日清戦争 戦争目的と動機

日清戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/02/22 00:20 UTC 版)

戦争目的と動機

1891年の極東地図

Flag of Japan.svg 日本

清国ニ対スル宣戦ノ詔勅』では、朝鮮の独立と改革の推進、東洋全局の平和などが謳われた。

宣戦の詔勅(部分):「朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ…」

しかし、詔勅は名目にすぎず、朝鮮を自国の影響下におくことや清の領土割譲など、「自国権益の拡大」を目的にした戦争とする説がある[* 5]。 戦争目的としての朝鮮独立は、「清の勢力圏からの切放しと親日化」[8]あるいは「事実上の保護国化」[* 6]と考えられている。それらを図った背景として、ロシアと朝鮮の接近や前者の南下政策等があった[* 7](日本の安全保障上、対馬などと近接する朝鮮半島に、ロシアやイギリスなど西洋列強を軍事進出させないことが重要であった[* 8])。


Flag of the Qing dynasty (1889-1912).svg 清国

宣戦の詔勅(部分):「朝鮮ハ我大清ノ藩屏〔ハンペイ:直轄の属領〕タルコト200年余、歳ニ職貢ヲ修メルハ中外共ニ知ル所タリ…」

西欧列強によるアジアの植民地化と日本による朝鮮の開国・干渉とに刺激された結果、清・朝間の宗主・藩属(宗藩)関係(「宗属関係」「事大関係」ともいわれ、内政外交で朝鮮の自主が認められていた。)[9]を近代的な宗主国と植民地の関係にあらため、朝鮮の従属化を強めて自勢力下に留めようとした[10]

前史1:日本の開国と近代国家志向

日清戦争について1)江華島事件(外交面)を、2)1890年代の日本初の恐慌(経済面)を、3)帝国議会初期の政治不安(内政面)を起点に考える立場がある[11]。ここでは、最も過去にさかのぼる1)江華島事件の背景から記述する。

西力東漸と「日清朝」の外交政策等

19世紀半ばから東アジアは、西洋列強の脅威にさらされた。その脅威は17世紀の西洋進出と違い、経済的側面だけでなく、政治的勢力としても直接影響を与えた。ただし、列強各国の利害関心、また日清朝の地理と経済条件、政治体制、社会構造などにより、三国への影響が異なった[12]

大国の清では、広州一港に貿易を限っていた。しかし、アヘン戦争(1839 - 42年)とアロー戦争(1857 - 60年)の結果、多額の賠償金を支払った上に、領土の割譲、11港の開港などを認め、また不平等条約を締結した。このため、1860年代から漢人官僚曽国藩李鴻章等による近代化の試みとして洋務運動が展開され、自国の伝統的な文化と制度を土台にしながら軍事を中心に西洋技術の導入を進めた(中体西用)。したがって、近代化の動きが日本と大きく異なる。たとえば外交は、近隣との宗藩関係(冊封体制)をそのままにし、この関係にない国と条約を結んだ[13]

日本では、アメリカ艦隊の来航(幕末の砲艦外交)を契機に、江戸幕府鎖国から開国に外交政策を転換し、また西洋列強と不平等条約を締結した。その後、新政府が誕生すると、幕藩体制に代わり、西洋式の近代国家が志向された。新政府は、内政で中央集権文明開化富国強兵などを推進するとともに、外交で条約改正、隣国との国境確定、清・朝鮮との関係再構築(国際法に則った近代的外交関係の樹立)など諸課題に取り組んだ。結果的に日本の近代外交は清の冊封体制と摩擦を起こし、日清戦争でその体制は完全に崩壊することとなる。

朝鮮では、摂政大院君も進めた衛正斥邪運動が高まる中、1866年同治5年)にフランス人宣教師9名などが処刑された(丙寅教獄)。報復として江華島に侵攻したフランス極東艦隊(軍艦7隻、約1,300人)との交戦に勝利し、撤退させた(丙寅洋擾)。さらに同年、通商を求めてきたアメリカ武装商船との間で事件が起こった(ジェネラル・シャーマン号事件)。翌1867年(同治5年)、アメリカ艦隊5隻が朝鮮に派遣され、同事件の損害賠償と条約締結とを要求したものの、朝鮮側の抵抗にあって同艦隊は去った(辛未洋擾)。大院君は、仏米の両艦隊を退けたことで自信を深め、旧来の外交政策である鎖国と攘夷を続けた[14]

「日朝」国交交渉の難航とその影響

1868年明治元年、同治7年)末、日本の新政府は、朝鮮に王政復古を伝える書契を渡そうとした。しかし朝鮮は、従来の形式と異なり、文中に宗主国清の皇帝だけが使えるはずの「皇」と「勅」の文字があったため、書契の受け取りを拒否した。数年間、日朝の国交交渉が進展せず、この余波がさまざまな形で現れた。

1871年(明治4年)9月13日(同治10年7月29日)、対日融和外交を主張[* 9]した李鴻章の尽力により、日清修好条規および通商章程が締結された[15]。この外交成果を利用して日本は、清と宗藩関係にある朝鮮に対し、再び国交交渉に臨んだ。しかし、それでも国交交渉に進展が見られない1873年(明治6年、同治12年)、国内では、対外戦争を招きかねない西郷隆盛の朝鮮遣使が大きな政治問題になった。結局のところ10月、明治天皇の裁可で朝鮮遣使が無期延期とされたため、遣使賛成派の西郷と板垣退助江藤新平など5人の参議および約600人の官僚・軍人が辞職する事態となった(明治六年政変)。翌年2月、最初の大規模な士族反乱である佐賀の乱が起こった。

日本が政変でゆれていた1873年(明治6年)11月(同治12年9月)、朝鮮では、閔妃一派による宮中クーデターが成功し、鎖国攘夷に固執していた摂政の大院君(国王高宗の実父)が失脚した。この機に乗じて日本は、1875年(明治8年)2月(同治14年1月)に森山茂を朝鮮に派遣したものの、今度は服装(森山:西洋式大礼服を着用、朝鮮:江戸時代の和装を求める)など外交儀礼を巡る意見対立により、書契交換の前に交渉が再び中断した[* 10]

ついに日本は、軍艦2隻に朝鮮沿岸を測量させ、軍事的圧力で局面の打開をはかった。同年9月20日光緒元年8月21日)、軍艦「雲揚」が首都漢城防衛の最重要拠点江華島に接近し、朝鮮側の発砲を理由に戦闘が始まった[* 11]。12月(11月)、日本は、特命全権大使に黒田清隆を任命し、軍艦3隻などを伴って朝鮮に派遣した結果(砲艦外交)、翌1876年(明治9年)2月(光緒2年2月)に日朝修好条規が調印された[* 12]

「日清」間の国境問題

日清両国は、1871年(明治4年、同治10年)に日清修好条規を調印したものの、琉球王国の帰属問題が未解決であり、国境が画定していなかった(1895年、日清戦争の講和条約で国境画定)[17]。しかし、後記の朝鮮での勢力争いと異なり、1871年宮古島島民遭難事件を契機とした1874年(明治7年、同治13年)の台湾出兵でも、1879年(明治12年、光緒4年)の第2次琉球処分でも、海軍力で日本に劣ると認識していた清が隠忍自重して譲歩したことにより、両国間で武力衝突が起こらなかった。ただし、台湾出兵(清は日本が日清修好条規に違反したと解釈)と琉球処分(清からみて属国の消滅)は、清に日本への強い警戒心と猜疑心をいだかせ、その後、日本を仮想敵国に北洋水師(艦隊)の建設が始まるなど、清に海軍増強と積極的な対外政策をとらせた。そして、その動きが日本の軍備拡張を促進させることになる。

前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢

朝鮮の開国と壬午事変・甲申政変

朝鮮政府内で開国・近代化を推進する「開化派」と、鎖国・攘夷を訴える「斥邪派」との対立が続く中、日本による第二次琉球処分が朝鮮外交に大きな影響を与えた。日本の朝鮮進出と属国消滅を警戒する清が、朝鮮と西洋諸国との条約締結を促したのである。その結果、朝鮮は、開国が規定路線になり(清によってもたらされた開化派の勝利)、1882年5月22日(光緒8年4月6日)、米朝修好通商条約調印など米英独と条約を締結した。しかし、政府内で近代化に努めてきた開化派は、清に対する態度の違いから分裂してしまう。後記のとおり壬午事変後、清が朝鮮に軍隊を駐留させて干渉するようになると、この清の方針に沿おうとする穏健的開化派(事大党)と、これを不当とする急進的開化派(独立党)との色分けが鮮明になった。党派の観点からは前者が優勢、後者が劣勢であり、また国際社会では清が前者、日本が後者を支援した[18]

壬午事変において、小舟で脱出する公使館員

1882年(明治15年)7月(光緒8年6月)、首都漢城で、処遇に不満をいだく軍人たちによる暴動が起こった。暴動は、民衆の反日感情、開国・近代化に否定的な大院君らの思惑も重なり、日本人の軍事顧問等が殺害され、日本公使館が襲撃される事態に発展した。事変の発生を受け、日清両国が朝鮮に出兵した。日本は、命からがら帰国した公使の花房義質に軍艦4隻と歩兵一箇大隊などをつけて再度、朝鮮赴任を命じた。居留民の保護と暴挙の責任追及、さらに未決だった通商規則の要求を通そうとの姿勢であった[19]8月30日7月17日)、日朝間で済物浦条約が締結され、日本公使館警備用に兵員若干の駐留などが決められた(2年後の甲申政変で駐留清軍と武力衝突)。

日本は、12月に「軍拡八カ年計画」を決定するなど、壬午事変が軍備拡張の転機となった。清も、旧来と異なり、派兵した3,000人をそのまま駐留させるとともに内政に干渉するなど、同事変が対朝鮮外交の転機となり、朝鮮への影響力を強めようとした。たとえば、「中国朝鮮商民水陸貿易章程」(1882年10月)では、朝鮮が清の属国、朝鮮国王と清の北洋通商大臣とが同格、外国人の中で清国人だけが領事裁判権と貿易特権を得る等とされた[20]。その後、朝鮮に清国人の居留地が設けられたり、清が朝鮮の電信を管理したりした[21]。なお同事変後、日本の「兵制は西洋にならいて……といえども、……清国の各軍に比し、はるかに劣れり」(片仮名を平仮名に、漢字の一部を平仮名に書き換えた)等の認識をもつ翰林院張佩綸が「東征論」(日本討伐論)を上奏した[22]

1884年(明治17年、光緒10年)、ベトナムを巡って清とフランスの間に緊張が高まったため(清仏戦争勃発)、朝鮮から駐留清軍の半数が帰還した。朝鮮政府内で劣勢に立たされていた金玉均など急進開化派は、日本公使竹添進一郎の支援を利用し、穏健開化派政権を打倒するクーデターを計画した。12月4日10月17日)にクーデターを決行し、翌5日(18日)に新政権を発足させた。その間、4日(17日)夜から竹添公使は、日本の警護兵百数十名を連れ、国王保護の名目で王宮に参内していた。しかし6日(19日)、袁世凱率いる駐留清軍の軍事介入により、クーデターが失敗し、王宮と日本公使館などで日清両軍が衝突して双方に死者が出た。

政変の結果、朝鮮政府内で日本の影響力が大きく低下し、また日清両国が協調して朝鮮の近代化を図り、日清朝で欧米列強に対抗するという日本の構想が挫折した[23]。なお、日本国内では、天津条約が締結される1か月前の1885年(明治18年)3月16日時事新報』に脱亜論(無署名の社説)が掲載された。

1885年(明治18年)4月18日(光緒11年3月4日)、全権大使伊藤博文と北洋通商大臣李鴻章の間で天津条約が調印された。同条約では、4か月以内の日清両軍の撤退と、以後、朝鮮出兵の事前通告および事態収拾後の即時撤兵が定められた。なお、この事前通告は自国の出兵が相手国の出兵を誘発するため、同条約には出兵の抑止効果もあった。

朝鮮情勢の安定化をめぐる動き

ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)
日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている

旧来、朝鮮の対外的な安全保障政策は、宗主国の清一辺倒であった[24]。しかし、1882年(明治15年、光緒8年)の壬午事変前後から、清の「保護」に干渉と軍事的圧力[* 13]が伴うようになると(「属国自主」:1881年末から朝鮮とアメリカの間で結ばれた条約では、朝鮮側の提示した条約草案の第一条で「朝鮮は清朝の属国である。」とされ、岡本隆司がその清朝関係を「属国自主」と呼んだ[* 14]。)、朝鮮国内で清との関係を見直す動きが出てきた。たとえば、急進的開化派(独立党)は、日本に頼ろうとして失敗した(甲申政変)。朝鮮が清の「保護」下から脱却するには、それに代わるものが必要であった。

清と朝鮮以外の関係各国には、朝鮮情勢の安定化案がいくつかあった。日本が進めた朝鮮の中立化(多国間で朝鮮の中立を管理)[* 15]、一国による朝鮮の単独保護、複数国による朝鮮の共同保護である。さらに日清両国の軍事力に蹂躙された甲申政変が収束すると、ロシアを軸にした安定化案が出された(ドイツの漢城駐在副領事ブドラーの朝鮮中立化案、のちに露朝密約事件の当事者になるメレンドルフのロシアによる単独保護)。つまり、朝鮮半島を巡る国際情勢は、日清の二国間関係から、ロシアを含めた三国間関係に移行していた。そうした動きに反発したのがロシアとグレート・ゲームを繰り広げ、その勢力南下を警戒するイギリスであった。イギリスは、もともと天津条約(1885年)のような朝鮮半島の軍事的空白化に不満があり、日清どちらかによる朝鮮の単独保護ないし共同保護を期待していた。そして1885年(光緒11年)、アフガニスタンでの紛争をきっかけに、ロシア艦隊による永興湾元山沖)一帯の占領の機先を制するため、4月15日3月1日)に巨文島を占領した[* 16]。しかしイギリスの行動により、かえって朝鮮とロシアが接近し(第一次露朝密約事件)、朝鮮情勢は緊迫[* 17]してしまう。

朝鮮情勢の安定化の3案(中立化、単独保護、共同保護)は、関係各国の利害が一致しなかったため、形式的に実現していない。たとえば、第一次露朝密約事件後、イギリスが清の宗主権を公然と支持し、清による朝鮮の単独保護を促しても、北洋通商大臣の李鴻章が日露両国との関係などを踏まえて自制した。もっともイギリスは、1891年(明治24年)の露仏同盟やフランス資本の資金援助によるシベリア鉄道建設着工などロシアとフランスが接近する中、日本が親英政策をとると判断し、対日外交を転換した。日清戦争前夜の1894年(明治27年)7月16日日英通商航海条約に調印し、結果的に日本の背中を押すこととなる[25]。結局のところ朝鮮は、関係各国の勢力が均衡している限り、少なくとも一国の勢力が突出しない限り、実質的に中立状態であった[26]

日本の軍備拡張

明治維新が対外的危機をきっかけとしたように帝国主義の時代、西洋列強の侵略に備えるため、国防、特に海防は重要な政治課題の一つであった。しかし財政の制約、血税一揆士族反乱を鎮圧するため、海軍優先の発想と主張があっても、陸軍(治安警備軍)の建設が優先された[27]。ただし、1877年(明治10年)の西南戦争後、陸軍の実力者山縣有朋が「強兵」から「民力休養」への転換を主張(同年12月「陸軍定額減少奏議」など)[28]するなど、たえず軍拡が追求されたわけではない。

軍拡路線への転機は、1882年(明治15年、光緒8年)に朝鮮で勃発した壬午事変であった。事変直後の同年8月、山縣は煙草税増税による軍拡を、9月岩倉具視は清を仮想敵国とする海軍増強とそのための増税を建議した。12月、政府は、総額5,952万円の「軍拡八カ年計画」(陸軍関係1,200万円、軍艦関係4,200万円、砲台関係552万円)を決定した[29](同年度の一般会計歳出決算額7,348万円)。同計画に基づき、陸軍が3年度後からの兵力倍増に、海軍が翌年度から48隻の建艦計画等に着手した。その結果、一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、翌1883年(明治16年)度から20%以上で推移し、「軍拡八カ年計画」終了後の1892年(明治25年)度の31.0%が日清戦争前のピークとなった[30]

軍拡路線が続いた背景には、壬午事変後の国際情勢があった。たとえば、1888年(明治21年)に山縣は、内閣総理大臣伊藤博文に対し、次のように上申した。

我国の政略は朝鮮を……自主独立の一邦国となし、……欧州の一強国、事に乗じて之〔朝鮮〕を略有するの憂いなからしむに在り。

「軍事意見書」

現実に1884年(明治17年、光緒10年) - 翌年の清仏戦争(ベトナムがフランスの保護領に)、1885年(明治18年、光緒11年) - 1887年(明治20年、光緒13年)のイギリス艦隊による朝鮮の巨文島占領(ロシア艦隊による永興湾一帯の占領の機先を制した)、露朝密約事件(ロシアと朝鮮の接近)、ロシアのシベリア横断鉄道敷設計画(1891年(明治24年)起工)があった。

その上、1884年(明治17年、光緒10年)の甲申政変(日清の駐留軍が武力衝突)、1886年(明治19年、光緒12年)の北洋艦隊(最新鋭艦「定遠」と「鎮遠」等)来航時の長崎事件など、清と交戦する可能性もあった。ただし当時、日清間の戦争は、海軍力で優位にある大国の清が日本に侵攻するとの想定[* 18]で考えられていた(1885年(明治18年光緒11年)に就役した清の「定遠」は、同型艦「鎮遠」とともに当時、世界最大級の30.5cm砲を4門そなえ、装甲の分厚い東洋一の堅艦であり、日本海軍にとって化け物のような巨大戦艦であった)。

なお、1885年(明治18年)5月、兵力倍増の軍拡計画にそった鎮台条例改正により、編成上、戦時三箇師団体制から戦時六箇師団体制に移行した。さらに1888年(明治21年)5月、6つの鎮台が師団に改められ、常設六箇師団体制になった(1891年に再編された近衛師団を追加して常設七箇師団体制)。機動性が高い師団への改編は、「国土防衛軍」から「外征軍」への転換と解釈されることが多いものの、機動防御など異なる解釈もある[* 19]。1890年代に入ると、陸軍内では、従来の防衛戦略にかわり、攻勢戦略が有力になりつつあった。しかし、海軍力に自信がなかったため[* 20]、後記のとおり、日清戦争の大本営「作戦大方針」に制海権で三つの想定があるように、攻勢戦略に徹しなかった。戦時中も、元勲第一軍司令官の山縣有朋陸軍大将は、同じく元勲の井上馨あてに次のように書き送った[31]

平壌陥落実に意外の結果……ひきつづき〔黄海〕海戦大捷これまた予想の外……(注:漢字の一部を平仮名に書き換えた)

軍拡の結果、現役の陸軍軍人[* 21]・軍属数は、西南戦争前年の1876年(明治9年)に39,315人であったのが、日清戦争前年の1893年(明治26年)に73,963人[32]となった。現役の海軍軍人・軍属数は1893年が13,234人(1876年が不明)であり、軍艦の総トン数は1876年の14,300tから1893年の50,861tに増加した。一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、1876年度に17.4%(陸軍11.6%、海軍5.8%)であったのが、1893年度に27.0%(陸軍17.4%、海軍9.6%)[33]となった。

日本政府内の対朝鮮政策をめぐる路線対立

1889年、内閣総理大臣に就任した山縣有朋は、安全保障の観点からロシアの脅威が朝鮮半島に及ばないように朝鮮の中立化を構想した[34]。それを実現するため、清およびイギリスとの協調を模索し、とりわけ清とは共同で朝鮮の内政改革をはかろうとした。

しかし、そうした山縣首相の構想には、閣内に強い反対意見があった。安全保障政策で重要な役割を果たす3人の閣僚、つまり外務大臣の青木周蔵、陸軍大臣の大山厳、海軍大臣の樺山資紀が異論を唱えたのである。青木外相は日本が朝鮮・満洲東部・東シベリアを領有し、清が西シベリアを領有するとの強硬論を唱え、大山陸相は軍備拡張に基づく攻勢的外交をとるべきとし、樺山海相は清とイギリスを仮想敵国にした海軍増強計画を立てていた。もっとも、3大臣の反対意見は抑制された。なぜなら、軍備拡張に財政上の制約があったからである(結局のところ、予算案の海軍費は樺山海相が当初計画した約10分の1にまで削減)。また海軍内には、敵国を攻撃できるような大艦を建造せず、小艦による近海防御的な海防戦略も有力であった。そして何より当時、政治と軍の関係は、山縣など元勲の指導する前者が優位に立っていた

1892年、再び首相に就任した伊藤博文は、日清共同による朝鮮の内政改革という山縣の路線を踏襲した。ただし、第2次伊藤内閣第1次山縣内閣と同じように首相と異なる考えの閣僚が存在し、日清開戦直前に外務大臣(陸奥宗光)と軍部(参謀次長川上操六陸軍中将)の連携が再現されることとなる。

朝鮮に関する開戦前年の「日清」関係

甲申政変後に締結された天津条約(1885年)により、以後の朝鮮出兵が「日清同等」になった[35]。しかし、このことは、朝鮮での「日清均衡」を意味しなかった。清は、軍事介入で甲申政変の混乱を収拾させ、また親清政権が誕生したことにより、朝鮮への政治的影響力をさらに強めた(日本は親日派と目された独立党が壊滅)。軍事的にも、朝鮮半島と主要港が近い上に陸続きで、出兵と増派に有利であった(日本は制海権に左右され、しかも海軍力で劣勢)。したがって天津条約は、日本が清との武力衝突を避けている限り、朝鮮での清の主導権を温存する効果があった。たとえば、日清戦争前年の1893年(明治26年、光緒19年)、日本公使大石正巳の強硬な態度により、日朝間で防穀令事件が大きな外交問題になったとき、伊藤首相と北洋通商大臣の李鴻章との連絡・協調により、朝鮮が賠償金を支払うことで決着がついた(その後、更迭された大石に代わり、大鳥圭介が公使に就任)。

このように開戦前年の伊藤内閣は、清(李鴻章)の助けを借りて朝鮮との外交問題(防穀令事件)を処理しており、武力で清の勢力圏から朝鮮を切り放そうとした日清戦争とまったく異なる対処方針をとっていた。しかし翌1894年(明治27年、光緒10年)、朝鮮で新たな事態が発生し、天津条約締結後初めて朝鮮に日清両国が出兵することとなる。


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  1. ^ 参謀本部編「明治廿七八年戦史」は、戦争期間を宣戦布告(1894年8月1日)から日清講和条約調印(1895年4月17日)までとせず、豊島沖海戦(1894年7月25日)から台湾平定(1895年11月30日)までとした。原田 (2007) 。また、日本軍の朝鮮王宮占領(1894年7月23日)を開戦日とする見解もある。前掲書。[1]。当時、宣戦布告前の戦闘行為は最後通牒の提出後であり、事実関係が明らかでなかった。そのため7月25日、高陞号事件(日本の軍艦が清軍を乗せたイギリス商船を撃沈した事件)がイギリス世論を一時的に沸騰させたくらいで、国際社会から問題視されなかった。なお、戦後の1899年明治32年、光緒25年)、日清両国も参加した万国平和会議ハーグ陸戦条約が採択された。
  2. ^ 編成・装備・訓練が統一されておらず、動員兵站指揮のシステムも近代軍として体をなしていなかった」。戸部 (1998) 、144頁。
  3. ^ ただし、陸軍の実質的トップで第一軍司令官山縣有朋陸軍大将が「平壌陥落は実に意外の結果……〔黄海〕海戦大捷これまた予想の外」(原田 (2007) 、81頁。注:漢字の一部を平仮名に書き換えた。)と書き記したように、海軍力で日本を上まわると考えられていた大国清との開戦は、国内に困惑と緊張をもたらした。
  4. ^

    日本の近代工業国としての本格的発足は、実に日清戦争を画期とする。

    高橋 (1973) 、219頁。

  5. ^ アンドルー・ゴードン『日本の200年』上、みすず書房、2006年、248頁。ISBN 4-622-07246-7。「このように、日清戦争は、朝鮮にたいする支配権をめぐる日中間の戦いだった。……下関で調印された日清講和条約で日本は、自国の「利益線」を朝鮮半島よりもさらに遠くへ拡張したいという強い願望を明確に打ち出した。」[4][5] これらは遼東半島領有が陸軍の、台湾領有が海軍の戦争中からの主張であったことを指摘している。開戦準備ならびに講和条約の項と脚注も参照。原田 (2007) 、96頁。[6][7]
  6. ^ 開戦直後、1894年8月17日の閣議で、外務大臣陸奥宗光が提出した4案のうち、乙案「朝鮮を名義上独立国と公認するも、帝国より間接に直接に永遠もしくはある長時間その独立を保翼扶持し他の侮りを防ぐの労を取る事」が採択された。乙案の採択は、かつて日本が呼びかけていた多国間の承認による朝鮮中立化案と、日清での朝鮮共同保護案の放棄を意味した。以上、岡本 (2008) 、159-160頁。
  7. ^ 中国を巡る英露対立「イギリスとロシアが睨み合うのはアフガニスタン国境だけではない。太平洋もまた、イギリスにとって重要で、日本の願いを肝要に扱って大きな義理を負わせ、イギリスと協調させるようにすれば、イギリスの中国への進出に直接的にも間接的にも大きく貢献してくれることになる」(「タイムズ」より。「イギリス・ロシアからみた日清戦争」、比較史・比較歴史教育研究会編『黒船と日清戦争』未來社、1996年。「日清戦争をめぐる国際関係」『近代中国研究彙報』18号、1996年。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所『19世紀末におけるロシアと中国』アジア史資料叢刊第1輯、巌南堂書店、1993年。
  8. ^ 1888年(明治21年)、元勲の一人で陸軍の実質的トップ山縣有朋が内閣総理大臣伊藤博文に対し、「我国の政略は朝鮮を……自主独立の一邦国となし、……欧州の一強国、事に乗じて之〔朝鮮〕を略有するの憂いなからしむに在り」と上申していた(「軍事意見書」)。当時の状況は、当記事「日清戦争」の「朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢#日本の軍備拡張」が詳しい。
  9. ^ 清の政府内では、かつて倭寇として認識されていた日本が清に先駈けて近代化を果たせば軍事的脅威になる、との認識が醸成されていた。この中で李鴻章は、近代化に努める日清両国が提携して欧米列強に対抗することも念頭に置き、日本との条約締結を強く主張した。ただし、1874年(明治7年、同治13年)の日本による台湾出兵後、日本を仮想敵国とした海軍建設を主張した。戸高 (2011) 、71-75頁。
  10. ^ 朝鮮政府の一部には、国際社会では独立国の王が「皇帝」の称号を使っており、日本の書契に「皇」「勅」の文字があることを理由に外交交渉を拒否すべきでない、との意見もあった。呉 (2000)、49頁。
  11. ^ 「大日本外交文書」所収の明治八年十月八日付けの「雲揚」艦長井上良馨の報告書では、侵入目的を「探水」とし、九月二十日それを求めて溯上したボートへの朝鮮側の発砲があったため、「雲揚」が応戦し、同日に砲台の破壊と占領に及んだとした。しかし、新たに発見された防衛庁防衛研究所保存の同艦長の九月二十九日付け報告書の写しの存在により、前者の報告書は、当時外交上問題になる箇所を書き換えたものであり、実際は測量その他を目的に侵入して戦闘が三日間に渡り、「雲揚」への朝鮮側の発砲も応戦によるものだったことが明らかにされている[16]
  12. ^ 半年後の8月(7月)、同条規の付録と貿易規則が定められ、規則第六則で米穀の輸出入が認められた。これによって朝鮮では、日本への米穀輸出が増加するとともに、米価高騰など食糧事情が悪化した。また、付録付属の往復書簡では、相互に無関税として関税自主権を否定したため(経済力で優位に立つ日本にとって有利)、日本の経済進出が容易になった。
  13. ^ 1881年(光緒7年)、清の北洋通商大臣李鴻章は、イリ地方の紛争に対して武力鎮圧を決断し、その行動の結果、自国に有利な条件でロシアとイリ条約を結んだ。そして同年、対朝鮮政策の所管を礼部から北洋通商大臣の直轄にかえ、翌1882年の壬午事変で派遣した部隊(3,000名)をそのまま朝鮮に駐留させた。加藤 (2009) 、93-96頁。
  14. ^ 1881年末から朝鮮とアメリカの間で条約締結交渉が始まると、李鴻章と朝鮮の吏曹参議金允植が協議し、朝鮮側の条約草案が作成された。草案の第一条で「朝鮮は清朝の属国であり、内政外交は朝鮮の自主である。」とされ、岡本隆司がその清朝関係を「属国自主」と呼んだ。岡本 (2008) 、76頁。
  15. ^ 1882年(明治15年)11月(光緒8年[[10月 (旧暦)|]])から山縣有朋の意を汲んだ井上馨は、外務省を通して朝鮮中立化に動いており、この日本側の構想は卓抜していた。しかし、朝鮮の従属化を望む清、条約の批准もまだで時期尚早とする西洋諸国の反応がよくなかった。そして外交上の進展がないまま日本は、甲申政変を迎えた。岡本 (2008) 、125-128頁。井上 (2010) 。
  16. ^ 巨文島の占領についてイギリスは、朝鮮に通告せず、清(宗主国)の駐英外交官に伝えて了承を得ていた。もっとも、この外交官は、清にも朝鮮にも連絡をしなかった。また朝鮮は、日本から知らされるまでイギリス艦隊が巨文島に集結していることに気づかず、抗議など政治行動もとらなかった。しかし、李鴻章の警告書により、ようやく認識を改め、事態の収拾を図るものの、相手にされないなど効果がなかった。その後、清がイギリスとロシアの両者に働きかけ、前者による巨文島の占領が終わった(1885年4月 - 1887年3月)。呉 (2000) 、152-154頁。
  17. ^ 1891年(明治24年)、ロシアがフランス資本などの資金援助を受けながら、シベリア横断鉄道の建設に着手した。この鉄道建設は、イギリスに大きな衝撃を与えた。やがて日本にも、危機感を抱かせることになる
  18. ^ 1877年西南戦争を乗り切ると、1880年代の陸軍の主任務は、「治安維持」から外的脅威に備える「国土防衛」に変質しつつあった。1880年代中頃、メッケルドイツ陸軍少佐が指導した参謀演習旅行では、敵の上陸部隊への反撃が主な想定であったとされ、また1890年に初めて実施された陸海軍連合大演習は、敵の侵攻・上陸部隊に対する迎撃を目的とした。戸部 (1998) 、108-114頁。
  19. ^ たとえば、1878年(明治11年)末に参謀本部と監軍本部が設置されて以来の有事即応体制の完成との見解(桑田悦の説)。また陸軍の軍備計画では、師団制の採用にともなう部隊拡充のほか、海岸砲台と要塞構築にも重点が置かれていた。戸部 (1998) 、111-112頁。
  20. ^ 一例として開戦前夜、海軍大臣西郷従道海軍中将は「北洋艦隊の優勢なるを憚るが為に躊躇したり」と伝えられている(外務次官林董の回想録『後は昔の記』)。戸高 (2011) 、164頁。
  21. ^ 1873年(明治6年)1月に制定された徴兵令は、日清戦争までに大改正が3回あった。大改正の主眼は、徴兵の不公平感を緩和し、徴兵忌避を防止することにあった。また、一年志願制の導入など高学歴者に特例をもうけた(当初、専門知識が必要な衛生兵養成のために導入され、その後、動員に不可欠な予備役将校の養成としても運用された)。戸田 (1998) 、117-118頁。
  22. ^ 1890年(明治23年)の第一議会から1892年(明治25年)の第四議会まで、「富国強兵」か地租軽減など「民力休養」かが争点になっていた。しかし、1893年(明治26年)11月の第五議会では、排外的なナショナリズムにかかわる議論が高まった。悲願の条約改正が現実味を帯びる中、外国人の往来自由への嫌悪感、その自由な経済活動による輸入増加への警戒などを背景に、外国人の内地雑居への反対論が強くなったのである(条約励行、つまり「関税自主権回復をふくむ完全な条約改正でなければ、現状の不平等条約をそのまま維持」との主張で、まず領事裁判権(治外法権)撤廃から達成できそうな条約改正の大きな障害になっていた)。強硬的な外交(対外硬)に全体の論調が動いたものの、民党連合が分裂し、政府と対決する硬六派が形成された。硬六派は、衆議院解散後の1894年(明治27年)3月1日に行われた第3回総選挙でも、過半数を上回った。御厨 (2001) 、270-277頁。
  23. ^ 5月17日、伊藤内閣弾劾上奏案が提出された。144対149の僅差で否決されたものの、自由党の迷走により、5月31日、微細な予算問題で提出されていた別の内閣弾劾上奏案が153対139で可決された。御厨 (2001) 、277-279頁。
  24. ^ 5月27日か28日、代理公使の杉村から機密文書が届いていた。その内容は、朝鮮が「兵を支那に借り」て乱を鎮圧する動きがあり、万一に備え、出兵の可否を決めておくべきとの進言であった。31日、朝鮮は、清への援兵を決議した。翌6月1日、公文で朝鮮駐在の袁世凱に伝達しようとするものの、延着した(3日夜)。1日午後、代理公使の杉村は、「袁世凱いわく朝鮮政府は清の援兵を請いたりと」と打電した。原田 (2007) 、56-58頁。岡本 (2008) 、147-149頁。
  25. ^ たとえば、派兵決定の6月2日時点で新鋭艦の「吉野」は、鎮守府が置かれた4港の中で、朝鮮から最も離れた横須賀に停泊していた。また、主力艦として期待された松島型3隻のうち「松島」は、「千代田」とともに清の福建省沖を航行中であった。残る2隻のうち「厳島」は、大本営が設置された翌6日に修理が命じられており(工期60日)、「橋立」は、修理改造中であった(7月4日に整備も訓練も不十分なまま艦隊に編入された)。戸高 (2011) 、110、164頁。
  26. ^ 開戦を主導した外務大臣陸奥宗光は、朝鮮の内政改革について次のように書き記した。

    余は固より朝鮮内政改革を以て政治的必要の外、何等の意味なきものとせり。亦毫も義侠を精神として十字軍を興すの必要を視ざりし。故に朝鮮内政改革なるものは、第一に我国の利益を主眼とするの程度に止め、之が為め敢て我利益を犠牲とするの必要なしとせり。且つ今回の事件として之を論ずれば、畢竟朝鮮内政の改革とは、素と日清両国の間に蟠結して解けざる難局を調停せんが為めに案出したる一箇の政策なりしを、事局一変して竟に我国の独力を以て之を担当せざるを得ざるに至りたるものなるが故に、余は初より朝鮮内政の改革其事に対して格別重きを措かず。

    陸奥 (1994) 、62頁。

  27. ^ 日本政府が、国民に伝えた宣戦の理由(清国ニ対スル宣戦ノ詔勅)の要旨は、次の通り。

    「そもそも、朝鮮は日本と日朝修好条規を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清は朝鮮を属邦と称して内政干渉し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。日本は済物浦条約に基づき、出兵して変に備えさせて朝鮮での争いを永久になくし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清に協同して事に従おうと提案した。しかし清は様々な言い訳をしてこれを拒否した。日本は朝鮮の独立を保つため、朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。清はそれを妨害し、朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖で日本の軍艦を攻撃した(豊島沖海戦)。日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と天津条約とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清の計画は明白である。清は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。戦争を早期に終結して平和を回復させたいと思う。」

  28. ^ 翌8月初めて無名兵士の忠勇美談が報じられた。
  29. ^ 混成第九旅団は、堡塁の存在を知らず、要塞攻撃に不向きな山砲しか装備していない上に砲弾の選択ミスなどが重なり、大きな損害を出した。
  30. ^ 『日清戦史』によると、糧食不足の要因は、1)農村の疲弊によって現地調達が困難、2)糧食運搬を担う朝鮮人人夫が集められない上に逃亡もあった、3)ときに戦闘員を兵站部の物資運搬に使わざるを得ず、4)道路がよくなく、5)炎暑で気候もよくなかった。原田 (2008)、113-114頁。
  31. ^ 当時の日本海軍は、艦隊運動(信号によって複数艦が整然と行動)が未熟であった。伊東長官が「この不熟練なる艦隊では、正々堂々と一挙一動信号の下に行動することは困難」と「非常に心配」し、佐世保から出航するまでの一月足らずの間、訓練が行われた。対する北洋艦隊は、艦長の多くが欧米への軍事留学経験者で占められていたものの、信号書の不足など、日本艦隊と同じように艦隊運動に不安があった。原田 (2008)、44、131頁。
  32. ^ ただし、期待された臨時攻城廠の砲兵連隊(カノン砲16門、臼砲14門)は、大型砲の故障と運搬に手間どり、結局のところ榴弾73発、榴散弾22発の砲撃にとどまった。
  33. ^ 戦闘員が糧食運搬に従事しても、平壌に運べる糧食が一箇師団分に足りず、ときに過酷な現地徴発をした。10月12日、「物資の揚陸可能地点を発見」との知らせが入り、進軍を再開した。原田 (2008)、161-162頁。
  34. ^ 清軍の防衛拠点九連城を攻撃するには、地形上、架橋による敵前渡河が避けられなかったため、24日未明に支隊(歩兵2箇大隊など)が敵前徒渉することとなっていた。しかし、ここでも糧食補充の遅れにより、山砲2門の砲撃援護の下、11時過ぎに歩兵中隊が敵前徒渉を始め、40分ほどで対岸に着いた。同中隊は、迎撃にきた清軍の騎兵200騎を撃退した。
  35. ^ 福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵、「日清戦史」草案中の「第十六編第七十二章第二草案 南方作戦に関する大本営の決心及びその兵力」には、開戦後間もない1884年8月9日の陸海軍参謀会議で澎湖列島、台湾の領有が「将来東亜の覇権を握り太平洋の海上を制するに極めて必要」とされていた。中塚明『歴史の偽造をただす』高文研、165~168頁。もっとも両島領有の構想は、開戦以前にさかのぼる。山本四郎『日本史研究』75号、1964年11月。中塚明『日清戦争の研究』青木書店。なお、これらの研究は、1887年2月陸軍参謀本部第二局長小川又次陸軍大佐による「清国征討対策案」も紹介した。この「第二編 作戦計画」では「明治25年に準備を完了し、乗ずべき機を窺うべきである」とし、「第三編 善後処置」では「戦勝条約の時に在りて必ず左の六要衛を本邦の版図に帰せざるべからず」として1)旅順半島、2)山東登州府、3)浙江省舟山群島、4)澎湖群島、5)台湾全島、6)揚子江沿岸左右十里の地、を挙げていた。
  36. ^ 戦闘部隊は、東京湾警備の後備歩兵第一連隊(後備連隊は二箇大隊編成)、下関海峡警備の歩兵第12連隊第二大隊、山砲一箇中隊(6門)、騎兵5騎。
  37. ^ 「文野〔文明と野蛮〕の戦争」とは、文明開化をはかる国(日本)とそれを妨げる国(清)との戦争を意味する。加藤(2002)、115頁。
  38. ^ 開戦前の7月17日、大本営で開かれた最初の御前会議に山縣枢密院議長が列席し、同月26日の会議に伊藤首相の出席が認められた。黒野(2004)、89-90頁。
  39. ^ 1888年(明治21年)以降、海軍費の90%が使われた、といわれる。その金額は、「定遠」型10隻以上の建造費に相当する(インフレーション等を考慮しない名目値での試算)。戸高(2011)、119-120頁。
  40. ^ 松島」と「厳島」と「橋立」の松島型3艦、「千代田」、「秋津洲」、「吉野」の計6隻
  41. ^

    操江号に乗れる〔清の〕募集兵のいふ所によれば、一ケ月の給料は三両の取極めにして、無事に帰国したる時は別に三十両を給与せらる。その外、何の条件もなしとか。此説を聞ける長崎居留の西洋人等は、さすが支那なり、……、戦死したる時は遺族にかうするとか、負傷者にはどうするとか云はざるは旨い考えなり。しかし兵卒の方でも、生きて帰れば三十両にあり付き、死んでしまへばそれきりということを知りておるから、討死する馬鹿なく、軍旗でも鉄砲でも打棄て逃げるのは当り前だと冷評し……(注:原文は句読点がなく、また漢字の一部を平仮名に書き換えた)

    『東京日日新聞』1894年8月10日。

    以上、佐谷 (2009)、65-68頁。
  42. ^ 近衛師団は他師団と異なり、歩兵連隊と砲兵連隊が三箇大隊ではなく二箇大隊で編成されていた。
  43. ^ 第二師団は、10月末から広島に移動を始めたものの、そこにしばらく滞在した。翌年1月6日午前11時、広島城内の大本営で将校が天皇に拝謁し、午後3時半より旧藩主、浅野邸で立食と「義勇」の金文字が入った天盃とを下賜された。宴は無礼講になり、午後7時に解散。威海衛を攻略するため、12日頃から宇品を出航し、20・21日に山東半島に上陸した。大谷 (2006)、97頁。
  44. ^ 1)軍夫は、兵站部だけでなく、野戦師団にも多数配属された。野戦師団では、輜重兵大隊(糧食縦列)、弾薬大隊(歩兵と砲兵弾薬縦列)、工兵隊の架橋縦列の主な担い手であった。しかし軍夫の衣服は、出発時に自弁であったため(ただし山形県のように有料で衣服一式を支給したケースもある)、笠(かさ)をかぶって法被(はっぴ)と股引(ももひき)を着て草鞋(わらじ)を履くといった当時の和装であった。しかも日本刀を差し、ピストルを所持する軍夫もいたため、来日経験のない外国人に不正規兵と見られることもあった。その後、戦時国際法に抵触しないよう日本刀などが取り上げられた。_2)軍夫の募集は、軍指定の請負業者が担当した。その末端に博徒がいるケースも少なくなく(ただし第二師団は、県の兵事担当者に軍夫募集への協力を要請し、行政機関が募集の軸になった)、素行のよくない軍夫もいたので、広島など滞在地で「軍夫問題」が生じた。問題の多くが請負業者のピンはね、飲酒によるトラブルであった。軍夫の日給は、国内40銭、国外50銭であったが、ピンはねだけでなく、賭博に誘われた純朴な軍夫が金を巻き上げられる等の問題もあった。大谷 (2006)。
  45. ^ 20-32歳の兵役年齢を超える将官等をふくむ陸軍戦闘員240,616人(うち国外動員174,017人)/4,235,114人(開戦前1893年の19-31歳男性人口の推計値)。なお19-31歳層は、男性総数の20.3%を占めたと推計。資料:総務庁統計局 (1987)、72頁。
  46. ^ 馬と馬糧の制約としては、日本産馬が質量ともに貧弱であったこと(馬の数が少なく、在来種の体躯が貧弱な上に、牡馬が去勢されず、蹄鉄が不完全など調教法にも問題があった)、馬産地が北海道と東北、九州に偏在していたこと、朝鮮半島など戦地での馬糧確保が困難と想定されていたことが挙げられる。なお、戦地に携行する携帯馬糧は玄米二升五合で、干し草は現地調達が原則であり、仮に1894年度の動員計画どおり戦地で4万頭ほどの馬を使うと、この馬糧の重量と体積は、兵士数十万人分の食糧に相当するとされる。大谷 (2006)、6、8頁。
  47. ^ 朝鮮は357日間、清は437日間、台湾は306日間、内地は574日間の値であり、また延人員もそれぞれ異なる。山下 (2008)、114頁。
  48. ^ 食糧と水の不足が拍車をかけるケースもあった。たとえば、山東作戦では、道路事情が悪く、前線で食糧が不足した上に、威海衛が水不足で炊飯にも苦しんだ。大谷 (2006)、119頁。

    25石の米をすすぐだけの水なしのため、一通り水をかけたるままにて釜に入れ……、平時にては中々食すること能わず、しかるに……争うて食し、ことに軍夫のごときは毎朝未明より午後10時頃まで働きおるをもって、非常の空腹ゆえに飯釜に付着しおる飯粒をひろい食する者多く、ために赤痢病にかかる者は軍夫に多くそうろう。漢字の一部を平仮名に書き換えた

    「大場軍曹の書簡」『奥羽日日新聞』1895年2月12日。

  49. ^ 台湾兵站部軍医部長藤田嗣章陸軍軍医(マラリアにかかって後送された伍堂卓爾の後任)は、次のように記述した。

    我軍を悩ましたのは亜熱帯地の暑中行軍もさることながら、実に各種伝染病の流行にあった。……やはりこれ〔マラリア〕にかかる者が多く、加ふるにコレラ病の猖獗(しょうけつ。悪いものが猛威をふるう意)がありチフス・赤痢も流行したので、戦闘死傷者に比すると病死者が多かった。

    山下 (2008)、163-164頁。

  50. ^ 北白川宮能久親王の戦病死は、政府の公式発表。ただし戦死説、暗殺説、自殺説もある。末延芳晴『森鴎外と日清・日露戦争』平凡社、2008年、95-100頁。
  51. ^ また1895年5月末から台湾に上陸した近衛師団のうち、ある大隊は、「台湾熱と下痢病および戦死あるいは負傷のため」、東京出発時の1,600人から600人前後まで減少した(「谷田三等軍医の書簡」『奥羽日日新聞』1895年9月26日)。大谷(2006)、164-165頁。
  52. ^ とくに上記の通り、澎湖列島の占領を担当した混成支隊では、輸送船内で発生したコレラが上陸後に蔓延した。このため、混成支隊6,194人(軍夫2,448人)のコレラ死亡率が20.3% (23.7%) に達した。大谷 (2006)、142頁。
  53. ^ たとえば、1895年7月、第二師団管区から占領地警備に派遣された後備歩兵第三連隊と同第四連隊が凱旋すると、疑似コレラ症状の兵卒が収容され、部隊が隔離されたものの、宮城県内でコレラが大流行した。同年9月末までに患者が2,000人になり、この7割が死亡したとされる。『仙台市史』資料編七、『宮城県史』本編七・警察の項。以上、大谷 (2006)、151-153頁。
  54. ^ 濱本利三郎『日清戦争従軍秘録』1972年によれば、入浴や消毒液に浸かる等の対策をしていた。http://uraji.paslog.jp/article/689420.html
  55. ^ 1895年は、日本のコレラ死亡者数が1万人を超えた最後の年でもあった。総務庁 (1988) 第5巻、144頁。
  56. ^ 戦地では道路がよくない上に、雪質が硬く凍った満州の氷雪より悪いため、行軍中の凍傷が多かった。大谷 (2006)、117-120頁。

    山東省の寒気は盛京省〔遼寧省の旧称〕に比して甚だしからず、しかれども……草履をうがち氷雪の中を馳騁(ちてい。2.奔走すること)したる事なれば、……。第四連隊第二中隊第二小隊の兵士72人のうち56人まで凍傷にかかりたるがごとき……今日にいたりては既に過半平癒せし……軍夫中にはその数最も多かりしと(漢字を一部、平仮名に書き換えた

    「威海衛雑記」『奥羽日日新聞』、1895年2月24日。

  57. ^ 海城で孤立していた第三師団に第一師団と第五師団など援軍が送られ、1895年3月4日に牛荘、3月6日に営口、3月9日に田荘台を攻略して終わった。旅順から増援に向かった第二師団の野砲第二連隊第二大隊第三中隊・弾薬車担当、山下貴一は、1895年5月『東北新聞』に連載された「征清記」で、雪中行軍の様子を次のように書き記した。大谷(2006)、133-135頁。

    〔同年2月15日〕午前八時金州を発す、寒さは肌をそぐばかり、雪にきたえし奥州武士も顔見合わせて苦笑ひ、声さへたたぬ大吹雪、寒暖計は零度の下20度にあり…。16日早朝出発、見渡す限りの銀世界行けども行けどもはかどらず、日は暮れて…。……艱苦〔艱難辛苦(かんなん-しんく)のことか?〕といふ艱苦をなめつくしてようやく…。17日午前3時といふに携帯口糧をかみ砕き……出発す、……山嵐に狂へる雪片……その風雨の激しさ予が26年間まだかつて知らざる所にこそ、輸卒1名、軍夫1名はこの日ゆくえ知れずなり(抜すい。漢字を一部、平仮名に書き換えた

  58. ^ 保坂正康『あの戦争は何だったのか』新潮社、2005年。
  59. ^ 大谷(2006)、120、212頁。たとえば、第一軍司令部に所属する太田資重は、次のように書き記した。

    1894年(明治27年)10月26日、無血で「九連城市を占領したるに精米二千石余、牛馬、味噌、酒、醤油、器物、衣服山をなし、分捕品にて今日などは寒防いたしおり候(そうろう)。……第一軍はまたまた前進の様子なれども、糧食のため前進できず……。〔11月3日〕天長節なればマネ祝をなす心にて候。本日も近傍の村落に出かけ芋、豚、牛、鶏、里芋などを分捕り用意でき申候、敵地なれば分捕りは勝手自由、薪なければ家を焼き、山にきり申候。注:漢字の一部を平仮名に書き換えた。

    「太田一等軍曹の手翰」『東北新聞』1894年11月27・28日。大谷(2006)、85頁。

    また凍傷のため、山東半島から仙台に後送された軍夫は、寒気が仙台と大差ないものの、強風と薪炭不足に悩まされ、人家の飾り付け、家具を見つけしだい燃やして暖を取っていたこと、糧食縦列から離れると携行食の道明寺糒(ほしい)とわずかな缶詰しかなく、民家に貯蔵されていたサツマイモを徴発して飢えをしのいだことを語った(「帰朝軍夫の談話」『奥羽日日新聞』1895年3月6日)。大谷(2006)、120頁。
  60. ^ 大谷(2006)、212頁。なお、新竹で孤立した日本軍を救援するための台湾北部掃討作戦では、軍に同行した初代台湾総督樺山資紀海軍大将が両親に次のように書き送った。

    沿道の住民ノ良否判明せざるに付残酷ながら一網打尽。

    『現代史資料・台湾』第一巻。大谷(2006)、159頁。

  61. ^

    朝鮮事件の葛藤を生ぜし以来は、金融界の不況ますます甚だしく……新規事業はいずれも躊躇(ちゅうちょ)しおれる風情あり(注:漢字の一部を平仮名に書き換えた)

    国民新聞』1894年8月5日。原田(2007)、88頁。

    その背景として開戦当初、最悪の事態も考えられていたことが挙げられる。たとえば、「軍事消費の増大→労働力不足による生産減と輸出減で国際収支の赤字化→正貨流出→兌換停止による経済破綻」といった負の連鎖である。そのため、8月9日、渡辺国武大蔵大臣名の「軍費意見書」で、「今や世上往々兌換停止、外債募集の事を説くものなきにあらず、依って特に一言す」と、経済への悪影響に触れざるを得なかった。高橋(1973)、245頁。
  62. ^ 国内純生産国内総生産-固定資本減耗)の部門別構成比は、農林水産業41.5%、鉱工業15.8%、運輸・通信・公益事業3.1%、建設業4.5%、商業サービス業35.1%と推計(1894年-1900年の平均値)。大川ほか(1974)、46頁。
  63. ^ 実質農業生産額指数(ウエイト指数1904-1906年、1934-1936年平均=100)は、1893年が54.6、1894年が59.8、1895年が60.1、1896年が55.3と推計。梅村ほか(1966)、222頁。
  64. ^ 輸出額の推移は、1893年が8,971万円(対前年比1.5%減)、1894年が11,324万円(26.2%増)、1895年が13,611万円(20.2%増)、1896年が11,784万円(13.4%減)。このうち清への輸出額は、1893年が771万円、1894年が881万円、1895年が913万円、1896年が1,382万円と、戦時中も増加していた。また、香港(イギリスの租借地)への輸出額も、1893年が1,569万円、1894年が1,620万円、1895年が1,836万円、1896年が1,997万円と増加していた。総務庁(1988)第3巻、6、69頁。
  65. ^ 国際収支(経常収支に相当する額)は、1893年が0.2百万円、1894年が△10.5百万円、1895年が117.6百万円(清の賠償金をふくむ)と推移した。安藤良雄ほか『近代日本経済史要覧[第2版]』東京大学出版会、1979年、4-5頁。
  66. ^ 日本銀行正貨準備額は、1893年末が8,593万円、1894年末が8,172万円、1895年末が6,037万円、1896年末が13,273万円と推移した。安藤ほか前掲書、70頁。
  67. ^ 戦時中、船舶不足を補うため、多数の外国汽船が購入された。なお輸入された汽船は、開戦前年の1893年が12隻(購入総額86万円)、1894年が38隻(820万円)、1895年が39隻(470万円)、戦後の1896年が18隻(172万円)であった。総務庁(1988)第3巻、58頁。
  68. ^ 1)戦時中、留学先のドイツから松川敏胤大尉は、平壌攻略戦での勝利の報がドイツ陸軍の配属先師団にとどいたときの興奮を次のように伝えた。

    登営の士官等は小生を目して日本万歳、松川君万歳と異口同音に唱へ、〔所属大隊では〕整列の兵士は同じく万歳を唱へて小生を迎へ、〔その結果〕昨日まで一留学生と見なしおりたる小生を今日は一大強国の陸軍士官と認められたり、嗚呼愉快ならざるや、けだし実戦に臨まざる小生の名誉すら斯く(かく)のごとし(注:漢字の一部を平仮名に書き換えた)。

    「松川大尉の書信」『東北新聞』1894年11月1日。

    また、ロンドン留学中の相原裕弥も次のように伝えた。

    ピョンヤンの陸戦、ヤルー河上の海戦〔黄海海戦〕において大勝利を得し以来、……「タイムス」は本邦人を目してNew Powerとなし、東洋人として軽蔑し来りたる迷夢を払去りて大いに本邦に対し畏敬の心を起こしたり、これに至りたるは実に一大快事に有これそうろう(注:漢字の一部を平仮名に書き換えた)。

    「在英国倫敦府相原法学士の書信」『東北新聞』1894年11月1日。

    以上、大谷 (2006) 、86-87頁。_2)東田雅博によれば、戦後のヨーロッパでは、日本のイメージが侍から鎧をつけた武者に、また子供(非ヨーロッパ世界)から男性的なものに変化し、その傾向は義和団の乱で強まることになる。御厨 (2001) 、313-315頁。
  69. ^ 田山花袋は、当時の様子を次のように回想した。

    その年の秋、私は……浜街道を水戸から仙台の方へと行った。どんな田舎でもどんな山の中でも、戦捷(せんしょう)の日章旗を風になびいていないところはないのを私は見た。人々は戦捷の祝だと言っては飲み、出発の別離だと言っては集まって騒いだ。……/維新の変遷、階級の打破、士族の零落、どうにもこうにも出来ないような沈滞した空気が長くつづいて、そこから湧き出したように漲(みなぎ)りあがった日清の役〔日清戦争〕の排外的気分は見事であった。戦争罪悪論などはまだその萌芽をも示さなかった。

    『東京の三十年』。佐谷 (2009) 、152-153頁。

  70. ^ 従軍記者は、全国66社から129人と伝えられている。佐谷 (2009) 、48頁。
  71. ^ 大谷 (2006) 、26頁。

    日清戦争において新聞紙の購読者は非常に参加した。子弟を戦地に送れる家庭は皆競うて新聞紙を購読し、号外は地方の寒村まで配達されて購読熱をあおった(注:漢字の一部を平仮名に書き換えた)

    小野秀雄『日本新聞発達史』1982年。

  72. ^ ポーターは、戦争の作用の一つとして「統合作用」を挙げた。つまり対外戦争は、敵に対抗するために国内対立を緩和させ、統一を促し、また戦争を遂行する過程で、国民の国家への統合が強まるのである。以上、戸部 (1998) 、138-139頁。
  73. ^

    経済への悪影響を心配して平時の軍事支出を削減しても、ひとたび戦争に負けてしまえば莫大な賠償金を支払わねばならないので、平常の軍事費を削減してはいけないのだ、という論理

    加藤 (2002) 、36-40頁。

  74. ^

    ……欧州列強はすでに我国に対する外交の面目をあらため三国の同盟を訂約せり〔三国干渉〕……「サイベリア」大鉄道〔シベリア鉄道〕の成るは正に五箇年の内にあるなり、我国軍備の拡張は実に一日も緩にすへからす……〔増税の必要性を説き〕……明治29年〔1896年〕度以後において臨時大計画に属する歳出の増加は、第一陸軍拡張、第二海軍拡張、第三製鉄所設置、第四鉄道および電話拡張……(抄。注:文中に読点を入れ、漢字の一部とカタカナを平仮名に書き換えた)。

    安藤良雄ほか『近代日本経済史要覧[第2版]』東京大学出版会、1979年。

  75. ^ 国債の発行残高は、1893年度末2億3,481万円から1896年度末3億5,112万円に49.5%増加した。その後、1899年度末から4億円台(外債割合がゼロから20.4%)、1902年度末から5億円台になる。坂入 (1988) 、163頁。
  76. ^

    戦前から調査を重ねてきた葉たばこ専売制度、営業税制と法人所得税制などの新税を大胆に取り入れ、酒税や地租制度の整備とあいまって、以後の日本の税制体系の基本的な原型を形成した。

    大蔵省百年史編集室『大蔵省百年史』上巻、1969年、171頁。

  77. ^ 地方をふくむ政府支出の対GNP(国民総生産)比は、戦前(1890-93年)の9.8%から、戦後(1897-1900年)の17.3%に急上昇した。浜野潔ほか『日本経済史 1600-2000』慶應義塾大学出版会、2009年、134頁。
  78. ^ 高橋 (1973) 、263-264頁。後年、過酷な労働条件が問題になる綿糸紡績業蚕糸業が発展する中、国民総生産について戦前(1891-93年3か年平均)と戦後(1897-99年3か年平均)を比べれば、名目で86.8%、実質で26.2%増加したと推計される。資料:大川ほか (1974) 、200頁。また戦中から戦後にかけ、都市下層の収入が実質20%ほど上昇し、主な食物が兵営や学校などの残飯から米食(安い外国米)に変わったとされる。原田 (2007) 、88-89頁。
  79. ^ 戦前の三大遠洋航路(欧州線・北米線・豪州線)は、1896年3月15日 - 10月3日の半年間に開かれた。なお、貿易貨物の日本船積載比率は、明治20年代(1887 - 1896年)が平均9%であったものの、貿易が拡大する中、日清戦争後の30年代(1897 - 1906年)が30%台で推移し(日露戦争期を除く)、40年代(1907 - 1912年)に40%を超え、日清戦争から20年後に勃発した第一次世界大戦期に50%を超えた。松好貞夫・安藤良雄『日本輸送史』日本評論社、1971年、402-405頁。
  80. ^ 日清戦争の前後は、普通教育の未就学率が大幅に低下した時期でもあった。男・女の未就学率は、1881年が31.0%・65.9%、1886年が29.8%・61.9%、1891年が26.6%・60.1%、1896年が10.6%・34.8%、1901年が5.4%・15.8%。梅村ほか (1988) 、24-25頁。
  81. ^ 20世紀初頭のイギリスは、「世界の工場」(他国の追随をゆるさない最大輸出国)から、「世界の銀行家」「世界の手形交換所」(金融・サービスの中心地)に変貌しながら、世界経済の中心地としての地位を維持していた。秋田茂「パクス・ブリタニカの時代」『イギリスの歴史』、川北稔・木畑洋一[編]、有斐閣、2000年、136-137頁。
  82. ^ 中村隆英「マクロ経済と戦後経営」『産業の時代 』日本経済史5、西川俊作・山本有造〔編〕、岩波書店、1990年、26頁。

    日本の近代工業国としての本格的発足は、実に日清戦争を画期とする。

    高橋 (1973) 、219頁。

  83. ^ 「国母復讐」を叫び、断髪令が「小中華」を捨てて「夷狄」に堕落するもの、と糾弾した。岡本 (2008) 、163頁。
  84. ^ この時期も様々な外交交渉が行われた。たとえば、1896年(明治29年、建陽元年)5月に漢城で小村・ウェーベル覚書(朝鮮政府の現状維持と日露の軍事的配置)が交わされた。皇帝ニコライ2世の戴冠式の舞台裏では、日露と露清の秘密外交が行われ、6月に山縣・ロバノフ協定露清密約が結ばれた。朝鮮も特命全権大使を派遣しており、ロシアの援助を取りつけた(国王の護衛、日本人に代わるロシア人の軍事・財政顧問の派遣、借款の約定をはかること、電信線での連絡など)。また1898年(明治31年)4月(光緒24年閏3月)、西・ローゼン協定が結ばれ、日本はロシアの旅順大連租借を黙認した。
  1. ^ 中塚明『歴史の偽造をただす』高文研、1997年。ISBN 4874981992
  2. ^ 参謀本部「明治二十七八年日清戦史」 http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351&VOL_NUM=00007&KOMA=90&ITYPE=0
  3. ^ 高橋 (1973) 、219頁。中村隆英「マクロ経済と戦後経営」『産業の時代 』日本経済史5、西川俊作・山本有造〔編〕、岩波書店、1990年、26頁。
  4. ^ 遠山茂樹『日本近代史 1 』岩波書店、2007年、199、203頁。ISBN 978-4-00-021887-0
  5. ^ 隅谷三喜男『大日本帝国の試練』日本の歴史<22>中公文庫、中央公論新社、2006年、29-30、35-36頁。ISBN 4-12-200131-5
  6. ^ 中塚明『歴史の偽造をただす』高文研、1997年、165-168頁。ISBN 4874981992
  7. ^ 中塚明『日清戦争の研究』青木書店、1968年。ISBN 4-250-68000-2
  8. ^ 佐々木 (2010) 、144頁。なお、その佐々木は、朝鮮問題(朝鮮半島の安定化)は、条約改正問題とともに「明治期の二大外交課題」とした。13-15頁。
  9. ^ 岡本 (2008)、12頁。
  10. ^ 茂木敏夫『変容する近代東味の国際秩序』山川出版社、1997年。岡本 (2008) 。
  11. ^ 中塚明「日本近代史研究と朝鮮半島問題」『歴史学研究』No.867、2010年、7頁。
  12. ^ 以上、岡本 (2008) 、56頁。
  13. ^ 岡本 (2008)、58-60頁。
  14. ^ 岡本 (2008) 、60-63頁。
  15. ^ 岡本 (2011) 。
  16. ^ 鈴木淳『維新の構想と展開』日本の歴史20、講談社〈講談社学術文庫〉、2010年(原本2002年、129頁)
  17. ^ 以下、明記されていない出典は、岡本 (2011) 、197-200頁と戸高 (2011) 、58-59頁。
  18. ^ 以上、岡本 (2008) 、72-73、96-100頁。
  19. ^ 岡本 (2008) 、84-85頁。
  20. ^ 佐々木 (2010)、125頁。
  21. ^ 川島 (2010)、3頁
  22. ^ 渡辺 (2008) 、44-45頁。
  23. ^ 井上 (2010) 、70頁。
  24. ^ 以下、明記されていない出典は、岡本 (2008) 、125-136頁。
  25. ^ 原田 (2007) 、47頁。
  26. ^ 日清関係は天津条約で、清露関係は李鴻章・ラデュジェンスキーの秘密合意(相互不可侵)で結ばれており、清朝関係は「属国」と「自主」が拮抗していた。
  27. ^ 以上、戸部 (1998) 、102-104、108-109頁。
  28. ^ 井上 (2010) 、47-48頁。
  29. ^ 加藤 (2002) 、72頁。
  30. ^ 戸部 (1998) 、109頁。
  31. ^ 原田 (2007) 、81頁。
  32. ^ 以下の人員数と総トン数は、総務庁 (1988) 第5巻、527、530頁。
  33. ^ 戸部 (1998) 、109頁。
  34. ^ 以下、明記されていない出典は、井上 (2010) 、62、69-80頁。
  35. ^ 以下、明記されていない出典は、佐々木 (2010) 、117-118、125頁。
  36. ^ 姜在彦『朝鮮近代史』新訂版、平凡社、1986年。
  37. ^ 佐々木 (2010) 、119頁。
  38. ^ 原田 (2008) 、10頁。
  39. ^ 岡本 (2008) 、148-150頁。
  40. ^ 井上 (2010) 、86-87頁。
  41. ^ 佐々木 (2010) 、135頁。
  42. ^ 原田 (2008) 、29頁。
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  66. ^ この項目の出典は、原田(2007)、68-71頁。
  67. ^ 佐谷(2009)、38-44頁。
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  97. ^ 以上、呉 (2000) 、164-165頁。
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