エピロオグ――F104
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 05:47 UTC 版)
地上において、じっと机上に向い「知的冒険」をし、「精神の縁」へと「虚無への落下の危険」を冒すとき、精神も、「肉体の縁」のような極度の肉体疲労の中に見える〈肉体のあけぼの〉と同様の「黎明」を垣間見ることがある。だがこの両者は似通うことはなかった。しかしどこかで繋がる筈である。 私には地球を取り巻く巨きな巨きな蛇の環が見えはじめた。すべての対極性を、われとわが尾を嚥(の)みつづけることによつて鎮める蛇。すべての相反性に対する嘲笑をひびかせてゐる最終の巨大な蛇。私にはその姿が見えはじめた。相反するものはその極致において似通ひ、お互ひにもつとも遠く隔たつたものは、ますます遠ざかることによつて相近づく。蛇の環はこの秘義を説いてゐた。肉体と精神、感覚的なものと知的なもの、外側と内側とは、どこかで、この地球からやや離れ、白い雲の蛇の環が地球をめぐつてつながる、それよりもさらに高方においてつながるだらう。 — 三島由紀夫「エピロオグ――F104」 「肉体の縁」と「精神の縁」にだけ興味を寄せてきた「私」は、その二つが繋がる「運動の極みが静止であり、静止の極みが運動であるやうな領域」、「高い原理」を「死」だと考えていたが、それを神秘的にも捉えすぎていた。 地球は死に包まれてゐる。空気のない上空には、はるか地上に、物理的条件に縛められて歩き回る人間を眺め下ろしながら、他ならぬその物理的条件によつてここまでは気楽に昇れず、したがつて物理的に人を死なすこときはめて稀な、純潔な死がひしめいてゐる。人が素面で宇宙に接すればそれは死だ。宇宙に接してなほ生きるためには、仮面をかぶらねばならない。酸素マスクといふあの仮面を。精神や知性がすでに通ひ馴れてゐるあの息苦しい高空へ、肉体を率いて行けば、そこで会ふのは死かもしれない。精神や知性だけが昇つて行つても、死ははつきりした顔をあらはさない。そこで精神はいつも満ち足りぬ思ひで、しぶしぶと、地上の肉体の棲家へ舞ひ戻つて来る。彼だけが昇つて行つたのでは、つひに統一原理は顔をあらはさない。 — 三島由紀夫「エピロオグ――F104」 酸素マスクをつけた「私」は或る日、銀色に輝くF104超音速ジェット戦闘機の気密室の中にいた。風防ガラスにふりそそぐ太陽の光の中、「私」は、危険な宇宙線に充ちた「超人間的な光り」である「裸かの光輝」に、「栄光の観念」を見る。「私」の心はのびやかであった。そのとき「私」は、地球を取り巻いている「蛇」を見た。 ほんのつかのまでも、われわれの脳裡に浮んだことは存在する。現に存在しなくても、かつてどこかに存在したか、あるひはいつか存在するであらう。(中略)今、私の意識はジュラルミンのやうに澄明だつた。あらゆる対極性を一つのものにしてしまふ巨大な蛇の環は、もしそれが私の脳裡に泛んだとすれば、すでに存在してゐてふしぎはなかつた。蛇は永遠に自分の尾を嚥んでゐた。それは死よりも大きな環、かつて気密室で私がほのかに匂ひをかいだ死よりももつと芳香に充ちた蛇、それこそはかがやく天空の彼方にあつて、われわれを瞰下(みお)ろしてゐる統一原理の蛇だつた。 — 三島由紀夫「エピロオグ――F104」
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