土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/24 14:38 UTC 版)
土器の性質と製法
土器の理化学的性質
土器の原料となる粘土は、「含水はん土ケイ酸塩鉱物」の総称であり、これは主として長石が分解してできたものである[1]。粘土のなかには、いわば機械的に含まれている湿分と、内部で化学的に結合している構造水とがあり、湿分は乾燥させると蒸発して抜けていくが、加水するとまた戻ってくる[1]。これが可塑性のもととなる[1]。それに対し、構造水は450℃の熱を加えると外部に放散してしまい、650℃では完全に失われてしまうので、その後でいくら水分を加えても可塑性は戻らない[1]。粘土分に含まれるケイ酸塩(主にカオリナイト、つまりアルミニウムのケイ酸塩)を加熱すれば、不可逆的に水酸基が還元されて構造水が奪われて立体構造が変化するのである[1][15][36][37]。
一方、石英を573℃まで加熱すると結晶構造が変化することで体積が膨張し、冷却によって収縮する性質を持っている[1][36][37]。
土器とは、加熱によって強度を増すことを目的とした、主としてこの2つの物理化学的変化を応用した焼結物であるといえる[36][37]。乾燥させた粘土を加熱すると、残った水分が蒸発した後、カオリナイトが還元され、573℃で石英の結晶が変形して全体が膨張する[36][37]。さらに、カオリナイト以外のケイ酸塩の還元が進んだ後、冷却することで石英の収縮によって全体がしまって、強度が高められて、焼結が完了する[36][37][注釈 9]。
土器は焼成温度が低く、石英のガラス化が始まる前に冷却してしまうので、空気や水分の抜け穴や微細な隙間が数多く残った、比較的多孔質な器物であるといえる[36][37]。したがって製作にあたっては、その多孔質の性質を低減させて緻密化するための努力がはらわれることが多い[5]。土鍋や湯のみの使いはじめにおかゆを煮たり、入れたりするのは、水漏れ防止のために、これらの穴やすきまをデンプンの粒子で塞ぎ、多孔質の欠点を補う作業に相当する[38][注釈 10]。
しかし、他方では、多孔質であることをむしろ生かすような用途もあり、多孔質という特性を増すよう、敢えて粗く仕上げることもある[5]。
土器の素材
土器の材料は、水や風によって運ばれた土の細粒が堆積してできる二次粘土を用いる場合が多く、ケイ石を主体とする母岩が風化してその場で土と化した一次粘土を使用する例は少ない[5]。一般的には、一次粘土よりも二次粘土の方が粘性が強く可塑性に富んでいる[5]。粘土は、砂漠やサンゴ礁が広がる一帯などを除くと世界中のどこででも採取可能であり、その可塑性の高さとともに土器に地方差・地域性を生じる要因の一つとなっている[5]。
素地を作るにあたっては、主として粘性をいく分弱めて作業しやすくするなどのために、各種の混和剤を加えることが多い[5][39]。砂粒や滑石・雲母などといった岩石の細粒、黒鉛、粉砕した土器片といった無機物のほか、草木の根などといった植物繊維や羽毛など有機質のものが混ぜられることもあり、地域により、また年代により、実に多様な混和剤が用いられる[5][8][39]。一方、粘り気の少ない粘土の粘性を向上させるために、動物の糞や樹液、血液などを混和させる場合もある[5]。
こうした混和剤は、以上のような理由のほか土器の軽量化や耐熱化、割れ防止、焼成の際のゆがみ防止、あるいは美観のためにも使用されるが、一般には器の質を粗くすることが多い[5][39]。たとえば、植物繊維を混和させた土器(繊維土器)は成形作業がしやすく、焼成の際に繊維の一部も焼失してしまうので、器は軽量化して運搬などは容易になるが、多孔性はむしろ高まることが多い[注釈 11]。砂もまた、多すぎると割れの原因になってしまう[39]。
したがって他方では精製のための工夫もなされる[5]。たとえば、粘土を乾燥させて粉末にし、水洗いして異物を取り除く作業をおこなうことがある[39]。あるいはまた、粘土に水を大量に加えてかき混ぜ、重い砂粒を沈殿させて上の泥水を別の容器に移し、その水分を蒸発させることによって緻密で良質な粘土を得ることができる[5]。こうした作業を「水簸」と呼んでおり、高級陶器や磁器の素地づくりでは今日でも重要な工程の一つととなっている[5]。
また、タイプの異なる粘土をブレンドして素地として好適なものをめざすこともなされている[5]。こうした工夫から、カオリンの多い粘土、すなわち陶土が求められるようになっていったと考えられる[39]。
土器の製法
土器の製作工程は、土器に残された痕跡を観察すること、文化人類学的な知見、実験考古学によって想定され、製法の復原も可能となる[8]。土器づくりは、通常、以下のような工程を踏む[8][39]。
- 素地土の採取 — 粘土だけでは乾燥時に収縮し、亀裂を生じることから植物繊維や砂などの混和材も採取しておく[5]。
- 下地(素地土)作り — 押したり、揉んだり、踏みつけたりして粘土中の気泡を抜き、含まれる物質を均一に混ぜ合わせ、粘性を調整する。
- ねかし — こねた粘土をねかし、混和剤を粘土になじませる。
- 成形 — 粘土紐を積み上げていく方法やロクロを用いる方法などがある。
- (整形) — 縄文土器の場合は把手や突起などをつくる。土師器や須恵器の場合は高台をつくる場合などがある。
- 文様施文 — 縄や撚糸をころがす。ヘラ、刻みをつけた棒、貝殻、種実、縄などを押しつける。ヘラで磨り消したり、ミガキをかけたりする。塗彩する場合もある。
- 乾燥 — 緻密なものは冷暗所で7日 - 10日程度乾燥させるが、粗放な素地のものは直射日光で短時間で乾燥させる[8]。乾燥によって土器は1割ほど収縮する。
- 焼成 — 焼成坑や窯を作り、焼成する。窯の使用の有無や焼成方法で、土器面の色調に変化が生ずる[8]。
- (調整) — 水もれを防ぐため表面を丹念に磨きあげることがある。漆液を塗って仕上げる場合もある。
土器成形の方法
土器成形の方法はロクロの使用と不使用に大別される[5][8][39][40]。
ロクロを使わない成形
土器出現期にはロクロは使われておらず、
- 手づくね - 粘土の塊の中央に指でくぼみをつくり、徐々に周囲の壁を薄くして器の形に仕上げる方法。
- 輪積み - 粘土紐、あるいはそれを平らにした粘土帯を環状に積み上げる方法。
- 巻上げ - 粘土紐、粘土帯を螺旋状(コイル状)に積み上げる方法。
- 型押し(型起こし、型作り) - 既成の土器の下半部や籠ないし専用の型をあらかじめ用意し、その内側に粘土を押し付けて器のかたちを作る方法
があり[5][8][39]、ほかに、小さな粘土板をつなぎ合わせるパッチワーク法がある[40]。縄文土器最古の一群にはパッチワーク法でつくられたものがある[40]。
輪積み法と巻上げ法をあわせて「紐づくり」という場合があり、日本では縄文土器・弥生土器・土師器の多くが紐づくりでつくられた[5][40]。紐づくり法では、木の葉、網代[要曖昧さ回避]、布、板などを下敷きにしたり、回転台の上で作業したりして、成形中の土器の向きを変えることもある[5]。紐づくりで土器が成形する場合は、木べらや指先で修正しながら行う[39]。紐づくり法は、土器面に残された輪積みや巻上げの痕跡や粘土紐・帯の合わせ目に沿って割れた破片の断面などによって確認できる場合がある。
型押し法は、外側に型を用意し、内側に粘土をこめていく成形法で、とりわけ帝政ローマ期のアレッティウム式陶器はこの方法を多用されたことで知られている[39]。
なお、中世日本でつくられた「かわらけ」は、瓦器と同様、食器や儀式・祭祀用の酒杯として用いられた土器であり、ロクロを使うもののほか手づくねによるものがある[41]。かわらけは燈明皿としても用いられ、都市部や城館跡からの出土が多い[42]。
ロクロ成形
回転台の発展したものがロクロである[8]。ロクロ成形は、回転運動の遠心力を利用して、粘土塊から器の形を挽き出す成形方法である[5][40]。作業は一般に水またはヌタ(素地を溶かした泥)で表面をうるおしながらなされる[39]。ロクロによる土器製作が最も古いのは西アジアで、約5000年前にさかのぼる[5]。中国では約4000年前の大汶口文化後期から竜山文化にかけて、南アジアでもほぼ同時期のインダス文明の時期に遡る[5]。日本では、約1600年前の古墳時代の須恵器がロクロ使用の始まりである[5]。
通常、ロクロ土器は成形と整形・調整が同時に進むが、成形後にケズリやタタキの調整が行われる例がある[40]。ロクロの使用は、ロクロ台からの切り離し痕跡(糸を使う場合やヘラを使う場合がある)や土器面の指頭痕などによって確認できることがある[40][43][44]。
なお、諸地域の民俗例を総覧すると、ロクロ挽きによる土器製造は男性、ロクロを使用しない土器づくりは女性によって担われることが多く、古墳時代の日本でも須恵器は男性、土師器は女性が作ったとみられている[5]。ロクロを使うのが男性であるのは、女性よりも腕力が強いことが理由といわれている[5]。今日ではロクロの多くは電動式となっているが、それ以前は手回しロクロを片手で回しながら成形し、のちには両手が成形に使えるよう「蹴りロクロ」が各地で考案されて足の力でロクロを回す方法が採用された[45]。ロクロは大量生産と均斉のとれた形のものを作ることに長じているが、大形のものや横断面が円形でない容器を作るのには適していない[39]。
なお、各種の成形法は単独で用いられることもあるが、民俗例からも確認されるように、紐づくりで大まかにつくってロクロで仕上げたり、下半分は型押しでつくり上半を巻上げで作ったりするなど、組み合わせて土器を製作することも少なくない[5][8]。ロクロを使う場合でも、把手や脚部などは別個に成形され、あとでそれが接合されるという工程を踏むのが一般的である[39]。
さまざまな調整(整形)
調整(整形)は、器の壁を薄くして器面の凹凸をなるべく減らして平らにし、器面の緻密さや粗い面を形成させることなどを目的として形を整える工程である[8]。多くは成形の際の仕上げに、あるいは焼成の直前におこなわれることが多いが、まれに、焼成後におこなわれることもある。器表を緻密に仕上げるには、丸い石や竹のヘラなど滑らかなものを使って磨いたり(ミガキ)、指先や水でぬらした布・皮革で撫でたり(ナデ)、また、木目のある板の小口部で撫でつけたり(ハケ)、あるいは「化粧がけ(英語: slip)」といって素地に加水して泥状にしたものを塗って器の表面を覆うなどの方法がある[5][8][40]。器表を粗く仕上げるには、割り板や貝殻の縁で引っ掻いたり、削ったりして調整をほどこすという方法(ケズリ)がある[5]。それ以外に、筋や模様を刻んだ羽子板状の道具で外面から素地を敲き締める(タタキ)があり、これは胎土内の気泡を除去する意味もある[40]。
調整に使われる道具には、以上のもののほか、動物の骨や植物の葉など、多種多様なものが用いられる[8][40]。どのような調整がなされたかは、実物の入念な観察によってその痕跡を確認することができる[注釈 12]。
土器の施文と彩色
土器の装飾は、土器がまだ軟らかい段階、生乾きの段階、よく乾燥した段階、焼成後など各段階でおこなわれる。土器装飾の手法は、器表を各種の工具で、線を引いたり、削ったり、くぼめたりする沈文、粘土紐や粘土粒を貼り付ける浮文、色を加えた彩文(彩色)(塗彩、彩文、描画)、その他(象嵌など)に大きく区別される[5][46][注釈 13]。
これらの装飾のない土器は無文土器というが、そのなかには、成形の後、生乾きの間に器面全体をヘラで磨いたものがあり、これを磨研土器(まけんどき)といい、通常の無文土器とは区別する[39]。
縄文は、撚りをかけた紐 (縄) を用いてつけた縄目文様であり、縄自体を土器面に回転させる手法(回転縄文)が最も普通であるが、その場合、文様としては斜行縄文となる[47]。その他、縄の側面や先端を押圧する手法や縄を丸棒の軸に巻きつけた絡条体(らくじょうたい)を回転または押圧するという手法がある[47]。縄文(縄目文様)は、中国やヨーロッパなど世界の先史時代の土器や民族事例などにもみられるが、日本における石器時代の土器に特別な発達がみられ「縄文土器」「縄文時代」の名称の由来となった[47]。縄ではなく撚った糸を軸に巻きつけて施した文様は撚糸文(よりいともん)という[48]。施文原体(撚紐、絡条体)の種類と施文法の組合せによって多数のバリエーションが生まれ、それについては、戦前の山内清男による総合的な研究がある[47][49]。
彩文土器(彩陶)は、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明、古代ギリシア、ヨーロッパなどで広くみられるが、この場合、彩色具は、あくまでも表面を彩色するのみであり、釉薬のように胎土を覆ったり、透水性を変化させたりなどの物理化学的な変化を器本体にもたらさないことを前提としている[46]。釉薬によらないギリシア陶器や漢代の土器なども一般に彩文土器にはふくめない[46][注釈 14]。
土器の補修
土器は多くの場合、損壊したら、そのまま廃棄される[50]。ただし、破損したときの接着剤として、漆や天然アスファルトその他が用いられる場合がある[51][注釈 15]。漆は、日本では既に縄文時代前期より技術開発が進められている[52]。アスファルトは、日本の縄文時代中期から晩期にかけて、秋田県から新潟県沿岸部の油田地帯産のものが東北地方を中心に北海道南部から北陸・関東地方にかけて広く交易されていることが確認されている[51][53]。
陶磁器の時代に入ってからは、日本では「金継ぎ」という、漆芸を応用した補修が生まれたが、これはたぶんに茶道の精神に由来するものである[54]。
注釈
- ^ 粘土を焼いて作られるものであっても、容器でないものは「土製品」「瓦器」と称される[1]。
- ^ この場合、野焼きを行う穴を「焼成坑」と呼ぶ[4]。
- ^ なお、西洋では陶器と磁器の区別は日本や中国と異なり明確ではなく、英語のポーセリン(porcelain)は「白い」陶磁器を称し、中国・朝鮮・日本では磁器(瓷器)とみなされている青磁は、英語ではストーンウェア(stoneware)と称される[11]。一方、ポーセリンには、軟質(「軟質磁器」)と硬質(「硬質磁器」)の区別を設ける。
- ^ 秋田県男鹿半島などでは、木製の箱に焼石を投げ込んで魚貝を煮て食べる石焼料理の土俗例が現在にも残っている[19]。
- ^ 小林達雄は、人間が満腹するほどの生米を食べるとすれば、おいしくないというだけではなく、たちまち下痢の症状を引き起こすであろうという例を引いて、これを説明している[20]。米の場合は、加熱によってβデンプンがαデンプンに変わり、劇的に消化しやすくなるのである[20]。
- ^ 小林達雄は、遊動的生活を基本とする旧石器時代人は、極端にいえば、毎晩欠かさずに寝るための巣づくりをするような行動が習性となっており、特定の場所に対するこだわりはなかったとしている[22]。西田正規は、『定住革命』(1986年)のなかで、人類の定住化は長い遊動的な生活の延長線上にあるものではなく、また、遊動的生活の体験の蓄積から結果として生じた新しい生活様式でもなく、むしろ人間の決断の意志を前提とするものであったことを強調している[21]。
- ^ 旧河川の川底とみなされる場所に棒杭を立てた遺構が、各地の縄文時代の遺跡から検出されている[20]。エリ漁は現代でも琵琶湖などでおこなわれている。
- ^ ドルニー・ヴェストニツェ遺跡ではマンモスの化石が出土しており、また、合葬墓がみつかったことでも著名な遺跡である。
- ^ 粘土は、乾燥によって湿分を失うときは、分子相互が密着するため、相当程度硬く締まり、この性質を利用して作られたものを粘土製品という[1]。日干しの土偶や古代メソポタミアの日干し煉瓦などが代表的な粘土製品であり、楔形文字の刻まれた粘土板も、粘土が本来持つ可塑性と湿分放散に伴う凝結性との双方を活用したものといえる[1]。
- ^ これを「目止め」という。米のとぎ汁や小麦粉を溶かした水を一煮立ちさせても同様の効果がある[38]。
- ^ 繊維土器は、焼成温度が低い場合には、繊維が完全に焼失してしまうことはなく、黒い炭化物となって胎土の内部に残ることが多く、それは土器の断面観察によって確かめられる[39]。
- ^ 日本では、ナデ整形は各種のナデが縄文草創期ですでにみられ、ケズリ整形・ミガキ整形は縄文早期以降にみられる。木目のギザギザが器面に細かい筋としてのこるハケ整形は、弥生時代より本格的に始まる。タタキは、大陸起源の整形法で弥生の早期に出現して後期以降に普及した[40]。
- ^ 彩色土器のうち、その彩色が焼成後にほどこされたものを塗彩土器、本焼ないし締焼の前になされたものを彩文土器として区別することがある[39]。
- ^ 中国の事例では、土器全体に占める彩文土器の比率は高くなく、そのほとんどは盛付用や貯蔵用であるところから特殊な容器として扱われていただろうと推測される[46]。これは、古代ギリシや古代ローマの絵付陶器が冠婚葬祭や宴会、奉納などに限られ、日常用には無文陶器や青銅容器を用いていた事実とも合致する[46]。
- ^ アスファルトは石器や骨角器の装着の際の接着剤としても用いられた[51]。
- ^ 最古の土器製塩は縄文後期後葉、関東地方の霞ケ浦周辺においてであり、やや遅れて東北地方の松島湾沿岸でも盛行する[56]。松島湾の土器製塩は関東で土器製塩が行われなくなって以降も行われ、弥生中期まで続いた[56]。弥生中期末、備讃瀬戸の児島地方で興った土器製塩は岡山県・香川県の本土地方さらには淡路島や近畿地方西部へと広範囲に広がった[56]。
- ^ 山内清男は1935年頃に縄文土器の編年の見通しを立て、1937年、全国的規模の「山内編年表」を発表した。たとえば、大木10式(中期)、加曽利B式(後期)、田戸下層式(早期)といった型式名は、発掘調査をおこなった遺跡から出土した土器に、その遺跡の地名をとって名づけた[64]。たとえば、大木10式土器とは、宮城県七ヶ浜町の大木囲貝塚から出土した土器を古いものから順に数字を付したものである[65]。大規模な遺跡では、広い調査区にいくつかの種類の遺物や遺構が混在するため、調査地点を細分する必要があり、加曽利B式土器とは、千葉市の加曽利貝塚B地点出土の土器を標準として名づけたものである[64]。田戸下層式土器は横須賀市の田戸遺跡の層位が命名の由来となっている[64]。このように、土器型式名は層位学的研究を土台としており、型式命名のもととなった遺跡を標式遺跡と呼ぶ。こうした手法は、弥生土器、土師器、須恵器の分野における土器研究でも応用された。
- ^ 須恵器の胎土分析を精力的に行ってきた三辻利一は、分析可能な元素のなかでも、ルビジウムとストロンチウムの蛍光X線の波高に地域的偏差を生じやすいことを確認し、この方法を採用している[66]。
- ^ エブルル様式文化は、かつて「ケニア・カプサ文化」と呼ばれた時期があり、それはチュニジアからアルジェリア内陸部にかけての中石器時代から新石器時代にかけてのカプサ文化との石器の類似からつけられた名称であるが、現代では、「ケニア・カプサ文化」と称された文化と北アフリカの「カプサ文化」の間はまったく関係がないと考えられている[68]。
- ^ この標章は、後代の地方行政単位であるノモスの標章に類似するものがあり、この時期にノモスの成立もしくは萌芽があったことを示唆している[72]。
- ^ 幅6 - 7メートルに対して長さが20メートル程度という家屋であり、場合によっては40メートルを超す場合もあった。こうしたロングハウスは、いずれも長軸を北西—南東方向にもつという共通点がある[89]。
- ^ メソポタミアではウバイド期に併行し、インダス地域ではシェーリ・ハーン・タラカイ文化、アムリー文化、ハークラー文化が成立した[90]。
- ^ シンド地方・ゴーマル・、バンヌ・西部パンジャーブ州ではコート・ディジー文化、東部パンジャーブ地方ではソーティ・シースワール文化、また、ガンガー平原では「先ハラッパー文化」と称される文化が、それぞれ営まれた[90]。
- ^ 縄文草創期において九州地方南部は採集経済の早熟的な発展がみられ、文化創造の先頭に立っていたが、鬼界カルデラの爆発を受けて壊滅的な打撃を受け、以後、文化創造の中心は東北地方などの東日本に移った[52]。
- ^ 一方で、東北地方からも滋賀里式など西日本系の縄文晩期土器が出土しており、相互交流が考えられる[107]。
- ^ なお、縄文土器の中には後代に茶道具に転用されたものが存在するという[108]
- ^ かつてアメリカ大陸では、磨製石器が紀元前5000年 - 前4000年頃の「古期」に始まり、土器製作は農耕とともに紀元前4000年 - 前3000年頃の「形成期」に始まったとされてきた[122]。ただし、現在では時代名称と年代について見直しがなされている。詳細は「メソアメリカの編年」を参照。
- ^ この土器については、自刃する人を表しているのではないかという見方もある[135]。
- ^ 「アパート様式」は、スペイン建築と融合してプエブロ復活建築という様式を生み出した。
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