大正天皇 死後の評価と「遠眼鏡事件」

大正天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/04 13:00 UTC 版)

死後の評価と「遠眼鏡事件」

1917年(大正6年)、帝国議会の開院式に向かう大正天皇

国内外の死亡記事では、大正年間に日本の国際的地位が高まったこと、政治制度や文化など近代化の一層の進展が大正天皇の功績として挙げられていた。やがてその評価は、追悼本として知られる限り唯一市販された『大正天皇御治世史』や、若槻礼次郎首相の弔辞で用いられた「守成の君主」に落ち着いた[154]。とは言え明治天皇とは異なり、大正天皇を偲び記念する運動はほとんどなく、誕生日は祝日とならず、大正神宮も造られなかった[155]

そして社会に広く定着したのは、「大正天皇が帝国議会の開院式で勅書をくるくると丸め、遠眼鏡にして議員席を見渡した」とされる[156]遠眼鏡事件」に代表されるような「大正天皇精神病者説」であり、その風説は少なくとも昭和初期には一般大衆の間で広まっていた[157]1944年(昭和19年)に遠眼鏡事件の噂を語った男が不敬罪で捕まっている[158]ほか、1921年に小学2年生であった丸山眞男は、当時、「大正天皇が脳を患っており、勅書を丸めて覗いた」という噂が流れていたことを1989年(平成元年)のエッセイで回想している[159]

遠眼鏡事件が公然と語り出されるのは戦後であり、近代天皇制の呪縛から解放された後の昭和30年代に集中している[160]。一つは「文藝春秋1959年(昭和34年)2月号掲載の無署名[注釈 17]記事「悲劇の天皇・大正天皇」で、黒田長敬侍従の、1920年頃に大正天皇が勅書朗読後にうまく巻けたか透かして見た、という証言を載せた[162]。また、元女官の山川三千子[注釈 18]は、1960年(昭和35年)の著書『女官』に、大正天皇が初めて帝国議会開会式に臨んだ1912年に遠眼鏡として覗いた光景を、姑の弟である山川健次郎が目撃した話をしていたと記している[164][165]

この遠眼鏡事件については諸説あり、歴史学者古川隆久は、決定的な史料はなく真相は不明であるが、大正天皇は精神疾患ではないので風説はいわれのない中傷であると主張している[166]。そのほか、大正天皇・貞明皇后に仕えた元女官の坂東登女子[注釈 19]は、あるとき勅書が本来とは逆向きに巻いてあったため、その次の折に巻き方が間違っていないか遠眼鏡のように覗き込んで確認した、という話を大正天皇から直接聞いたと語っている[168]


注釈

  1. ^ 嘉仁親王が軍隊用の背嚢に学用品を入れて通学したことがランドセルの始まりとされている[19]
  2. ^ 表向きの理由は同年6月の地震で校舎が破損し授業に支障を来したこととされた[25]
  3. ^ 1891年4月3日に招かれたのは、 伏見宮禎子女王、北白川宮満子女王(北白川宮能久親王娘)、北白川宮貞子女王(同前)、九条籌子(かずこ。九条道孝娘)、九条節子(同前)、徳川国子(徳川慶喜娘)、徳川経子(同前)、徳川絲子(同前)、毛利万子(かずこ。毛利元徳娘)、岩倉米子(岩倉具定娘)の10名。その他、久邇宮純子女王久邇宮朝彦親王娘)、一条経子(一条実輝娘)、鷹司房子(鷹司煕通娘)の三人も候補とされた[37]
  4. ^ 飛鳥井雅道は皇室典範で皇位継承を嫡出子優先としたこと、国が一夫一妻制を奨励していたことが理由と指摘している[48]
  5. ^ この結婚式を模倣して神前結婚式が誕生し、日本全国に広まっていった[50]
  6. ^ 高崎行啓時に予定の道筋を取らず好き勝手に人力車を走らせたり、新潟では当日になって訪問先を変更させ、周囲を狼狽させたりした[58]
  7. ^ 実際には明治天皇は7月29日午後10時43分に没したが、践祚までの準備時間が足りないため公式には7月30日午前0時43分死去とされた[74]
  8. ^ なお節子皇后は第4子(三笠宮崇仁親王)懐妊中のため即位礼を欠席した。またこの時に製作された高御座と御帳台は昭和・平成・令和3代の即位礼でも使用されている[82][83]
  9. ^ 皇居の居住部は明治天皇の希望で照明がろうそくのみであったが、電灯が付けられ、スチーム暖房が導入された[95]
  10. ^ 山本権兵衛は女婿の財部彪に、「大正天皇の考えといっても、明治天皇のそれと異なる。たとえ、大正天皇の命であっても国家のためにならないと判断すれば従わないほうが忠誠を尽くすことになる」と語っていた[96]
  11. ^ 摂政任命の詔書は大正天皇が署名できないため、皇太子が代筆した[118]
  12. ^ この摂政就任に関し、原武史は牧野伸顕ら宮内官僚による「主君押込」説を主張した[119]が、古川隆久は政治家から皇族まで全関係者が同意した点を挙げ原武史説を批判した[120]
  13. ^ このホームは御用邸に向かう大正天皇が人目に触れないよう建設されたもの[124]で、大正天皇が生前このホームを利用したのはこれが最初で最後であった[128]
  14. ^ このとき将棋倒しで死者2人、重傷者14人、その他計300人の負傷者が出た[145]
  15. ^ 太平洋戦争終戦まで皇族参拝用に使用された後、八王子市に払い下げられ、集会所「陵南会館」として使用されたが、1990年平成2年)に天皇即位の礼と大嘗祭に反対する過激派に爆破され焼失した(八王子市陵南会館爆破事件[148]
  16. ^ 陵墓予定地内には地元の墓地数か所に計587基の墓があったが、強制移転させられている[151]
  17. ^ 梶山季之が黒田長敬に取材したとされる[161]
  18. ^ 1892年 - 1965年。旧姓・久世。源氏名「桜木」。昭憲皇太后に仕えた。夫は山川黙[163]
  19. ^ 1892年 - 1980年。旧姓・梨木。源氏名「椿」[167]
  20. ^ 当時の蕎麦屋の2階では男女が逢引したり売春することもあった[172]
  21. ^ 明治・大正・昭和の三代に亘って仕人(つこうど。宮中の諸雑務に携わる下級職員)として勤務した小川金男は、大正天皇が皇位に即いた直後に「陛下は誰にでも気易く話しかけられるお癖があるから、仕人は決して陛下の御前に姿をお見せしてはならぬ」という趣旨の訓示を受けたことを回想している[173]
  22. ^ 第2位が後光明天皇の98首、第3位が嵯峨天皇の97首[185]
  23. ^ 鍋島伊都子は美人として評判で、当時梨本宮守正王と婚約中であった[197]
  24. ^ 皇后の父・九条道孝が危篤との電報を受けた帰京であったが、道孝は無事で皇后は9日後に日光に戻っている[198]
  25. ^ 大正天皇が側室を持たなかった理由は諸説ある。天皇・皇后がともに庶子であったことから側室制度の廃止を願っていたとする説、貞明皇后が早々に複数の男子を産んだことから結果的に一夫一妻になったとする説、近代家族の姿が広まるという時代状況を踏まえた天皇・皇后の意思によるとする説などがある[202]
  26. ^ なお宮内省では同時期に『明治天皇紀』(1933年/昭和8年完成)や歴代天皇・皇族の記録である『天皇皇族実録』も編纂されていた[220]

出典

  1. ^ 古川隆久 2007, p. 160.
  2. ^ a b c 大正天皇実録 補訂版 全六巻・別巻一”. ゆまに書房. 2019年10月21日閲覧。
  3. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「大正天皇」(コトバンク)
  4. ^ 一部の書籍や人名事典など、文献によっては脳病による崩御と紹介しているものもある。
  5. ^ 原武史 2015, p. 40.
  6. ^ 古川隆久 2007, p. 1.
  7. ^ 『法令全書 明治12年』「太政官布告」、9月6日。177頁』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  8. ^ 古川隆久 2007, p. 6.
  9. ^ 古川隆久 2007, p. 5.
  10. ^ 古川隆久 2005, p. 7.
  11. ^ 原武史 2015, pp. 43–44.
  12. ^ 浅見雅男 2019, pp. 14–16.
  13. ^ 古川隆久 2007, pp. 9–10.
  14. ^ 古川隆久 2007, p. 11.
  15. ^ 原武史 2015, p. 49.
  16. ^ 原武史 2015, pp. 49–52.
  17. ^ 古川隆久 2007, p. 15.
  18. ^ 古川隆久 2007, p. 17.
  19. ^ 古川隆久 2007, pp. 17–18.
  20. ^ 古川隆久 2007, pp. 19–20.
  21. ^ 原武史 2015, p. 55.
  22. ^ 『官報』号外、1889年11月3日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  23. ^ 古川隆久 2007, pp. 31, 34.
  24. ^ a b c 古川隆久 2007, p. 32.
  25. ^ a b 原武史 2015, p. 58.
  26. ^ 原武史 2015, p. 56.
  27. ^ 古川隆久 2007, pp. 54–55.
  28. ^ 古川隆久 2007, p. 34.
  29. ^ 古川隆久 2007, p. 34-35.
  30. ^ 原武史 2015, pp. 60–61.
  31. ^ 原武史 2015, p. 62.
  32. ^ 原武史 2015, p. 65.
  33. ^ 古川隆久 2007, pp. 39–42.
  34. ^ 原武史 2015, pp. 67–69.
  35. ^ 原武史 2015, p. 70.
  36. ^ 小田部雄次 2012, p. 28.
  37. ^ 浅見雅男 2019, pp. 43–45.
  38. ^ 浅見雅男 2019, pp. 41–44.
  39. ^ 浅見雅男 2019, p. 45.
  40. ^ 浅見雅男 2019, p. 52.
  41. ^ 浅見雅男 2019, pp. 64–65.
  42. ^ 浅見雅男 2019, pp. 85–86.
  43. ^ 浅見雅男 2019, pp. 94–96.
  44. ^ 浅見雅男 2019, p. 103.
  45. ^ 浅見雅男 2019, pp. 117–118.
  46. ^ 浅見雅男 2019, p. 139.
  47. ^ 『官報』号外「告示」、1900年2月11日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  48. ^ a b 古川隆久 2007, p. 62.
  49. ^ 古川隆久 2007, pp. 63–64.
  50. ^ 古川隆久 2007, pp. 70–71.
  51. ^ 古川隆久 2007, p. 65.
  52. ^ 古川隆久 2007, pp. 68–70.
  53. ^ 原武史 2015, p. 78.
  54. ^ 古川隆久 2007, p. 71.
  55. ^ 原武史 2015, pp. 80–82.
  56. ^ 原武史 2015, pp. 90–94.
  57. ^ 原武史 2015, pp. 106–112.
  58. ^ 原武史 2015, pp. 113–117.
  59. ^ 原武史 2015, pp. 122–124.
  60. ^ 原武史 2015, p. 124-128.
  61. ^ 片野真佐子 2003, p. 91.
  62. ^ 浅見雅男『皇族と帝国陸海軍』文藝春秋 <文春新書>、2010年、188-190頁。ISBN 978-4-16-660772-3 
  63. ^ 石川忠久 2009, pp. 59–60.
  64. ^ 古川隆久 2007, pp. 101–102.
  65. ^ 原武史 2015, pp. 154–156.
  66. ^ 原武史 2015, pp. 157–158.
  67. ^ 原武史 2015, pp. 162–164.
  68. ^ 原武史 2015, pp. 182–186.
  69. ^ 原武史 2015, pp. 196–200.
  70. ^ 鶴駕巡啓記(石川県立金沢第一中学校校友会, 1909)
  71. ^ 原武史 2015, pp. 212–215.
  72. ^ 原武史 2015, p. 222.
  73. ^ 原武史 2015, pp. 194–195.
  74. ^ 古川隆久 2007, p. 109.
  75. ^ 古川隆久 2007, pp. 109–110.
  76. ^ 古川隆久 2007, p. 117-118.
  77. ^ 小田部雄次 2012, pp. 127–128.
  78. ^ Living history in 京都・二条城”. Living History 京都・二条城協議会 . 2024年1月30日閲覧。
  79. ^ 二条城の歴史・見どころ ~ 歴史”. 京都市. 2023年9月9日閲覧。
  80. ^ 京都の御大礼 -即位礼・大嘗祭と宮廷文化のみやび-”. 「京都の御大礼—即位礼・大嘗祭と宮廷文化のみやび—」展 実行委員会. 2023年9月9日閲覧。
  81. ^ 古川隆久 2007, pp. 153–160.
  82. ^ 古川隆久 2007, p. 155.
  83. ^ 「即位礼正殿の儀」で天皇陛下がのぼられる「高御座」公開”. NHK NEWS WEB. 2019年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年10月28日閲覧。
  84. ^ 原武史 2015, pp. 246–248.
  85. ^ 原武史 2015, pp. 255–256.
  86. ^ 官報第31号『勅令』、1912年9月4日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  87. ^ a b 古川隆久 2007, p. 141.
  88. ^ 官報第291号『勅令』『告示』、1913年7月18日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  89. ^ 古川隆久 2007, p. 108-109.
  90. ^ 原武史 2017, p. 129.
  91. ^ 古川隆久 2007, p. 110-111.
  92. ^ 古川隆久 2007, pp. 131–138.
  93. ^ 原武史 2015, pp. 240–241.
  94. ^ 原武史 2015, p. 242.
  95. ^ a b 古川隆久 2007, p. 145.
  96. ^ 原武史 2015, pp. 238–239.
  97. ^ 古川隆久 2007, pp. 142–144.
  98. ^ 安田浩 2019, pp. 166–167.
  99. ^ 安田浩 2019, pp. 159.
  100. ^ 古川隆久 2007, pp. 174–175.
  101. ^ 伊藤之雄『大隈重信(下)「巨人」が築いたもの』中央公論新社〈中公新書〉、2019年7月、275-276頁。ISBN 978-4-12-102551-7 
  102. ^ 伊藤之雄『大隈重信(下)「巨人」が築いたもの』中央公論新社〈中公新書〉、2019年7月、277-279頁。ISBN 978-4-12-102551-7 
  103. ^ 伊藤之雄『山縣有朋』文藝春秋 <文春新書>、2009年、416-417頁。ISBN 978-4-16-660684-9 
  104. ^ 古川隆久 2007, pp. 180–182.
  105. ^ 古川隆久 2007, pp. 186–187.
  106. ^ 古川隆久 2007, p. 188.
  107. ^ 原武史 2015, p. 280.
  108. ^ 古川隆久 2007, pp. 192–193.
  109. ^ 古川隆久 2007, pp. 186, 195–196.
  110. ^ 原武史 2015, p. 285.
  111. ^ 古川隆久 2007, p. 196.
  112. ^ 原武史 2015, p. 286.
  113. ^ 古川隆久 2007, pp. 199–200.
  114. ^ 古川隆久 2007, p. 202.
  115. ^ 古川隆久 2007, pp. 203–205.
  116. ^ 古川隆久 2007, pp. 205–207.
  117. ^ 官報(號外)、1921年11月25日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  118. ^ 古川隆久 2007, p. 207.
  119. ^ 原武史 2015, pp. 310–311.
  120. ^ 古川隆久 2007, p. 209.
  121. ^ 古川隆久 2007, p. 208.
  122. ^ 古川隆久 2007, p. 214-217.
  123. ^ 古川隆久 2007, p. 214.
  124. ^ a b c 原武史 2015, p. 320.
  125. ^ 古川隆久 2007, p. 218.
  126. ^ 田中伸尚 1988, p. 32.
  127. ^ 古川隆久 2007, p. 219.
  128. ^ a b 古川隆久 2007, p. 220.
  129. ^ 古川隆久 2007, pp. 220–221.
  130. ^ 小田部雄次『昭憲皇太后・貞明皇后』ミネルヴァ書房 <ミネルヴァ日本評伝選>、2010年、286-287頁。ISBN 978-4-623-05908-9 
  131. ^ 古川隆久 2007, p. 222-223.
  132. ^ 古川隆久 2007, p. 223.
  133. ^ 田中伸尚 1988, pp. 52–56.
  134. ^ a b 古川隆久 2007, pp. 223–224.
  135. ^ a b 田中伸尚 1988, p. 56.
  136. ^ 井上亮 2013, p. 296.
  137. ^ 古川隆久 2007, p. 224.
  138. ^ 原武史 2015, p. 326.
  139. ^ 田中伸尚 1988, pp. 68–74.
  140. ^ 山口輝臣・小倉慈司『天皇と宗教』講談社 <講談社学術文庫>〈天皇の歴史 9〉、2018年(原著2011年)、259-260頁。ISBN 978-4-06-512671-4 
  141. ^ 古川隆久 2007, pp. 224–225.
  142. ^ 古川隆久 2007, pp. 227.
  143. ^ 田中伸尚 1988, pp. 186.
  144. ^ 井上亮 2013, pp. 300–303.
  145. ^ 井上亮 2013, p. 300.
  146. ^ 田中伸尚 1988, pp. 187–188.
  147. ^ 田中伸尚 1988, pp. 188.
  148. ^ 古川隆久 2007, p. 234.
  149. ^ 古川隆久 2007, pp. 230–231.
  150. ^ -天皇陵-大正天皇 多摩陵(たいしょうてんのう たまのみささぎ)”. 宮内庁. 2018年5月3日閲覧。
  151. ^ 田中伸尚 1988, pp. 139–140.
  152. ^ 古川隆久 2007, p. 231-234.
  153. ^ 主要祭儀一覧”. 宮内庁. 2019年10月19日閲覧。
  154. ^ 古川隆久 2007, pp. 235–238.
  155. ^ 古川隆久 2007, p. 245.
  156. ^ 原武史 2015, p. 14.
  157. ^ 古川隆久 2007, p. 239.
  158. ^ 高井ホアン『戦前不敬発言大全』パブリブ、2019年、343頁。ISBN 978-4-908468-35-3 
  159. ^ 原武史 2015, pp. 20–21.
  160. ^ 原武史 2015, p. 15.
  161. ^ 井上亮 2013, p. 292.
  162. ^ 原武史 2015, pp. 15–16.
  163. ^ 山川三千子 2016, pp. 19, 330, 333.
  164. ^ 山川三千子 2016, p. 315.
  165. ^ 原武史 2015, pp. 17–18.
  166. ^ 古川隆久 2007, p. 240.
  167. ^ 山口幸洋 2022, pp. 18, 21, 172.
  168. ^ 山口幸洋 2022, pp. 82–83.
  169. ^ 原 2017 p.174
  170. ^ 原武史 2015, p. 104.
  171. ^ 原武史 2015, pp. 220–221.
  172. ^ a b 原武史 2015, p. 223.
  173. ^ 小川金男 2023, p. 202.
  174. ^ 原武史 2017, p. 152.
  175. ^ 原武史 2017, p. 155.
  176. ^ 古川隆久 2007, pp. 79–83.
  177. ^ 原武史 2015, p. 237.
  178. ^ 小田部雄次 2016, pp. 161–163.
  179. ^ a b 『グレート・スモーカー』祥伝社 <祥伝社新書>、2006年、82-83頁。ISBN 4-396-11051-0 
  180. ^ 原武史 2015, p. 99.
  181. ^ 小川金男 2023, pp. 204, 223–224, 299.
  182. ^ 霞会館公家と武家文化に関する調査委員会 編『宮廷の生活 : 幕末から明治・大正時代』河鰭實英講演、霞会館、1992年、52頁。 NCID BN0817019X 
  183. ^ 石川忠久 2009, p. 181.
  184. ^ 石川忠久 2009, pp. 23–24.
  185. ^ a b 石川忠久 2009, p. 10.
  186. ^ 石川忠久 2009, pp. 11–15.
  187. ^ a b 古川隆久 2007, p. 50.
  188. ^ 石川忠久 2009, pp. 77–90, 133他.
  189. ^ 石川忠久 2009, p. 209.
  190. ^ 古川隆久 2007, pp. 50–51.
  191. ^ 古川隆久 2007, p. 48.
  192. ^ 古川隆久 2007, p. 13.
  193. ^ 古川隆久 2007, pp. 33–34.
  194. ^ 安田浩 2019, p. 158.
  195. ^ 古川隆久 2007, p. 42-43.
  196. ^ a b 古川隆久 2007, pp. 72–73.
  197. ^ 小田部雄次 2002, p. 117.
  198. ^ 小田部雄次 2002, p. 118.
  199. ^ 小田部雄次 2002, p. 116-120.
  200. ^ 古川隆久 2007, p. 73.
  201. ^ 小田部雄次 2002, p. 150.
  202. ^ 森暢平『近代皇室の社会史』吉川弘文館、2020年、78-96頁。ISBN 978-4-642-03892-8 
  203. ^ 山川三千子 2016, pp. 224.
  204. ^ 原武史 2017, pp. 224–226.
  205. ^ 古川隆久 2007, pp. 74–75.
  206. ^ 古川隆久 2007, p. 76-79.
  207. ^ 原武史 2015, p. 179.
  208. ^ 古川隆久 2005, pp. 240–241.
  209. ^ a b c 安田浩 2019, p. 167.
  210. ^ 古川隆久 2007, p. 167.
  211. ^ 伊藤之雄『大隈重信』 下、中央公論新社 <中公新書>、2019年、273頁。ISBN 978-4-12-102551-7 
  212. ^ 原武史 2015, pp. 24, 236.
  213. ^ 古川隆久 2007, pp. 111.
  214. ^ 原武史 2015, p. 271.
  215. ^ 原武史 2015, p. 274.
  216. ^ 杉下守弘 2012, pp. 58–59.
  217. ^ 古川隆久 2007, pp. 193–194.
  218. ^ 杉下守弘 2012, p. 60.
  219. ^ 杉下守弘 2012, p. 61.
  220. ^ a b 季武嘉也 2005, p. 98-99.
  221. ^ 大正天皇実録、大半の黒塗り開示 「一時人事不省」判明」『朝日新聞』、2015年7月1日。2019年11月7日閲覧。
  222. ^ 『官報』号外、1889年(明治22年)11月3日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  223. ^ 『官報』「叙任及辞令」、1892年(明治25年)11月5日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  224. ^ 『官報』号外「叙任」、1898年(明治28年)11月3日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  225. ^ 『官報』号外「叙任」、1898年(明治31年)11月3日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  226. ^ 『官報』号外「叙任」、1901年(明治34年)11月3日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  227. ^ 『官報』号外「叙任」、1903年(明治36年)11月3日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  228. ^ 『官報』号外「叙任」、1905年(明治38年)11月3日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  229. ^ 『官報』号外「叙任」、1909年(明治42年)11月3日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  230. ^ The Edinburgh Gazette_War Office, 22nd January 1918.”. The Gazette (1918年1月25日). 2018年3月2日閲覧。
  231. ^ Jenzen-Jones, N.R. (20 October 2022). “The King George V Gensuitō: An Imperial Japanese rarity in the Royal Collection”. Arms & Armour 19 (2): 185–197. doi:10.1080/17416124.2022.2126100. https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/17416124.2022.2126100 2022年10月21日閲覧。. 
  232. ^ 『The British Field Marshals, 1736–1997: A Biographical Dictionary』, Pen and Sword Books, 1999, Introduction
  233. ^ 『官報』号外「詔勅 立皇太子公布之件」1889年11月3日。
  234. ^ 『官報』号外 1900年5月10日。
  235. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  236. ^ a b c d e f g h i j k 刑部芳則『明治時代の勲章外交儀礼』明治聖徳記念学会紀要、2017年、152頁http://meijiseitoku.org/pdf/f54-5.pdf 
  237. ^ Italy. Ministero dell'interno (1920). Calendario generale del regno d'Italia. p. 57. https://books.google.com/books?id=KU1TIJPtKx0C&pg=PR3 
  238. ^ Royal Thai Government Gazette (9 December 1900) (タイ語). ข้อความในใบบอกพระยาฤทธิรงค์รณเฉท อรรคราชทูตสยามกรุงญี่ปุ่น เรื่อง พระราชทานเครื่องราชอิศริยาภรณ์ มหาจักรีบรมราชวงษ์แก่มกุฎราชกุมาร กรุงญี่ปุ่น. http://www.ratchakitcha.soc.go.th/DATA/PDF/2443/037/527_1.PDF 2019年5月8日閲覧。. 
  239. ^ (スウェーデン語) Sveriges Statskalender, (1909), p. 613, http://runeberg.org/rikskal/1909/0697.html runeberg.orgより2018年1月6日閲覧。 
  240. ^ List of the Knights of the Garter=François Velde, Heraldica.org”. 2019年2月22日閲覧。






大正天皇と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大正天皇」の関連用語

大正天皇のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大正天皇のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大正天皇 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS