大正天皇 大正天皇実録

大正天皇

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大正天皇実録

1927年6月、宮内省は図書寮に大正天皇実録部を設置し『大正天皇実録』の編纂を開始した。実録は1934年(昭和9年)末に145冊の稿本が作成された後、更なる資料の補遺、充実を図り、1936年(昭和11年)の大正天皇十年祭を前に完成し、昭和天皇香淳皇后、節子皇太后(貞明皇后)に捧呈された[注釈 25][212]。しかし、長い間非公開であり、朝日新聞の情報公開請求を契機として2002年(平成14年)から2011年(平成23年)にかけ、4回に分けて公開された。ただし、この時は個人識別情報として全体の3パーセントが黒塗りとされた[213]。その後、2015年(平成27年)に公文書管理法の「時の経過」を考慮して黒塗り部分が残り0.5パーセントまで減らされたが、現在も学業成績や病状に関する部分の一部が非公開とされている[2]

ゆまに書房2016年(平成28年)から2021年令和3年)にかけて実録本文の補訂版を刊行中である[2]

軍歴

日本

  • 1889年(明治22年)11月3日 陸軍歩兵少尉[214]
  • 1892年(明治25年)11月3日 陸軍歩兵中尉[215]
  • 1895年(明治28年)1月4日 陸軍歩兵大尉[216]
  • 1898年(明治31年)11月3日 陸軍歩兵少佐及海軍少佐[217]
  • 1901年(明治34年)11月3日 陸軍歩兵中佐及海軍中佐[218]
  • 1903年(明治36年)11月3日 陸軍歩兵大佐及海軍大佐[219]
  • 1905年(明治38年)11月3日 陸軍少将及海軍少将[220]
  • 1909年(明治42年)11月3日 陸軍中将及海軍中将[221]
  • 1912年(明治45年/大正元年)7月30日 大元帥

外国

栄典

ガーター騎士団の正装をした大正天皇(1912年頃撮影)

日本

外国


注釈

  1. ^ 嘉仁親王が軍隊用の背嚢に学用品を入れて通学したことがランドセルの始まりとされている[18]
  2. ^ 表向きの理由は同年6月の地震で校舎が破損し授業に支障を来したこととされた[24]
  3. ^ 1891年4月3日に招かれたのは、 伏見宮禎子女王、北白川宮満子女王(北白川宮能久親王娘)、北白川宮貞子女王(同前)、九条籌子(かずこ。九条道孝娘)、九条節子(同前)、徳川国子(徳川慶喜娘)、徳川経子(同前)、徳川絲子(同前)、毛利万子(かずこ。毛利元徳娘)、岩倉米子(岩倉具定娘)の10名。その他、久邇宮純子女王久邇宮朝彦親王娘)、一条経子(一条実輝娘)、鷹司房子(鷹司煕通娘)の三人も候補とされた[36]
  4. ^ 飛鳥井雅道は皇室典範で皇位継承を嫡出子優先としたこと、国が一夫一妻制を奨励していたことが理由と指摘している[47]
  5. ^ この結婚式を模倣して神前結婚式が誕生し、日本全国に広まっていった[49]
  6. ^ 高崎行啓時に予定の道筋を取らず好き勝手に人力車を走らせたり、新潟では当日になって訪問先を変更させ、周囲を狼狽させたりした[57]
  7. ^ 実際には明治天皇は7月29日午後10時43分に没したが、践祚までの準備時間が足りないため公式には7月30日午前0時43分死去とされた[72]
  8. ^ なお節子皇后は第4子(三笠宮崇仁親王)懐妊中のため即位礼を欠席した。またこの時に製作された高御座と御帳台は昭和・平成・令和3代の即位礼でも使用されている[77][78]
  9. ^ 皇居の居住部は明治天皇の希望で照明がろうそくのみであったが、電灯が付けられ、スチーム暖房が導入された[90]
  10. ^ 山本権兵衛は女婿の財部彪に、「大正天皇の考えといっても、明治天皇のそれと異なる。たとえ、大正天皇の命であっても国家のためにならないと判断すれば従わないほうが忠誠を尽くすことになる」と語っていた[91]
  11. ^ 摂政任命の詔書は大正天皇が署名できないため、皇太子が代筆した[113]
  12. ^ この摂政就任に関し、原武史は牧野伸顕ら宮内官僚による「主君押込」説を主張した[114]が、古川隆久は政治家から皇族まで全関係者が同意した点を挙げ原武史説を批判した[115]
  13. ^ このホームは御用邸に向かう大正天皇が人目に触れないよう建設されたもの[119]で、大正天皇が生前このホームを利用したのはこれが最初で最後であった[123]
  14. ^ このとき将棋倒しで死者2人、重傷者14人、その他計300人の負傷者が出た[140]
  15. ^ 太平洋戦争終戦まで皇族参拝用に使用された後、八王子市に払い下げられ、集会所「陵南会館」として使用されたが、1990年平成2年)に天皇即位の礼と大嘗祭に反対する過激派に爆破され焼失した(八王子市陵南会館爆破事件[143]
  16. ^ 陵墓予定地内には地元の墓地数か所に計587基の墓があったが、強制移転させられている[146]
  17. ^ 梶山季之が黒田長敬に取材したとされる[156]
  18. ^ 1892年 - 1965年。旧姓・久世。源氏名「桜木」。昭憲皇太后に仕えた。夫は山川黙[158]
  19. ^ 1892年 - 1980年。源氏名「椿」[162]
  20. ^ 当時の蕎麦屋の2階では男女が逢引したり売春することもあった[167]
  21. ^ 第2位が後光明天皇の98首、第3位が嵯峨天皇の97首[177]
  22. ^ 鍋島伊都子は美人として評判で、当時梨本宮守正王と婚約中であった[189]
  23. ^ 皇后の父・九条道孝が危篤との電報を受けた帰京であったが、道孝は無事で皇后は9日後に日光に戻っている[190]
  24. ^ 大正天皇が側室を持たなかった理由は諸説ある。天皇・皇后がともに庶子であったことから側室制度の廃止を願っていたとする説、貞明皇后が早々に複数の男子を産んだことから結果的に一夫一妻になったとする説、近代家族の姿が広まるという時代状況を踏まえた天皇・皇后の意思によるとする説などがある[194]
  25. ^ なお宮内省では同時期に『明治天皇紀』(1933年/昭和8年完成)や歴代天皇・皇族の記録である『天皇皇族実録』も編纂されていた[212]

出典

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