エピルス・アカイア・シチリア連合
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「ペラゴニアの戦い」の記事における「エピルス・アカイア・シチリア連合」の解説
エピルスは上述の通り、ペラゴニアの戦い以前に多くの領地を失ったが、その後エピロスの同盟者であるラテン系国家が援軍としてエピロスの元に集結した。しかしシチリア王マンフレーディは直接ギリシアに援軍に赴くことはなかった。というのも、当時イタリア半島にて教皇とローマ皇帝との間に紛争が起きており、マンフレーディはそれに加担していたためにギリシア方面にも戦争を構える余裕がなかったのだ。彼は代わりに400人ほどの精鋭ドイツ人騎士をギリシアに派遣し、ミカエル2世の援軍とした。マンフレーディとは対照的に、アカイア公ギヨーム2世は積極的にエピロスに援軍に赴いた。モレア年代記(フランス語・ギリシア語翻訳版)によると、ギヨーム2世はアカイア公として、自身の配下にあるフランク系十字軍国家(アテネ公国・ネグロポンテ公国・ナクソス公国)の軍勢を取りまとめたという。アカイア軍はナフパクトスよりコリンティアコス湾を渡り、ピンドス山脈を超えて他のフランク系諸国の軍勢と合流する前に、エピロス専制侯国の首都アルタに入城した 。一方、エピロス侯ミカエル2世は自身の長男ニケフォロス・落とし子ヨハネス1世と共に軍勢を率いて、ラテン人らの援軍を待っていたとされる。(ヨハネス1世は多くのヴラフ人を従えていた。) また、アラゴン語版のモレア年代記によると、ギヨーム2世は8,000人の重装部隊・12,000人の軽装部隊に加え20人の公・伯・領主を従え、ミカエル2世は8,000人の重装部隊・18,000人の軽装部隊を従えていたとされる。(しかしこの数字は大幅に誇張されたものであると現代の歴史家の中で広く認識されている。
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