土器 世界各地の土器文化

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 文化 > 工芸 > 容器 > 土器の解説 > 世界各地の土器文化 

土器

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/17 02:12 UTC 版)

世界各地の土器文化

サハラ以南のアフリカ

バンバラ族マリ)の村、カラボウゴウ英語版はやきものづくりの村で、現在でも野焼きによって土器が作られている。

東アフリカの大地溝帯に所在するケニアのガンプル洞窟では、エブルル様式英語版(旧「ケニア・カプサB文化」)とされる後期旧石器時代末葉の文化層から土器片が発見されており、およそ1万年前にまで遡り、アフリカ大陸における最古級の土器と考えられたことがある[19]。この上層(旧「ケニア・カプサD文化」およびエレメンテイタ文化の時期)の遺跡からは約8000年前(紀元前6000年頃)の尖底深鉢形土器が出土している[19][注釈 19]

1997年から2009年にかけて行われた、西アフリカのマリ共和国中部のオウンジョウゴウ英語版遺跡群の調査では、1万1400年前(紀元前9400年)の土器片が見つかり、注目を集めた[68]。この遺跡群はバンディアガラの断崖とその周辺一帯にあり、100以上の考古遺跡から形成されている。調査は「アフリカにおける人口と古環境」の一環として28か国50人の調査団によって比較的広い範囲についてなされ、更新世から完新世に至る古環境の変遷とそれにともなう人類の活動がどのようなものであったか、多角的に分析・検討された[68]。調査を指揮したジュネーヴ大学のエリック・ヒュイセコムは、この土器について、砂漠が緑化される(「緑のサハラ」時代の到来)という環境の大変化に際して発明されたアフリカ・中東地域最古の土器であり、中国・日本・ロシア沿海州といった東アジア地域とは別に独自に発明されたものであり、東アジアとの同時性についてはむしろ、弓矢の発明との関連を掲げたうえで、人類が気候の変化にどう対応するのかを示す点で共通性があるとしている[68]

ナイジェリアでは紀元前10世紀から6世紀にかけての鉄器時代の文化、ノク文化は、優れた土偶や土面を数多く出土したことで知られている。なお、アフリカ大陸では、今日でも野焼きなどによって日常什器のほか民芸品的な土器も広く作られており、その中には優れた芸術性を持つ作品も少なくない。

エジプト

ナカダII期(紀元前3600年〜紀元前3200年)の彩文土器船文双耳壺
ロクロを使った土器づくりのイラスト(壁画より模写したもの)

エジプトでは、旧石器文化新石器文化の文化層が連続するナブタ・プラヤ英語版遺跡において、紀元前6150年頃に六条大麦の栽培、の飼育とともに、波状文や櫛目文をほどこした黄褐色土器が出土し、ナブタ新石器文化と称されている[69]。土器は大形薄手で、新石器文化も当初出土する動物骨はガゼルノウサギなど狩猟で得たものがほとんどであった[69]紀元前5500年頃になると、農耕と牧畜が明瞭に生業の中心となり、土器は器形・施文法、いずれも多様化し、しだいに赤みを帯びる傾向を示し、のちの赤色磨研土器につながっていく[69]

先王朝時代紀元前5000年頃に上エジプトに始まるパダリ文化英語版期では、薄手の磨研土器が特徴的であり、赤色磨研土器とその変形である口縁部と内側を黒化させた黒頂土器(英語: black top)および黒色土器はパダリ文化を代表している[69][70]

紀元前4000年頃から紀元前3600年頃にかけてのナカダI期(アムラー文化英語版)では、黒頂土器や赤色磨研土器、また、赤色磨研土器に白土で幾何学的に装飾した白線文土器(図像内部を交線で埋めるので「交線文土器」ともいう)に特徴がある[70][71]。つづくナカダII期(ゲルゼー文化英語版、紀元前3600年-紀元前3200年)では、赤色顔料による彩文土器が盛んに作られるようになる[70][71]。文様の中心となっているのはであり、マストには呪物を示す標章が描かれているのが特徴的である[71][注釈 20]

古王国時代(紀元前2686年頃 - 紀元前2185年前後)や中王国時代(紀元前2040年頃-紀元前18世紀)にも磨研土器がみられ、新王国時代(紀元前1570年頃 - 紀元前1070年頃)には、多種多様な彩文土器が盛んに作られた[70]。新王国時代のエジプトでは、白みがかった青色顔料が特に好まれ、多くの土器・土製品で塗彩されている。

土器の材料にはナイル川の泥土や周辺台地からの泥灰土が利用され、エジプト初期王朝時代の紀元前2500年前後までにはロクロを利用した土器が現れた[70]

西アジア

レヴァント・メソポタミア・アナトリア

紀元前10500年頃から紀元前8500年頃にかけて、現在のシリアイスラエルヨルダンレバノンのそれぞれにまたがるレヴァント地方では、野生のオオムギコムギを定期的に採集し、ヤギやガゼルなどを狩って生活を営む人びとが次第に増えていった(ナトゥフィアン文化英語版[72]。ナトゥフィアン文化の人びとはやがて定住集落を営むようになり、紀元前8000年から紀元前7500年ころにはこうした生活様式がザグロス山脈南西の山麓域(現在のイラク北部やイラン南部)にも広がって、狩猟対象の動物や採集対象の植物を拡充していき、集落を形成していったと考えられる[72]

また、トルコ南東部のギョベクリ・テペは、石柱の立ち並ぶ巨石建造物、ヘビイノシシ牡牛ツルクモなど野生生物を表現した数々の彫刻、人間をモチーフにした石像群などから成る遺跡で、発見当初は一大センセーションを引き起こした遺跡である[73]。ギョベクリ・テベは、動植物のドメスティケーション(栽培化と家畜化)のごく初期段階にあった狩猟採集民が残した遺跡で、たくさんの労働力を動員して巨大な建造物を築くという行動や豊かなシンボリズムの突然の発露といった現象は、そこに認知能力の変化(精神的な「革命」)があったのではないかという推定を生み落とした[73]。動植物のドメスティケーションは紀元前9500年以降、数千年の長い時間をかけて進行して完成したと考えられ、また、一地点というよりは「肥沃な三日月地帯」という広い一帯のなかで同時多発的に発生したとみる説が有力である[73]

紀元前7000年頃、こうした中から本格的な農耕牧畜生活が始まった[73][74]。紀元前6500年前後には、イェリコ、ベイダ、ムンハタといったレヴァント地方に大規模な農耕集落が形成され、同じ頃、アナトリア高原のチュユヌではヤギ・ヒツジを飼育し、コムギのほかエンドウマメカラスノエンドウレンズマメなどのマメ類の栽培がおこなわれるようになって、ここでは粘土をこねて乾燥させただけの土製品が出土した[75]。西アジア最古の土器は、北メソポタミアから北レヴァントにかけてであり、年代としては紀元前7000年頃から紀元前6600年頃があてられる[76]。主な遺跡は、ユーフラテス川中流域のテル・ハルーラ、アカルチャイ・テペ、メズラー・テレイラート、シリア西部のテル・エル=ケルク、シール、テル・サビ・アビヤド、チグリス川上流域のサラット・ジャーミー・ヤヌ、ハブール川沿いのテル・セクル・アル=アヘイマルなどである[76]。原初期の土器は、「初期鉱物混和土器」(英語: Early Mineral Ware)と総称され、暗色系のものが多く、方解石玄武岩の粒子を多く混和させた重い土器で、既に彩色文様を伴うものがあり、数は少ないが全体的に丁寧なつくりである[76]

チャタル・ヒュユク遺跡(トルコ)出土の塗彩土器甕・鉢

紀元前6000年前後、アナトリアのチャタル・ヒュユクではさらに穀物と飼育動物の種類を増やしており、神殿遺構が検出されていることが注目される[77]発掘調査では、ウシや女性を刻した浮彫彫刻(レリーフ)、火山の爆発や狩猟場面を描いた壁画などで内装が飾られていたことがわかった[77]。チャタル・ヒュユクでは、きわめてふくやかな女性の土偶も出土しており、土器製造を伴う[77]。土器はやがて、北部メソポタミアのジャルモ遺跡や東京大学が発掘調査をおこなったことでも知られるテル・サラサート英語版遺跡において、繊維をたくさん混ぜた粗製土器が大量に作られるようになった[76][77]。テル・セクル・アル=アヘイマル遺跡では植物混和のものが8割以上に及び、以前に主流であった鉱物混和の土器は激減する[76]

紀元前5800年頃から紀元前5200年頃にかけてのハッスーナ期では、短頸壺と鉢を中心に、白い化粧土をかけるなどして色を明るくした器面に赤褐色の幾何学文様を描いた土器が特徴的である[77]。ジャルモでは彩文土器も出土しており、平底の浅鉢形土器は古くからその存在が知られていた[19][78]。かつての先進地域であったレヴァント地方はむしろイラク北東部やアナトリアと比較して、相対的に衰えがみられるようになった[77]

紀元前5500年頃から紀元前5200年頃にかけての文化はサマラ文化と称され、この時期には山麓方面へもいっそう農耕民が生活域を広げていった。そして紀元前5200年以降にはハラフ文化と称される農耕文化が栄えて、メソポタミア北部にはハラフ土器が普及していく[77]。ハラフ期は紀元前4400年頃まで続き、幾何学的文様のほか、鹿、オナガー(アジアノロバ)、といった動物、鳥、花、植物、人物などが描かれる[77]。一方で周辺地域との交易も盛んとなって、ハラフ土器はヴァン湖黒曜石ペルシア湾の貝などと交換されたことが解明されている[77]

ウバイド文化は、紀元前5300年頃(広義には紀元前6500年頃)から紀元前3500年頃までの長い時期で、農耕民の一部がメソポタミアの平野部に進出していく時期である[79]。ウバイド文化期は4期に区分されるが、最終のウバイド4期になると実用的側面が強まって無文土器が増加する[79]。後続するウルク期紀元前3500年頃〜紀元前3100年頃)にはロクロ成形が始まった[78]。また、型入れで大量生産されるようになり、アップリケ、指押し、刻線などで幾何学文様をつけ、把手付のものも増加する[80]。社会文化の面ではウルク期より歴史時代に入り、ウルク期末期には国家組織のための基礎が完成する[81]古バビロニア王国の時代には、型押し成形による粘土製の神像が数多くみられるようになった[78]

アナトリアでは、紀元前3千年紀に黒色磨研の嘴形注口土器が盛んに作られ、この頃のトロヤ2層ではロクロ使用の開始が認められる[78]。紀元前1000年以降のアナトリア東部ではウラルトゥ時代に赤色磨研土器が多く製作された[78]

ペルシア

イラン高原では紀元前4000年頃から、スーサテペ・シアルク、テペ・ギヤンなどにおける淡黄色の地に彩色を施した彩文土器とイスマエラバード英語版などにおける赤褐色の地にミガキ整形をかけて光沢をつけた磨研土器の2系統の土器がつくられた[82]。ペルシアの彩文土器は、具象的な植物・鳥獣意匠が施文されるようになる以前は幾何文を施した土器が多くつくられるが、いずれも器形と装飾のバランスの良さに定評がある[82]。彩文土器の隆盛期は紀元前4000年紀から前3000年紀にかけてであり、その後は黒褐色、灰褐色、赤褐色の磨研土器の製造が増えた[82]。なお、紀元前1000年頃のイラン北部では牛や大鹿をかたどった形象土器が盛んに作られた[82]

地中海沿岸・ギリシア

型押し技法で用いる型(紀元前5世紀紀元前4世紀アテネ

紀元前6000年を過ぎてしばらく、古代ギリシアエーゲ海沿岸に無文の土器を持つ集団が定着し始めた[83]。この集団の詳細は現状ではよくわかっていないが、アナトリア高原で発達しつつあった穀物類栽培や土器製造文化をヨーロッパにもたらした人びとであろうと推測される[83]テッサロニキ地方やクレタ島には当初、栽培文化だけが伝わった。紀元前5500年頃から紀元前4500年頃にかけてのギリシアではセスクロ英語版文化という彩文土器をともなう農耕文化が発展した[83]

ギリシアからバルカン半島へと伝播していった農耕文化に平行して、イタリア半島から南フランスイベリア半島へと広がる別の農耕伝播の流れがある[84]。それが、紀元前5500年頃から紀元前5000年頃にかけてイタリア半島のアドリア海地中海沿岸地域を中心として成立したカルディアル土器文化イタリア語版である[84]。この文化は、二枚貝のカルディウム属(現、Cerastoderma属)の貝殻を胎土に押し付けて表面に櫛目のような文様をほどこした土器(カルディウム土器)に特徴をもっている[84]。紀元前5000年を過ぎると、赤色塗彩した上に貝殻圧痕をほどこす土器が一般化していき、この土器伝統はおよそ1000年の長きにわたって継続する[84]。その後、南フランスでは、紀元前4000年頃にシャッセ―フランス語版文化が成立する[84]

一方、紀元前4000年頃のギリシアではディミニ英語版土器文化が発展し、紀元前3000年頃にはクレタ島にミノア文明(クレタ文明)が開花する[85]。ミノア文明は独特の土器文化を育んだ[85][86]ミノアの土器英語版は3期に分けられ、前期は黒色の斑文をともなうヴァシリキ様式英語版、中期は鮮やかな彩文が特徴的なカマレス様式英語版の土器がつくられ、後期にはタコをはじめとする海生生物を描いて「海の様式(英語: Marine Style)」と称される特徴的な彩文土器がさかんにつくられた[86]。ミノア文明は、紀元前1400年頃、ギリシア本土のミケーネによって滅ぼされた[87]

セスクロ・ディミニの土器文化を持っていた原ギリシア人は、青銅器時代に入ると釉薬に似た光沢のある上塗りを施す「ウルフィルニス土器」を産み出した(ヘラドス文化[87])。ヘラドス文化は、赤や黄褐色で施文した艶なしの土器、黒・灰色で無文の「ミニュアス土器」と推移し、後期青銅器時代にはミケーネ文明を開花させた[87]。ギリシア本土ではこの後、紀元前10世紀以降、器表に幾何学文を施す幾何学様式、赤に黒色で描く黒絵式(黒像式)、それを反転させた赤絵式(赤像式)、白地に色彩豊かに絵を描いた白地多色式など多様な土器・陶器が作られた[86]

ヨーロッパ

アナトリアからギリシアへ農耕文化を伝えた人びとは、さらにバルカン半島へと広がっていき、紀元前5500年以降のギリシアのセスクロ文化に並行して、ブルガリアではカラノヴォ文化英語版ルーマニアではクリシュ文化、ハンガリーではケレス文化英語版、旧ユーゴスラヴィアスタルチェボ文化英語版がそれぞれ独自性を強めて発展していった[83]

帯文土器文化に伴う土器群(ドイツバイエルン州

紀元前4500年頃から紀元前4000年頃にかけては、農耕がさらにヨーロッパの内陸部まで広がり、ポーランドからドイツオランダにまで拡大していった[83][88]。その時期にはセルビアベオグラードに近いヴィンチャを中心にヴィンチャ文化英語版が発展した[83]。集落の内部で土偶が集中する箇所があったり、文字のような記号が刻される粘土板が出土したりすることで注目される文化である[83]。一方、ライン川流域を中心とする中欧から西欧にかけての一帯では帯文土器文化と呼ばれる独特の土器文化が成立した[88]。帯文土器とは、壺や鉢の表面に2列の平行刻線を単位とする曲線模様を描き、その線の中に刺突文を何か所か施すという特徴を持つ土器である[88]。この文化にかかわることとして、集落を構成する家屋が細長い長方形平面を呈するロングハウスを伴うことが特筆される[注釈 21]

金石併用時代(銅器時代)に入り、ギリシアでディミニ文化、南仏でシャッセー文化が興った頃のバルカン半島では、旧ユーゴスラヴィアで後期ヴィンチャ文化、ブルガリア北部からルーマニアにかけてはグメルニツァ文化英語版、北部ルーマニアではククテニ文化などローカル性豊かな文化が発展した[85]。帯文土器が広がった中欧・西欧では、縄目文土器文化を経てレンギェル文化英語版レッセン文化英語版、ハンガリーではティッサ文化英語版が興った[85]

紀元前3000年前後、スペイン、フランス、ブリテン島アイルランド島デンマークなどの大西洋北海側に巨石文化が広まった。紀元前2500年頃以降はヨーロッパ全域に農耕および馬・牛・羊の飼育、青銅器が普及し、紀元前2000年頃には、全ヨーロッパはそうした生業をもとに村落を構えて生活する諸民族の分布する世界となった[85]。紀元前2000年頃、中部ヨーロッパから西ヨーロッパにかけて、広い範囲で鐘形坏土器(ベル・ビーカー)が流行した(鐘状ビーカー文化[85]。ただし、この土器はバルカン半島などには浸透しなかった[85]

歴史時代に入り、ヨーロッパは地中海沿岸の古典古代(ギリシア・ローマ文明)の陶磁器の影響を受けた。中世から17世紀にかけて、ライン川流域のケルン周辺および上流のヴェスターヴァルト地方、ニュルンベルクに近いクロイセンの周辺では無釉ないし塩釉の炻器が盛んに作られた。これをライン炻器(ドイツ炻器)と称している。

南アジア

インド亜大陸における農耕の始まりは、パキスタンバローチスターン州メヘルガル遺跡において確認され、紀元前7000年にまで遡ることが判明した。コムギオオムギを栽培するかたわら山羊、牛を飼う半農半牧の生活を送っていたが、紀元前5500年までの文化層(メヘルガルI期)では、まだ土器が用いられていない反面、トルコ石石灰岩砂岩、磨いたのほか海水性の貝の貝殻やラピスラズリなど現地では入手困難なものも含め、多様な装飾品をともなう文化を送っており、また、虫歯治療がなされていた形跡がみられることでも注目された。

メヘルガル出土の彩文土器 魚文壺(紀元前3000年〜前2500年頃、メヘルガルV〜VII期)

土器が使われるようになるのは、紀元前5500年から前4800年までのメヘルガルII期である。メヘルガルIII期(紀元前4800年〜前3500年)は、インダス文明に先立つ地域文化が各地で形成される時期である[89][注釈 22]。メヘルガルIV期・V期(紀元前3500年〜前3000年)を過ぎるとインダス地域では地域文化間関係の再編がなされるようになった[89][注釈 23]

紀元前2700年頃には他地域との交流の活性化と地域文化の統合がともに進行する変容期をむかえ、紀元前2600年頃、インダス川流域を中心とする高度な都市文明、インダス文明が成立した[89]。インダス文明は、メソポタミア・エジプトの両文明に比べ、極めて広範囲な空間的広がりを持っており、検出遺構・出土遺物からモヘンジョダロハラッパーの二大都市が政治的中心であり、他に卓絶していたことが判明している[90]。土器づくりは、当初は女性の手によってなされたと考えられ、魚や怪獣を描いて流水文・網目文・雲気文などとともに意匠化された壺や鉢などの彩文土器は、時として容器としての役割以上の呪術性を持ちえたものと考えられる[91]

ロクロ成形がなされるようになると土器づくりは専門陶工の手にうつり、窯も改良されて焼きが緻密になった[92]。特にハラッパー文化の土器はバリエーション豊かである[93]。彩文土器は、赤地黒彩文とクリーム色の地に朱と黒で彩色を施したものに分けられる[92]。流水文、連続円花文、魚鱗文、格子文、波状文、帯状文など多様な幾何学文様があり、ペルシアスーサやテベ・ムシアンなどから出土する彩文土器との相互交流も示唆される[90][92][93]クジャクアイベックス(鹿)、魚などの動物文やインドボダイジュロゼットなどの植物文もみられ、実用品ほど無文の傾向がある[90][93]。器種は、広幅口縁をもつ大形甕、高坏、ビーカー、底部の細い壺、尖底ゴブレット(坏)など多岐にわたり、特徴的なものとしては、火桶(ひおけ)とも漉器(こしき)とも目される、側面に穿孔のある円筒形の多孔土器がある[90][93]地母神像とはじめとする人偶、動物をかたどった土偶、牛車のミニチュアや鳩笛といった玩具、用途不明の小形陶板(テラコッタ・ケーキ)など、容器以外の土製品の種類や量が多いこともインダス文明土器の特徴である[92][93]

デカン高原を中心にインド亜大陸に興ったマルワー文化英語版(紀元前1600年〜前1300年)でも、赤色またはオレンジ色の器面に黒色顔料で彩色した土器がみられる。

東南アジア

紀元前1225年紀元前700年のロッブリー県(タイ)出土の水牛形容器

メコン川流域のタイ王国北部のコーンケン県に所在するノン・ノク・タのマウンド遺跡では紀元前4000年紀の彩文土器や磨製石器の手、貝製ビーズなどが見つかっており、牛、を家畜として飼っていたことが判明し、土器にはコメの籾殻圧痕もあったので稲作農耕が既に始まっていたものと考えられる[19][94]青銅器時代の遺跡、バーンチエン遺跡からは独特の渦巻文で装飾した彩文土器が多数出土しており、近年、中国文明やインダス文明とも異なる東南アジア独自の農耕文明にかかわる遺跡として注目を集めている。鉄器時代に入り、中部タイのロッブリー県から出土した水牛をかたどった土器には、胴部に多重線刻による渦巻文が施されている。

ベトナムでは、土器の出現が新石器時代前葉のバクソン文化にまで遡るという意見もかつてあったが[19]、詳細は不明である。

多くの民族が共存する東南アジアにあっては、各地で地方色豊かな土器がつくられた。

東アジア

中国新石器時代諸文化概略図(主なもののみ)[95]
地域/時期区分・年代 新石器時代(広義の仰韶期) 新石器時代(銅石併用期)
(広義の竜山期)
〜B.C.4000頃 B.C.4000頃
〜B.C.3500頃
(B.C.3500頃)
B.C.2600頃〜
渭水・黄河中流域 裴李崗文化仰韶文化 中原竜山文化
黄河下流域 山東竜山文化
山東地域 大汶口文化
長江下流域 河姆渡文化 馬家浜文化 良渚文化
長江中流域 大渓文化 石家河文化

中国

周口店の北京原人遺跡を発見したスウェーデンの人類学者・考古学者ユハン・アンデショーン(アンダーソン、本来は地質学者)は、周口店の発見に先立つ1921年河南省仰韶の村を訪れ石器の発掘作業を行った際、出土石器に彩色された土器(彩文土器)の破片が混じっていることに注目し、研究をはじめた[96]。そして、仰韶出土の甕の土器片のなかに水稲の籾殻圧痕が見つかったことは人びとを驚かせ、これが中国における新石器時代文化研究の先駆けとなった[96]。アンデショーン自身は、後に見つかった黒陶の方が彩文土器よりも古い様式と考えたが、その後、層位学的研究によりその年代観は修正され、また、戦後の調査の進展により、中国の農業開始は紀元前6000年紀にさかのぼるという見方が定着した[96][95]。しかし、近年では紀元前10000年以上の古い土器が相次いで発見されたためもあって、従来「仰韶文化」と称されてきた時代名称は全体を表現するのにそぐわなくなり、「新石器時代」ないし「新石器文化」として一括して示す傾向が強まっている[95]

紀元前6000年紀から紀元前2000年紀前半にかけての新石器時代の黄河流域では、裴李崗文化の紅陶、仰韶文化の彩陶、 大汶口文化の黒陶・白陶、銅石併用時代に入ってからは竜山文化の黒陶・灰陶といった土器にそれぞれ大きな特徴をもっている[97][98]長江流域でも併行して独自の土器文化がつづいた。

彩文土器(彩陶)は、主として祭祀用と考えられ、日常什器としては粗製土器が大量につくられた[99]。粗製土器には「鼎(かなえ)」や「鬲(れき)」といった三足の土器が多く混じっている[99]。それに対し、竜山文化の黒陶は、きわめて薄くつくられており、欧米の研究者からは「卵殻土器」(英語: Eggshell pottery)と呼ばれるほどである[96]。竜山文化でも三足土器が数多く出土し、煮炊きの道具と考えられる[96]。これについては、木材資源に乏しい華北平原に暮らす人びとが少ない薪炭で効率的に火熱を利用しようとしたためではなかったかという推論、あるいは中空の三足土器は水蒸気を利用するのに好適であることから蒸し料理のため考案されたのではないかという推論がある[96]。いずれにせよ、他地域ではほとんど類例がなく、しかも後代の春秋戦国代の青銅器にも同じ型が継承される、中国においてこそ際立った特徴を持つ独自な「かたち」といえる[96]

成形技法は当初は手づくねであり、彭頭山文化や河姆渡文化などではパッチワーク手法がとられた[98]。他に紐づくり法や型づくり法などを基本としている[98]。大汶口文化期の後半にはロクロの使用が始まった[98]。のちに磁器の発達をうながすカオリン(高嶺)土は、すでに後期仰韶文化より使われており、各地の白陶へとつながった[98]。焼成は、当初は野焼きであったが、裴李崗文化・仰韶文化では「横穴式」、仰韶文化と竜山文化では「竪穴式」という半地下式の焼成坑が用いられている[98]

仰韶期・竜山期を通じ、器種が豊富であることも中国土器の特徴で、器種には鉢()、坏、高坏(とう)、釜、瓶、碗、壺(尊)、甕、かんかまど、盤(圏足、三足)、三足器(鼎、鬲、げん)、、蓋、器台(支脚)などがある[98]。これら中国の先史時代土器のなかでも黒陶や灰陶は、青銅器文化に移行したのちも生産が続いた[98]

なお、中国では殷代には灰釉陶器や印文硬陶が登場し、当時の黒陶や白陶には青銅器を模倣したものが多い[97]。また、世界文化遺産となっている始皇帝陵陝西省西安市)に伴う兵馬俑は加彩灰陶であり、中国を統一した帝国の軍団の威容を誇示するものとなっている[97][100]

朝鮮半島

陶質土器 5世紀 装飾付長頸壺 新羅

朝鮮半島最古の土器が隆起線文土器であり、その文化は日本の縄文時代早期から前期初頭にかけて、また、中国の磁山文化裴李崗文化と併行する[101][102][103]。約9700年前 - 9200年前の済州島高山里遺跡出土の土器が朝鮮における最古段階に位置付けられ、繊維を多く混和させていることに特徴がある[104]。その後の朝鮮では、新石器時代(日本の縄文時代の前期〜後期に相当)の長期間にわたって、広い範囲で櫛目文土器が製作・使用された[102][103]。櫛目文土器は、櫛のような施文具で押さえたり引っかいたりして作った点・線・円などの幾何学文様を配合することを特徴とし、隆起線文土器が平底であったのに対し、平底と丸底の2つのタイプに分かれる[105]。底部の異なる2様式は地域性の現れであり、北朝鮮中部の平安北道の複数の遺跡では両タイプが共伴し、それよりも北が平底、それよりも南が丸底ないし尖底櫛目文土器の文化に属している[105]。こののち、朝鮮半島では、前1000年紀に無文土器(孔列文土器・赤色磨研土器・黒色磨研土器・粘土帯土器)の時代を迎えた [102][103]

1世紀から4世紀にかけての原三国時代には瓦質土器が生まれ、その後期には朝鮮半島の土器製作技術に画期的な進歩が起こって南部でロクロ成形の硬質な土器が現れた[102][103]三国時代には、窯で還元焔焼成された青灰色の硬質土器(陶質土器)が、5世紀以降、百済新羅伽耶の各地で作られ、とりわけ伽耶土器は日本の須恵器生産に直接的な影響を与えた[102][103]。新羅の都であった慶州とその周辺の古墳からは膨大な数の陶質土器が出土しており、通常の容器のほかに動物や車輪などさまざまな具象を取り入れた異形の土器も豊富にみられる [102]高句麗や百済では緑釉の施釉陶器もみられた[102][103]7世紀以降の統一新羅の時代にあっては、器の表面に各種のスタンプを押してから焼成する印花文土器がさかんに作られた[102]

日本列島

佐賀県吉野ヶ里遺跡から出土した祭祀・儀式用の弥生土器群
須恵器 坏の変遷
大阪府和泉市 いずみの国歴史館 展示。

煮沸具として日本で最初に登場したのが縄文土器である。「縄文」というのは、命名時には文字通り縄を転がして縄目文様をつけた土器が特徴的であったが、現代では時代名称に転化しており、すべての縄文時代の土器に縄文が施されているわけではない[48]。縄文時代は土偶・石棒などの呪物、耳飾りなどの装身、地方色豊かな祭祀施設の発達など、採集経済段階においては最も内容豊かで高度な文化を発達させた社会であるといわれる[51][注釈 24]。最初の縄文時代草創期の土器は丸底で無文のものが多く、早期には尖底土器や撚糸で施文した土器が現れる[47]。前期になると深鉢形土器は平底が一般的になり、縄文を施文したものが多くなり、器種が大幅に増加する。中期になると、北陸地方火焔土器などのように極めて装飾的な傾向が全国的に顕著になる一方、「ハレの器」である精製土器と「ケの器」である粗製土器の区別がいっそう明確になる。後期以降は、いっそう器種が増え、装飾的傾向は鎮まる一方で洗練さを増す。晩期には極めて精緻で工芸品的な亀ヶ岡土器(大洞式土器)が北海道を含む日本列島東半に広がり、近畿地方などにも伝播している[106][注釈 25][注釈 26]

弥生土器は、東京都文京区弥生町で最初に発見されたことによる名称で、当初は縄文時代の土器よりも薄手の土器として認識されていた[108]籾殻の圧痕をともなう弥生土器が各地で出土し、その際、炭化米をともなうことも多かったので稲作農耕の始まった時代の土器として位置づけられた[109]奈良県唐古・鍵遺跡からは農具とみられる大量の木器が出土し、静岡県登呂遺跡では水田跡そのものが検出された[109]。水田跡は東北地方北部を北限として山間部や寒冷地でも見つかっており、稲作の本格的な展開を裏づけている[110]。器種構成の面では、貯蔵のための壺、煮炊き用の甕が増加し、盛り付け用の鉢・高坏など器種構成の機能分化と再構成が図られた[111][112]。深鉢形土器は縄文時代に比べて小型化の傾向を示すが、食糧を多量に加工し保存することが中心であった煮炊きのあり方から1回1回の食事を煮て食べる生活に変化したことの現れであるとの推測もなされている[111]。弥生土器は、調整法などにおいて朝鮮半島の影響も受けるが、朝鮮半島の土器とも異なっており、各地の縄文土器をベースとしてそれが変化したものと考えられている[111][112]

土師器は縄文土器・弥生土器の流れを汲む日本在来の土器で、赤褐色で須恵器に比べると軟質の土器である[113]古墳時代から11世紀にかけて多くつくられた[113]。窯を用いず野焼きに近い焼き方をしたため、焼成温度は低く、器体の赤褐色は大量の酸素が供給されて燃焼したこと(酸化炎焼成)によるものである[113]氏姓制度において土師器製作を担当する部(専業者)の集団を「土師部(はじべ)」と呼び、埴輪も土師部により土師器の製法でつくられた[113]。弥生土器との比較で大きく異なるのは、土器の斉一性(地域性の消失)という点である[113][114]。7世紀以降は、仏具として佐波理製の銅器がもたらされるが、土師器や須恵器の形態にも大きな影響を与えた[115]。土師器は、庶民もふくむ一般的な使用が多いが、律令制度が整備されるに従い須恵器工人との交流が生まれ、ロクロ使用が採り入れられる。しかし、手づくね土器には独特の祭祀的意味が付加され、これが中世以降のかわらけにつながっている。

須恵器は、朝鮮半島とくに伽耶から技術を導入した土器で、ロクロを用いて作られ、密閉された窯で還元炎焼成された灰色の硬質の土器である[116]。古墳時代から11世紀にかけて多く作られ、坏・高坏、壺・長頸壺、平瓶・提瓶・横瓶、埦(まり)、𤭯(はそう)、器台・盤など、器形は変化に富んでいる[117]。担当する部は「陶作部(すえつくりべ)」である。焼く技術(窯)と作る技術(ロクロ)は一連のものとして同時に日本に入ってきたものである[116]。窯は窖窯(あながま)で、斜面にトンネルをつくって焼成のための部屋を設けたものであり、これにより硬質で水漏れのしない土器の大量生産が可能となった[116]。ロクロを用いた製作技術には底部円盤作り、風船技法、底部円柱作りなどがあり、器種としては食事用のもの、特に蓋付のものが増加した[116][118]。すでに歴史時代に入っており、日本各地から器面にで文字を書いた土器(墨書土器)が出土している[118]。一方では、官衙遺跡などにおいては、割れた須恵器の破片がに転用されること(転用硯)も少なくなかった事実が判明している[1]律令制度が定着するに従い土師器工人との交流が生まれて相互の技術交流がなされるようになった。土師器にくらべ支配階級や官人の使用が多いとされている。ただ、『正倉院文書』のなかに土器の器種別の価格表を記録した文書があるが、それによれば須恵器と土師器の間の価格差はほとんどなく、蓋付のものはないものに比較しておよそ倍の価格がついている[118]。なお、律令国家の研究においては宮廷や官司が使う工業製品を作る「官営工房」についての議論がされているが、須恵器を中心とした土器に関しては儀式や神事・仏事に用いる高級品はそうした工房で作られたと考えられる一方で、通常使う物は調を介在させた租税としての徴収や交易を介在させた民間からの購入で賄っていたとみられている[119]。須恵器は、珠洲焼常滑焼瀬戸焼など中世陶器へとつながる土器である[9]

中世土器であるかわらけは瓦器に類似し、製法も似通っているため、この名があり、「土師器の末裔」という性格を持つ[113]。多く酒杯などとして用いられて一括廃棄され、平泉京都鎌倉などの都市遺跡では大量に出土するが、それ以外の場所ではほとんど出土しない[120]。現代でも一部の神社などの祭祀御神酒をいただく際の使い捨ての酒杯として残る[120]。かわらけはまた、まれにではあるが、燈明皿としても用いられた[120]

アメリカ大陸

アメリカ大陸の考古学においては、旧石器時代、新石器時代という時代名称はいっさい使わず、「石期」「古期」など固有の名称による分類を行って時代区分としている[121][注釈 27]

南アメリカ大陸では、コロンビア北部のカリブ海沿岸低地に、既に紀元前3000年頃(「古期」)に土器を製作する人びとがいたことがわかっており、貝塚遺跡であるプエルト・オルミーガ遺跡英語版サン・ハシント英語版遺跡が知られる[122][123][124]。また、同時期のエクアドル太平洋沿岸部のバルディビア文化英語版の存在は古くから知られており、バルディビア貝塚からは土器や土偶が出土している[19][122]。バルディビア文化期のレアル・アルト遺跡の調査ではインゲンマメワタトウモロコシの栽培が既に始まっていたことがわかった[122]。現在のところ、プエルト・オルミーガとバルビディアでアメリカ大陸最古の土器文化が芽生えたものとみなすことができる[123][125][126]

アメリカ大陸では、容器や土偶ばかりでなく、楽器、装身具、椅子紡錘車スタンプなど様々なものが焼き物として製作された[125]。ロクロは用いられず、土器は手づくねや紐づくり、型入れでつくられた[125]。しかし、ろうけつ染めの原理を用いて文様をほどこすネガティブ技法は用いられている[125]

メソアメリカ

メソアメリカ(中米)地域で土器がみられるようになるのは、紀元前1700年頃(「先古典期」または「形成期」)である[127][128]。器種には無頸壺(テコマテ)や外に開いた平底の浅鉢などがあり、無頸壺とは球形ないし卵形の容器の上方を水平に切断した形の壺形土器である[127]紀元前1500年頃、グアテマラ太平洋沿岸を中心にオコス様式土器が使われるようになり、グアテマラ高地、チアパス高地、グリハルバ川流域、メキシコ湾岸低地、さらにオアハカ高原、メキシコ高原などへと広がっていった[127][128]。この拡大は土器と定住農耕が結びついた生活様式の普及を意味していると考えられる[128]。紀元前1200年頃から前800年頃にかけては、メキシコ湾岸の熱帯雨林地帯でオルメカ文化が興り、人工のマウンドと巨岩彫刻の特徴的な大規模な祭祀センターが何か所か成立する[129]

人面犬容器 紀元前200年〜後500年(メキシコ、コリマ州)

こうした社会統合の進展を基礎として、紀元前後から紀元後600年頃までメキシコ中央高地においてテオティワカン文明が繁栄する[130]太陽のピラミッドで知られる都市国家テオティワカンは最盛期の5世紀6世紀で10万人を数えたと推定される[130]。ここでは、土器・土偶を製作する工房や宝石(翡翠黒曜石・雲母など)・貝・玄武岩の加工工房、磨製石器製作工房など職人の仕事場が500か所以上に及び、原材料と製品の流通と特殊工芸生産の掌握が都市の繁栄を支えたと推定されるが、反面、農村部では目立った遺構が検出されず、都市と農村の格差のきわめて大きい社会であったと考えられる[130]

3世紀の終わり頃、ユカタン半島のオコス土器文化を継承してきた焼畑農耕民社会はオルメカ文化やテオティワカン文明の影響も受け、マヤ文明を誕生させた[131]。これを以てメソアメリカでは「古典期」の始まりとしている。マヤ文明は独自の文字(マヤ文字)や暦(マヤ暦)を有して900年前後まで続き、地域的には、ユカタン半島付け根部分を中心に現在のグアテマラ北部、メキシコのタバスコ州ホンジュラス西部、ベリーズといった地方に拡がり、いくつもの都市を出現させ、石造建築には特に優れた能力を発揮した[131][132]

古典期マヤ文明(250年〜900年)に特徴的な土器は、碗型、円筒型、皿型などの器形をもつ多彩色土器で、器面に歴史的な出来事や神話の一場面と思われる事象を描き、マヤ文字を付すというものである[125][133]。これらの土器には強い斉一性がみられる反面、地域性も明瞭に認められるところから、活発な長距離交易と同時に強大な権力を持たないマヤの都市連合的性格などがうかがわれる[125]。また、テオティワカンに起源をもつ三脚付円筒土器はマヤ文明においても極めて広範囲から出土しており、交易品であったことが推測される[125]

マヤ文明衰亡後の「後古典期」(900年頃〜1500年頃)のメソアメリカでは、刻文や型押し文をともなう、緻密な胎土を用いたオレンジ色の土器がマヤの各地に広がっていった[125]。光沢のある焼成のよい土器については「鉛釉土器」(英語: Plumbate Ware)と呼ぶこともあるが、しかし、実際に鉛釉がかけられているわけではない。

アンデス地域

アンデス文明の鐙型注口土器の変遷
チャビン文化
(紀元前1000年頃)[注釈 28]
モチェ文化III期
(4世紀)
モチェ文化IV期
(6世紀)
チムー王国
(14世紀〜15世紀)

アンデスの山地と海岸部では紀元前3000年紀に定住化が進んだが、紀元前2000年紀に土器や機織りの技術がもたらされたことにより、人びとは本格的な農耕生活に入り、内陸部の谷合に拠点的な集落を営むようになった[134]。この動きが特に顕著だったのがペルーの太平洋沿岸地方で、この地域ではまた巨大な祭祀と儀礼のための施設を伴う文化が急速に発展した[134]

こうして形成されたアンデス文明では、その長い歴史のなかで製作された土器の形態は多岐にわたっているが、中でも特徴的なものとして乗馬の際の(あぶみ)に似た形の注口部の付いた壺類(鐙型注口土器)の存在がある[125][133]。これは、ペルー北部を中心に、先古典期開始の紀元前18世紀頃からプレ・インカの全時期を通じて、チャビン文化モチェ文化も含めチムー王国850年1470年)の時代まで一貫してみられるものであり、基本的には型入れの技法によって てきた[125]

先古典文化前半の土器は、黒・褐色・赤色を呈した光沢のある表面が特徴的で、鐙形注口壺のほか長頸壺や平底の浅鉢などの器種があり、胴部に人物の頭部や動植物の象形装飾、刻線模様などを施すなどの共通点がある[134]。人物や動植物の装飾はそれ以降もプレ・インカの大きな特徴となっており、神話や宗教儀礼と密接な関連をもつと思われる題材が数多く描かれている[125][133]。特異な技法としては、焼成後に顔料を施して着色する土器があり、ペルー南海岸では樹脂を混入させた顔料で塗彩する土器がつくられた[125]

15世紀にアンデス全域を統合したインカ帝国1438年1532年)では、器種が大幅に減少し、文様も具象的なものが激減して幾何学的な内容のものが増えていった[125]

北米地域

バスケットメーカー文化のプエブロ人がつくった網籠
1世紀〜7世紀(バスケットメーカー文化II期またはIII期)
450年頃-750年頃(バスケットメーカー文化III期)

アナサジ文化(古代プエブロ文化)は、現在のアングロアメリカで良質な土器を製作した社会の一つであり、その特徴として装飾の鮮明さがある[125][133]。アナサジの人びとは初期の段階では網籠づくりの名手として知られ、後世、バスケットメーカー(英語: Basketmaker)と称された[125]。かれらは、バスケット・メーカー文化III期に相当する西暦500年頃から700年頃にかけて土器文化を発展させ、次のプエブロ期において多様な土器を製作するようになった[125]。代表的な遺跡にコロラド州メサ・ヴェルデニューメキシコ州プエブロ・ボニート英語版があり、アパート様式ともいわれる集合住宅に住み[注釈 29]キヴァと呼ばれた竪穴式の祭祀や政治を執り行う建造物を営んだ[125]。土器文様は、白色系の地に黒色のラインで鋸歯・直線・渦巻など幾何学的な文様を施すのが最も一般的で、器形には壺類、鉢類などがある[125]15世紀以降はクリーム色系の地に赤や黒で文様を施すものなど多彩な土器が製作されるようになった[125]

なお、19世紀アメリカの人類学者・民族学者フランク・カッシング英語版は、1881年頃のこととして「アリゾナにいたプエブロ人はの枝などで編んだ水の漏らない籠と焼石を用いて食べものを煮て食べている。その際、平籠の内側に砂質粘土を塗った皿を、火にかけて調理用に使う。この編籠の内側には、乾燥したのち適量の砂をまぜた粘土が平均した厚さに塗られ、まだ軟らかいうちに籠に密着するよう、手の指でしっかり押さえ付ける。乾いたら再び使用できる。火にかけると粘土の内張りは熱によって硬化していき、これを繰り返すといずれは本体の籠から離れてしまうが、そのときは既に完全な土器になっている」という内容のフィールドワークでの観察結果を報告している[33]。これは、長い間、土器の編籠起源説の有力な根拠の一つとなる事例とされてきた[19][33]


オセアニア

ボウレワ遺跡(フィジー)出土のラピタ土器(破片)
底部
口縁部

メラネシアに区分されるニューギニア高地では紀元前3000年頃には既に豚の飼育が始まっており、マウントハーゲンに近いワギ渓谷 (英語: Wahgi Valley)の発掘調査では紀元前4000年にまで遡る人工的な排水溝がつくられていることも判明したが、農耕開始の決定的な証拠とはいえず、それは溝跡から掘り棒、農具()、ヒョウタン、パンダナスが出土する紀元前300年頃まで待たなければならない[94]。遅くともその時期には農耕生活が始まっていたとは考えられるが、その間の詳細は不明である[94]。しかし、オセアニアの地に本格的な農耕をもたらし、広範囲に広げていったのは「ラピタ文化」という独特の土器文化を持った人びと(ラピタ人)であったと考えられる[94]

ラピタ土器は、先端の鋭い器具を用いて刻線や微小な点線によって、連弧文、斜格子文、円文といった幾何学文様を描くことを特徴とする個性的な土器で、ニューカレドニアのラピタ遺跡を標識遺跡としており、紀元前1500年頃、ニューギニアの北部、ソロモン諸島ビスマーク諸島といった地域に現れ、紀元前1300年頃にはバヌアツニューヘブリデス諸島、メラネシア最東のフィジー諸島などに伝わったことが確認されている[94]ポリネシアトンガには紀元前1100年頃から前1000年頃にかけて伝わり、トンガからさらに東のサモアへは時間がかかり紀元前4世紀から前3世紀初頭にかけて伝播した[94]。サモアからはマルケサス諸島を経て、そこから東へ向かった航海者たちはイースター島(現在はチリ領)に、北へ向かった人びとはハワイ諸島(現在は米国領)に、それぞれ西暦600年〜1000年までに到達して土器文化を伝えたと考えられる[94]


注釈

  1. ^ 粘土を焼いて作られるものであっても、容器でないものは「土製品」「瓦器」と称される[1]
  2. ^ この場合、野焼きを行う穴を「焼成坑」と呼ぶ[4]
  3. ^ なお、西洋では陶器と磁器の区別は日本や中国と異なり明確ではなく、英語のポーセリン(porcelain)は「白い」陶磁器を称し、中国・朝鮮・日本では磁器(瓷器)とみなされている青磁は、英語ではストーンウェア(stoneware)と称される[11]。一方、ポーセリンには、軟質(「軟質磁器」)と硬質(「硬質磁器」)の区別を設ける。
  4. ^ 秋田県男鹿半島などでは、木製の箱に焼石を投げ込んで魚貝を煮て食べる石焼料理の土俗例が現在にも残っている[19]
  5. ^ 小林達雄は、人間が満腹するほどの生を食べるとすれば、おいしくないというだけではなく、たちまち下痢の症状を引き起こすであろうという例を引いて、これを説明している[20]。米の場合は、加熱によってβデンプンがαデンプンに変わり、劇的に消化しやすくなるのである[20]
  6. ^ 小林達雄は、遊動的生活を基本とする旧石器時代人は、極端にいえば、毎晩欠かさずに寝るための巣づくりをするような行動が習性となっており、特定の場所に対するこだわりはなかったとしている[22]西田正規は、『定住革命』(1986年)のなかで、人類の定住化は長い遊動的な生活の延長線上にあるものではなく、また、遊動的生活の体験の蓄積から結果として生じた新しい生活様式でもなく、むしろ人間の決断の意志を前提とするものであったことを強調している[21]
  7. ^ 旧河川の川底とみなされる場所に棒杭を立てた遺構が、各地の縄文時代の遺跡から検出されている[20]。エリ漁は現代でも琵琶湖などでおこなわれている。
  8. ^ ドルニー・ヴェストニツェ遺跡ではマンモス化石が出土しており、また、合葬墓がみつかったことでも著名な遺跡である。
  9. ^ 粘土は、乾燥によって湿分を失うときは、分子相互が密着するため、相当程度硬く締まり、この性質を利用して作られたものを粘土製品という[1]。日干しの土偶や古代メソポタミアの日干し煉瓦などが代表的な粘土製品であり、楔形文字の刻まれた粘土板も、粘土が本来持つ可塑性と湿分放散に伴う凝結性との双方を活用したものといえる[1]
  10. ^ これを「目止め」という。米のとぎ汁や小麦粉を溶かした水を一煮立ちさせても同様の効果がある[37]
  11. ^ 繊維土器は、焼成温度が低い場合には、繊維が完全に焼失してしまうことはなく、黒い炭化物となって胎土の内部に残ることが多く、それは土器の断面観察によって確かめられる[38]
  12. ^ 日本では、ナデ整形は各種のナデが縄文草創期ですでにみられ、ケズリ整形・ミガキ整形は縄文早期以降にみられる。木目のギザギザが器面に細かい筋としてのこるハケ整形は、弥生時代より本格的に始まる。タタキは、大陸起源の整形法で弥生の早期に出現して後期以降に普及した[39]
  13. ^ 彩色土器のうち、その彩色が焼成後にほどこされたものを塗彩土器、本焼ないし締焼の前になされたものを彩文土器として区別することがある[38]
  14. ^ 中国の事例では、土器全体に占める彩文土器の比率は高くなく、そのほとんどは盛付用や貯蔵用であるところから特殊な容器として扱われていただろうと推測される[45]。これは、古代ギリシや古代ローマの絵付陶器が冠婚葬祭宴会奉納などに限られ、日常用には無文陶器や青銅容器を用いていた事実とも合致する[45]
  15. ^ アスファルトは石器や骨角器の装着の際の接着剤としても用いられた[50]
  16. ^ 最古の土器製塩は縄文後期後葉、関東地方の霞ケ浦周辺においてであり、やや遅れて東北地方の松島湾沿岸でも盛行する[55]。松島湾の土器製塩は関東で土器製塩が行われなくなって以降も行われ、弥生中期まで続いた[55]。弥生中期末、備讃瀬戸児島地方で興った土器製塩は岡山県香川県の本土地方さらには淡路島近畿地方西部へと広範囲に広がった[55]
  17. ^ 山内清男は1935年頃に縄文土器の編年の見通しを立て、1937年、全国的規模の「山内編年表」を発表した。たとえば、大木10式(中期)、加曽利B式(後期)、田戸下層式(早期)といった型式名は、発掘調査をおこなった遺跡から出土した土器に、その遺跡の地名をとって名づけた[63]。たとえば、大木10式土器とは、宮城県七ヶ浜町大木囲貝塚から出土した土器を古いものから順に数字を付したものである[64]。大規模な遺跡では、広い調査区にいくつかの種類の遺物や遺構が混在するため、調査地点を細分する必要があり、加曽利B式土器とは、千葉市加曽利貝塚B地点出土の土器を標準として名づけたものである[63]。田戸下層式土器は横須賀市の田戸遺跡の層位が命名の由来となっている[63]。このように、土器型式名は層位学的研究を土台としており、型式命名のもととなった遺跡を標式遺跡と呼ぶ。こうした手法は、弥生土器、土師器、須恵器の分野における土器研究でも応用された。
  18. ^ 須恵器の胎土分析を精力的に行ってきた三辻利一は、分析可能な元素のなかでも、ルビジウムストロンチウムの蛍光X線の波高に地域的偏差を生じやすいことを確認し、この方法を採用している[65]
  19. ^ エブルル様式文化は、かつて「ケニア・カプサ文化」と呼ばれた時期があり、それはチュニジアからアルジェリア内陸部にかけての中石器時代から新石器時代にかけてのカプサ文化との石器の類似からつけられた名称であるが、現代では、「ケニア・カプサ文化」と称された文化と北アフリカの「カプサ文化」の間はまったく関係がないと考えられている[67]
  20. ^ この標章は、後代の地方行政単位であるノモスの標章に類似するものがあり、この時期にノモスの成立もしくは萌芽があったことを示唆している[71]
  21. ^ 幅6〜7メートルに対して長さが20メートル程度という家屋であり、場合によっては40メートルを超す場合もあった。こうしたロングハウスは、いずれも長軸を北西—南東方向にもつという共通点がある[88]
  22. ^ メソポタミアではウバイド期に併行し、インダス地域ではシェーリ・ハーン・タラカイ文化、アムリー文化、ハークラー文化が成立した[89]
  23. ^ シンド地方・ゴーマル・、バンヌ・西部パンジャーブ州ではコート・ディジー文化、東部パンジャーブ地方ではソーティ・シースワール文化、また、ガンガー平原では「先ハラッパー文化」と称される文化が、それぞれ営まれた[89]
  24. ^ 縄文草創期において九州地方南部は採集経済の早熟的な発展がみられ、文化創造の先頭に立っていたが、鬼界カルデラの爆発を受けて壊滅的な打撃を受け、以後、文化創造の中心は東北地方などの東日本に移った[51]
  25. ^ 一方で、東北地方からも滋賀里式など西日本系の縄文晩期土器が出土しており、相互交流が考えられる[106]
  26. ^ なお、縄文土器の中には後代に茶道具に転用されたものが存在するという[107]
  27. ^ かつてアメリカ大陸では、磨製石器が紀元前5000年〜前4000年頃の「古期」に始まり、土器製作は農耕とともに紀元前4000年〜前3000年頃の「形成期」に始まったとされてきた[121]。ただし、現在では時代名称と年代について見直しがなされている。詳細は「メソアメリカの編年」を参照。
  28. ^ この土器については、自刃する人を表しているのではないかという見方もある[134]
  29. ^ 「アパート様式」は、スペイン建築と融合してプエブロ復活建築英語版という様式を生み出した。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 角田(1960)pp.216-218
  2. ^ a b 百科事典マイペディア「土器」コトバンク
  3. ^ a b c d 『ブリタニカ国際大百科事典』小項目事典4(1974)p.747
  4. ^ 望月・木立(1997)pp.373-378
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au 佐原「土器」『世界大百科事典』(1988)pp.188-189
  6. ^ a b 「土器のある風景」『日本経済新聞』朝刊2021年3月7日9-11面
  7. ^ 金田(2013)p.20
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 麻生優「土器」日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク)
  9. ^ a b c 手塚(2007)pp.194-201
  10. ^ 『ブリタニカ国際大百科事典』小項目事典3(1974)
  11. ^ 『特別展 中国の陶磁』図録(1992)p.308
  12. ^ 矢部(1992)p.2
  13. ^ 弓場・長谷部(1999)p.85
  14. ^ 小林達雄(1995)pp.10-14
  15. ^ a b c 甲野(1995)pp.24-26
  16. ^ a b 小林達雄(2008)pp.34-35
  17. ^ a b 小林達雄(2007)pp.12-18
  18. ^ a b c d e f g h 『考古学キーワード』(1997)pp.94-95
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 江坂(1974)pp.446-447
  20. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 小林達雄(2008)pp.50-55
  21. ^ a b c 小林達雄(2008)pp.56-57
  22. ^ 小林達雄(2008)pp.26-27
  23. ^ a b 「中国で最古2万年前の土器発見 焦げ跡、料理に使う?」47NEWS(2012年6月28日)2012年7月9日閲覧
  24. ^ a b c d 小林達雄(2007)pp.11-12
  25. ^ a b c d e f 小林達雄(2008)pp.35-37
  26. ^ 小林達雄(1995)pp.8-10
  27. ^ a b 小林謙一(2019)pp.57-60
  28. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 谷口康浩、「極東における土器出現の年代と初期の用途」
  29. ^ a b 國木田(2019)pp.84-86
  30. ^ a b c 福田(2019)pp.33-36
  31. ^ a b c 甲野(1995)pp.26-28
  32. ^ 甲野(1995)pp.31-32
  33. ^ a b c d 甲野(1995)pp.28-30
  34. ^ a b c d 小林達雄(1995)pp.19-22
  35. ^ a b c d e f 高嶋(1996)
  36. ^ a b c d e f 『粘土の世界』(1997)
  37. ^ a b 福森(2005)p.6
  38. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 角田(1960)pp.218-224
  39. ^ a b c d e f g h i j k 『考古学キーワード』(1997)pp.148-149
  40. ^ 中山(2001)p.92
  41. ^ 荒川(2001)pp.92
  42. ^ 大塚(1988)pp.241-244
  43. ^ 玉口・小金井(1989)
  44. ^ 潮見(1988)
  45. ^ a b c d e 小野山「彩文土器」『世界大百科事典』(1988)p.140
  46. ^ a b c d コトバンク「縄文」
  47. ^ a b 安孫子(1988)pp.186-190
  48. ^ a b 安孫子(1988)pp.183-184
  49. ^ a b c d e 甲野(1995)pp.39-41
  50. ^ a b c 金山(1992)p.81
  51. ^ a b c 春成(1992)pp.50-53
  52. ^ 小林達雄(1995)p.58
  53. ^ 「金継ぎ図書館」鳩屋
  54. ^ a b c d e f 『考古学キーワード』(1997)pp.46-47
  55. ^ a b c d e 春成(1992)pp.126-131
  56. ^ 『最新日本考古学用語辞典』「袖珍土器」(1996)p.149
  57. ^ 『最新日本考古学用語辞典』「手捏土器」(1996)p.227
  58. ^ 「まいぶん用語集 ま行 ミニチュア土器」‐山梨県公式サイト
  59. ^ a b c d 『考古学キーワード』(1997)pp.54-55
  60. ^ 『最新日本考古学用語辞典』「型式学的研究法」(1996)p.96
  61. ^ 田中(1988)pp.14-26
  62. ^ 『考古学キーワード』(1997)pp.56-57
  63. ^ a b c 甲野(1995)pp.101-107
  64. ^ 『日本土器事典』(1997)pp.309-312
  65. ^ a b c d e f g 菱田(1996)pp.130-131
  66. ^ a b 『考古学キーワード』(1997)pp.60-61
  67. ^ コトバンク「カプサ文化」コトバンク「ケニア・カプサ文化」
  68. ^ a b c 「アフリカ最古の土器を発見」 "swissinfo(日本語版)" 2007年2月4日 2020年5月9日閲覧
  69. ^ a b c d 尾形禎亮(2009)pp.429-432
  70. ^ a b c d e 『文明とやきもの展』図録(1996)pp.8-11
  71. ^ a b c d 尾形禎亮(2009)pp.432-435
  72. ^ a b 大貫(2009)pp.51-54
  73. ^ a b c d 下釜(2019)pp.3-5
  74. ^ 大貫(2009)pp.54-57
  75. ^ 大貫(2009)pp.57-58
  76. ^ a b c d e 下釜(2019)pp.9-11
  77. ^ a b c d e f g h i 大貫(2009)pp.58-61
  78. ^ a b c d e 『文明とやきもの展』図録(1996)pp.12-15
  79. ^ a b 大貫(2009)pp.101-104
  80. ^ 大貫(2009)pp.104-106
  81. ^ 大貫(2009)pp.106-109
  82. ^ a b c d 杉村・大平(1999)pp.6-9
  83. ^ a b c d e f g 大貫(2009)pp.62-66
  84. ^ a b c d e 大貫(2009)pp.67-68
  85. ^ a b c d e f g 大貫(2009)pp.68-72
  86. ^ a b c 『文明とやきもの展』図録(1996)pp.16-21
  87. ^ a b c 杉村・大平(1999)pp.9-11
  88. ^ a b c d 大貫(2009)pp.66-67
  89. ^ a b c d e 上杉彰紀 『インダス考古学の展望 インダス文明関連発掘遺跡集成』
  90. ^ a b c d 小西(1972)pp.427-430
  91. ^ 杉山『インドの美術』(1976)p.107
  92. ^ a b c d 杉山『インドの美術』(1976)p.109
  93. ^ a b c d e 小西正捷「インダス文明」日本大百科全書(ニッポニカ)
  94. ^ a b c d e f g 大貫(2009)pp.89-92
  95. ^ a b c 平勢(2009)pp.100-104
  96. ^ a b c d e f g 貝塚(1974)pp.37-460
  97. ^ a b c 『文明とやきもの展』図録(1996)pp.22-27
  98. ^ a b c d e f g h 杉村・大平(1999)pp.12-14
  99. ^ a b 貝塚(1974)pp.48-57
  100. ^ 尾形(2009)p.339
  101. ^ 小杉(1992)pp.62-65
  102. ^ a b c d e f g h 今井(1999)pp.76-77
  103. ^ a b c d e f 『文明とやきもの展』図録(1996)pp.28-31
  104. ^ 國木田(2019)pp.90-91
  105. ^ a b 韓(1992)pp.30-34
  106. ^ a b 『日本土器事典』(1997)pp.344-347
  107. ^ 大英博物館に所蔵された水指
  108. ^ 安藤(2007)pp.40-48
  109. ^ a b 安藤(2007)pp.48-53
  110. ^ 春成(1992)pp.106-109
  111. ^ a b c 安藤(2007)pp.56-66
  112. ^ a b 『日本土器事典』(1997)p.5
  113. ^ a b c d e f 田尾(2007)pp.80-82
  114. ^ 大塚(1988)pp.228-229
  115. ^ 田尾(2007)pp.99-105
  116. ^ a b c d 後藤(2007)pp.132-145
  117. ^ 大塚(1988)p.252
  118. ^ a b c 後藤(2007)pp.145-161
  119. ^ 古尾谷知浩「〈律令制〉と土器」古尾谷『日本古代の手工業生産と建築生産』(塙書房、2020年)第一部第五章(P137-141.)(原論文2015年)
  120. ^ a b c 手塚(2007)pp.179-185
  121. ^ a b 佐原「新石器時代」『世界大百科事典』(1988)pp.367-368
  122. ^ a b c 大貫(2009)p.96
  123. ^ a b 佐藤悦男「土器出現期の様相」
  124. ^ コトバンク「コロンビアの古代文化」
  125. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 杉村・大平(1999)pp.14-16
  126. ^ コトバンク「エクアドルの古代文化」
  127. ^ a b c 大貫(2009)pp.73-76
  128. ^ a b c 大貫(2009)pp.110-112
  129. ^ 大貫(2009)pp.113-116
  130. ^ a b c 大貫(2009)pp.116-119
  131. ^ a b 大貫(2009)pp.119-120
  132. ^ 佐藤悦男「新大陸考古学講座」
  133. ^ a b c d 『文明とやきもの展』図録(1996)pp.164-175
  134. ^ a b c d 大貫(2009)pp.120-126






土器と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「土器」の関連用語

1
100% |||||

2
100% |||||

3
100% |||||

4
100% |||||

5
100% |||||

6
100% |||||

7
100% |||||

8
100% |||||

9
100% |||||

10
100% |||||

検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



土器のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの土器 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2022 GRAS Group, Inc.RSS