内容・あらまし
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プロローグ「葉隠」とわたし 三島が少年期から20年以上もの間、手元に置き、ことあるごとに読み返していた愛読書は、山本常朝の『葉隠』ただ一冊であった。『葉隠』の「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という一句に代表される死の概念や、自由と情熱の言霊の数々は、三島に、「文武両道」の生涯を決心させた。三島は、『葉隠』そのままの行き方を実践する一方、『葉隠』が否定する「芸道」(芸術、文学)を生業としていたため、常に大きな葛藤を抱えていた。プロローグでは、三島の人生に永遠の活力源と相克をもたらした、禁断の書・『葉隠』への三島の心酔ぶりが語られている。 一 現代に生きる「葉隠」 現代は『葉隠』が描く世界とは正反対の時代であり、『葉隠』が侮蔑する芸能人の時代、人間が歯車となった時代である。また、経済的繁栄により、青年が、「生への衝動」を満足させることができるようになった時代なのである。しかし、これは、現代の若者から、「死への衝動」が消滅したことを意味しない。たとえば、恋愛についても、『葉隠』の恋愛は一生打ち明けない「忍恋(しのぶこい)」が理想とされるが、現代の恋愛は、すぐに発散されて死んでしまうために、現代の若者は、「恋愛不感症と情熱の死」の矛盾で苦しんでいる。 ところが、現代においても、青年の中に抑圧された「死への衝動」が、ふとしたきっかけで表面化することもある。安保闘争は、青年が、生と死の相反する衝動を同時に満たすための行動であった。つまり「死」の問題は、『葉隠』の時代も、戦乱の時代も、現代においても常に存在しており、『葉隠』の言う「死」が特別ではないのである。三島はそれを敷衍し、こう説明している。 「葉隠」の言つてゐる死は、何も特別なものではない。毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いはば同じだといふことを「葉隠」は主張 してゐる。われわれはけふ死ぬと思つって仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない。 — 三島由紀夫「葉隠入門」 二 「葉隠」四十八の精髄 三島は、『葉隠』を「行動哲学」「恋愛哲学」「生きた哲学」として、三つの側面を持つ哲学書であると捉えている。あくまで主体的かつ、自己を超えるものへ行動の基準を置く『葉隠』の「行動哲学」とは、「一定の条件下に置かれた人間の行動の精髄の根拠をどこに求めるか」ということに尽き、「政治的な理念」に基づくものではない。「恋愛哲学」とは、「エロース(愛、恋)とアガペー(神への愛)を峻別しない」日本人本来の、「恋」と「忠」(献身)が同義となる観念で、「人間の恋のもつとも真実で、もつとも激しいものが、そのまま主君に対する忠義に転化される」というものである。「生きた哲学」とは、「夢の間」である時の流れを「毎日毎日これが最後と思つて生きていくうちには、何ものかが蓄積されて」、自らが役に立つときが来るという根本理念である。その他この項目では、各論として48の側面から、三島による『葉隠』の精髄が語られている。 三 「葉隠」の読み方 『葉隠』はかつて、戦争中に戦地に赴く若者に推奨されていた。しかし現在において『葉隠』が読まれる理由は、戦時中とは逆の事情であり、生活とかけ離れてしまった「死」を読むためである。日本人はかつて日常生活と表裏一体のものとして「死」を意識してきたが、西洋人が死に抱く「死神」の恐ろしさはなく、「死」を現世に流れる自然の「せせらぎ」のように清々しく捉え、それは日本人の芸術の源泉でもあった。そのため、西洋からあらゆる「生の哲学」を学んでも、我々日本人には、それに真から馴染むことはなかったである。 『葉隠』の「死」の明澄さは不思議にも、「非人間的」、「犬死」だと批判されている神風特攻隊とも重なり、その彼らの苦悩を超えた「死」の決意の姿は、「日本の一つながりの伝統」の中に置くとき、『葉隠』の「明快な行動と死の理想」に極めて近いものになっている。人智をはるかに超えた世界の中で、人間は最終的には「死」を完全に自分で選ぶことも、強いられることもできない。原爆死のような「圧倒的な強いられた死」も、各々一人一人の大切な人生にとっては運命の死であった。自殺でさえ、そこには「宿命の因子」があり、自然死と見える病死も、そこに至るまでには自殺に似た要素が見られることもある。 「図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りなる武士道なるべし。二つ二つの場にて、図に当ることのわかることは、及ばざることなり。」 —山本常朝「葉隠」 賢しらな人間は、自分で「死」を選びとれると蒙昧し、また、「正しい目的のための死」があると思い込んでいるが、変幻流転する歴史においては、その「正しさ」も時の流れで逆転しうる性質のものである。『葉隠』は、そのような「煩瑣な」判断からの「死」の選択や正否に言及しているのではない。『葉隠』の「死」は、人が死に直面する時の「人間の精神の最高の緊張の姿」として描き出しているのである。三島は以上を踏まえてこうまとめている。 われわれは、一つの思想や理論のために死ねるといふ錯覚に、いつも陥りたがる。しかし「葉隠」が示してゐるのは、もつと容赦ない死であり、花も実もないむだな犬死さへも、人間の死としての尊厳を持つてゐるといふことを主張してゐるのである。もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじないわけにいくだらうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。 — 三島由紀夫「葉隠入門」
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惨禍を生んだ戦争を呪いながらも、同時に特攻隊で散った若者の至情に対する感慨について坂口安吾は以下のように語っていく。 敗戦のあげくが、軍の積悪が暴かれるのは当然として、戦争に絡まる何事をも悪い方へ悪い方へと解釈するのは決して健全なことではない。こう一方的にかたよるのは、いつの世にも排すべきで、自己自らを愚弄することにほかならない。たとえば特攻隊の若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう。我々はこの戦争の中から積悪の泥沼をあばくことも必要であるが、同時に、戦争の中から真実の花をさがして、ひそかに我が部屋をかざり、明日の日により美しい花をもとめ花咲かせる努力と希望を失ってはならないだろう。 私は大体、戦法としても特攻隊というものが好きであった。人は特攻隊を残酷だというが、残酷なのは戦争自体で、戦争となった以上はあらゆる智能方策を傾けて戦う以外に仕方がない。人の子を死へ馳りたてることは怖るべき罪悪であるが、これも戦争である以上は、死ぬるは同じ、やむを得ぬ。日本軍の作戦の幼稚さは言語道断で、工業力と作戦との結び方すら組織的に計画されてはおらず、有力なる新兵器もなく、ともかく最も独創的な新兵器といえば、それが特攻隊であった。特攻隊は兵隊ではなく、兵器である。工業力をおぎなうための最も簡便な工程の操縦器であり計器であった。 私は文学者であり、人間を、人性を死に至るまで疑いつづける者であるが、然し、特攻隊員の心情だけは疑らぬ方がいいと思っている。なぜなら、疑ったところで、タカが知れており、分りきっているからだ。要するに、死にたくない本能との格闘、それだけのことだ。疑るな。そっとしておけ。そして、卑怯だの女々しいだの、又はあべこべに人間的であったなどと言うなかれ。 彼らは自ら爆弾となって敵艦にぶつかった。否、その大部分が途中に射ち落されてしまっただろうけれども、敵艦に突入したその何機かを彼等全部の栄誉ある姿と見てやりたい。母も思ったであろう。恋人のまぼろしも見たであろう。自ら飛び散る火の粉となり、火の粉の中に彼等の20何歳かの悲しい歴史が花咲き消えた。彼等は基地では酒飲みで、ゴロツキで、バクチ打ちで、女たらしであったかも知れぬ。やむを得ぬ。死へ向って歩むのだもの、聖人ならぬ20前後の若者が、酒をのまずにいられようか。けれども彼等は愛国の詩人であった。いのちを人にささげる者を詩人という。その迷う姿をあばいて何になるのさ、何かの役に立つのかね? 我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、守ろうではないか。軍部の偽懣とカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか。 私は無償の行為というものを最高の人の姿と見るのであるが、日本流にはまぎれもなく例の滅私奉公で、戦争中は合言葉に至極簡単に言いすてていたが、こんなことが百万人の一人もできるものではないのである。他のためにいのちをすてる、戦争は凡人を駈って至極簡単に奇蹟を行わせた。人間が戦争を呪うのは当然だ。呪わぬ者は人間ではない。そして恐らく大部分の兵隊が戦争を呪ったにきまっている。けれども私は「強要せられた」ことを一応忘れる考え方も必要だと思っている。なぜなら彼等は強要せられた、人間ではなく人形として否応なく強要せられた。だが、その次に始まったのは彼個人の凄絶な死との格闘、人間の苦悩で、強要によって起りはしたが、燃焼はそれ自体であり、強要と切り離して、それ自体として見ることも可能だという考えである。否、私はむしろ切り離して、それ自体として見ることが正当で、格闘のあげくの殉国の情熱を最大の讃美を以て敬愛したいと思うのだ。 強要せられたる結果とは云え、凡人も亦かかる崇高な偉業を成就しうるということは、大きな希望ではないか。大いなる光ではないか。平和なる時代に於いて、かかる人の子の至高の苦悩と情熱が花咲きうるという希望は日本を、世界を明るくする。ことさらに無益なケチをつけ、悪い方へと解釈したがることは有害だ。美しいものの真実の発芽は必死にまもり育てねばならぬ。 私は戦争を最も呪う。だが、特攻隊を永遠に讃美する。その人間の懊悩苦悶とかくて国のため人のために捧げられたいのちに対して。青年諸君よ、この戦争は馬鹿げた茶番にすぎず、そして戦争は永遠に呪うべきものであるが、かつて諸氏の胸に宿った「愛国殉国の情熱」が決して間違ったものではないことに最大の自信を持って欲しい。要求せられた「殉国の情熱」を、自発的な、人間自らの生き方の中に見出だすことが不可能であろうか。それを思う私が間違っているのであろうか。
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「F104 (三島由紀夫)」の記事における「内容・あらまし」の解説
「私」(三島)は、肉体の縁と精神の縁、肉体の辺境と精神の辺境だけに、いつも興味を寄せてきた人間だ。「私」には、地球を取り巻く巨きな蛇の環が見え始めた。それは、すべての対極性を、われとわが尾を嚥みつづけることによって鎮める蛇、すべての相反性に対する嘲笑を響かせている最終の巨大な蛇であった。「私」は深淵には興味はなかった。深淵は浅薄だからだ。運動の極みが静止であり、静止の極みが運動であるような領域が、どこかに必ずなくてはならぬと考えた。どこかでより高い原理があり、この統括と調整を企てていなければならないはずだった。「私」は、その原理が死だと考えた。 しかし、「私」は、死を神秘的に考えすぎていると気付く。死の簡明な物理的側面についても考察した。地球は死に包まれており、他ならぬ物理的条件で、上空までは気楽に昇れず、物理的に人を死なすこと極めて稀な、純粋な死がひしめいていると考えた。精神や知性だけが昇って行っても、死ははっきりとした顔をあらわさない。肉体と精神と、二人そろって来なくては受け入れられないのだ。「私」は、自分がその高空へついぞ肉体を伴ってきたことがなく、常に肉体を地上の重い筋肉の中に置き去りにしてきたことを悔いはじめるのだった。 「私」は、ある日、気密室へ入る。15分間の脱窒素、100%の酸素の吸入。そこで「私」は不動で、椅子に縛しめられ、手足も動かすことすらできずただ座っていることになる。「私」は肉体に向かって話しかける。「お前は今日は私と一緒に、少しも動かずに、精神のもっとも高い縁まで行くのだよ」肉体は答える。「書斎のあなたは一度も肉体を伴っていなかったから、そういうことを言うのです」4万フィートで、窒素感はいよいよ高まる。4万1千フィート、4万2千フィート、4万3千フィート、「私」は自分の口に、柔らかな、温かい、蛸のような死を感じるのだ。そこからの突然のフリー・フォール。高度2万5千フィートの水平飛行の間、酸素マスクを外して低酸素症の体験を行う。轟音とともに室内が白い霧に包まれる急減圧の体験。「私」は訓練に合格した。 12月5日、「私」はH基地でF104 016に搭乗する。あの鋭角、あの神速、その一点に自分が存在する瞬間を「私」は久しく夢見ていた。 「私」は、茜色の飛行服を着て、落下傘を身に着ける。「私」は戦闘機の後部座席に乗る。2時28分、エンジン始動。「私」は日常的なもの、地上的なものに、この瞬間に完全に決別し、旅客機の出発時とは比較にならない喜びを体験する。「私」の後ろには既知だけがあり、「私」の前には未知だけがあった。ごく薄い剃刀の刃のような瞬間が成就されるしことを、「私」は待ち焦がれていたのだ。F104は零戦が15分かけて上った1万フィートの上空へたった2分で昇る。+Gが「私」の肉体にかかる。 F104、銀色の鋭利な男根は、勃起の角度で大空をつきやぶる。その中に一疋、精虫のように「私」は仕込まれていると感じる。Gは神的なものの物理的な強制力であり、陶酔の正反対に位する陶酔、知的極限の反対側に位置する知的極限に違いなかった。 午後2時43分、3万5千フィートで、マッハ0.9の準音速から、音速を超え、マッハ1.15、マッハ1.2、マッハ1.3に至って4万5千フィートへ昇った。沈みゆく太陽は下にあった。このとき「私」は、行動の果てにあるもの、運動の果てにあるものがこのような静止だとすると、まわりの大空も、はるか下方の雲も、雲間に輝く海も、沈む太陽でさえ、「私」の内的な出来事であり、内的な事物であって不思議ではない。私の知的冒険と肉体的冒険はここまで地球を遠ざかれば、やすやすと手を握ることができるのであり、この地点こそが「私」求めてやまぬものだったと感じる。 そのとき、「私」は蛇を見た。巨大というもおろかな蛇の姿を。 操縦士の声が聞こえた。「これから高度を下げて、富士へ向かって、富士の鉢の上を旋回したのち、横転やLAZY8を多少やります。それから中禅寺湖方面を回って帰還します」 すでに高度は2万8千フィートを割っていた。 「太陽と鉄#エピロオグ――F104」も参照
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文化主義と逆文化主義 「華美な風俗」だけが氾濫する戦後の日本文化の衰退や形骸化を「近松も西鶴も芭蕉もゐない昭和元禄」と皮肉る三島由紀夫は、何故そのように「詩の深化」を忘れた文化に陥ったのかを探り、その原因を、戦後の占領政策から端を発した外務官僚や文化官僚の手による「〈菊と刀〉の永遠の連環を絶つ」政策にあると指摘し、それは社会主義国や革新政党の文化綱領とも共通する〈文化主義〉、つまり「文化をその血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離して、何か喜ばしい人間主義的成果によつて判断しようとする一傾向」の支配にあると断じる。 その〈文化主義〉とは、「市民道徳の形成に有効な部分だけを活用し、有害な部分を抑圧すること」であり、文化を〈もの〉(博物館的な死んだ文化)として観賞する「寛大な享受者」の芸術主義により、安全に管理された平和な〈人類共通の文化財〉であり、対外的には「日本の免罪符」ともなり、大衆的ヒューマニズムを基盤とした「見せかけの文化尊重」である。 そのような偏った〈文化主義〉は、一度ひっくり返れば、中国共産党の文化大革命のような、革命精神のために「目に見える一切の文化」を全て破壊せしめる〈逆の文化主義〉〈裏返しの文化主義〉にも通じ、非武装平和・平和憲法精神のためなら、日本は一切無抵抗で外敵に皆殺しにされてもかまわないという極論に直結するものである。 日本文化の国民的特色 生きた文化とは、単なる〈もの〉ではなく、「行動及び行動様式」をも包含した「一つの形(フォルム)」であり、「国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体」である。日本文化は、「行動様式自体を芸術作品化する特殊な伝統」を持ち、「動態」を無視できない。三島は日本文化の「フォルム」をこう説明する。 文化とは、能の一つの型から、月明の夜ニューギニアの海上に浮上した人間魚雷から日本刀をふりかざして躍り出て戦死した一海軍士官の行動をも包括し、又、特攻隊の幾多の遺書をも包含する。源氏物語から現代小説まで、万葉集から前衛短歌まで、中尊寺の仏像から現代彫刻まで、華道、茶道から、剣道、柔道まで、のみならず、歌舞伎からヤクザのチャンバラ映画まで、禅から軍隊の作法まで、すべて「菊と刀」の双方を包摂する、日本的なものの透かし見られるフォルムを斥す。 — 三島由紀夫「文化防衛論」 また、日本文化は、「オリジナルとコピーの弁別」を持たない。伊勢神宮の20年毎の式年造営のように、いわばコピーに「オリジナルの生命」が託され、「コピー自体がオリジナルになる」のである。これは天照大神と各代の天皇との関係と同じである。 国民文化の三特色 日本文化の特質は「再帰性」「全体性」「主体性」の三つに要約される。「再帰性」とは、文化が過去にのみに属する「完結したもの」ではなく、現代の日本人の主体に蘇り、現在の時に「連続性と再帰性」が喚起されることである。「全体性」とは、文化を道徳的に判断するのではなく、倫理を「美的」に判断し、〈菊と刀〉を「まるごと容認」することである。文化とは本来は「改良」も「進歩」も「修正」も不可能なものであり、包括的に保持するべきものである。「主体性」とは、文化創造の主体者たる個人における「形(フォルム)」の継承である。人間が「主体なき客観性」に依拠した単なるカメラや機能であってはならない。 何に対して文化を守るのか このような日本文化の「全体性と連続性の全的な容認」が大事であり、現代の日本では「刀」(尚武の要素)が絶たれた結果、「際限のないエモーショナルなだらしなさ」が氾濫し、かたや戦時中は『源氏物語』などが発禁、言論統制されて「菊」(文雅の要素)が絶たれた結果、逆方向に偏ったのである。よって圧制者の「ヒステリカルな偽善」から、文化のまるごとの容認、包括性を守らなければならない。三島は防衛についてこう説明する。 ものとしての文化の保持は、中共文化大革命のやうな極端な例を除いては、いかなる政体の文化主義に委ねておいても大して心配はない。文化主義はあらゆる偽善をゆるし、岩波文庫は「葉隠」を復刻するからである。しかし、創造的主体の自由と、その生命の連続性を守るには政体を選ばなければならない。ここに何を守るのか、いかに守るのか、といふ行動の問題がはじまるのである。守るとは何か? 文化が文化を守ることはできず、言論で言論を守らうといふ企図は必ず失敗するか、単に目こぼしをしてもらふかにすぎない。「守る」とはつねに剣の原理である。 — 三島由紀夫「文化防衛論」 そして、もしも「守るべき対象」が、「生命の発展の可能性と主体」のない「受動的」なだけの存在で、守る側と守られる側との間に「同一化の機縁」がなければ、単なる博物館の宝石と護衛のような脆弱な関係性しか生じず、最終的には、敵との極限状態においてパリ開城のような「敗北主義」あるいは、「守られるべきものの破壊」に終わる可能性を秘めている。よって、「〈文化を守る〉といふ行為」にも、「文化自体の再帰性と全体性と主体性への、守る側の内部の創造的主体の自由の同一化」が予定されていなければならず、文化を防衛する行為自体が一つの文化的行為になり、そこに「文化の本質的な性格」が現われるのである。 創造することと守ることの一致 われわれが守る対象は、思想でも政治形態でもなく、「日本文化」であるが、その〈守る行為〉はおのずから「生命の連続性を守るための自己放棄」の性質をも帯びる。このような「献身的契機」のない文化の「不毛の自己完結性」が〈近代性〉と呼称され、「自我分析と自我への埋没といふ孤立」により文化の不毛に陥る。「文武両道」とは、「主体と客体の合一」が目睹され、「創造することが守ること」となり、「守ること自体が革新することであり、同時に〈生み〉〈成る〉こと」である。 戦後民族主義の四段階 〈菊と刀〉をまるごと包括する文化を連続させうる「共同体原理」は戦後解体されてしまったものの、「情動的要素」を含む「民族主義」は、戦後のあらゆる局面に現われた。第一には、占領下の一時的な革命空想や、吉田内閣における平和憲法を逆手にとった政策の成功にも民族主義が潜在し、第二には、東京オリンピックにおける民族主義的ピーク、第三には、エンタープライズ事件を契機に、支柱をなくした「国民の自主防衛意識」が、反政府と反米とベトナム戦争反対と結びつき共産主義に利用された。よって共産主義(左)にもファシズム(右)にも利用されやすい「民族主義のみ」を「国家」に代るものとする危険性は、これからも内包されている。 米国のような多民族国家とは違い、すでに文化伝統・言語統一のなされている日本での文化の連続性は、「民族と国との非分離にかかつてゐる」のであり、「民族主義」に対して国家が「受身」になるという状況はありえず、日本には真の意味での「異民族問題」はない。従って、あえて「在日朝鮮人問題」を〈抑圧されて激発する異民族〉という米国の黒人問題のイメージと重ねて内部問題化させる左翼の意図は、「分離状況の強調」であり、最終的に「国を否定して民族を肯定しようとする」戦術的政治手段である。このような第四の、日本を「非分離」に導こうとする〈手段としての民族主義〉に騙されてはならない。三島は次にやって来る時代の、その変容する政治的イメージをこう説明する。 金嬉老事件は、ジョンソン声明に先立つて、或る時代を予言するやうなすこぶる寓意的な起り方をした。それは三つの主題を持つてゐる。すなはち、「人質にされた日本人」といふ主題と、「抑圧されて激発する異民族」といふ主題と「日本人を平和的にしか救出しえない国家権力」といふ主題と、この三つである。第一の問題は、沖縄や新島の島民を、第二の問題は朝鮮人問題そのものを、第三の問題は、現下の国家権力の平和憲法と世論による足カセ手カセを、露骨に表象していた。そしてここでは、正に、政治的イデオロギーの望むがままに変容させられる日本民族の相反する二つのイメージ――外国の武力によつて人質にされ抑圧された平和的な日本民族といふイメージと、異民族圧迫の歴史の罪障感によつて権力行使を制約される日本民族といふイメージ――が二つながら典型的に表現されたのである。 — 三島由紀夫「文化防衛論」 文化の全体性と全体主義 日本民族の「合意」とは、「日本がその本来の姿に目ざめ、民族目的と国家目的が文化概念に包まれて一致すること」にあり、その「鍵」は「文化にだけある」のである。〈菊と刀〉をまるごと容認する政体の実現性は、「エロティシズムを全体的に容認する政体」は可能であるかという問題に近い。左右の「全体主義」は、文化の「全体性」(文雅と尚武の包括)を敵視するものである。 「言論の自由」はときには文化の腐敗を招く欠点はあるものの、相対的にはこれを保障する政体が実務的なものとして最善である。しかし自由そのものは内部から蝕まれる危惧があるため、唯一イデオロギーに対抗しうる「文化共同体の理念の確立」が必要となり、「文化の無差別包括性」を保持するために、「文化概念としての天皇」の登場が要請されるのである。 文化概念としての天皇 文化概念としての天皇は、〈菊と刀〉を包括した日本文化全体の「時間的連続性と空間的連続性の座標軸」(中心)であり、「国と民族の非分離の象徴」である。〈みやび〉の文化は、危機や非常時には「テロリズムの形態」さえ取る。孝明天皇の大御心に応えて起った桜田門外の変の義士はその例であり、天皇のための蹶起は、文化様式に背反せぬ限り、容認されるべきであったが、西洋的立憲君主政体に固着した昭和の天皇制は、二・二六事件の「みやび」を理解する力を喪っていた。よって文化概念としての天皇は、国家権力の側だけではなく、「無秩序」の側に立つこともある。もしも権力の側が「国と民族を分離」せしめようとするならば、それを回復するための「変革の原理」ともなるのである。 日本の文化を防衛する行為自体が文化的行為であり、その「再帰性」「全体性」「主体性」により、守る行為自体が守られるべき対象であるという論理の円環の中心には、日本文化の「窮極の価値自体(ヴェルト・アン・ジッヒ)」である「文化概念としての天皇」が存立し、「〈菊と刀〉の栄誉が最終的に帰一する根源」が天皇なのである。よって軍事上の栄誉も、文化勲章同様に、文化概念としての天皇から付与されなければならない。それは、政治概念によって天皇が利用されることを未然に防ぐことでもあり、「天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくこと」こそ、日本および日本文化の危機を救う防止策となるのだと三島は提起する。
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「美しい日本の私―その序説」の記事における「内容・あらまし」の解説
川端康成はまず、道元や明恵の古歌に心を惹かれることを、それぞれの詩句を挙げて説明し、そこに感じる自然と融合した日本人の心を説明している。月を見て月に話しかける「自然と合一」している心情、四季折々の〈雪月花〉の美に触れ、感動にめぐり合った時、共に見たいと思う友(広く人間)を思う心など、自然を愛し見つめ、それを友とした古の日本人の心や宗教観を語っている。そして、良寛の辞世の歌や、35歳で自殺した芥川龍之介が遺書の中で書いた、〈末期の眼〉という言葉に惹かれたことを関連させながら、人の末期の眼には自然はいっそう美しく映じるものだということ、「自分の死後も自然はなほ美しい」という感覚の世界を説明し、日本人にとっては生の場合と同様に死も、自然との合一、自然への回帰であるというような豊饒自在な世界を説明し、西洋人の死の見方との違いを語っている。 また、童話などで柔和な和尚として親しまれている一休禅師が、実は「峻厳深念」の禅僧で二度も自殺を企てたことと、宗教の形骸に反逆し、「人間の実存、生命の本然の復活、確立」を目ざしたことなどを説明し、一休の唱えた、〈仏界入り易く、魔界入り難し〉という言葉に惹かれたことを語り、〈魔界〉なくして〈仏界〉はないと述べている。そして、親鸞にも垣間見られた孤独において道を拓く仏徒の運命は、芸術家の運命でもあることを語り、禅宗に「偶像崇拝」はなく、日本人の〈無〉は、西欧風の虚無ではなく、むしろその逆であるとし、「万有が自在に通ふ空、無涯無辺、無尽蔵の心の宇宙」について触れている。 そして、そこから生まれてくる東洋画の精神、生け花などの美意識、日本庭園と西洋の庭園の違いを〈枯山水〉などを例に説明しつつ、露をふくませた一輪の白いつぼみの椿や牡丹に「花やかさ」を見る日本人の感覚、生け花や焼き物に表れている芸道、「白」に最も多くの色を見、〈無〉にすべてを蔵する美意識、心の豊かさを内に包んで簡素閑寂を愛する心を語っている。また、藤の花に女性的優雅を見た『伊勢物語』の一節を引きながら、『古今集』、『新古今集』、『源氏物語』、『枕草子』など日本の美の伝統を形づくっていった文学作品に触れ、特に『源氏物語』は日本の最高の長編小説であり、この名作への憧れから「真似や作り変へ」が幾百年も続き、これに及ぶ小説が日本にないこと、川端自身、『源氏物語』を少年時代から親しみ、その心がしみこんでいることを語り、これらすべての古典文学や歌に流れている東洋的な虚空であるところの〈無〉、自然意識を永福門院の歌などを引いて説明している。 そして最後に、川端自身の作品が「虚無」と評されることに対し、それは「西洋流のニヒリズム」という言葉は当てはまらず、「心の根本」が違うことを述べ、道元の四季の美の歌も実は強く「〈禅〉に通じたもの」だとしている。
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内容・あらまし
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 03:19 UTC 版)
5月4日 – 5月16日 夕方、中学校から帰宅し、「ただいま」と言っても誰の返事もない淋しさと悲しさを感じる「私」は、寝たきりの祖父と2人暮らしである。白内障で盲目の祖父は、耳も遠く寝返りも自分自身ではままならない。「私」が枕元に近づき帰宅を知らせると、祖父はさっそく、「ししやってんか。ええ」と唸る。 用足しも一人ではできない祖父のため、「私」はいやいやながら尿瓶をあてがう。排尿時に痛みを訴える祖父の苦しそうな声を聞きながら「私」は涙ぐむ。尿瓶の底に谷川の清水の音がする。今朝祖父は自分の妹宛てに「一度来てくれ」と記した葉書を私に出させた。祖父が自分の死を自覚しているのではないかと「私」は考え、祖父の蒼白い顔を、眼がぼうっとかすむまで見つめた。 「私」の家には、おみよという近所の百姓女が朝晩やって来て、家事や祖父の介護を手伝ってくれていた。おみよは、祖父がもう30日も便秘をしていることをお稲荷さんに占ってもらい、祖父の腹の中に「毛物(獣)」が憑いていると言われたことを「私」に話す。 半信半疑ながらも、「私」は倉から一剣を取り出し、祖父の寝床の上の空気を打ち振り、おみよも真面目に加勢する。中学3年にもなって、「迷信」を信じるなど阿呆らしかったが、その後お稲荷さんが病人の様子を言い当てたことが「私」には不思議でもあった。 だんだん祖父は、食事を済ませたことも忘れて「腹空いた」と言ったり、夕方なのに、「ぼん、もう学校へ行きましたか」とおみよに聞いたりとボケてきた。真夜中に「ううん、ああ、しんど」と苦しげな声がすると、「おいおい体が弱って行きますやろ」というお稲荷さんの言葉が「私」の胸の中で何度も繰り返される。 この100枚の原稿(日記)を書き終わるまで、不幸な祖父の身はどうなっているのだろうかと考える「私」は、「日記が100枚になれば祖父は助かる」という気持ちで原稿用紙を100枚用意し、せめて祖父の面影を写しておこうと日記をつけていた。 祖父の小水の世話をするのは、「私」にはとても嫌なことで苦痛である。夜中に何度も起こされ、お茶や寝返りを催促されて、つい腹を立ててしまうこともあった。朝、おみよにそのことを訴えると、祖父は昼間、おみやがなかなか来ないと、「泣いて暮らしてました」と口癖のように言うらしかった。 何人もの子や孫に先立たれ、今では盲目で耳も遠い祖父にとり、その言葉は真情なのだと「私」は考える。祖父の介護をしている時、「私」は自然に不満や厭味を言ってしまう。祖父に平謝りで詫びられ、その青白いやつれた顔を見ると、「私」は自分を恥じて自己嫌悪に陥る。それでも、おみよがもう一度夜に見に来ると祖父に言うのを聞いた時、「わしがいるから来いでもええ」ときっぱりと言えない「私」であった。 ある夜、机の引き出しを探っていると、祖父が弟子に口述させた草稿「講宅安危論」を「私」は見つけた。祖父の八卦や家相学はよく当たるという評判であったが、自分の本を出版することは叶わなかったのである。自分の一生の間に何一つ志を遂げられなかった祖父の逆境を「私」は想った。 祖父は漢方薬の心得もあり、病院で治らなかった村人の赤痢が祖父の調合した薬で治るという不思議なこともあったが、その薬を世に広めたいという願いも途中で立ち消えになった。いまだ祖父はそのことが心残りで、東京の大隈重信に頼めば何とかなると確信し、思うようにならない病身を嘆いた。そして、自分の死後に一人残される「私」の行く末を案じ、手離してしまった田んぼや山を買い戻したいと祖父は考え、焦燥している。 食事をしたことを忘れる祖父のボケ症状は相変わらず続き、「私」は呆れてしまう。皺だらけの祖父の皮膚は摘み上げると、そのまま元へ戻らない。「ううん、ううん」という苦しげな呻き声の断続は、「私」の頭の底まで響き、聞いているのも辛い。 その後日の断片 立派な医者を呼ぶ金もない上、西洋医学に不信感を持っていた祖父であったため、それまで医者を呼ばなかったが、やはり診てもらおうということになり、いよいよお常婆さんに頼んで、宿川原の医者へ走ってもらう。 もう祖父の命は、この原稿が終わるまで続かないだろうと呆然とする「私」は、祖父の死後にたった一人になるわが身の不幸を考える。お常婆さんが戻り、医者は留守だったことを告げた。2人の女と「私」は途方に暮れる。「どうしたらええやろ」。「私」は泣き出すように言う。 あとがき 初めて医者が来たのは、祖父の臨終の日だった。医者をあれほど軽蔑していた祖父だったが、医者を迎えると涙を流して感謝した。祖父が死んだのは、昭憲皇太后のご大葬の夜であった。その日の朝、「私」は学校に出席するのを迷ったが、どうしても遥拝式に参列したかった。 祖父も、「日本国民の務めやさかい」とおみよを介して「私」を送った。道を急ぐ「私」の下駄の鼻緒が切れ、いやな予感で家に引き返すが、おみよは「迷信」だと、下駄を替えさせて「私」を励ました。学校での遥拝式が終わると「私」は一里半の闇夜の道を跣足で走り戻った。その夜の12過ぎまで祖父は生きていた。 祖父の死後の8月、「私」は伯父の家に引き取られた。家屋を売る時は辛かったが、その後、学寮や下宿生活などをするようになって、家庭や家への思いは薄れていき、「私」の家の家系図も、おみよの家の仏壇に預けたままである。しかし「私」は祖父に対して悪いという思いはない。おぼろげながらも「死者の叡智と慈愛」とを信じていたから。
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