大会の歴史
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「世界選手権自転車競技大会」の記事における「大会の歴史」の解説
International Cycling Association(略称:ICA、1892年から1899年まで存在)の主催により1893年、アメリカ合衆国・シカゴで初めて開催された。1896年にギリシャ・アテネで初開催された近代オリンピックよりも古い歴史を誇る。第1回はトラックレースのスプリント、ドミフォン、10kmの3種目が行われたが、いずれもアマチュア選手に出場が限定された。なお、プロのレースは1895年に開始されたが、1920年まではトラックレースのみの開催だった。 1900年より、同年に発足した国際自転車競技連合(UCI)の主催で開催されるようになった。優勝者へのマイヨ・アルカンシエルの贈呈は、UCI主催になってから実施されたものである。1914年から1919年までは第一次世界大戦の影響で、また1940年から1945年までは第二次世界大戦の影響で開催されなかった。 1921年のコペンハーゲン大会からアマチュア種目のみながらもロードレースも行われるようになり、1927年のドイツ大会からはプロの個人ロードレースも行われるようになった。またごく一部の年を除き、1995年まではトラックレースとロードレースは同一国で、しかも同時期に開催されていた。現在はロードレースは毎年9月下旬頃、トラックレースは毎年3月下旬頃に開催される。女子の種目については1958年よりロードレース、トラックレースで行われるようになった。 また、1950年からはシクロクロス(開催は概ね毎年1月下旬ないし2月上旬頃)、1990年からはマウンテンバイク(同9月頃)を実施。また2000年からは室内自転車競技(同11月頃)、2001年からBMX(同7月頃)、2007年からパラサイクリング(同9月頃)がそれぞれ、UCI主管の世界選手権大会となった。 この他にジュニア、B、マスターズのカテゴリーの大会も開催されるなど今や多種多彩になっている。 日本では、中野浩一が1977年にトラックレースのスプリント(当時の名称はスクラッチ)種目で初優勝を成し遂げ、それ以降は同種目で1986年まで優勝、10連覇を達成した(詳しくは中野浩一#世界自転車選手権を参照)ことがきっかけとなり、当大会の存在が広く知れわたることになったが、後述の通り、とりわけ自転車競技の本場であるヨーロッパにおいては、当大会を制することはオリンピックで金メダルを獲得することよりも価値があるという見方をする人が多いほどの存在である。 日本における当大会の開催は、アジアで初の開催として、1990年に前橋市(トラックレース)と宇都宮市(ロードレース)で開催された。また、室内競技(インドア)は鹿児島県の加世田市で2001年に開催。さらに2011年は鹿児島市で開催。
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「KKT杯バンテリンレディスオープン」の記事における「大会の歴史」の解説
ツアー制度施行前の1980年に、「熊本中央レディスカップゴルフトーナメント」として開催されたのが前身。1988年、ツアー制度施行の最初の年に、KKTと不動産会社のマルコーの主催により「マルコー中央レディスゴルフトーナメント」(翌1989年から「マルコーレディス」に改題)として開催。当初は熊本中央カントリークラブで行われたが、1991年より、玉名市の玉名カントリークラブに会場を移す。 1992年、新たな主催社に再春館製薬所を迎え「再春館レディース」として開催。1993年から1995年までは益城町の高遊原カントリークラブで、1996年以降は菊陽町の熊本空港カントリークラブに会場を移して現在まで開催されている。 2000年から「再春館レディース・火の国オープン」に改称され行われてきたが、2004年大会をもって再春館製薬所が冠スポンサーから撤退(ただし撤退後もサブスポンサーとして協賛は継続)。翌2005年からライフに変更され、同時に大会名を「ライフカードレディスゴルフトーナメント」に改称されたが、2009年大会をもって撤退。2010年大会から西陣に変更し、同時に大会名を「西陣レディスクラシック」に改称した。 2011年3月11日午後に発生した東北地方太平洋沖地震の影響によってPRGRレディス杯以降の2011年度JLPGAツアーが中止されていたが、この大会よりツアーを再開する事になった。大会名を「心をひとつに 西陣レディスクラシック〜東北地方太平洋沖地震 復興支援チャリティ〜」に変更し、被災地の復興支援を趣旨として開催された。 2012年12月13日にLPGAより発表された2013年度の大会名称は当初「KKTレディス熊本」となっていたが、2013年1月22日、新たな特別協賛社として興和を迎え、大会名を「KKT杯バンテリンレディスオープン」に変更することが決定した。 2016年は4月14日に発生した熊本地震の影響で、初日の競技が中止された。翌15日午前、主催のくまもと県民テレビ、特別協賛の興和、日本女子プロゴルフ協会が大会の開催について協議し、ギャラリーバスの運行ができずボランティアや観客の輸送ができないこと、余震が続くことが予想されること、選手の心情等を考慮し、大会の中止を決定した。 2018年12月、2019年以降の放映権を巡り、LPGAとの交渉が決裂した日本テレビ(及び系列局)が、主催・テレビ中継していた大会からの撤退を表明。系列局であるKKTも同年の開催取り止めを一旦決定。しかし女子プロゴルファーの反発などもあり、2019年1月にLPGAとの交渉が再開され、同月25日に大会の継続が発表された。 2020年は新型コロナの大流行の影響により中止された。2021年は無観客で開催された。
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「樋口久子 レディスゴルフトーナメント」の記事における「大会の歴史」の解説
1983年から紀文食品主催の『紀文レディースクラシック』、1997年から第1・2回優勝者で開催地・埼玉県出身の樋口久子の名から『樋口久子・紀文クラシック』、2002年から『樋口久子クラシック』として行われた。2004年は大塚家具主催の『樋口久子ゴルフ殿堂入り記念IDC大塚家具レディス』、2005年から『樋口久子IDC大塚家具レディス』として行われた。2011年から森永製菓主催の『樋口久子 森永製菓ウイダーレディス』、2014年は森永製菓・森永乳業主催の『樋口久子 森永レディス』として行われた。2015年はロイヤリティーマーケティング特別協賛の『樋口久子 Pontaレディス』として行われた。2016年から三菱電機特別協賛の『樋口久子 三菱電機レディスゴルフトーナメント』として行われる。
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「アムステルダム6日間レース」の記事における「大会の歴史」の解説
1932年にアムステルダム自動車産業展示場(RAI)を会場にして第1回が行われ、1936年まで開催されたが、以後1966年まで開催なし。1966年の再開時には、ヨーロッパ広場内に移転したRAIで行われ、1969年まで行われたが、その後またもや長期間の休止を余儀なくされる。2001年に三度目の再開となり、現在も開催地である、周長200mのアムステルダム・ヴェロドロームでの開催となり今日に至る。 当レースのメイン種目は、マディソンを中心としたペアレースだが、合間に短距離レースも行われており、その点において、例年1月に開催されるロッテルダム6日間レースと類似している。
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「グルノーブル6日間レース」の記事における「大会の歴史」の解説
当レースの会場は、1968年に開催されたグルノーブルオリンピックの前年である1967年に開場。同大会終了後は多目的ホールとして使用されることになり、その一環として1971年に初開催されたのが当レースである。以来、一部の年を除き、ほぼ毎年開催されていた。2014年の開催をもって終了した。 メイン種目はマディソンなどのペアレースであるが、合間に短距離種目も取り入れられていた。
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「サイバーエージェントレディスゴルフトーナメント」の記事における「大会の歴史」の解説
大会が始まった2005年から2009年までは大塚ベバレジが協賛する形で、クリスタルガイザーレディスゴルフトーナメントとして開催されていた。また、2005年から2007年までは毎年8月第1週に開催されていたが、2008年以降は原則として5月第1週に開催されていたが、2018年大会は4月最終週に開催された。同年に発覚した日本女子ツアーの放映権料問題に絡み、サイバーエージェントは協賛から撤退。大会は同年で終了。2019年は同週にパナソニックオープンレディースが開催される。 また大会の会場は2010年から2015年までは千葉県市原市の鶴舞カントリー倶楽部・東/西コースで開催されていたが、2016年から2018年は静岡県三島市のグランフィールズカントリークラブに舞台を移して開催されていた。
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1900年にインターナショナル・ローンテニス・チャレンジとして第1回大会が行なわれた。ハーバード大学テニスチームの考案であった。第1回はボストンのロングウッド・クリケット・クラブで行なわれ、アメリカとイギリスが対戦し、アメリカが初代チャンピオンに輝いた。1904年以降は、前年優勝国と予選大会の優勝国が対戦するいわゆるアメリカスカップと同じ方式になった。 1923年からアメリカゾーンとヨーロッパゾーンに分けられ、それぞれの勝者がInter-Zonal Zone ("INZ")で対戦し、その勝者がディフェンディングチャンピオンと対戦する方式となる。1955年からはさらにイースタンゾーンが加わった。1966年にはヨーロッパゾーンがヨーロッパゾーンAとヨーロッパゾーンBに別れた。 1972年から勝ち残り式トーナメント方式となり前年の優勝者も全てのラウンドに参加することになった。 1981年から現在の方式が作られ、16の上位国からなるワールドグループとその他の地域別グループに分けられた。1989年からはタイブレーク制が導入された。 2019年からデ杯の大会制度が変わり、コスモス社のジェラール・ピケと三木谷浩史氏が25年間の支援を行う。1年間かけてトーナメント方式で世界最強国を決める方式から、11月の1週間で優勝を決める方式に変更される。 2020年大会は新型コロナウイルス感染症の世界的流行に伴い、2020年と2021年の2年がかりで行うことが決まった。
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「全日本少年軟式野球大会」の記事における「大会の歴史」の解説
本大会の前身は1975年初開催の全日本少年軟式野球大会である。1981年に全日本学童軟式野球大会が創設されたことにより一時休止状態となったが、1984年に、第1回全日本少年軟式野球大会の名で再び開催されて現在に至る。 2003年度は20回記念大会であったこと、2009年度は横浜市開港150周年記念であったことから開催地である神奈川県からの代表枠が例年より2つ多い4つ設けられた。内訳は、神奈川県代表の中学校ならびにクラブチーム、横浜市代表の中学校ならびにクラブチームがそれぞれ1つずつである。 しかし2020年は新型コロナの影響で会場予定だった保土ヶ谷球場が閉鎖のため中止。2021年は中止の予定だったが、長崎県営野球場をメイン会場に急遽開催。
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「ダンロップフェニックストーナメント」の記事における「大会の歴史」の解説
記念すべき第1回大会は、1974年12月5日から8日までの4日間、同年の日本ツアー最終戦として開催された。 帝王ジャック・ニクラスや、当時ルーキーだったベン・クレンショーなど、20人以上の海外招待選手が来日、世界レベルのプレーを披露した。その中で優勝したのは、前年の全米オープン選手権者で、この年のアメリカツアーで8勝を挙げ、自身初の賞金王に輝いたジョニー・ミラーだった。ミラーは出場選手の中で唯一人、4ラウンドとも60台で回り、通算14アンダー、274ストロークでフィニッシュ。台湾の呂良煥に7ストロークの大差をつける圧勝で、栄えある初代王者の座に就いた。歴代優勝者には、ミラーをはじめ、ヒューバート・グリーン (1975年) 、グラハム・マーシュ (1976年) 、セベ・バレステロス (1977年,1981年) 、トム・ワトソン (1980年,1997年) 、スコット・シンプソン (1984年) 、クレイグ・スタドラー (1987年) 、ラリー・マイズ (1989年,1990年) 、ラリー・ネルソン (1991年) 、アーニー・エルス (1993年) 、リー・ウエストウッド (1998年) 、トーマス・ビヨン(1999年,2003年) 、デビッド・デュバル (2001年) 、タイガー・ウッズ (2004年,2005年) 、パドレイグ・ハリントン (2006年) 、ルーク・ドナルド (2012年,2013年) 、ブルックス・ケプカ (2016年,2017年) といった錚錚たる面々が名を連ねている。また、優勝こそ成らなかったものの、トム・カイト、ベルンハルト・ランガー、フレッド・カプルス、グレグ・ノーマン、サンディ・ライル、ピーター・トムソン、リー・トレビノ、ウェイン・グラディ、ボブ・トウェイ、イアン・ウーズナム、マイク・リード、デービス・ラブ3世、ホセ・マリア・オラサバル、ジェフ・スルーマン、ロナン・ラファティー、ニック・ファルド、スティーブ・ジョーンズ、マーク・ブルックス、ジョン・デーリー、コーリー・ペイビン、トム・レーマン、バリー・レーン、ビジェイ・シン、フィル・ミケルソン、マイケル・キャンベル、ジム・フューリック、ダーレン・クラーク、レティーフ・グーセン、セルヒオ・ガルシア、グレーム・マクドウェル、ジャスティン・ローズ、シャール・シュワーツェル、トレヴァー・イメルマン、スチュワート・シンク、アーロン・バデリー、バッバ・ワトソン、ゴンサロ・フェルナンデスカスタノ、ヘンリク・ステンソン、ブラント・スネデカー、ロベルト・カールソン、シェーン・ロウリー、ルイ・ウェストヘーゼン、マルティン・カイマー、キーガン・ブラッドリー、ウェブ・シンプソン、ジョーダン・スピース、ジミー・ウォーカー、ジャスティン・トーマス、ゲーリー・ウッドランドなど数々の世界のトッププレーヤーが参戦したトーナメントである(2012年まではアメリカPGAツアーは11月初旬にシーズンオフに入るため、他の日本国内大会に比べて有名選手を招待しやすい時期でもあった)。しかし2020年は前述の通り海外招聘ができなくなった。 日本人選手では、1985年に、中嶋常幸が完全優勝を果たし、12回目にして初めての日本人優勝者となった。その後、尾崎将司が大会史上唯一の3連覇(1994年から1996年}を達成しており、他には片山晋呉(2000年)、横尾要(2002年)、池田勇太(2010年)、武藤俊憲(2011年)、松山英樹(2014年)、宮里優作(2015年)、市原弘大(2018年)、今平周吾(2019年)、金谷拓実(2020年)が優勝している。
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大会の歴史
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1946年に第1回が行われたことから、「(現在開催されている中では)日本最古のマラソン大会」ともいわれる。 第1回(1946年10月) - 「全日本毎日マラソン選手権」が大阪府で開催される。難波別院跡地の毎日運動場前を発着し、御堂筋・十三大橋を経て国鉄池田駅(現・JR川西池田駅)を折返すコースで競われる。スターターは元オリンピック代表の津田晴一郎が務めた。 第3回(1948年5月) - GHQの命令により、発着点を梅田の毎日新聞大阪本社前に変更。 第5回(1950年5月) - 「毎日マラソン」と改称。泉北郡高石町(現:高石市)を往復するコースに変更。 第7回(1952年5月) - 1952年ヘルシンキオリンピックのマラソン代表最終選考会を兼ねる。以降、1980年モスクワオリンピックを除く全ての夏季オリンピックのマラソン代表選手選考会となる。 第14回(1959年5月) - 大阪市内の交通事情悪化のため、出発点を住之江区に移し、忠岡町折返し・ 毎日新聞大阪本社前をゴールとするコースに変更。 第16回(1961年6月) - 発着点を堺市の浜寺公園に移し、住之江区と岸和田城を折り返すコースに変更。 第17回(1962年5月) - 交通事情の悪化により大阪府から滋賀県(皇子山運動公園発着・志賀町折返しの琵琶湖西岸コース)に変更。 第18回(1963年5月) - 東京オリンピックのマラソンコースを使用して開催(第19回大会〔1964年4月実施〕まで)。 第20回(1965年5月) - 3年ぶりに滋賀県に戻る。発着点は皇子山陸上競技場となり、琵琶湖西岸から琵琶湖大橋を渡って守山町(現・守山市)折返しのコースに変更。 第23回(1968年4月) - この回よりコースを皇子山陸上競技場発着、琵琶湖南岸から瀬田唐橋を渡り、東岸の守山市折返しのルートに変更。琵琶湖大橋経由のルートは3回で終了となった。 第30回(1975年4月) - 瀬田唐橋の改修工事に伴い、近江大橋を経由するルートに変更。 第36回(1981年3月) - 改修工事完成により、再び瀬田唐橋経由のルートに戻る。 第38回(1983年3月) - 「びわ湖毎日マラソン」と改称する。また、世界陸上ヘルシンキ大会のマラソン代表選考会を兼ねる。10年後の世界陸上シュトゥットガルト大会以降、全ての世界陸上競技選手権大会のマラソン代表選手選考会となる。 第41回(1986年3月) - ソウルアジア大会のマラソン代表選考会を兼ねる。以降、バンコクアジア大会を除く全てのアジア競技大会のマラソン代表選手選考会となる。 第44回(1989年3月) - 瀬田川沿いに南郷洗堰を経由して草津市新浜を周回するコースに変更。 第49回(1994年3月) - 1994年アジア競技大会と同じコースを使用し、「毎日国際マラソン」として実施。 第51回(1996年3月) - ヨアキム・ピネイロが大会史上初めて2時間10分の壁を破る。 第65回(2010年3月) - 折り返し点を大津市大萱とするコース変更。 第74回(2019年3月) - 東京マラソンの開催日の変更にともない本大会も1週繰り下がり、名古屋ウィメンズマラソンと同日開催になる。 第75回(2020年3月) - 競技開始が午前に変更。機材トラブルにより予定より10分遅れてスタートした。 第76回(2021年2月) - 本大会も2週繰り上がり、2月最終日曜開催に変更。かつ大津市での最後の大会となり、鈴木健吾(富士通)が2時間04分56秒の日本新記録を樹立して優勝した。 1981年頃から1993年頃までは新人の登竜門的な大会で、オリンピックや世界選手権などの選考レースに格付けされていても一線級の参加があまり見られなかったが、1988年の第43回では前年12月の福岡国際マラソンを怪我のため欠場していた瀬古利彦が出場して注目を集めた。瀬古は優勝し同年のソウル五輪の出場権を獲得したことで物議を醸した。 1997年(第52回)、前年のアトランタ五輪で4位に入ったマルティン・フィスが参加し、当時の国内マラソン最高記録で優勝したことで状況が変わり、フラットで好記録が出るコースということで、国内の一線級も参加するようになった。 大きな国際大会の前哨戦や大会運営の予行演習として、会場が変更されたことがあった。 1963年(第18回)と1964年(第19回)は、日本選手権、東京オリンピック選考会並びにオリンピックマラソンのリハーサルも兼ねて国立競技場(新宿区)〜飛田給(調布市)折り返しの甲州街道を通る東京オリンピックのマラソンと同じコースでのレースとなった。 1994年(第49回)は広島アジア大会のリハーサルも兼ねて、広島にて「毎日国際マラソン」として開催された。 1985年から2004年は、スタート前にトラックでびわ湖全日本女子競歩大会が開催されていた。 大会の開催時期は、第1回が10月に開催されたのち、第2回から24回(1969年)までは5月がメインで、時に4月(第19回・1964年、第23回・1968年)や6月(第16回・1961年、第21回・1966年)にも開催されていた。第25回(1970年)が4月に開催されてからは5月・6月の開催はなくなり、第26回(1971年) - 28回(1973年)が3月、第29回(1974年) - 第34回(1979年)が4月と変遷して、第35回(1980年)以降は3月開催で定着した。第62回(2007年)は、レースの途中で気温が20度以上に上昇し、春先とは思えない過酷なコンディションに見舞われた。日本の招待選手10人が暑さに対応しきれず惨敗した。単独での最終開催となった第76回(2021年)は大会史上初めて2月開催となった。 2008年、国際陸上競技連盟は、マラソンなどの世界のロードレースを格付けする制度を導入した。びわ湖毎日マラソンは、2009年、国内で初めて最高位の「ゴールド」にランクされた。2010年もこの年に初めてランク入りした東京マラソンともに2年連続「ゴールド」にランクされている。 2021年の第76回大会で大津市での開催を終え、2022年に大阪マラソンと統合し「第10回大阪マラソン・第77回びわ湖毎日マラソン統合大会(仮称)」として行われることが決定した。2022年2月27日(第4日曜日)に第10回大阪マラソン・第77回びわ湖毎日マラソン統合大会が統合後初開催された。 2023年より、当大会の後継イベントとして「びわ湖マラソン」を開催する予定である。
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大会の歴史
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※()内…開催回数。 回開催日開催地回開催日開催地回開催日開催地1 1950年4月4日 山梨県(1) 31 1980年5月25日 三重県(1) 61 2010年5月23日 神奈川県(1) 2 1951年4月4日 群馬県(1) 32 1981年5月24日 奈良県(1) 62 2011年5月22日 和歌山県(2) 3 1952年4月4日 静岡県(1) 33 1982年5月23日 栃木県(1) 63 2012年5月27日 山口県(2) 4 1953年4月4日 千葉県(1) 34 1983年5月22日 石川県(1) 64 2013年5月26日 鳥取県(2) 5 1954年4月6日 兵庫県(1) 35 1984年5月20日 鹿児島県(1) 65 2014年6月1日 新潟県(2) 6 1955年4月6日 宮城県(1) 36 1985年5月12日 熊本県(1) 66 2015年5月17日 石川県(2) 7 1956年4月7日 山口県(1) 37 1986年5月11日 大阪府(1) 67 2016年6月5日 長野県(2) 8 1957年4月7日 岐阜県(1) 38 1987年5月24日 佐賀県(1) 68 2017年5月28日 富山県(2) 9 1958年4月8日 大分県(1) 39 1988年5月22日 香川県(1) 69 2018年6月10日 福島県(2) 10 1959年4月5日 埼玉県(1) 40 1989年5月21日 徳島県(1) 70 2019年6月2日 愛知県(2) 11 1960年5月10日 山形県(1) 41 1990年5月20日 長崎県(1) - 2020年 中止 12 1961年5月24日 北海道(1) 42 1991年5月26日 京都府(1) 71 2021年5月30日 島根県(2) 13 1962年4月21日 福井県(1) 43 1992年5月10日 福岡県(1) 72 2022年 滋賀県(2) 14 1963年5月20日 青森県(1) 44 1993年4月25日 沖縄県(1) 73 2023年 岩手県(2) 15 1964年5月13日 長野県(1) 45 1994年5月22日 兵庫県(2) 74 2024年 岡山県(2) 16 1965年5月9日 鳥取県(1) 46 1995年5月21日 広島県(2) 17 1966年4月17日 愛媛県(1) 47 1996年5月19日 東京都(1) 18 1967年4月9日 岡山県(1) 48 1997年5月18日 宮城県(2) 19 1968年5月19日 秋田県(1) 49 1998年5月10日 群馬県(2) 20 1969年5月26日 富山県(1) 50 1999年5月30日 静岡県(2) 21 1970年5月19日 福島県(1) 51 2000年4月23日 大分県(2) 22 1971年4月18日 島根県(1)広島県(1) 52 2001年5月20日 山梨県(2) 23 1972年5月21日 新潟県(1) 53 2002年6月2日 山形県(2) 24 1973年4月8日 宮崎県(1) 54 2003年5月18日 千葉県(2) 25 1974年5月19日 岩手県(1) 55 2004年4月25日 宮崎県(2) 26 1975年5月25日 滋賀県(1) 56 2005年6月5日 茨城県(2) 27 1976年5月23日 茨城県(1) 57 2006年5月21日 岐阜県(2) 28 1977年4月17日 和歌山県(1) 58 2007年6月24日 北海道(2) 29 1978年5月21日 高知県(1) 59 2008年6月15日 秋田県(2) 30 1979年5月27日 愛知県(1) 60 2009年6月7日 福井県(2)
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大会の歴史
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「日本学生選手権水泳競技大会」の記事における「大会の歴史」の解説
1921年に、萬朝報の催しとして、9月10日、11日に、生麦の三笠園池にて大学対抗の水上競技大会として開催された。初代優勝は16点を挙げた明大であった。当時の万朝報の記者の発案に、驚きを見せた。その後、各大学が練習を強化し、やがて全国学生水上競技連盟が結成され、後の日本水泳連盟の創立に発展した。
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「ミュンヘン6日間レース」の記事における「大会の歴史」の解説
1933年に開始。第二次世界大戦後となる1949年に復活。同年はシリーズ通じて10万人を超えるファンが集まり、大盛況裡に終えたことから、翌1950年は年2回の開催が行われたが、1954年には1日平均入場者数が約4000人に激減したことから、同年限りでスポンサーが撤退し、廃止の憂き目に遭った。 しかし、1972年にミュンヘンオリンピックが開催されたことを契機に2度目の復活を果たし、今日に至る。もっとも、近年は入場者数が伸び悩んでおり、存続そのものが危ぶまれている現状となっていると伝えられていた。 2010年〜2011年シーズンは開催されなかった。
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「ワールドカップ (ゴルフ)」の記事における「大会の歴史」の解説
本大会はゴルフを通じた世界各国の善隣友好を願ったカナダ人実業家ジョン・ジェイ・ホプキンスの提唱により国際ゴルフ協会が1953年にカナダ・モントリオールの「ビーコンスフィールド・カントリークラブ」で開催したのが始まりで、「カナダ・カップ」(Canada Cup)と名づけられた。1955年の第3回から開催地はカナダを離れ1956年の第4回には林由郎と石井迪夫のコンビが日本代表として初参加し、団体で4位を獲得する。これが翌1957年の日本招致のきっかけとなった。1957年の第5回は、日本(霞ヶ関カンツリー倶楽部)で初めて開催されたゴルフの国際イベントとなった。この大会で小野光一と中村寅吉のコンビが団体初優勝、中村が個人優勝を飾り日本の人々にゴルフを紹介する大きなきっかけをつくった。 1967年に「ワールドカップ」(World Cup)、1993年に「ワールドカップ・オブ・ゴルフ」(World Cup of Golf)と名称が変遷し2004年まではスポンサー企業名を冠とする「EMCワールドカップ」という名称であった。2005年から開催地の名称を冠とし2005年は「アルガーブ・ワールドカップ」、2006年は「バルバドス・ワールドカップ」、2007年からは「ミッションヒルズ・ワールドカップ」の名称に変更された(正確にはスポンサーであるスイスの時計メーカーの企業名を冠とする「オメガ・ミッションヒルズ・ワールドカップ」)。 2000年から2006年までは、本大会は世界ゴルフ選手権シリーズに編入されていた。世界選手権編入期間中は各チームの順位に応じた賞金を2人で半額ずつ分ける方式になったが、その金額は賞金ランキングに加算されなかった。その後、主にアメリカPGAツアーの主張に基づきアメリカ国外で開催される2007年開催以降の本大会は世界ゴルフ選手権シリーズから除外されることになった。 これまでの歴代優勝回数は、アメリカ合衆国が「23度」と抜きん出ている。続いて南アフリカ共和国の5度、スペイン、オーストラリアの4度と続く。日本チームは1957年と2002年の2度優勝がある。 2001年11月15日から18日にかけて、「日本ゴルフ100年祭」の最高潮をなすイベントとして「EMCワールドカップ」が静岡県御殿場市の「太平洋クラブ御殿場コース」に誘致された。1901年に日本で最古のゴルフ場として「六甲コース」が建造されてから100周年の記念行事が多数開催されたが、ワールドカップをそのクライマックスに位置づけたのである。この時はアメリカ代表として(当時)世界ランキング1位のタイガー・ウッズと同3位のデビッド・デュバルが来日した。アメリカ・チームは大会3連覇を逃したが、最終日の18番ホール(パー5, 517ヤード)でウッズが放った“ミラクル・チップイン・イーグル”は強烈な印象を残した。この時は4チームのプレーオフになり、アーニー・エルスとレティーフ・グーセンのコンビによる南アフリカチームが優勝した。なお、日本チームの伊沢利光と丸山茂樹のコンビは11位に終わっている。 日本開催の翌年にあたる2002年、伊沢と丸山のコンビがメキシコ開催の大会で日本チームに45年ぶり2度目の優勝をもたらした。 2013年からは、国際スポーツ振興協会が冠スポンサーとなり『ISPSハンダワールドカップゴルフ』という名称となった。2013年大会より、2016年オリンピックと同ルールとなる個人戦72ホールストローク方式に変更され、団体戦は2人の合計スコアで優勝国を決定することとなった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 09:24 UTC 版)
「ANAオープンゴルフトーナメント」の記事における「大会の歴史」の解説
1971年に札幌テレビ放送 (STV) および開催コースの札幌ゴルフ倶楽部の共催により3日間競技による「STVカップ札幌オープンゴルフトーナメント」としてスタート。1973年からはANAが新たなスポンサーとなり、「全日空札幌オープンゴルフトーナメント」として生まれ変わり、大会も4日間競技となった。その後「全日空オープンゴルフトーナメント」(1986年から)の名称を経て2002年から現在の大会名となっている。 2018年大会は北海道胆振東部地震の影響により中止され、主催のANAは賞金の一部を被災地支援として使うとの声明を発表した。 2019年大会は例年の開催週にラグビーワールドカップ日本大会の試合が札幌ドームで行われることからインフラへの影響を考慮し、開催時期を1週間繰り上げる処置を行った。 2020年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で中止となった。 2021年の開催については調整中のため、当初のツアー日程から外れたが、同年3月29日開催が決定
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 09:31 UTC 版)
「ABCチャンピオンシップゴルフトーナメント」の記事における「大会の歴史」の解説
2017年まで主催していた朝日放送(現・朝日放送グループホールディングス)が創立20周年記念企画として、「ライダーカップ」というアメリカと欧州のツアー対抗戦の仕組みを参考に企画したもので、日本とアメリカの一流プレーヤーによる団体戦・個人戦が行われた。 1971年は三基商事特別協賛の『ミキ・ゴールドカップ・日米ゴルフ対抗戦』、1972年 - 1981年および1985年 - 1987年は『ABCカップ・日米ゴルフ対抗戦』、1982年・1983年はゴールドウイン特別協賛の『ゴールドウインカップ・日米ゴルフ対抗戦』、1984年は内田洋行特別協賛の『内田洋行カップ・日米ゴルフ対抗戦』という名称だった。 1988年 - 2002年はフィリップモリス特別協賛の『ラークカップゴルフ』→『フィリップモリス・チャンピオンシップ・ゴルフトーナメント』として行われた。1997年大会では4日間で56,508人を動員。2003年 - 2007年は『ABCチャンピオンシップゴルフトーナメント』、2008年から毎日コミュニケーションズ(2011年にマイナビへ社名変更)特別協賛の『マイナビABCチャンピオンシップゴルフトーナメント』として行われる。
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「日医工女子オープンゴルフトーナメント」の記事における「大会の歴史」の解説
2008年にステップ・アップ・ツアーの「日医工カップ」としてスタート。2010年に主催者である日医工が創立45周年を迎えたのを機にJLPGAツアーに昇格した。 2011年度の第2回日医工女子オープンゴルフトーナメントは東日本大震災復興支援チャリティートーナメントとして開催された。 しかし2015年はステップ・アップ・ツアーに再降格されることが同年12月17日に明らかになり、その後継続して行われている。
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大会の歴史
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「リゾートトラストレディス」の記事における「大会の歴史」の解説
1990年より「帝産・クリナップビューティーズ」としてスタート。当時はランキング対象外トーナメントだった。1992年に「リゾートトラスト・クリナップビューティーズ」に改題し、1993年に「リゾートトラスト・クリナップレディス」に改題。それと同時に日本女子プロゴルフ協会の賞金ランキング対象トーナメントに昇格し、1995年より現在の大会名称に変更した。 大会開始当初は静岡県内のゴルフ場で行われていたが、1993年以降は毎年もしくは数年に一度リゾートトラストが管理するゴルフ場で持ち回り開催される形式になっている。
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大会の歴史
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第1回(1952年) サンフランシスコ講和条約発効を記念して「全国青年大会」実施。文部省などが主催し、日青協は主催と同等の「主管」でスタート。 第2回(1953年) 文部省と協議を重ね日青協は「主管」のままで実施。 第3回(1954年) 大会の主催問題で日青協「不参加」表明、大会の開催不能にまで追い込まれる。 ※下記で解説 第4回(1955年) 4者主催(文部省、全国都道府県教委、東京都、日青協)で盛大に開催。 第5回(1956年) 大会のあり方や本質について討議し、日ごろの活動の成果を持ち寄り、青年の友情と団結を固める大会の原点が確認された。 第6回(1957年) 新種目に剣道加わる。最終日に日本青年館ホールで講壇式討論会や最優秀賞に輝いた演劇、音楽、意見発表の再発表とその観覧会を行うなど盛り上がりを見せた芸能文化の部となる。 第7回(1958年) 生活技術創作展を新設。 第8回(1959年) 伊勢湾台風で、愛知・岐阜・三重の東海3県涙の不参加。 第9回(1960年) 新種目に郷土芸能加わる。 第10回(1961年) 10周年記念に交歓のつどい。 第11回(1962年) 地方開催の論議高まる。 第12回(1963年) 新装の国立競技場使用第1号。 第13回(1964年) 文化部門のレベルアップが顕著。 第14回(1965年) 全部門で質、量ともに向上。 第15回(1966年) 種目、人員増で内容一段と充実。 第16回(1967年) 体育偏重から二本柱(体育・郷土芸能)。 第17回(1968年) 華やかな前夜祭で明治100年を彩る。 第18回(1969年) 初めて職域の部(二部)導入。 ※下記で解説 第19回(1970年) 「郷土芸能」万国博に大挙出演。 第20回(1971年) 選手全員が戦後生まれに。 第21回(1972年) 文部省の手を離れ日青協、東京都教委、日本青年館の三者共催事業に。参加年齢制限を28歳まで引き上げ。 第22回(1973年) 「日本の秋まつり」ようやく軌道にのる。 第23回(1974年) 芸能・文化部門で参加資格を緩和。 第24回(1975年) 二部制廃止、ソフトボール・水泳・囲碁・将棋(個人戦)を追加。 第25回(1976年) 開会式で青年館建設募金の訴え。 第26回(1977年) 日本青年館解体により大会本部を国立オリンピック記念青少年総合センターに移転。「日本の秋まつり」の中止。 第27回(1978年) 福田赳夫首相を迎え開会式盛り上がる。 第28回(1979年) 日本青年館新館完成後の初めての大会。「日本の秋まつり」復活。 第29回(1980年) 交歓競技に団長対抗リレー。 第30回(1981年) 史上最大の参加者数(7748名)。中国、デンマーク代表が参加。大会統一テーマ「友愛と共励」を設定。 第31回(1982年) 交歓、交流重視強まる。 第32回(1983年) 中曽根康弘首相が開会式に出席。交歓会の模様がテレビ放映。 第33回(1984年) 開会式の運営協力員制度により運営がスムーズに。 ※下記で解説 第34回(1985年) 中国青年500名が訪日し、大会の開会式に代表が出席。 第35回(1986年) 交歓会を明治公園で実施。 第36回(1987年) 大会PRのため10万枚のチラシ配布。 第37回(1988年) 個人戦の棄権者増加。昭和天皇の病状に鑑み一部プログラムが変更。 第38回(1989年) 6年ぶりに首相(海部俊樹首相)が開会式に出席。 第39回(1990年) 軟式野球を公開競技として導入。 第40回(1991年) 同一種目へ2度まで出場可能、参加年齢の引き上げなど参加条件を緩和。 第41回(1992年) 復帰20年、沖縄県団が先頭で入場行進。 第42回(1993年) 皇太子徳仁親王、雅子妃を迎えての開会式。 第43回(1994年) 新競技として綱引き(公開競技、男子・女子・男女混合の3種目)を導入。 第44回(1995年) 「日本の秋まつり」終了に伴い、代わって「全国青年文化祭」を開催。 第45回(1996年) 紀宮清子内親王を迎えて開会式。綱引きが正式競技となる。 第46回(1997年) 文化部門で観客獲得に力を入れる。 第47回(1998年) 開会式の入場行進は各選手団独自のスタイルへ。 第48回(1999年) 史上初めて参加者が5000名を割り込む。交歓会で全員参加の○×クイズ実施。 第49回(2000年) 20世紀最後の大会。国立競技場での開会式は最後となる(第50回は雨天のため東京体育館で開催)。 第50回(2001年) 「勤労青年」の大会から「地域青年」の大会へ。大会イメージソングに「現在(いま)から…ここから」を選定。ボウリング(公開競技)を導入。将棋の歴代優勝者によるグランドチャンピオン戦を実施。水泳は最後の開催となる。 第51回(2002年) 開会式を東京体育館に一本化。綱引き女子のエントリーがゼロだった。 第52回(2003年) ソフトボールに男子を導入。フットサルを公開競技として導入。綱引きが男女混合のみとなる。 第53回(2004年) ボウリング混合の部にベーカー方式を導入。相撲、弓道、綱引きは最後の開催となる。 第54回(2005年) フットサル、ボウリングが正式競技に。将棋に団体戦を導入。参加者が4000人を割り込む。 第55回(2006年) 都道府県単位での出場と連続出場が可能に。ボウリングが正式競技となる。 第56回(2007年) 閉会式が閉会プログラムへ変更、特別企画として「日本のO.Do.RIフォーラム」を実施。ソフトボール、卓球団体戦も各都道府県から2団体まで派遣可能となる。ソフトボール女子、将棋団体戦が最後の開催となる。 第57回(2008年) 明治公園にてフリーマーケットと共同開催していた青年団物産市を日本青年館で独自開催。参加者の少ない陸上競技、バドミントン、卓球を1年間休止する。 第58回(2009年) 前回休止3競技中、バドミントンと卓球は再開し、陸上競技は廃止される。演劇と人形劇以外の各種目にオーバーエイジ枠を導入。バレーボールと剣道も各都道府県2団体派遣可能となる。美術展は、写真の部を「写真展」に変更し、それ以外の部門は廃止される。 第59回(2010年) 世界バレー開催で東京体育館が使用できず、開会式を初めて東京武道館で開く。人形劇は参加団体ゼロのため実施されなかった。 第60回(2011年) 東日本大震災の復興の象徴として大会を開催。瑤子女王を迎えて開会式(東京体育館に戻る)。参加者の少ないソフトボール男子と将棋個人戦が1年間休止された。 第61回(2012年) 11月9~12日に開催。ソフトボール男子と将棋個人戦が再開。芸能文化の部は、この大会を最後に分離され別事業となる。 2020年は新型コロナの影響で延期。2021年を第69回大会とする予定。
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