年No.11、株式会社幻影城)収録)、森村誠一『人間の証明』(1977年、角川文庫)の正史による解説など。なお、『真山仁が語る横溝正史 私のこだわり人物伝』(2010年、角川文庫)中に収録された対談で、角川春樹による「松本清張が横溝正史の作品をお化け屋敷と呼んだ」旨の発言があるが、清張が正史の作品を挙げてお化け屋敷と呼んだ事例は、『随筆 黒い手帖』を含めて、実際には存在しない。にもかかわらずこの解釈が生じた背景の一つとしては、1957年に行われた荒正人と清張の論争があり、その中で荒は、清張の文章が名前を伏せた正史批判に相当する旨を主張した。この論争の詳細は、荒正人・中島河太郎編『推理小説への招待』(1959年、南北社)を参照。
- ^ 森村誠一の清張観は、森村による『作家の条件』(2010年、講談社文庫)、座談会「松本清張の時代に生きて」(『松本清張研究』第4号(2003年、北九州市立松本清張記念館)収録)など参照。
- ^ 山村美紗から見た清張の印象を述べたものとして、エッセイ『ミステリーに恋をして』(1992年、光文社文庫)がある。
- ^ 西村京太郎『女流作家』『華の棺』(ともに朝日文庫)参照。
- ^ 島田荘司『本格ミステリー宣言』(1993年、講談社文庫)など参照。
- ^ 『松本清張短編全集01 西郷札』(2008年、光文社文庫)の島田による解説を参照。島田はノンフィクション作品『秋好英明事件』を書いているが、島田を秋好支援に熱中させたのは、これら清張作品の潜在記憶であると回顧している。
- ^ 宮部みゆき参加の座談会の一例として、「清張流「旅はひとりがいい」」(『松本清張研究』第3号(2002年、北九州市立松本清張記念館)収録)、「清張さんの魅力」(『文藝春秋』(2010年4月号)掲載)など。
- ^ 「推理小説常習犯」
- ^ 林悦子 『松本清張映像の世界 霧にかけた夢』(2001年、ワイズ出版)中の「巨匠スケッチ」を参照。
- ^ 『状況曲線』(1992年、新潮文庫)の和田による解説を参照。
- ^ この項の記述は、基本的には、藤井康栄『松本清張の残像』(2002年、文春新書)の巻末年譜に準拠し、その他の資料に基づく場合は適宜補注した。
- ^ 半藤一利・加藤陽子・宮田毬栄・藤井康栄による対談「同年に生を享けて-一九〇九年生まれの作家たち」(『松本清張研究』第10号(2009年、北九州市立松本清張記念館)収録)参照。
- ^ 2月25日 - 3月22日分の記録として「日記メモ」(エッセイ集『名札のない荷物』、また『松本清張全集 第65巻』に収録)がある。この間、カンボジアやラオスなどを歩いている。
- ^ この前にキューバ政府主催の「世界文化会議」に出席、国家元首のカストロと会見しようとしたが実現しなかった。この経緯は、元文藝春秋編集長で当時清張に同行した、岡崎満義「ジャーナリスト松本清張さんの一面」(『松本清張研究』第8号(2007年、北九州市立松本清張記念館)収録)参照。なお4月には来日したエドガー・スノーと対談し、『潮』1968年6月号にその内容が掲載された。
- ^ 岡崎満義「ジャーナリスト松本清張さんの一面」参照。文藝春秋の岡崎は「社会で機能する具体的な権力の1つとして(共産党の)効用を認めていたが、観念論の網にからめとられることはなかった」と回顧している。
- ^ 池田大作と清張の初対面は、『松本清張対談』の第2回「戦争と貧困はなくせるか」(文藝春秋1968年2月号掲載、単行本未収録)。その後も個人的な親交を続けた。池田大作と清張の関係に言及したものとして、前原正之「池田大作 行動と軌跡」(2006年、中央公論新社)など。文藝春秋の清張担当者であった藤井康栄によれば、清張の大ファンと言う池田大作とも、自宅が当時清張宅のすぐ近くにあった宮本顕治とも、ごく気軽に話せる関係であり、創共協定は偶然の重なりによるものであるという。藤井らによる対談「同年に生を享けて-一九〇九年生まれの作家たち」(『松本清張研究』第10号(2009年、北九州市立松本清張記念館)収録)参照。
- ^ 最晩年にはグルノーブルの原子力発電所に絡んだ推理長編を構想しており、1992年の年明けに中央公論社の会長・社長を招いて執筆を約束、初夏にヨーロッパを取材する予定であった。グルノーブルに加えて、パリ、リヨン、モンテカルロ、ウィーン、ブリュッセルなどを舞台とする構想だったという。宮田毬栄『追憶の作家たち』(2004年、文春新書)参照。
- ^ 場所は虎ノ門の中華料理店「晩翠軒」であった。この時も、他の推理作家に先んじ、ガードナーと直接英語で推理小説に関する議論を行っていた。『顔』(1995年、双葉文庫、日本推理作家協会賞受賞作全集第9巻)巻末の山村正夫による解説、または山村『続・推理文壇戦後史』(1978年、双葉社)48頁を参照。山村によれば、ガードナーは清張に「日本の推理作家はなぜ国内だけで作品を消化せず、海外マーケットの進出にもっと積極的にならないのか?」と反問したという。この件は同じく山村『続々・推理文壇戦後史』(1980年、双葉社)200頁を参照。
- ^ 詳細は『EQ』(光文社)1978年創刊号「対談:エラリー・クイーンvs松本清張」を参照。クィーン(フレデリック・ダネイ)との対談中、推理小説の基本的な考え方について互いに同意する一方、意見を対立させる局面もあった。クィーンは推理小説の世界ベスト10として、イギリスの推理作家トマス・バークによる「オッターモール氏の手」をあげたが、清張は「意外性のみを狙ったもので動機皆無、普遍性がない」と主張し、論争になった。この件に関しては、『清張日記』(『松本清張全集 第65巻』などに収録)中、「昭和五十七年・九月五日(日)」の項も参照。また、世界推理作家会議でグルノーブルを訪問し「あなたの作風はクィーンに似ていると思うが?」と質問された際、明確に否定している。『国際推理作家会議で考えたこと』も参照。
- ^ クィーンは1967年に起こったジム・トンプソンの失踪事件に関心を持っており、すでに『熱い絹』の執筆に着手していた清張と関心を共有することになった。山村『続々・推理文壇戦後史』(1980年、双葉社)202頁参照。
- ^ フランス語版『砂の器』(Le Vase de Sable)の初版には、「LE SIMENON JAPONAIS」(日本のシムノン)と書かれた帯が付されている。新聞「ル・マタン」紙では「Matsumoto, l'intellectuel fasciné par la laideur」の見出しで紹介された。講演内容の詳細は「グルノーブルの吹奏」、または「国際推理作家会議で考えたこと」も参照。
- ^ 英語力に関しては、文藝春秋関係者、海外取材同行者、エラリー・クィーンとの対談時の同席編集者など、証言多数(一例として藤井康栄『松本清張の残像』、71-77頁)。キューバ国営テレビのインタビュー番組に出演した際(1968年)も、英語でスピーチを行った。最終学歴は高等小学校卒であったが、衛生兵として朝鮮に渡った戦時中には洋書を読み、朝日新聞社勤務時には英語力のある社員をつかまえて学び、通勤時間を英会話の練習に使った。作家になり多忙になって以降も、若い外国人女性(文藝春秋の岡崎満義による)を家庭教師として雇い、日曜日に自宅で英会話の個人レッスンを受けていた。
- ^ 清張作品の中国での受容動向、中国人の清張観を知る資料の一例として、王成・林濤・王志松・李菁・王中忱「日本の探偵小説・推理小説と中国 その中国における受容と意味」(2006年、北九州市立松本清張記念館)がある。
- ^ 1961年から2009年までの清張作品の韓国語への翻訳・翻案作品一覧は、「松本清張韓国語翻訳・翻案作品目録」(『松本清張研究』第12号(2011年、北九州市立松本清張記念館)収録)参照。
- ^ 『松本清張(新潮日本文学アルバム)』(1994年、新潮社)88頁、『松本清張全集』第66巻(1996年、文藝春秋)巻末の翻訳出版目録、および『Japanese Literature in Foreign Languages 1945-1995』(1997年、the Japan P.E.N. Club)を参照。
- ^ 回数の計算に用いた参照資料に関しては松本清張原作のテレビドラマ一覧を参照。
- ^ 清張による霧プロダクションの総括記録として、『「霧プロ」始末記』(『週刊朝日』1984年10月26日号掲載)がある。同プロダクションの設立に清張が熱意を示したのは、『黒地の絵』の映画化を強く望んでいたからだとされており、発足前の仮称は「黒地の絵プロダクション」とも報じられていた(『読売新聞』1978年7月28日付参照)。その後、映画監督の黒澤明とプロデューサーが清張のもとを訪れ、同作の映画化に賛成し握手をしたものの、その後は何の反応もなかったという。井手雅人によるシナリオも制作されたが、結局映画化は実現していない。他方橋本忍は、同作は映画化に向かないという見解を示している。白井佳夫と川又昴による対談「松本清張の小説映画化の秘密」(『松本清張研究』第1号(1996年、砂書房)収録)、白井・大木実・西村雄一郎による対談「映画『張込み』撮影現場からの証言」(『松本清張研究』第2号(1997年、砂書房)収録)、白井・堀川弘通・西村による対談「証言・映画『黒い画集・あるサラリーマンの証言』」(『松本清張研究』第3号(1997年、砂書房)収録)、白井・橋本による対談「橋本忍が語る清張映画の魅力」(『松本清張研究』第5号(1998年、砂書房)収録)などを参照。
- ^ 1975年以降の出典は、林 『松本清張映像の世界 霧にかけた夢』に拠った。
- ^ 『松本清張全集 第61巻』(1995年、文藝春秋)付属の月報を参照。
- ^ 「無念無想でパチンコに集中していると、ふっとアイデアが浮かんでくる」とも述べている。『松本清張全集 第61巻』付属の月報を参照。
- ^ 半藤 『清張さんと司馬さん-昭和の巨人を語る』、林 『松本清張映像の世界 霧にかけた夢』など参照。清張が来店したとわかると、パチンコ店の店員が玉を持ってきたり、コーヒーを用意する店もあったが、本人はそのように気を遣われるのを嫌がっていた。『松本清張全集 第61巻』付属の月報を参照。周囲に無関心な人の多い場所を求めて、渋谷の店舗まで足を運んでいたとの証言もある。『松本清張全集 第60巻』(1995年、文藝春秋)巻末の解説を参照。朝日新聞社勤務時代に職場の同僚としていた麻雀や将棋に関しては下手で、家族にもコロコロ負けるほどであったという。『松本清張全集 第61巻』付属の月報を参照。
- ^ 『十万分の一の偶然』(2009年、文春文庫)巻末の、藤井康栄による解題を参照。すでに戦争出征前に、当時貴重なドイツ製のライカを入手していた。夫人によれば、カメラの新製品が出るとチェックせずにはいられなかった、という。なお、『松本清張カメラ紀行』(1983年、新潮社)も出版している。
- ^ 『松本清張全集 第57巻』(1995年、文藝春秋)付属の月報を参照。
- ^ 『松本清張全集 第58巻』(1995年、文藝春秋)付属の月報を参照。
- ^ 以上、『松本清張全集 第62巻』(1995年、文藝春秋)付属の月報を参照。清張の茶目っ気に関しては同文のほか、林 『松本清張映像の世界 霧にかけた夢』164頁の例など。
- ^ 林 『松本清張映像の世界 霧にかけた夢』148頁参照。
- ^ 『いまだ見ぬ花 - ぼくのマドンナ - 』(『日本経済新聞』1979年5月21・22日夕刊掲載、のちにエッセイ集『グルノーブルの吹奏』に収録)参照。
- ^ 講演『小説と取材』(『オール讀物』1971年7月号掲載、『松本清張の世界』(1992年、文藝春秋臨時増刊、2003年、文春文庫)収録)参照。「『波の塔』だとか、『水の炎』だとかいうような題を出しておけば、内容が推理小説であろうが、ロマン小説であろうがあるいは時代小説であろうが、あと一ヶ月のほんとうの締切りまで時間がかせげるわけであります」。
- ^ 座談会「松本清張の時代に生きて」(『松本清張研究』第4号(2003年、北九州市立松本清張記念館)収録)参照。
- ^ 『点と線』以来、清張の原稿の遅さにやきもきする編集者の逸話は多いが、『オール讀物』編集部次長の中井勝は「ゲームセンターのモグラ叩きで、清張さんをモグラに見立てて叩きまくった」と述べている。『天窓の灯』(『松本清張全集 第49巻』(1983年、文藝春秋)付属の月報に掲載)参照。他に、清張担当編集者特有の熟練を述べた、講談社開発室長の名田屋昭二による『「名人芸」のころ』(『松本清張全集 第40巻』(1982年、文藝春秋)付属の月報に掲載)もある。
- ^ 「『草の径』取材随行者座談会 あの旅行は楽しかったね」(『松本清張研究』第3号(2002年、北九州市立松本清張記念館)収録)参照。
- ^ 林 『松本清張映像の世界 霧にかけた夢』中の「巨匠スケッチ」参照。
- ^ 福岡隆 『人間松本清張-専属速記者九年間の記録』(1968年、大光社)114頁参照。
- ^ 藤井康栄の上司でもあった半藤一利によれば、「相当手荒く扱われたという思い出だけを語る人もいるようです。が、それは清張さんの眼から見て、編集者として一種落第であったため、としか考えられないのです。とくに約束にたいしてズボラな者には厳しかった。清張さんの優しさにふれられなかった人は、自分で自分の胸に手をあてて考えてみたらよろしいのではないか」(半藤 『清張さんと司馬さん-昭和の巨人を語る』参照)。
- ^ 映画『砂の器』のラストに関して清張は、「小説じゃ書けないよ。映画でなけりゃできない、すごい」と褒めたという。また「映画化でいちばんいいのは『張込み』『黒い画集 あるサラリーマンの証言』だ。両方とも短編小説の映画化で、映画化っていうのは、短編を提供して、作る側がそこから得た発想で自由にやってくれるといいのができる。この2本は原作を超えてる。あれが映画だよ」と述べたという。白井佳夫と川又昴による対談「松本清張の小説映画化の秘密」(『松本清張研究』第1号(1996年、砂書房)収録)、白井佳夫・堀川弘通・西村雄一郎による対談「証言・映画『黒い画集・あるサラリーマンの証言』」(『松本清張研究』第3号(1997年、砂書房)収録)などを参照。
- ^ 『松本清張全集 第62巻』付属の月報を参照。長男の不祥事とは、ポーカーゲーム賭博で逮捕された件を指す。林 『松本清張映像の世界 霧にかけた夢』89頁も参照。
- ^ 「『草の径』取材随行者座談会 あの旅行は楽しかったね」(『松本清張研究』第3号(2002年、北九州市立松本清張記念館)収録)参照。遺書の日付は1989年6月10日夜、ヨーロッパ取材旅行の前日となっていた。
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