デビス‐カップ【Davis Cup】
デビスカップ
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デビスカップ (英: Davis Cup, 英語発音: /ˈdeɪvɪs kʌp/[1]) は、1900年から毎年行われている男子テニスの国別対抗戦。略称はデ杯。原音では「デイヴィス・カップ」に近い発音。
- ^ a b 研究社辞書部 1960.
- ^ a b c d e f g “The 2015 ATP® Official Rulebook” (pdf) (2015年1月18日). 2016年3月5日閲覧。
- ^ 戦争終結でデ杯戦復活(昭和20年10月22日 朝日新聞 『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p609 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ “Davis Cup reform: Nations vote for 18-team season-ending event”. BBC Sport (2018年8月16日). 2018年8月17日閲覧。
- ^ Bodo, Peter (2018年8月16日). “Here's everything you need to know about the massive Davis Cup overhaul”. ESPN. 2018年8月17日閲覧。
- ^ “Tennis greats tear into Davis Cup overhaul”. news.com.au (2018年8月17日). 2018年8月17日閲覧。
- ^ “CHAMPIONS”. daviscup.com. ITF. 2021年12月13日閲覧。
- ^ デビスカップ公式サイトには1900年~1912年までのイギリスは“British Isles”と記載されていた
- ^ オーストラリアとニュージーランドの混成チーム
- ^ インドが当時の南アフリカ政府によるアパルトヘイト政策に対する抗議のため、南アフリカへの渡航を拒否したために決勝は取りやめとなり、南アフリカにデビスカップが与えられた。
- 1 デビスカップとは
- 2 デビスカップの概要
- 3 デビスカップ日本代表
- 4 大陸別優勝
- 5 外部リンク
デビスカップ
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第2次世界大戦の終戦後、日本がデビスカップへの復帰を認められたのは1951年になってからである。終戦後最初のデビスカップ遠征に際して、日本庭球協会は監督に熊谷一弥を指名し、日本代表選手には隈丸次郎、中野文照、藤倉五郎の3名が選ばれた。遠征地はアメリカ・ケンタッキー州ルイビルにある「ルイビル・ボートクラブ」であり、日本はアメリカ・チームと対戦した。日本チームは5戦全敗に終わり、隈丸はシングルス戦2試合でハーバート・フラムとディック・サビットに敗れた。翌1952年のデ杯では、隈丸自身が日本チームの主将を務め、中野と宮城淳の3名で対アメリカ戦に出場した。オハイオ州シンシナティにある「シンシナティ・テニスクラブ」への遠征では、隈丸はシングルス第1試合でラーセンに 2-6, 6-3, 3-6, 2-6 のスコアで敗れた。第3試合のダブルス戦では、隈丸と中野のコンビはガードナー・ムロイ&ビル・タルバート組に敗れている。隈丸の2年間のデビスカップ代表歴は「4戦全敗」に終わったが、その後1957年と1958年の2年間デビスカップ日本監督を務め、終戦後の日本テニス界の復興に大きく貢献した。
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