大会の歴史とは? わかりやすく解説

大会の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/25 01:34 UTC 版)

世界選手権自転車競技大会」の記事における「大会の歴史」の解説

International Cycling Association(略称:ICA1892年から1899年まで存在)の主催により1893年アメリカ合衆国シカゴ初め開催された。1896年にギリシャ・アテネで初開催された近代オリンピックよりも古い歴史を誇る。第1回トラックレーススプリントドミフォン10km3種が行われたが、いずれもアマチュア選手出場限定された。なお、プロレース1895年開始されたが、1920年まではトラックレースのみの開催だった。 1900年より、同年発足した国際自転車競技連合(UCI)の主催開催されるようになった優勝者へのマイヨ・アルカンシエル贈呈は、UCI主催になってから実施されたものである1914年から1919年までは第一次世界大戦の影響で、また1940年から1945年まで第二次世界大戦の影響開催されなかった。 1921年コペンハーゲン大会からアマチュア種目みながらロードレース行われるようになり、1927年ドイツ大会からはプロ個人ロードレース行われるようになった。またごく一部の年を除き1995年まではトラックレースロードレース同一国で、しかも同時期に開催されていた。現在はロードレース毎年9月下旬頃、トラックレース毎年3月下旬頃に開催される女子種目については1958年よりロードレーストラックレース行われるようになったまた、1950年からはシクロクロス開催概ね毎年1月下旬ないし2月上旬頃)、1990年からマウンテンバイク(同9月頃)を実施。また2000年から室内自転車競技(同11月頃)、2001年からBMX(同7月頃)、2007年からパラサイクリング(同9月頃)がそれぞれUCI主管世界選手権大会となったこの他ジュニア、B、マスターズカテゴリー大会開催されるなど今や多種多彩になっている。 日本では中野浩一1977年トラックレーススプリント当時の名称はスクラッチ種目初優勝成し遂げそれ以降同種目で1986年まで優勝10連覇達成した詳しく中野浩一#世界自転車選手権参照ことがきっかけとなり、当大会存在広く知れわたることになったが、後述通りとりわけ自転車競技本場であるヨーロッパにおいては、当大会制することはオリンピック金メダル獲得することより価値があるという見方をする人が多いほどの存在である。 日本における当大会の開催は、アジアで初の開催として、1990年前橋市トラックレース)と宇都宮市ロードレース)で開催された。また、室内競技インドア)は鹿児島県加世田市2001年開催。さらに2011年鹿児島市開催

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KKT杯バンテリンレディスオープン」の記事における「大会の歴史」の解説

ツアー制度施行前の1980年に、「熊本中央レディスカップゴルフトーナメント」として開催されたのが前身1988年ツアー制度施行最初の年に、KKT不動産会社マルコー主催により「マルコー中央レディスゴルフトーナメント」(翌1989年から「マルコーレディス」に改題)として開催当初熊本中央カントリークラブ行われたが、1991年より、玉名市玉名カントリークラブ会場を移す。 1992年新たな主催社に再春館製薬所迎え再春館レディース」として開催1993年から1995年までは益城町高遊原カントリークラブで、1996年以降菊陽町熊本空港カントリークラブ会場移して現在まで開催されている。 2000年から再春館レディース火の国オープン」に改称され行われてきたが、2004年大会をもって再春館製薬所冠スポンサーから撤退(ただし撤退後もサブスポンサーとして協賛継続)。翌2005年からライフ変更され同時に大会名を「ライフカードレディスゴルフトーナメント」に改称されたが、2009年大会をもって撤退2010年大会から西陣変更し同時に大会名を「西陣レディスクラシック」に改称した2011年3月11日午後に発生した東北地方太平洋沖地震の影響によってPRGRレディス以降2011年度JLPGAツアー中止されていたが、この大会よりツアー再開するになった大会名を「心をひとつに 西陣レディスクラシック東北地方太平洋沖地震 復興支援チャリティ〜」に変更し被災地復興支援趣旨として開催された。 2012年12月13日LPGAより発表され2013年度大会名称当初KKTレディス熊本となっていたが、2013年1月22日新たな特別協賛社として興和迎え大会名を「KKT杯バンテリンレディスオープン」に変更することが決定した2016年4月14日発生した熊本地震の影響で、初日競技中止された。翌15日午前主催くまもと県民テレビ特別協賛興和日本女子プロゴルフ協会大会の開催について協議しギャラリーバス運行ができずボランティア観客輸送できないこと余震が続くことが予想されること、選手心情等を考慮し大会中止決定した2018年12月2019年以降放映権巡りLPGAとの交渉決裂した日本テレビ(及び系列局)が、主催テレビ中継していた大会からの撤退表明系列局であるKKT同年開催取り止めを一旦決定。しかし女子プロゴルファー反発などもあり、2019年1月LPGAとの交渉再開され同月25日大会継続発表された。 2020年新型コロナ大流行影響により中止された。2021年無観客開催された。

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樋口久子 レディスゴルフトーナメント」の記事における「大会の歴史」の解説

1983年から紀文食品主催の『紀文レディースクラシック』、1997年から第1・2回優勝者開催地・埼玉県出身樋口久子の名から『樋口久子・紀文クラシック』、2002年から『樋口久子クラシック』として行われた2004年大塚家具主催の『樋口久子ゴルフ殿堂入り記念IDC大塚家具レディス』、2005年から『樋口久子IDC大塚家具レディス』として行われた2011年から森永製菓主催の『樋口久子 森永製菓ウイダーレディス』、2014年森永製菓森永乳業主催の『樋口久子 森永レディス』として行われた2015年ロイヤリティーマーケティング特別協賛の『樋口久子 Pontaレディス』として行われた2016年から三菱電機特別協賛の『樋口久子 三菱電機レディスゴルフトーナメント』として行われる

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アムステルダム6日間レース」の記事における「大会の歴史」の解説

1932年アムステルダム自動車産業展示場(RAI)を会場にして第1回が行われ、1936年まで開催されたが、以後1966年まで開催なし。1966年再開時にはヨーロッパ広場内に移転したRAIで行われ1969年まで行われたが、その後またもや長期間休止余儀なくされる2001年三度目再開となり、現在も開催地である、周長200mのアムステルダム・ヴェロドロームでの開催となり今日に至る。 当レースメイン種目は、マディソン中心としたペアレースだが、合間短距離レース行われており、その点において、例年1月開催されるロッテルダム6日間レース類似している。

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グルノーブル6日間レース」の記事における「大会の歴史」の解説

レース会場は、1968年開催されグルノーブルオリンピック前年である1967年開場同大終了後多目的ホールとして使用されることになり、その一環として1971年初開催されたのが当レースである。以来一部の年を除き、ほぼ毎年開催されていた。2014年開催をもって終了したメイン種目マディソンなどのペアレースであるが、合間短距離種目取り入れられていた。

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サイバーエージェントレディスゴルフトーナメント」の記事における「大会の歴史」の解説

大会始まった2005年から2009年まで大塚ベバレジ協賛する形で、クリスタルガイザーレディスゴルフトーナメントとして開催されていた。また、2005年から2007年まで毎年8月第1週開催されていたが、2008年以降原則として5月第1週開催されていたが、2018年大会4月最終週開催された。同年発覚した日本女子ツアー放映権料問題絡みサイバーエージェント協賛から撤退大会同年終了2019年は同週にパナソニックオープンレディース開催される。 また大会の会場2010年から2015年まで千葉県市原市鶴舞カントリー倶楽部・東/西コース開催されていたが、2016年から2018年静岡県三島市グランフィールズカントリークラブ舞台移して開催されていた。

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デビスカップ」の記事における「大会の歴史」の解説

1900年にインターナショナル・ローンテニス・チャレンジとして第1回大会が行なわれた。ハーバード大学テニスチームの考案であった第1回ボストンのロングウッド・クリケット・クラブで行なわれアメリカとイギリス対戦しアメリカ初代チャンピオン輝いた1904年以降は、前年優勝国予選大会優勝国対戦するいわゆるアメリカスカップと同じ方式になった1923年からアメリカゾーンとヨーロッパゾーンに分けられそれぞれの勝者がInter-Zonal Zone ("INZ")で対戦し、その勝者ディフェンディングチャンピオン対戦する方式となる。1955年からはさらにイースタンゾーンが加わった1966年にはヨーロッパゾーンがヨーロッパゾーンAとヨーロッパゾーンBに別れた1972年から勝ち残りトーナメント方式となり前年優勝者全てのラウンド参加することになった1981年から現在の方式作られ16の上位国からなるワールドグループとその他の地域別グループ分けられた。1989年からはタイブレーク制が導入された。 2019年からデ杯大会制度変わりコスモス社のジェラール・ピケ三木谷浩史氏が25年間の支援を行う。1年間かけてトーナメント方式世界最強国を決め方式から、11月1週間優勝決め方式変更される2020年大会新型コロナウイルス感染症の世界的流行に伴い2020年2021年2年がかりで行うことが決まった

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全日本少年軟式野球大会」の記事における「大会の歴史」の解説

大会前身1975年初開催全日本少年軟式野球大会である。1981年全日本学童軟式野球大会創設されたことにより一時休止状態となったが、1984年に、第1回全日本少年軟式野球大会の名で再び開催されて現在に至る。 2003年度20記念大会であったこと、2009年度横浜市開港150周年記念であったことから開催地である神奈川県からの代表例年より2つ多い4つ設けられた。内訳は、神奈川県代表の中学校ならびにクラブチーム横浜市代表の中学校ならびにクラブチームそれぞれ1つずつである。 しかし2020年新型コロナの影響会場予定だった保土ヶ谷球場閉鎖のため中止2021年中止予定だったが、長崎県営野球場メイン会場急遽開催

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ダンロップフェニックストーナメント」の記事における「大会の歴史」の解説

記念すべき第1回大会は、1974年12月5日から8日までの4日間、同年日本ツアー最終戦として開催された。 帝王ジャック・ニクラスや、当時ルーキーだったベン・クレンショーなど、20人以上の海外招待選手来日世界レベルプレー披露したその中で優勝したのは、前年全米オープン選手権者で、この年アメリカツアーで8勝を挙げ自身初の賞金王輝いたジョニー・ミラーだった。ミラー出場選手の中で唯一人、4ラウンドとも60台で回り通算14アンダー274ストロークフィニッシュ台湾の呂良煥に7ストローク大差をつける圧勝で、栄えある初代王者の座に就いた歴代優勝者には、ミラーをはじめ、ヒューバート・グリーン (1975年) 、グラハム・マーシュ (1976年) 、セベ・バレステロス (1977年,1981年) 、トム・ワトソン (1980年,1997年) 、スコット・シンプソン (1984年) 、クレイグ・スタドラー (1987年) 、ラリー・マイズ (1989年,1990年) 、ラリー・ネルソン (1991年) 、アーニー・エルス (1993年) 、リー・ウエストウッド (1998年) 、トーマス・ビヨン(1999年,2003年) 、デビッド・デュバル (2001年) 、タイガー・ウッズ (2004年,2005年) 、パドレイグ・ハリントン (2006年) 、ルーク・ドナルド (2012年,2013年) 、ブルックス・ケプカ (2016年,2017年) といった錚錚たる面々名を連ねている。また、優勝こそ成らなかったものの、トム・カイトベルンハルト・ランガーフレッド・カプルスグレグ・ノーマンサンディ・ライルピーター・トムソンリー・トレビノ、ウェイン・グラディ、ボブ・トウェイ、イアン・ウーズナム、マイク・リード、デービス・ラブ3世ホセ・マリア・オラサバル、ジェフ・スルーマン、ロナン・ラファティー、ニック・ファルドスティーブ・ジョーンズマーク・ブルックスジョン・デーリーコーリー・ペイビントム・レーマン、バリー・レーン、ビジェイ・シンフィル・ミケルソンマイケル・キャンベルジム・フューリック、ダーレン・クラーク、レティーフ・グーセンセルヒオ・ガルシアグレーム・マクドウェルジャスティン・ローズシャール・シュワーツェル、トレヴァー・イメルマン、スチュワート・シンク、アーロン・バデリー、バッバ・ワトソン、ゴンサロ・フェルナンデスカスタノ、ヘンリク・ステンソン、ブラント・スネデカー、ロベルト・カールソン、シェーン・ロウリー、ルイ・ウェストヘーゼン、マルティン・カイマーキーガン・ブラッドリー、ウェブ・シンプソン、ジョーダン・スピースジミー・ウォーカージャスティン・トーマス、ゲーリー・ウッドランドなど数々世界のトッププレーヤーが参戦したトーナメントである(2012年までアメリカPGAツアー11月初旬シーズンオフに入るため、他の日本国内大会比べて有名選手招待しやすい時期でもあった)。しかし2020年前述通り海外招聘ができなくなった日本人選手では、1985年に、中嶋常幸完全優勝果たし12回目にして初めての日本人優勝者となったその後尾崎将司大会史唯一の3連覇1994年から1996年}を達成しており、他には片山晋呉2000年)、横尾要2002年)、池田勇太2010年)、武藤俊憲2011年)、松山英樹2014年)、宮里優作2015年)、市原弘大2018年)、今平周吾2019年)、金谷拓実2020年)が優勝している。

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びわ湖毎日マラソン」の記事における「大会の歴史」の解説

1946年第1回が行われたことから、「(現在開催されている中では)日本最古マラソン大会」ともいわれる第1回1946年10月) - 「全日本毎日マラソン選手権」が大阪府開催される難波別院跡地毎日運動場前を発着し、御堂筋十三大橋経て国鉄池田駅(現・JR川西池田駅)を折返すコース競われるスターターは元オリンピック代表津田晴一郎務めた第3回1948年5月) - GHQ命令により、発着点を梅田毎日新聞大阪本社前に変更第5回1950年5月) - 「毎日マラソン」と改称泉北郡高石町(現:高石市)を往復するコース変更第7回1952年5月) - 1952年ヘルシンキオリンピックマラソン代表最終選考会を兼ねる。以降1980年モスクワオリンピックを除く全ての夏季オリンピックマラソン代表選手選考会となる。 第14回1959年5月) - 大阪市内交通事情悪化のため、出発点住之江区移し忠岡町折返し毎日新聞大阪本社前をゴールとするコース変更第16回1961年6月) - 発着点を堺市浜寺公園移し住之江区岸和田城折り返すコース変更第17回1962年5月) - 交通事情悪化により大阪府から滋賀県皇子山運動公園発着志賀町折返し琵琶湖西岸コース)に変更第18回1963年5月) - 東京オリンピックマラソンコース使用して開催第19回大会1964年4月実施〕まで)。 第20回1965年5月) - 3年ぶりに滋賀県に戻る。発着点は皇子山陸上競技場となり、琵琶湖西岸から琵琶湖大橋渡って守山町(現・守山市折返しコース変更第23回1968年4月) - この回よりコース皇子山陸上競技場発着琵琶湖南岸から瀬田唐橋渡り東岸守山市折返しルート変更琵琶湖大橋経由ルート3回終了となった第30回1975年4月) - 瀬田唐橋改修工事に伴い近江大橋経由するルート変更第36回1981年3月) - 改修工事完成により、再び瀬田唐橋経由ルートに戻る。 第38回1983年3月) - 「びわ湖毎日マラソン」と改称するまた、世界陸上ヘルシンキ大会マラソン代表選考会を兼ねる。10年後の世界陸上シュトゥットガルト大会以降全ての世界陸上競技選手権大会マラソン代表選手選考会となる。 第41回1986年3月) - ソウルアジア大会マラソン代表選考会を兼ねる。以降、バンコクアジア大会を除く全てのアジア競技大会マラソン代表選手選考会となる。 第44回1989年3月) - 瀬田川沿いに南郷洗堰経由して草津市新浜周回するコース変更第49回1994年3月) - 1994年アジア競技大会と同じコース使用し、「毎日国際マラソン」として実施第51回1996年3月) - ヨアキム・ピネイロが大会史初めて2時間10分の壁を破る第65回2010年3月) - 折り返し点を大津市大萱とするコース変更第74回2019年3月) - 東京マラソン開催日変更にともない大会も1週繰り下がり、名古屋ウィメンズマラソン同日開催になる。 第75回2020年3月) - 競技開始午前変更機材トラブルにより予定より10遅れてスタートした第76回2021年2月) - 本大会も2週繰り上がり2月最終日開催変更。かつ大津市での最後大会となり、鈴木健吾富士通)が2時間0456秒の日本新記録を樹立して優勝した1981年頃から1993年頃までは新人の登竜門的な大会でオリンピック世界選手権など選考レース格付けされていても一線級の参加があまり見られなかったが、1988年第43回では前年12月福岡国際マラソン怪我のため欠場していた瀬古利彦出場して注目集めた瀬古優勝し同年ソウル五輪出場獲得したことで物議を醸した1997年第52回)、前年アトランタ五輪で4位に入ったマルティン・フィス参加し当時国内マラソン最高記録優勝したことで状況変わりフラット好記録が出るコースということで、国内一線級も参加するようになった大きな国際大会前哨戦大会運営予行演習として、会場変更されたことがあった。 1963年第18回)と1964年第19回)は、日本選手権東京オリンピック選考会並びにオリンピックマラソンのリハーサル兼ねて国立競技場新宿区)〜飛田給調布市折り返し甲州街道を通る東京オリンピックマラソンと同じコースでのレースとなった1994年第49回)は広島アジア大会リハーサル兼ねて広島にて「毎日国際マラソン」として開催された。 1985年から2004年は、スタート前にトラックびわ湖全日本女子競歩大会開催されていた。 大会の開催時期は、第1回10月開催されたのち、第2回から24回(1969年)までは5月メインで、時に4月第19回1964年第23回1968年)や6月第16回1961年第21回1966年)にも開催されていた。第25回1970年)が4月開催されてからは5月6月開催なくなり第26回1971年) - 28回(1973年)が3月第29回1974年) - 第34回1979年)が4月変遷して第35回1980年以降3月開催定着した第62回2007年)は、レース途中で気温20以上に上昇し春先とは思えない過酷なコンディション見舞われた。日本招待選手10人が暑さ対応しきれず惨敗した単独での最終開催となった第76回2021年)は大会史初め2月開催となった2008年国際陸上競技連盟は、マラソンなどの世界ロードレース格付けする制度導入したびわ湖毎日マラソンは、2009年国内初め最高位の「ゴールド」にランクされた。2010年この年初めランク入りした東京マラソンともに2年連続ゴールド」にランクされている。 2021年第76回大会で大津市での開催終え2022年大阪マラソン統合し第10回大阪マラソン第77回びわ湖毎日マラソン統合大会仮称)」として行われること決定した2022年2月27日(第4日曜日)に第10回大阪マラソン第77回びわ湖毎日マラソン統合大会統合後初開催された。 2023年より、当大会の後イベントとして「びわ湖マラソン」を開催する予定である。

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全国植樹祭」の記事における「大会の歴史」の解説

()内…開催回数。 回開催日開催地回開催日開催地回開催日開催地1 1950年4月4日 山梨県(1) 31 1980年5月25日 三重県(1) 61 2010年5月23日 神奈川県(1) 2 1951年4月4日 群馬県(1) 32 1981年5月24日 奈良県(1) 62 2011年5月22日 和歌山県(2) 3 1952年4月4日 静岡県(1) 33 1982年5月23日 栃木県(1) 63 2012年5月27日 山口県(2) 4 1953年4月4日 千葉県(1) 34 1983年5月22日 石川県(1) 64 2013年5月26日 鳥取県(2) 5 1954年4月6日 兵庫県(1) 35 1984年5月20日 鹿児島県(1) 65 2014年6月1日 新潟県(2) 6 1955年4月6日 宮城県(1) 36 1985年5月12日 熊本県(1) 66 2015年5月17日 石川県(2) 7 1956年4月7日 山口県(1) 37 1986年5月11日 大阪府(1) 67 2016年6月5日 長野県(2) 8 1957年4月7日 岐阜県(1) 38 1987年5月24日 佐賀県(1) 68 2017年5月28日 富山県(2) 9 1958年4月8日 大分県(1) 39 1988年5月22日 香川県(1) 69 2018年6月10日 福島県(2) 10 1959年4月5日 埼玉県(1) 40 1989年5月21日 徳島県(1) 70 2019年6月2日 愛知県(2) 11 1960年5月10日 山形県(1) 41 1990年5月20日 長崎県(1) - 2020年 中止 12 1961年5月24日 北海道(1) 42 1991年5月26日 京都府(1) 71 2021年5月30日 島根県(2) 13 1962年4月21日 福井県(1) 43 1992年5月10日 福岡県(1) 72 2022年 滋賀県(2) 14 1963年5月20日 青森県(1) 44 1993年4月25日 沖縄県(1) 73 2023年 岩手県(2) 15 1964年5月13日 長野県(1) 45 1994年5月22日 兵庫県(2) 74 2024年 岡山県(2) 16 1965年5月9日 鳥取県(1) 46 1995年5月21日 広島県(2) 17 1966年4月17日 愛媛県(1) 47 1996年5月19日 東京都(1) 18 1967年4月9日 岡山県(1) 48 1997年5月18日 宮城県(2) 19 1968年5月19日 秋田県(1) 49 1998年5月10日 群馬県(2) 20 1969年5月26日 富山県(1) 50 1999年5月30日 静岡県(2) 21 1970年5月19日 福島県(1) 51 2000年4月23日 大分県(2) 22 1971年4月18日 島根県(1)広島県(1) 52 2001年5月20日 山梨県(2) 23 1972年5月21日 新潟県(1) 53 2002年6月2日 山形県(2) 24 1973年4月8日 宮崎県(1) 54 2003年5月18日 千葉県(2) 25 1974年5月19日 岩手県(1) 55 2004年4月25日 宮崎県(2) 26 1975年5月25日 滋賀県(1) 56 2005年6月5日 茨城県(2) 27 1976年5月23日 茨城県(1) 57 2006年5月21日 岐阜県(2) 28 1977年4月17日 和歌山県(1) 58 2007年6月24日 北海道(2) 29 1978年5月21日 高知県(1) 59 2008年6月15日 秋田県(2) 30 1979年5月27日 愛知県(1) 60 2009年6月7日 福井県(2)

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日本学生選手権水泳競技大会」の記事における「大会の歴史」の解説

1921年に、萬朝報催しとして、9月10日11日に、生麦三笠園池にて大学対抗水上競技大会として開催された。初代優勝16点挙げた明大であった当時万朝報記者発案に、驚き見せたその後、各大学練習強化し、やがて全国学生水上競技連盟結成され、後の日本水泳連盟創立発展した

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ミュンヘン6日間レース」の記事における「大会の歴史」の解説

1933年開始第二次世界大戦後となる1949年復活同年シリーズ通じて10万人を超えるファン集まり大盛況裡に終えたことから、翌1950年は年2回の開催が行われたが、1954年には1日平均入場者数が約4000人に激減したことから、同年限りスポンサー撤退し廃止憂き目遭った。 しかし、1972年ミュンヘンオリンピック開催されたことを契機2度目の復活果たし今日に至る。もっとも、近年入場者数伸び悩んでおり、存続そのもの危ぶまれている現状となっていると伝えられていた。 2010年〜2011年シーズン開催されなかった。

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大会の歴史

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ワールドカップ (ゴルフ)」の記事における「大会の歴史」の解説

大会ゴルフ通じた世界各国善隣友好願ったカナダ人実業家ジョン・ジェイ・ホプキンスの提唱により国際ゴルフ協会1953年にカナダ・モントリオールの「ビーコンスフィールド・カントリークラブ」で開催したのが始まりで、「カナダ・カップ」(Canada Cup)と名づけられた。1955年第3回から開催地はカナダ離れ1956年第4回には林由郎石井迪夫コンビ日本代表として初参加し、団体で4位を獲得する。これが翌1957年日本招致きっかけとなった1957年第5回は、日本霞ヶ関カンツリー倶楽部)で初め開催されゴルフ国際イベントとなった。この大会で小野光一中村寅吉コンビ団体初優勝中村個人優勝飾り日本の人々ゴルフ紹介する大きなきっかけつくった1967年に「ワールドカップ」(World Cup)、1993年に「ワールドカップ・オブ・ゴルフ」(World Cup of Golf)と名称が変遷し2004年までスポンサー企業名を冠とする「EMCワールドカップ」という名称であった2005年から開催地の名称を冠とし2005年は「アルガーブ・ワールドカップ」、2006年は「バルバドス・ワールドカップ」、2007年からは「ミッションヒルズ・ワールドカップ」の名称に変更された(正確にスポンサーであるスイス時計メーカー企業名を冠とする「オメガ・ミッションヒルズ・ワールドカップ」)。 2000年から2006年までは、本大会世界ゴルフ選手権シリーズ編入されていた。世界選手権編入間中は各チーム順位応じた賞金2人半額ずつ分け方式になったが、その金額賞金ランキング加算されなかった。その後、主にアメリカPGAツアー主張に基づきアメリカ国外開催される2007年開催以降の本大会世界ゴルフ選手権シリーズから除外されることになったこれまでの歴代優勝回数は、アメリカ合衆国が「23度」と抜きん出ている。続いて南アフリカ共和国5度スペインオーストラリア4度と続く。日本チーム1957年2002年2度優勝がある。 2001年11月15日から18日にかけて、「日本ゴルフ100年祭」の最高潮をなすイベントとして「EMCワールドカップ」が静岡県御殿場市の「太平洋クラブ御殿場コース」に誘致された。1901年日本最古ゴルフ場として「六甲コース」が建造されてから100周年記念行事多数開催されたが、ワールドカップをそのクライマックス位置づけのである。この時はアメリカ代表として(当時世界ランキング1位のタイガー・ウッズと同3位デビッド・デュバル来日したアメリカ・チーム大会3連覇逃したが、最終日18番ホールパー5, 517ヤード)でウッズ放った“ミラクル・チップイン・イーグル”は強烈な印象残した。この時は4チームプレーオフになり、アーニー・エルスレティーフ・グーセンコンビによる南アフリカチームが優勝した。なお、日本チーム伊沢利光丸山茂樹コンビ11位に終わっている。 日本開催翌年にあたる2002年伊沢丸山コンビメキシコ開催大会で日本チーム45年ぶり2度目優勝もたらした2013年からは、国際スポーツ振興協会冠スポンサーとなり『ISPSハンダワールドカップゴルフ』という名称となった2013年大会より、2016年オリンピックと同ルールとなる個人戦72ホールストローク方式変更され団体戦2人合計スコア優勝国決定することとなった

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大会の歴史

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ANAオープンゴルフトーナメント」の記事における「大会の歴史」の解説

1971年札幌テレビ放送 (STV) および開催コース札幌ゴルフ倶楽部共催により3日競技による「STVカップ札幌オープンゴルフトーナメント」としてスタート1973年からはANA新たなスポンサーとなり、「全日空札幌オープンゴルフトーナメント」として生まれ変わり大会4日競技となったその後全日空オープンゴルフトーナメント」(1986年から)の名称を経て2002年から現在の大会名となっている。 2018年大会北海道胆振東部地震影響により中止され主催ANA賞金一部被災地支援として使うとの声明発表した2019年大会例年開催週にラグビーワールドカップ日本大会試合札幌ドーム行われることからインフラへの影響考慮し開催時期1週間繰り上げる処置行った2020年新型コロナウイルス感染拡大の影響中止となった2021年開催について調整中のため、当初ツアー日程から外れたが、同年3月29日開催決定

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ABCチャンピオンシップゴルフトーナメント」の記事における「大会の歴史」の解説

2017年まで主催していた朝日放送(現・朝日放送グループホールディングス)が創立20周年記念企画として、「ライダーカップ」というアメリカ欧州ツアー対抗戦仕組み参考企画したもので、日本アメリカ一流プレーヤーによる団体戦個人戦が行われた。 1971年三基商事特別協賛の『ミキ・ゴールドカップ・日米ゴルフ対抗戦』、1972年 - 1981年および1985年 - 1987年は『ABCカップ・日米ゴルフ対抗戦』、1982年1983年ゴールドウイン特別協賛の『ゴールドウインカップ・日米ゴルフ対抗戦』、1984年内田洋行特別協賛の『内田洋行カップ・日米ゴルフ対抗戦』という名称だった。 1988年 - 2002年フィリップモリス特別協賛の『ラークカップゴルフ』→『フィリップモリス・チャンピオンシップ・ゴルフトーナメント』として行われた1997年大会では4日間で56,508人を動員2003年 - 2007年は『ABCチャンピオンシップゴルフトーナメント』、2008年から毎日コミュニケーションズ2011年マイナビ社名変更特別協賛の『マイナビABCチャンピオンシップゴルフトーナメント』として行われる

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/14 08:26 UTC 版)

日医工女子オープンゴルフトーナメント」の記事における「大会の歴史」の解説

2008年ステップ・アップ・ツアーの「日医工カップ」としてスタート2010年主催者ある日医工が創立45周年迎えたのを機にJLPGAツアー昇格した2011年度第2回日医工女子オープンゴルフトーナメント東日本大震災復興支援チャリティートーナメントとして開催された。 しかし2015年ステップ・アップ・ツアー再降格されることが同年12月17日明らかになり、その後継続して行われている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 16:26 UTC 版)

リゾートトラストレディス」の記事における「大会の歴史」の解説

1990年より「帝産・クリナップビューティーズ」としてスタート当時ランキング対象外トーナメントだった。1992年に「リゾートトラスト・クリナップビューティーズ」に改題し1993年に「リゾートトラスト・クリナップレディス」に改題。それと同時に日本女子プロゴルフ協会賞金ランキング対象トーナメント昇格し1995年より現在の大会名称変更した大会開始当初静岡県内ゴルフ場行われていたが、1993年以降毎年もしくは数年一度リゾートトラスト管理するゴルフ場持ち回り開催される形式になっている

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/09 23:52 UTC 版)

全国青年大会」の記事における「大会の歴史」の解説

第1回1952年サンフランシスコ講和条約発効記念して全国青年大会実施文部省などが主催し日青協主催同等の「主管」でスタート第2回1953年文部省協議重ね日青協は「主管」のままで実施第3回1954年大会の主催問題日青協不参加表明大会の開催不能にまで追い込まれる。 ※下記解説 第4回1955年) 4者主催文部省全国都道府県教委東京都日青協)で盛大に開催第5回1956年大会あり方本質について討議し日ごろ活動の成果持ち寄り青年友情団結固め大会原点確認された。 第6回1957年新種目剣道加わる。最終日日本青年館ホール講壇討論会最優秀賞輝いた演劇音楽意見発表再発表とその観覧会を行うなど盛り上がり見せた芸能文化の部となる。 第7回1958年生活技術創作展を新設第8回1959年伊勢湾台風で、愛知岐阜三重東海3県涙の不参加第9回1960年新種目郷土芸能加わる。 第10回1961年10周年記念交歓のつどい。 第11回1962年地方開催論議高まる。 第12回1963年新装国立競技場使用第1号第13回1964年文化部門レベルアップ顕著第14回1965年全部門で質、量ともに向上。 第15回1966年種目人員増で内容一段と充実第16回1967年体育偏重から二本体育郷土芸能)。 第17回1968年華やかな前夜祭明治100年彩る第18回1969年初め職域の部(二部導入。 ※下記解説 第19回1970年) 「郷土芸能万国博大挙出演第20回1971年選手全員戦後生まれに。 第21回1972年文部省の手離れ日青協東京都教委日本青年館三者共催事業に。参加年齢制限28歳まで引き上げ第22回1973年) 「日本の秋まつり」ようやく軌道にのる。 第23回1974年芸能・文化部門参加資格緩和第24回1975年二部廃止ソフトボール水泳囲碁・将棋個人戦)を追加第25回1976年開会式青年建設募金訴え第26回1977年日本青年館解体により大会本部国立オリンピック記念青少年総合センター移転。「日本の秋まつり」の中止第27回1978年福田赳夫首相迎え開会式盛り上がる第28回1979年日本青年館新館完成後の初めての大会。「日本の秋まつり」復活第29回1980年交歓競技団長対抗リレー第30回1981年史上最大参加者数(7748名)。中国デンマーク代表参加大会統一テーマ友愛と共励」を設定第31回1982年交歓交流重視強まる。 第32回1983年中曽根康弘首相開会式出席交歓会模様テレビ放映第33回1984年開会式運営協力制度により運営スムーズに。 ※下記解説 第34回1985年中国青年500名が訪日し大会開会式に代表が出席第35回1986年交歓会明治公園実施第36回1987年大会PRのため10万チラシ配布第37回1988年個人戦棄権増加昭和天皇病状鑑み一部プログラム変更第38回1989年6年ぶりに首相海部俊樹首相)が開会式出席第39回1990年軟式野球公開競技として導入第40回1991年同一種目2度まで出場可能、参加年齢引き上げなど参加条件緩和第41回1992年復帰20年沖縄県団が先頭入場行進第42回1993年皇太子徳仁親王雅子妃迎えて開会式第43回1994年) 新競技として綱引き公開競技男子女子男女混合3種目)を導入第44回1995年) 「日本の秋まつり」終了に伴い、代わって「全国青年文化祭」を開催第45回1996年紀宮清子内親王迎えて開会式綱引き正式競技となる。 第46回1997年文化部門観客獲得力を入れる。 第47回1998年開会式入場行進は各選手団独自のスタイルへ。 第48回1999年史上初め参加者5000名を割り込む交歓会全員参加○×クイズ実施第49回2000年20世紀最後大会国立競技場での開会式最後となる(第50回雨天のため東京体育館開催)。 第50回2001年) 「勤労青年」の大会から「地域青年」の大会へ。大会イメージソングに「現在(いま)から…ここから」を選定ボウリング公開競技)を導入将棋歴代優勝者によるグランドチャンピオン戦実施水泳最後開催となる。 第51回2002年開会式東京体育館一本化綱引き女子エントリーゼロだった。 第52回2003年ソフトボール男子導入フットサル公開競技として導入綱引き男女混合のみとなる。 第53回2004年ボウリング混合の部にベーカー方式導入相撲弓道綱引き最後開催となる。 第54回2005年フットサルボウリング正式競技に。将棋団体戦導入参加者4000人を割り込む第55回2006年都道府県単位での出場連続出場可能にボウリング正式競技となる。 第56回2007年閉会式閉会プログラム変更特別企画として「日本のO.Do.RIフォーラム」を実施ソフトボール卓球団体戦各都道府県から2団体まで派遣可能となる。ソフトボール女子将棋団体戦最後開催となる。 第57回2008年明治公園にてフリーマーケット共同開催していた青年団物産市を日本青年館で独自開催参加者少な陸上競技バドミントン卓球1年間休止する第58回2009年前回休止3競技中、バドミントン卓球再開し陸上競技廃止される演劇人形劇以外の各種目にオーバーエイジ枠導入バレーボール剣道各都道府県2団体派遣可能となる。美術展は、写真の部を「写真展」に変更しそれ以外部門廃止される第59回2010年世界バレー開催東京体育館使用できず、開会式初め東京武道館で開く。人形劇参加団体ゼロのため実施されなかった。 第60回2011年東日本大震災復興象徴として大会開催瑤子女王迎えて開会式東京体育館に戻る)。参加者少なソフトボール男子将棋個人戦1年間休止された。 第61回2012年11月9~12日開催ソフトボール男子将棋個人戦再開芸能文化の部は、この大会最後に分離され別事業となる。 2020年新型コロナの影響延期2021年第69回大会とする予定

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