エピルス・アカイア・シチリア連合とは? わかりやすく解説

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エピルス・アカイア・シチリア連合

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 15:39 UTC 版)

ペラゴニアの戦い」の記事における「エピルス・アカイア・シチリア連合」の解説

エピルス上述通りペラゴニアの戦い以前多く領地失ったが、その後エピロス同盟者であるラテン系国家援軍としてエピロス元に集結した。しかしシチリア王マンフレーディ直接ギリシア援軍赴くことはなかった。というのも当時イタリア半島にて教皇ローマ皇帝との間に紛争起きており、マンフレーディはそれに加担していたためにギリシア方面にも戦争構え余裕がなかったのだ。彼は代わりに400人ほどの精鋭ドイツ人騎士ギリシア派遣しミカエル2世援軍とした。マンフレーディとは対照的にアカイア公ギヨーム2世積極的にエピロス援軍赴いたモレア年代記(フランス語ギリシア語翻訳版)によると、ギヨーム2世アカイア公として、自身配下にあるフランク十字軍国家(アテネ公国ネグロポンテ公国ナクソス公国)の軍勢取りまとめたという。アカイア軍はナフパクトスよりコリンティアコス湾渡りピンドス山脈超えて他のフランク諸国軍勢合流する前にエピロス専制侯国首都アルタ入城した一方エピロスミカエル2世自身長男ニケフォロス落とし子ヨハネス1世と共に軍勢率いてラテン人らの援軍待っていたとされる。(ヨハネス1世多くヴラフ人従えていた。) また、アラゴン語版のモレア年代記によると、ギヨーム2世は8,000人の重装部隊12,000人の軽装部隊加え20人の公・伯・領主従えミカエル2世は8,000人の重装部隊18,000人の軽装部隊従えていたとされる。(しかしこの数字大幅に誇張されたものである現代の歴史家の中広く認識されている。

※この「エピルス・アカイア・シチリア連合」の解説は、「ペラゴニアの戦い」の解説の一部です。
「エピルス・アカイア・シチリア連合」を含む「ペラゴニアの戦い」の記事については、「ペラゴニアの戦い」の概要を参照ください。

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