彩文土器
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彩文土器(さいもんどき)は、素焼きの土器の一種で、酸化鉄により赤色や黒色、白色などで、単純な模様や動物の姿などを描いた土器である[1]。原始農耕文化の誕生により発達を見せた。「彩色土器」とも呼ぶ。 メソポタミアや古代エジプト、近代以前のインドなど、世界各地の新石器文化で彩文土器が使用されており、中国でも使用されている。そして、中国で作られた彩文土器を特に「彩陶(さいとう)」と呼び[1][2]、仰韶文化の指標とされる[3]。彩陶は、赤みがかった胎土の表面に、黒や赤などの顔料で文様を描いた土器であり[4]、仰韶遺跡や半坡遺跡などで出土している。なお、彩文土器は、メソポタミアが起源だとする説が有力であったが、中国が起源だとする説もある。
中国の彩文土器 (彩陶)
中国では、黄河流域や西北部の甘粛地方を中心に、各地で彩文土器が出土する。最初期の土器には筆描きによる装飾はいまだ見られず、彩文土器が現れるのは新石器時代中期以降である。彩文土器を伴う文化としては、黄河中・上流域では仰韶文化(陝西省・河南省)、甘粛地方では馬家窯文化(または甘粛仰韶文化、甘粛省・青海省)、黄河下流域では大汶口文化(山東省・江蘇省)がある。仰韶文化は半坡遺跡(西安郊外)を標識遺跡とする半坡類型(4000年BC頃)と廟底溝遺跡(河南省)を標識遺跡とする廟底溝類型(3300年BC頃)に分かれる。半坡遺跡は彩文土器で知られるが、出土した土器の大半は粗陶で、彩文土器は全体の5%ほどであった。甘粛地方の馬家窯文化は、馬家窯類型(3000年BC頃)、半山類型(2600年BC頃)、馬廠類型(2200年BC頃)に分けられ、彩文土器の出土を特色とする。黄河下流域の大汶口文化(4000 - 2300年BC頃)は山東省泰安市の大汶口遺跡を標識遺跡とし、初期には紅陶が中心だが、彩文土器もある[5][6]。
脚注
- ^ a b “彩文土器/彩陶”. www.y-history.net. 2020年12月6日閲覧。
- ^ 日本大百科全書. “彩陶”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2023年4月7日閲覧。
- ^ “彩陶(さいとう)の意味 - goo国語辞書”. goo辞書. 2020年12月6日閲覧。
- ^ “彩陶鉢 文化遺産オンライン”. bunka.nii.ac.jp. 2020年12月6日閲覧。
- ^ 弓場紀知『古代の土器』(平凡社版 中国の陶磁 1)、平凡社、1999、pp.90 - 96
- ^ 矢部良明「中国陶磁史の梗概」『中国の陶磁』(展覧会図録)、東京国立博物館、1994、p.241
外部リンク
彩文土器
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彩文土器は、土器の表面に幾何学文、人物文などを描いたもので、黄河流域や西北部の甘粛地方を中心に中国各地で出土する。最初期の土器には筆描きによる装飾はいまだ見られず、彩文土器が現れるのは新石器時代中期以降である。彩文土器を伴う文化としては、黄河中・上流域では仰韶文化(陝西省・河南省)、甘粛地方では馬家窯文化(または甘粛仰韶文化、甘粛省・青海省)、黄河下流域では大汶口文化(山東省・江蘇省)がある。仰韶文化は半坡遺跡(西安郊外)を標識遺跡とする半坡類型(4000年BC頃)と廟底溝遺跡(河南省)を標識遺跡とする廟底溝類型(3300年BC頃)に分かれる。半坡遺跡は彩文土器で知られるが、出土した土器の大半は粗陶で、彩文土器は全体の5%ほどであった。甘粛地方の馬家窯文化は、馬家窯類型(3000年BC頃)、半山類型(2600年BC頃)、馬廠類型(2200年BC頃)に分けられ、彩文土器の出土を特色とする。黄河下流域の大汶口文化(4000 - 2300年BC頃)は山東省泰安市の大汶口遺跡を標識遺跡とし、初期には紅陶が中心だが、彩文土器もある。
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