土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/24 14:38 UTC 版)
土器は、一般に胎土が露出した状態の、いわゆる「素焼き(すやき)」の状態の器であって、陶器、磁器ないし炻器に対する呼び名である[3]。登り窯のような特別な施設を必要とせず、通常は野焼きで焼成される[注釈 2]。釉薬(うわぐすり)をかけて作る磁器のように器面がガラス化(磁化)していないため、粘土の不透明な状態がそのまま残り、多孔質で吸水性がある[2][5]。焼成温度は1000℃未満のものが多く、特に600 - 900℃くらいで焼かれることが多い[3][5]。
粘土に水を加えて均質に仕上げた素地(きじ)は可塑性に富むことから、様々に造形され、その器形や文様には民族的・時代的特徴が濃厚に遺り、考古学・歴史学の重要な資料となる[3][5]。ことに文字出現以前の先史時代にあっては、土器様式の変遷によって時代区分の編年作業が行われている[3][5]。日本において、縄文土器や弥生土器などは考古学の研究対象のほか、国宝を含む文化財や美術品として保護・収集の対象となる[6]。
なお、土器は現在でも世界各地で実用民具や土産物として製造されており、日本でも素焼き(テラコッタ)の植木鉢といった園芸用品など[7]のほか、調理器具や飲食器として利用されている[6]。
土器・炻器・陶器・磁器
日本では一般に、粘土を窯で焼かず、野焼きによって600 - 900℃程度で焼いた器を「土器」と称し、1200℃以上で焼いた「陶器」や1350℃以上で焼いた「磁器」とは区別する[1][8]。また、古墳時代より製作が始まった日本の須恵器のように、窯で焼成したものであっても土器よりは高く、陶器よりは低い温度(1000℃以上)で焼成された焼き物は、胎土として使用された本来の粘土の性質が露出しているために「陶器」とみなさず、土器に含めることがある[8]。この場合、須恵器は「陶質土器」と称される[8](朝鮮半島においても、俗に「新羅焼」と称されるやきものの呼称として「陶質土器」の表現を用いる[8])。土器は通常、微小な孔や隙間がたくさんあいた多孔質であり、中に液体を入れると滲出する[1][5]。それに対し、耐熱性の強い素地を用いて1000℃以上の高温で焼き締めた、多孔質でない無釉のやきもの、たとえば備前焼、常滑焼、丹波焼、信楽焼、越前焼の一部などは「炻器」(せっき)と称し、日本では中世に盛んに作られた[1][5][9]。現在でも常滑焼は、炻器を多く生産していることで知られる[9]。陶器は素地が不透明で吸水性を持ち、原則として釉薬(うわぐすり)がかけられているものを呼ぶ[1]。なお、日本語の「磁器」とは、長石や珪石などの石の粉や骨灰・粘土からなる材料を用い、胎土にはケイ酸分を多く含んで、施釉して高温で焼成することによってガラス化(磁化)が進んだ焼き物の呼称であり、陶器(しばしば「土もの」と称される)とは異なり吸水性がなく、光沢があって、叩くと金属的な澄んだ音がするものを指し、江戸時代初期の肥前国有田をもって嚆矢としている[1][5][10]。
これに対し、中国では、焼き物は「陶器」と「磁器」(現代中国語では「瓷器」)の2つに大別され、一般に「土器」という分類呼称は用いられない。中国では無釉、すなわち、釉薬を掛けない焼き物は焼成温度の高低にかかわらず「陶器」と呼ばれ、漢代の緑釉陶器などのように釉の掛かったものでも、低火度焼成のものは「陶器」に分類される。中国では、胎土のガラス化の程度にかかわらず、高火度焼成された施釉の焼き物が「瓷器」である[注釈 3]。新石器時代において世界各地で製作された、日本語で「彩文土器」と呼ぶ焼き物は中国語では「彩陶」と表記され、陶器に分類される[12][13]。
以下、本項では日本語で「土器」と称される焼き物について説明し、焼き物の種別に関する用語は基本的に日本語の参考文献における表記を用いる。
土器誕生の人類史的意義
土器の出現は、オーストラリア生まれのイギリスの考古学者ヴィア・ゴードン・チャイルドによれば「人類が物質の化学的変化を応用した最初のできごと」であり、物理的に石材を打ち欠いて作った石器とは異なる人類史的意義を有している[14][15][16]。土器は、粘土製でありながら、加熱することで、水に溶けない容器として作り出された道具なのである[15][16]。別の見方をすれば、石器は「引き算型」の造型であるのに対し、土器製作は試行錯誤しながらの加除修正が自由にできる「足し算型」の造型であり、作り手は自らの理想的な形により近づけることができるようになったともいえる[17]。
「煮炊き」の始まり
日本列島を含む極東地域における最古級の土器には煤状の炭化物が付着したものが多く、土器は、少なくとも東アジアにあっては、その出現当初から煮炊きの道具として使われることが明らかとなっている[17][18]。
人類が土器を知らなかった時代にあっては、食物を煮炊きすることは大変な苦労を要したと考えられる[19]。岩のくぼみ、地表面に露出した粘土層のくぼみ、木の洞といった場所にできた水たまりの近くで焚き火し、そのなかに人間の拳大の石を投げ入れて、木の枝などで挟んで水たまりに投げ込むといったような行動をとっていたものと考えられる[19][注釈 4]。
土器の発明は、生で食べるか、焼いて食べるかしかなかった食物の摂取方法に、煮て食べるというレパートリーを加えることに、大きく貢献した[18][20]。獣肉や魚貝類の多くは、新鮮でありさえすれば、生でも食され、かつ美味なものも多いが、植物性の食料の多くは生食に適さず、火熱を通して初めて食べられるようになるものが多い[20]。生では人間の消化器官が受け付けないようなものであっても、火熱によって化学変化を誘発させ、消化の可能な物質、甘みを増して美味でやわらかく食べやすい食料になることが多いのである[20][注釈 5]。
植物性食料の利用拡大と定住化
煮炊きをすることは、さらに渋み抜きやアク抜き、解毒作用、殺菌作用においても絶大な効果を発揮し、キノコや山菜・堅果・根菜など、従来、あまり食材とみなされなかったものの多くが食用可能となった[18][20]。ことに、温暖化によって落葉樹林が拡大した更新世の終わりにあっては、山林で豊富に採集できるドングリやトチノミなどの堅果類の利用には煮沸によるアク抜きが欠かせないものであったし、ヤマイモなど根茎類に含まれるデンプンの消化を助けるためにも煮沸は必要であった[18]。また、植物を焼いて食べる場合、特に「葉もの」や「茎もの」などは火加減が難しく、焦げたり、灰になったり、食べる前に燃え尽きてしまったりすることも少なくない[20]。煮炊き料理は、こういう失敗や無駄を減じ、さらに栄養豊富なスープ(煮汁)をも摂取することができる[20]。煮沸によって水自体も安全で衛生的なものに変化した。もとより、水や食物の貯蔵にも土器が重宝したことは言うまでもない[18]。
煮炊きの開始によって、人びとの食生活は革命的な変化を遂げた[19][20]。今日では、人骨に残された窒素や炭素同位体の比率の分析によって、その人の生前の食料事情が詳細に判るようになっており、小林達雄によれば、サケ・マスや海獣(アザラシやトド)に恵まれた北海道地方においては動物性たんぱく質の摂取量が全体の約7割を占めるものの、関東地方にあっては貝塚を伴う遺跡であってさえ、動物・植物の比はほぼ半分ずつであり、中部地方の山岳地帯では植物性の食べものが全体の6割を超えている[20]。植物性食料の利用拡大は、数字のうえでも、ある程度立証されている[20]。
こうした、植物食の拡大充実は、食生活の安定のみならず食糧獲得の活動をより安全で確実なものとした[20]。すなわち、生業(なりわい)の面でも、狩猟や漁撈に加えて植物採集の比重が大きくなっていったわけである[20]。このことは、動物を追って移動する生活から、旬の時期を見計らって採集することのできる定住生活へと向かう契機となったものと考えられる[20][21]。おそらくは、人びとが一箇所に長逗留することを繰り返すうちに、定住的生活の方がむしろ有利であることを悟ったものと推測されるのである[21][注釈 6]。反面、割れやすく、重くかさばる土器は移動生活には不向きで、その多用は必然的に定住化を促すものでもあった[18]。
狩猟や漁撈が依然として人びとにとって重要な生業であったことは、弓矢の発明や石鏃の改良、釣針や銛の改良・開発などが同時的に進行していったことからもうかがわれる[20]。しかし、一方では、陥穴(おとしあな)を利用する待ち伏せ的な狩猟やエリなど定置漁具を用いた漁撈など、狩猟や漁撈の中身も定住生活と調和する性格のものが増えていった[20][注釈 7]。
土器発祥の地
1947年から1952年にかけて行われたチェコ(当時はチェコスロバキア)のモラビア地方南部のドルニー・ヴェストニツェの発掘調査では、後期旧石器時代のオーリニャック文化の遺跡から、動物の姿をかたどった素焼きの土製品や女人像などが発見されており、粘土を素焼きにすると硬質で水に溶けない物質が作られることを、既に紀元前2万8000年(約3万年前)の人類の一部は知っていたことが明らかになった[19][注釈 8]。また、2012年、北京大学(中華人民共和国)や米国などの研究チームが「世界最古の土器」が出土したと発表したとの報道がなされた[23]。報道によれば、場所は江西省の洞窟であり、土器は、焦げ跡とみられる炭化物の付着からみて調理のために使用されたものと推定されている[23]。
土器の発明が、いつ、どこで行われたかについての詳細は依然不明であり、それが継続的に行われるようになった年代と地域についても同様であって、今後の資料の増加とデータの蓄積を待つほかないが、少なくとも土器の発明地が一地方に限られず、何か所かに及ぶことは確実である[24]。かつては、最初の土器は中東地域で発生して各地に伝播したという一元説が有力であったが、今日では多元説の方が有力になっている[5]。
小林達雄は、土器の発明地は大きく分けて地球上に少なくとも3か所あったと述べている[24]。一つは、日本列島を含む東アジアの地であり、もう一つはメソポタミアを中心とする西アジア地域、そして、アメリカ大陸である[24]。それぞれの間に直接的な関係は認めがたく、相互に独立して別個に土器の発明がなされたと考えられる[24]。また、上述したドルニー・ヴェストニツェの調査例を重視する見地からは、ヨーロッパでは後期旧石器時代に既に土器も作られていたのではないかとの疑問も提起されている[19]。土器の発明には、焚き火の際に粘土をそのなかに投げ込んだり、粘土面にできた水たまりに焼石を投げ込んだところ、投げ込み過ぎて水が全て蒸発し、粘土が硬化したなどという偶発的な出来事が関与したものと考えられ、その意味では地球上のどこで土器が発明されてもおかしくはないわけである[19]。
西アジア最古の土器は、イラク国境に近いイランのガンジ・ダレ出土の土器が放射性炭素年代測定で約1万年前と報告されている[5]。この土器についての研究者の見解は、9000年前ないし8000年前とするものが主流である[8]。西アジアの土器においては、土器出現の過程が詳細に把握されており、大多数の研究者もおよそ9000年前の時期を結論づけていて、この発生年代が今後大きく変動することはないとみられている[25]。アメリカ大陸では、アマゾン川流域において古い年代の土器が確認されているが、遡っても7500年前程度と推定されている[25]。こちらは、もっと古い年代を示す土器が今後現れる可能性がないとはいえないが、ただし、1万年前を超えるような古さには至らないだろうと予想される[25]。
ところが、日本列島を含む東アジアでは1万年前(紀元前8000年)を超えるような土器が多数見つかっている[5][19][25]。1970年代には、長崎県佐世保市の福井洞窟出土の土器が1万2000年前から1万年前頃のものといわれ、当時は、日本最古というばかりでなく世界最古の土器といわれた[19]。また、同じ佐世保市で麻生優らが調査した泉福寺洞窟出土の豆粒文土器には1万3000年前 - 1万2000年前という年代があてられて世界最古の土器であるとみられた[8]。縄文時代草創期に属する最古級の土器はその後も次々に日本列島各地から見つかっており、神奈川県大和市の上野遺跡では関東ローム層の上部から無文土器が出土して土器の登場がいっそう古くなる可能性が示され、新潟県十日町市の壬遺跡でも無文土器が出土した[26]。
近年では、放射性炭素年代測定に改良が加えられ、従来より誤差が少なく、試料が微量でも測定可能なAMS法が開発され、さらに、その測定年代の誤差を補正して相当な精度に絞り込む較正値が算定可能となった[25]。それによれば、青森県外ヶ浜町に所在する大平山元I遺跡出土の土器は 1万6500年前 - 1万5500年前 という暦年年代較正値を示している[25][27]。大平山元I遺跡では、後期旧石器時代の長者久保・神子柴石器群と無文土器とが共伴しており、同じような状況は茨城県ひたちなか市の後野遺跡でも確認されている[28]。したがって、大平山元Iと後野の2つの遺跡から出土した土器が現在のところ、日本で最も古い土器とみなされている[28](なお、旧石器時代の特徴を示す大平山元遺跡の同時代頃の石鏃は今のところ世界で最も古い石鏃とみられている[29]。)。日本列島においては、土器の初現は氷河期の最中、農耕の起源とは無関係であることが明らかになっており、従来の農耕・牧畜に基礎づけられる「新石器革命」については、地域ごとによって異なった様相を呈することが示唆されている[27]。なお、北海道地方では、帯広市の大正3遺跡出土の爪形文土器が現状では最も古く、1万4000年前 - 1万3000年前 の年代値が得られている[30]。
近年、ロシア極東地域や中国でも、日本の初期土器群に匹敵する古さを示す土器が続々と発見されている[28]。ロシア極東部の沿海州地方では、アムール川下流域に位置するガーシャ遺跡、ゴンチヤールカ1遺跡、フーミー遺跡などでオシポフカ文化に共伴して出土した土器群が1万年以上前のものと考えられ、アムール中流域ではノヴォペトロフカ遺跡と支流のゼヤ川・セレムジャ川流域に位置するグロマトゥーハ遺跡、ウスチ・ウリマー遺跡で約1万2000年前という年代があたえられており、とりわけ、ガーシャ遺跡やグロマトゥーハ遺跡出土の土器のなかには1万3000年以上前にさかのぼると考えられるものも出土している[28][31]。極東地域出土の初期の土器群は平底を呈したものが多く、また、石棒など「第二の道具」を伴う遺跡もあって定着性の高い居住形態が考えられる[31]。この地域では、オシポフカ文化の後は、コンドン文化、マルィシェボ文化、ボズネセノフカ文化へと推移する[31]。
一方、シベリア東部では、細石刃石器群を出土するウスチ・カレンガ遺跡、ウスチ・キャフタ遺跡、スツジェンノイエ1遺跡などで初期の土器が出土しており、尖底土器が多く、いずれも沿海州の各遺跡とは型式が異なっている[28]。この中ではウスチ・キャフタ遺跡出土の土器が古く、1万2000年前 - 1万1000年前の年代が想定されている[28]。これらの地での土器もまた煮炊き具であったと考えられるが、しかし、それは当地の植生や気候を考慮すると、必ずしも日本列島のように植物資源の利用拡大ということには結びつかなかったと考えられる[18][28]。寒冷地に住む人びとにとって長らく、高カロリーで保存のきく魚油や獣脂が何よりも食糧として重要であったことをふまえると、魚介の調理といった用途ばかりではなく、それよりもむしろ、魚油・獣脂の抽出のためにこそ用いられたのではないかという仮説がロシアでも日本でも提唱されている[18][28]。大貫静夫によれば、シベリアの土器の使用者は漂泊する食料採集民、極東・沿海州の土器の使用者は定着的な食料採集民の性格が濃厚であるという[28]。
中国にあっては、東北部吉林省の後套木嘎遺跡出土の 約1万2800年前 -1万1200年前の土器が[30]、北部で河北省徐水県の南荘頭遺跡や北京市の転年遺跡から約1万年前の土器が出土しているほか、南部で江西省万年県の仙人洞・仙人洞東・仙人洞西・吊頭環の各遺跡から約1万5000年前、1万6000年前、あるいはそれ以上古い年代を示す土器が出土している[28]。ただし、これらの遺跡出土土器については年代測定法の詳細が不明なものも多くみられる[28]。また、湖南省道県の玉蟾岩遺跡、広西チワン族自治区柳州市の大龍潭鯉魚嘴遺跡、同自治区桂林市の甑皮岩遺跡などでも古い年代を示す土器が出土しており、これらはAMS法やβ線法により年代測定がなされている[28]。とりわけ桂林市の廟岩洞穴遺跡から出土した土器はAMS法で測定された結果、1万5000年以上前の年代が呈示されている[28]。中国南部の出現期土器は、縄文を施した丸底土器が特徴的で、大貫静夫によれば、その担い手は農耕民的な性格を有する(大貫の見解は、土器出現の機能的な理由にも差違があったことが含意されており、東アジアの3地域、すなわち中国、シベリア、沿海州の各地域がそれぞれ別個の理由で土器を出現させたことを示唆している)[28]。また、土器出現期には、前段階から継続する洞穴遺跡以外に貝塚が多数出現するといった変化が生じており、稲作開始の可能性が指摘される遺跡もある[28]。ここでもやはり、日本列島とはやや異なる様相を呈しながらも、生活革命と呼びうるような大変化が生じているのである[28]。
とはいえ、日本以外では出現期土器群の出土資料そのものがまだ少なく、考古資料としては断片的であり、考古学的な編年体系が十分に確立していない点に大きな問題があり、個々の遺物の年代測定の結果も決して鵜呑みにはできないこともまた指摘されている[28]。いずれにしても、人類における土器利用の始まりと最初の定着は東アジアにおいてであり、日本列島以外にも中国南部やロシア沿海州地域にも起源地が想定できるところから、土器発生論そのものもまた、新しい局面を迎えていることは確かである[28]。
容器模倣説と製作工程類似説
人類が、しばしば木の実の殻や貝殻などの自然物をそのまま容器として用いたであろうことは、人類の誕生まで遡るものと推定される[32]。土器は、容器のなかでは樹皮、木、皮革、石、籠などに遅れて登場したため、各地の最初の土器は、これら別種の器の形をモデルとして、それを模倣して作られたと考えられるものが多い[5]。先史時代の土器に、籠形のものや貝殻、木の実のかたちを真似た土器が多いのは、土器出現以前に既にそのような容器があり、あるいは土器出現後もこれらが併用されていたため、その形や意匠が取り入れられたものと考えられる[33]。ただし、皮革や樹皮、木、籠、ヒョウタンなどは土器や石製品にくらべて長い年月のあいだに土中で分解してしまいやすく、今日まで遺存しにくいものであって、その全体像をつかむことは不可能である[32]。現存する容器として古いものとしては、フランスのシャラント県のプラカール遺跡のマドレーヌ文化期(後期旧石器時代末葉)の堆積層から出土した人間の頭蓋骨の頂部を鋭利なフリント製の石器で切断した鉢形の容器(ドクロ碗)や、ムートの洞窟から出土した石製の火皿(ランプ)がある[32]。
籠の内側に粘土を塗り、これを焼いてつくった籠形土器は日本列島でも何点か出土しており、ネイティブ・アメリカンの断崖住居の遺跡からは編物に粘土を塗っただけで焼成していない土器が出土している[34]。また、19世紀以来、ネイティブ・アメリカンの民俗例として、ミシシッピ文化の末裔にあたる種族が、縄や柳の枝で編んだ籠の内側に粘土を塗って乾燥したら粘土を焼いて土器をつくるという事例、プエブロ族における、壺形の編籠をつくる過程と壺形土器の製作過程が完全に一致しているという事例などが人類学分野から報告されており、土器の編籠由来説を支持している[34][35]。
こうした容器模倣説とは別に、パンづくりと土器づくりとを関連づけ、両者の製作工程の相似性から説く説もある[8]。イスラエルの考古学者ルース・アミランはこの説を提唱し、かつて最初の農耕文明発祥の地である西アジアが一元的な土器発祥の地でもあるとみなされていた時期にはおおいに説得力をもっていた[35]。土器発生の多元説が有力となっている今日では説得力を失いつつあるが、材料に適量の水を加え、こねて、寝かせて成形し、再び寝かせて乾燥させ、最終的に焼き上げて、素材とは質感の全く異なるものをつくるという作業の流れは土器製造とパン製造とは実によく類似しているのである[35]。
工程 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
土器づくり | 材料の調達(粘土) | 粘土精製 | 下地づくり | ねかし | 成形 | 文様施文 | 乾燥 | 焼成 |
パンづくり | 材料の調達(小麦) | 脱穀・製粉 | 生地づくり | ねかし | 成形 | - | ねかし | 焼成 |
パンに限らず、粉食の定着している文化において、粉を焼いて食べものをつくる際に偶然近くにあった粘土も焼け、それをヒントに土器の製造が発案されたという可能性も、地域によっては充分に検討に値する[35]。
注釈
- ^ 粘土を焼いて作られるものであっても、容器でないものは「土製品」「瓦器」と称される[1]。
- ^ この場合、野焼きを行う穴を「焼成坑」と呼ぶ[4]。
- ^ なお、西洋では陶器と磁器の区別は日本や中国と異なり明確ではなく、英語のポーセリン(porcelain)は「白い」陶磁器を称し、中国・朝鮮・日本では磁器(瓷器)とみなされている青磁は、英語ではストーンウェア(stoneware)と称される[11]。一方、ポーセリンには、軟質(「軟質磁器」)と硬質(「硬質磁器」)の区別を設ける。
- ^ 秋田県男鹿半島などでは、木製の箱に焼石を投げ込んで魚貝を煮て食べる石焼料理の土俗例が現在にも残っている[19]。
- ^ 小林達雄は、人間が満腹するほどの生米を食べるとすれば、おいしくないというだけではなく、たちまち下痢の症状を引き起こすであろうという例を引いて、これを説明している[20]。米の場合は、加熱によってβデンプンがαデンプンに変わり、劇的に消化しやすくなるのである[20]。
- ^ 小林達雄は、遊動的生活を基本とする旧石器時代人は、極端にいえば、毎晩欠かさずに寝るための巣づくりをするような行動が習性となっており、特定の場所に対するこだわりはなかったとしている[22]。西田正規は、『定住革命』(1986年)のなかで、人類の定住化は長い遊動的な生活の延長線上にあるものではなく、また、遊動的生活の体験の蓄積から結果として生じた新しい生活様式でもなく、むしろ人間の決断の意志を前提とするものであったことを強調している[21]。
- ^ 旧河川の川底とみなされる場所に棒杭を立てた遺構が、各地の縄文時代の遺跡から検出されている[20]。エリ漁は現代でも琵琶湖などでおこなわれている。
- ^ ドルニー・ヴェストニツェ遺跡ではマンモスの化石が出土しており、また、合葬墓がみつかったことでも著名な遺跡である。
- ^ 粘土は、乾燥によって湿分を失うときは、分子相互が密着するため、相当程度硬く締まり、この性質を利用して作られたものを粘土製品という[1]。日干しの土偶や古代メソポタミアの日干し煉瓦などが代表的な粘土製品であり、楔形文字の刻まれた粘土板も、粘土が本来持つ可塑性と湿分放散に伴う凝結性との双方を活用したものといえる[1]。
- ^ これを「目止め」という。米のとぎ汁や小麦粉を溶かした水を一煮立ちさせても同様の効果がある[38]。
- ^ 繊維土器は、焼成温度が低い場合には、繊維が完全に焼失してしまうことはなく、黒い炭化物となって胎土の内部に残ることが多く、それは土器の断面観察によって確かめられる[39]。
- ^ 日本では、ナデ整形は各種のナデが縄文草創期ですでにみられ、ケズリ整形・ミガキ整形は縄文早期以降にみられる。木目のギザギザが器面に細かい筋としてのこるハケ整形は、弥生時代より本格的に始まる。タタキは、大陸起源の整形法で弥生の早期に出現して後期以降に普及した[40]。
- ^ 彩色土器のうち、その彩色が焼成後にほどこされたものを塗彩土器、本焼ないし締焼の前になされたものを彩文土器として区別することがある[39]。
- ^ 中国の事例では、土器全体に占める彩文土器の比率は高くなく、そのほとんどは盛付用や貯蔵用であるところから特殊な容器として扱われていただろうと推測される[46]。これは、古代ギリシや古代ローマの絵付陶器が冠婚葬祭や宴会、奉納などに限られ、日常用には無文陶器や青銅容器を用いていた事実とも合致する[46]。
- ^ アスファルトは石器や骨角器の装着の際の接着剤としても用いられた[51]。
- ^ 最古の土器製塩は縄文後期後葉、関東地方の霞ケ浦周辺においてであり、やや遅れて東北地方の松島湾沿岸でも盛行する[56]。松島湾の土器製塩は関東で土器製塩が行われなくなって以降も行われ、弥生中期まで続いた[56]。弥生中期末、備讃瀬戸の児島地方で興った土器製塩は岡山県・香川県の本土地方さらには淡路島や近畿地方西部へと広範囲に広がった[56]。
- ^ 山内清男は1935年頃に縄文土器の編年の見通しを立て、1937年、全国的規模の「山内編年表」を発表した。たとえば、大木10式(中期)、加曽利B式(後期)、田戸下層式(早期)といった型式名は、発掘調査をおこなった遺跡から出土した土器に、その遺跡の地名をとって名づけた[64]。たとえば、大木10式土器とは、宮城県七ヶ浜町の大木囲貝塚から出土した土器を古いものから順に数字を付したものである[65]。大規模な遺跡では、広い調査区にいくつかの種類の遺物や遺構が混在するため、調査地点を細分する必要があり、加曽利B式土器とは、千葉市の加曽利貝塚B地点出土の土器を標準として名づけたものである[64]。田戸下層式土器は横須賀市の田戸遺跡の層位が命名の由来となっている[64]。このように、土器型式名は層位学的研究を土台としており、型式命名のもととなった遺跡を標式遺跡と呼ぶ。こうした手法は、弥生土器、土師器、須恵器の分野における土器研究でも応用された。
- ^ 須恵器の胎土分析を精力的に行ってきた三辻利一は、分析可能な元素のなかでも、ルビジウムとストロンチウムの蛍光X線の波高に地域的偏差を生じやすいことを確認し、この方法を採用している[66]。
- ^ エブルル様式文化は、かつて「ケニア・カプサ文化」と呼ばれた時期があり、それはチュニジアからアルジェリア内陸部にかけての中石器時代から新石器時代にかけてのカプサ文化との石器の類似からつけられた名称であるが、現代では、「ケニア・カプサ文化」と称された文化と北アフリカの「カプサ文化」の間はまったく関係がないと考えられている[68]。
- ^ この標章は、後代の地方行政単位であるノモスの標章に類似するものがあり、この時期にノモスの成立もしくは萌芽があったことを示唆している[72]。
- ^ 幅6 - 7メートルに対して長さが20メートル程度という家屋であり、場合によっては40メートルを超す場合もあった。こうしたロングハウスは、いずれも長軸を北西—南東方向にもつという共通点がある[89]。
- ^ メソポタミアではウバイド期に併行し、インダス地域ではシェーリ・ハーン・タラカイ文化、アムリー文化、ハークラー文化が成立した[90]。
- ^ シンド地方・ゴーマル・、バンヌ・西部パンジャーブ州ではコート・ディジー文化、東部パンジャーブ地方ではソーティ・シースワール文化、また、ガンガー平原では「先ハラッパー文化」と称される文化が、それぞれ営まれた[90]。
- ^ 縄文草創期において九州地方南部は採集経済の早熟的な発展がみられ、文化創造の先頭に立っていたが、鬼界カルデラの爆発を受けて壊滅的な打撃を受け、以後、文化創造の中心は東北地方などの東日本に移った[52]。
- ^ 一方で、東北地方からも滋賀里式など西日本系の縄文晩期土器が出土しており、相互交流が考えられる[107]。
- ^ なお、縄文土器の中には後代に茶道具に転用されたものが存在するという[108]
- ^ かつてアメリカ大陸では、磨製石器が紀元前5000年 - 前4000年頃の「古期」に始まり、土器製作は農耕とともに紀元前4000年 - 前3000年頃の「形成期」に始まったとされてきた[122]。ただし、現在では時代名称と年代について見直しがなされている。詳細は「メソアメリカの編年」を参照。
- ^ この土器については、自刃する人を表しているのではないかという見方もある[135]。
- ^ 「アパート様式」は、スペイン建築と融合してプエブロ復活建築という様式を生み出した。
出典
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