改元とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 日本語表現辞典 >  改元の意味・解説 

改元

読み方:かいげん

改元とは、改元の意味

改元とは、元号改めることである。それまで使用してきた元号廃し新たな号を冠して元年から始めることである。今日では、元号を公式に用いている国は日本のみであり、改元も日本のみで存続している習わしとなっている。

改元は、多く場合君主交替伴って行われる現代日本では皇位継承付随する形でのみ改元される。天皇君主一代につき元号をひとつのみ定めることを「一世一元」という。日本では明治以降一世一元原則化された。かつては君主交替同じ君主治世において改元が行われることもあった。吉事瑞祥)を記念する改元や凶事の後に縁起直しの意味行われる改元などが行われた例がある。

平成から令和への改元

明治一世一元確立して以降大正・昭和平成への改元はいずれ天皇崩御に伴う形で行われてきた。平成から令和への改元については、天皇陛下御意向受けて2019年退位譲位執り行われ崩御伴わない形で改元が行われることになった天皇崩御によらない改元はおよそ200年ぶりの事となる。

改元の日一覧(明治以降)


かい‐げん【改元】

読み方:かいげん

[名](スル)年号元号)を改めること。改号。「昭和を—して平成となった」→年号

[補説] 行われる理由により、代始(だいはじめ)改元(天皇代替わりに行う)、祥瑞(しょうずい)改元(珍しい自然現象天意とみて行う)、災異改元(災害などに際して行う)、革命改元(讖緯(しんい)説に基づき辛酉(しんゆう)・甲子(かっし)の年に行う)の四つ分けられる


かいげん 【改元】

元号年号)を改めることだが、昔の中国では改め元年をたてることだった。魏の恵王三十六年を改め元年とし、秦の恵文王十四年を改め元年としたのに始まり、これを中途改元という。次いで漢の武帝初めて「建元」という年号をたて、その後、天瑞(天からのめでたいしるし)によって改元が行われるようになり、一年四度、一帝で十余度などという頻繁なこともあったが、明・清時代になり一世一元とした。日本では六四五年に「大化」の年号ができ、以後年号がない時代除いては改元が天災事変祥瑞即位などによって行われたが、明治以後一世一元となった朝廷定めた正式な公年号のほかに、民間寺社などで私的な私年号異年号逸年号)を用いることもあった。年号にはめでたい文字選ばれ、除凶招福願った。→ 瑞応改元

改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/18 02:05 UTC 版)

改元(かいげん)とは、元号を改める(変更する)こと。


注釈

  1. ^ 扶桑略記』や『帝王編年記』では「踰月改元」(7月)、『元亨釈書』では「立年改元」(正月:7月に布告)、『国史大辞典』(吉川弘文館、1908年)や土橋の論文(2010年)では「即日改元」(6月19日)となっている。さらにそもそも「大化」という元号自体が同時代に使われていないとする藪田嘉一郎・佐藤宗諄(造作説)や田中卓新川登亀男(追号説)の説がある[2]
  2. ^ ただし日本も南北東西に長く、特に北海道と沖縄県を編入した明治初期以降はますます日時較差は開くことになる。交通の不便な離島は数か月以上遅延したこともあった。

出典

  1. ^ a b c 七戸(2017)
  2. ^ 河内春人年号制の成立と古代天皇制」『駿台史學』第156号、明治大学史学地理学会、2016年2月29日、1-23頁、NAID 40020759469 
  3. ^ 勝俣鎮夫「戦国時代東国の地域年号について」『戦国時代論』(岩波書店、1996年)
  4. ^ 丸島和洋「岩松持国の改元認識」(初出:『戦国史研究』58号(2009年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一五巻 上野岩松氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-164-6
  5. ^ 久保貴子「朝廷の再生と朝幕関係」『近世の朝廷運営』岩田書院、1998年 P241-242.
  6. ^ 久保貴子「朝廷の再生と朝幕関係」『近世の朝廷運営』岩田書院、1998年 P61-66・236-240.


「改元」の続きの解説一覧

改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 09:09 UTC 版)

延享」の記事における「改元」の解説

寛保4年2月21日グレゴリオ暦1744年4月3日讖緯説に基づく甲子革令に当たるため改元 延享5年7月12日グレゴリオ暦1748年8月5日寛延に改元 今回は改元の予定決まっていたものの、候補絞り切れず幕府には7つの案を出してそのうち天明」「延享」「宝暦」を推挙する形を取った。これに対して幕府は「延享」を推して宝暦」を次点したため、その意向に従って改元を行った

※この「改元」の解説は、「延享」の解説の一部です。
「改元」を含む「延享」の記事については、「延享」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 03:59 UTC 版)

承和 (日本)」の記事における「改元」の解説

天長11年1月3日ユリウス暦834年2月14日):改元。 承和15年6月13日ユリウス暦848年7月16日):嘉祥に改元。

※この「改元」の解説は、「承和 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「承和 (日本)」の記事については、「承和 (日本)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 06:53 UTC 版)

昌泰」の記事における「改元」の解説

寛平10年4月26日ユリウス暦898年5月20日):改元。4月16日8月16日異説あり。 昌泰4年7月15日ユリウス暦901年8月31日):延喜に改元。

※この「改元」の解説は、「昌泰」の解説の一部です。
「改元」を含む「昌泰」の記事については、「昌泰」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 09:01 UTC 版)

天安 (日本)」の記事における「改元」の解説

斉衡4年2月21日ユリウス暦857年3月20日):改元。 天安3年4月15日ユリウス暦859年5月20日):貞観に改元。

※この「改元」の解説は、「天安 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「天安 (日本)」の記事については、「天安 (日本)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 09:04 UTC 版)

元慶」の記事における「改元」の解説

貞観19年4月16日ユリウス暦877年6月1日):改元。 元慶9年2月21日ユリウス暦885年3月11日):仁和に改元。

※この「改元」の解説は、「元慶」の解説の一部です。
「改元」を含む「元慶」の記事については、「元慶」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 10:22 UTC 版)

文暦」の記事における「改元」の解説

天福2年11月5日ユリウス暦1234年11月27日):天変地震により改元。 文暦2年9月19日ユリウス暦1235年11月1日):嘉禎に改元。

※この「改元」の解説は、「文暦」の解説の一部です。
「改元」を含む「文暦」の記事については、「文暦」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:20 UTC 版)

承久」の記事における「改元」の解説

建保7年4月12日ユリウス暦1219年5月27日):改元。旱魃三合によるとされる(『百錬抄』)。 承久4年4月13日ユリウス暦1222年5月25日):貞応に改元。

※この「改元」の解説は、「承久」の解説の一部です。
「改元」を含む「承久」の記事については、「承久」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:22 UTC 版)

建暦」の記事における「改元」の解説

承元5年3月9日ユリウス暦1211年4月23日):順徳天皇代始により改元。 建暦3年12月6日ユリウス暦1214年1月18日):建保に改元。

※この「改元」の解説は、「建暦」の解説の一部です。
「改元」を含む「建暦」の記事については、「建暦」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 10:14 UTC 版)

建保」の記事における「改元」の解説

建暦3年12月6日ユリウス暦1214年1月18日):改元。「天変地妖大地震)」が原因(『百錬抄』)とされている。 建保7年4月12日ユリウス暦1219年5月27日):承久に改元。

※この「改元」の解説は、「建保」の解説の一部です。
「改元」を含む「建保」の記事については、「建保」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:24 UTC 版)

承元」の記事における「改元」の解説

建永2年10月25日ユリウス暦1207年11月16日):改元。三合原因とする説(『百錬抄』)と疱瘡疾疫雨水により改元を原因とする説がある。 承元5年3月9日ユリウス暦1211年4月23日):建暦に改元。

※この「改元」の解説は、「承元」の解説の一部です。
「改元」を含む「承元」の記事については、「承元」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 10:09 UTC 版)

建永」の記事における「改元」の解説

元久3年4月27日ユリウス暦1206年6月5日):改元。赤斑瘡原因とする説(『百錬抄』)と摂政九条良経急死原因とする説(『一代要記』)がある。 建永2年10月25日ユリウス暦1207年11月16日):承元に改元。

※この「改元」の解説は、「建永」の解説の一部です。
「改元」を含む「建永」の記事については、「建永」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:37 UTC 版)

建仁」の記事における「改元」の解説

正治3年2月13日ユリウス暦1201年3月19日):辛酉革命に当たるため改元。 建仁4年2月20日ユリウス暦1204年3月23日):元久に改元。

※この「改元」の解説は、「建仁」の解説の一部です。
「改元」を含む「建仁」の記事については、「建仁」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 19:02 UTC 版)

昭和」の記事における「改元」の解説

『書経』堯典百姓昭明協和萬邦百姓ひゃくせい昭明(せうめい)にして、萬邦(ばんぱう)を協和(けふわ)す 昭和登極令皇室令一部)による制度での最後元号であり、1979年昭和54年)の元号法制定の際、同法附則2項により、「本則第1項規定に基づき定められたもの」とされた。 「昭和」の由来は、四書五経一つ書経堯典の「百姓昭明協和萬邦」(百姓昭明にして、萬邦協和す)による。漢学者吉田増蔵考案。「昭和」が元号候補になったのはこれが最初である。なお、江戸時代に全く同一出典で「明和」(1764年1772年)の元号制定されている(「百姓昭明協和萬邦」)。国民の平和および世界各国共存繁栄を願う意味である。 当時枢密院議長だった倉富勇三郎日記によれば宮内省(現:宮内庁作成元号案として「神化」「元化」「昭和」「神和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」があったが、数回勘申結果、「昭和」を候補とし、「元化」「同和」を参考とする最終案決定した一方内閣では「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」を元号案の候補挙げていた。

※この「改元」の解説は、「昭和」の解説の一部です。
「改元」を含む「昭和」の記事については、「昭和」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 10:24 UTC 版)

延応」の記事における「改元」の解説

暦仁2年2月7日ユリウス暦1239年3月13日):天変地震により改元。 延応2年7月16日ユリウス暦1240年8月5日):仁治に改元。

※この「改元」の解説は、「延応」の解説の一部です。
「改元」を含む「延応」の記事については、「延応」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:14 UTC 版)

元仁」の記事における「改元」の解説

貞応3年11月20日ユリウス暦1224年12月31日):改元。天変炎旱による(百錬抄とされる元仁2年4月20日ユリウス暦1225年5月28日):嘉禄に改元。

※この「改元」の解説は、「元仁」の解説の一部です。
「改元」を含む「元仁」の記事については、「元仁」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 08:52 UTC 版)

斉衡」の記事における「改元」の解説

仁寿4年11月30日ユリウス暦854年12月23日):改元。 斉衡4年2月21日ユリウス暦857年3月20日):天安に改元。

※この「改元」の解説は、「斉衡」の解説の一部です。
「改元」を含む「斉衡」の記事については、「斉衡」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:56 UTC 版)

康保」の記事における「改元」の解説

応和4年7月10日ユリウス暦964年8月19日):甲子革令により改元。 康保5年8月13日ユリウス暦968年9月8日):安和に改元。

※この「改元」の解説は、「康保」の解説の一部です。
「改元」を含む「康保」の記事については、「康保」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:09 UTC 版)

嘉禄」の記事における「改元」の解説

元仁2年4月20日ユリウス暦1225年5月28日):改元。理由については、備考参照のこと。 嘉禄3年12月10日ユリウス暦1228年1月18日):安貞に改元。

※この「改元」の解説は、「嘉禄」の解説の一部です。
「改元」を含む「嘉禄」の記事については、「嘉禄」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:31 UTC 版)

文治」の記事における「改元」の解説

元暦2年8月14日ユリウス暦1185年9月9日):改元。『百錬抄』には「十四日甲子、有改元、依地震也、」とあり地震文治地震)が原因とされるが、『一代要記』には「八月十四日改元、依兵革也、」とあり兵革理由とする説もある。 文治6年4月11日ユリウス暦1190年5月16日):建久に改元。

※この「改元」の解説は、「文治」の解説の一部です。
「改元」を含む「文治」の記事については、「文治」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 09:17 UTC 版)

仁寿」の記事における「改元」の解説

嘉祥4年4月28日ユリウス暦851年6月1日):改元。 仁寿4年11月30日ユリウス暦854年12月23日):斉衡に改元。

※この「改元」の解説は、「仁寿」の解説の一部です。
「改元」を含む「仁寿」の記事については、「仁寿」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 10:18 UTC 版)

安貞」の記事における「改元」の解説

嘉禄3年12月10日ユリウス暦1228年1月18日):天変相次いだため、また、三合疱瘡流行のため改元。 安貞3年3月5日ユリウス暦1229年3月31日):天変続き飢饉態となったことから寛喜に改元。 なお、それまで朝廷から鎌倉幕府に改元を報じる使者派遣されていたが、今回より六波羅探題派遣され六波羅探題使者鎌倉伝えようになったまた、鎌倉では改元に伴って幕府政所にて吉書始儀式が行われるようになった

※この「改元」の解説は、「安貞」の解説の一部です。
「改元」を含む「安貞」の記事については、「安貞」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:05 UTC 版)

仁治」の記事における「改元」の解説

延応2年7月16日ユリウス暦1240年8月5日):彗星地震旱魃などにより改元。 仁治4年2月26日ユリウス暦1243年3月18日):寛元に改元。

※この「改元」の解説は、「仁治」の解説の一部です。
「改元」を含む「仁治」の記事については、「仁治」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 10:15 UTC 版)

貞応」の記事における「改元」の解説

承久4年4月13日ユリウス暦1222年5月25日):後堀河天皇代始による改元。 貞応3年11月20日ユリウス暦1224年12月31日):元仁に改元。

※この「改元」の解説は、「貞応」の解説の一部です。
「改元」を含む「貞応」の記事については、「貞応」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/26 14:40 UTC 版)

鳳暦 (大理)」の記事における「改元」の解説

庚申年(1200年)に、宣宗段智興死去し段智廉即位翌年辛酉年、1201年改元する在位中に元寿」に改元しているが、時期不明である。

※この「改元」の解説は、「鳳暦 (大理)」の解説の一部です。
「改元」を含む「鳳暦 (大理)」の記事については、「鳳暦 (大理)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 08:32 UTC 版)

正治」の記事における「改元」の解説

建久10年4月27日ユリウス暦1199年5月23日):改元。土御門天皇即位に伴う代始改元とされる(『百錬抄』)。 正治3年2月13日ユリウス暦1201年3月19日):建仁に改元。

※この「改元」の解説は、「正治」の解説の一部です。
「改元」を含む「正治」の記事については、「正治」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:45 UTC 版)

応長」の記事における「改元」の解説

延慶4年4月28日ユリウス暦1311年5月17日):疫病により改元。 応長2年3月20日ユリウス暦1312年4月27日):正和に改元。

※この「改元」の解説は、「応長」の解説の一部です。
「改元」を含む「応長」の記事については、「応長」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 15:11 UTC 版)

元応」の記事における「改元」の解説

文保3年4月28日ユリウス暦1319年5月18日):後醍醐天皇即位のため改元。 元応3年2月23日ユリウス暦1321年3月22日):元亨に改元。

※この「改元」の解説は、「元応」の解説の一部です。
「改元」を含む「元応」の記事については、「元応」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:28 UTC 版)

徳治」の記事における「改元」の解説

嘉元4年12月14日ユリウス暦1307年1月18日):天変により改元。 徳治3年10月9日ユリウス暦1308年11月22日):延慶に改元。

※この「改元」の解説は、「徳治」の解説の一部です。
「改元」を含む「徳治」の記事については、「徳治」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:58 UTC 版)

正和」の記事における「改元」の解説

応長2年3月20日ユリウス暦1312年4月27日):天変地震により改元。 正和6年2月3日ユリウス暦1317年3月16日):文保に改元。

※この「改元」の解説は、「正和」の解説の一部です。
「改元」を含む「正和」の記事については、「正和」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 15:05 UTC 版)

文保」の記事における「改元」の解説

正和6年2月3日ユリウス暦1317年3月16日):大地震などにより改元。 文保3年4月28日ユリウス暦1319年5月18日):元応に改元。

※この「改元」の解説は、「文保」の解説の一部です。
「改元」を含む「文保」の記事については、「文保」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 13:51 UTC 版)

正応」の記事における「改元」の解説

弘安11年4月28日ユリウス暦1288年5月29日):伏見天皇即位により改元。 正応6年8月5日ユリウス暦1293年9月6日):永仁に改元。

※この「改元」の解説は、「正応」の解説の一部です。
「改元」を含む「正応」の記事については、「正応」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:03 UTC 版)

乾元 (日本)」の記事における「改元」の解説

正安4年11月21日ユリウス暦1302年12月10日):後二条天皇即位により改元。 乾元2年8月5日ユリウス暦1303年9月16日):嘉元に改元。

※この「改元」の解説は、「乾元 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「乾元 (日本)」の記事については、「乾元 (日本)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:18 UTC 版)

嘉元」の記事における「改元」の解説

乾元2年8月5日ユリウス暦1303年9月16日):彗星日照りにより改元。 嘉元4年12月14日ユリウス暦1307年1月18日):徳治に改元。

※この「改元」の解説は、「嘉元」の解説の一部です。
「改元」を含む「嘉元」の記事については、「嘉元」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:13 UTC 版)

正安」の記事における「改元」の解説

永仁7年4月25日ユリウス暦1299年5月25日):後伏見天皇即位により改元。 正安4年11月21日ユリウス暦1302年12月10日):乾元に改元。

※この「改元」の解説は、「正安」の解説の一部です。
「改元」を含む「正安」の記事については、「正安」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/17 15:16 UTC 版)

養老」の記事における「改元」の解説

霊亀3年11月17日ユリウス暦717年12月24日):養老の滝命名因んで改元。 養老8年2月4日ユリウス暦724年3月3日):神亀に改元。

※この「改元」の解説は、「養老」の解説の一部です。
「改元」を含む「養老」の記事については、「養老」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 13:54 UTC 版)

永仁」の記事における「改元」の解説

正応6年8月5日ユリウス暦1293年9月6日):天変関東地震により改元。 永仁7年4月25日ユリウス暦1299年5月25日):正安に改元。

※この「改元」の解説は、「永仁」の解説の一部です。
「改元」を含む「永仁」の記事については、「永仁」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:34 UTC 版)

延慶 (日本)」の記事における「改元」の解説

徳治3年10月9日ユリウス暦1308年11月22日):花園天皇即位により改元。 延慶4年4月28日ユリウス暦1311年5月17日):応長に改元。

※この「改元」の解説は、「延慶 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「延慶 (日本)」の記事については、「延慶 (日本)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 15:18 UTC 版)

元亨」の記事における「改元」の解説

元応3年2月23日ユリウス暦1321年3月22日):辛酉革命に当たるため改元。 元亨4年12月9日ユリウス暦1324年12月25日):正中に改元。 ただし、「柳原家文書所収元亨改元に関する議論では、吉田定房北畠親房洞院公賢らの諸公卿が辛酉革命説を批判し徳政推進観点から改元を行うことを後醍醐天皇進言している。これは当時日本入ってきた宋学影響とも言われている。

※この「改元」の解説は、「元亨」の解説の一部です。
「改元」を含む「元亨」の記事については、「元亨」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 00:15 UTC 版)

建久」の記事における「改元」の解説

文治6年4月11日ユリウス暦1190年5月16日):三合により改元(『百錬抄』)。 建久10年4月27日ユリウス暦1199年5月23日):正治に改元。

※この「改元」の解説は、「建久」の解説の一部です。
「改元」を含む「建久」の記事については、「建久」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 00:18 UTC 版)

天福 (日本)」の記事における「改元」の解説

貞永2年4月15日ユリウス暦1233年5月25日):改元。 天福2年11月5日ユリウス暦1234年11月27日):文暦に改元。

※この「改元」の解説は、「天福 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「天福 (日本)」の記事については、「天福 (日本)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 06:17 UTC 版)

暦応」の記事における「改元」の解説

建武5年8月28日ユリウス暦1338年10月11日)、改元。代始改元(光明天皇即位に伴う改元)。 暦応5年4月27日ユリウス暦1342年6月1日)、康永に改元。災異改元(天変地妖天変地異〉に対する改元)。 江戸時代柳原紀光著した歴史書続史愚抄によれば、「暦応」改元の決定朝廷室町幕府伝えなかったために、足利尊氏室町幕府人々が改元の事実知ったのは9月4日のことであったという。このことは、洞院実夏の『実夏公記暦応元年8月28日条からも裏付けられる。もっとも、以後においても改元詔書到達後に幕府側の施行手続であった室町殿将軍)の吉書始管領沙汰始諸般の事情速やかに行い得ない場合には公武間にて新旧元号用いられる場合もあった。

※この「改元」の解説は、「暦応」の解説の一部です。
「改元」を含む「暦応」の記事については、「暦応」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/04 06:53 UTC 版)

乾化」の記事における「改元」の解説

913年1月帝位簒奪した2代皇帝朱友珪鳳暦改元する。しかし、同年2月朱友珪殺害され3代皇帝として朱友貞即位元号乾化戻した

※この「改元」の解説は、「乾化」の解説の一部です。
「改元」を含む「乾化」の記事については、「乾化」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/21 02:12 UTC 版)

万慶」の記事における「改元」の解説

永寿5年9月神宗不豫により改元。 元年9月22日神宗崩ず元年11月玄宗即位により翌年より景治に改元。

※この「改元」の解説は、「万慶」の解説の一部です。
「改元」を含む「万慶」の記事については、「万慶」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/21 02:30 UTC 版)

明道 (李朝)」の記事における「改元」の解説

元年10月乾符有道より改元。 3年10月チャンパ王国占城首都ヴィジャヤ現代ビンディン省)への親征から凱旋帰国天感聖武に改元。

※この「改元」の解説は、「明道 (李朝)」の解説の一部です。
「改元」を含む「明道 (李朝)」の記事については、「明道 (李朝)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/09 05:43 UTC 版)

祥興」の記事における「改元」の解説

元年5月1日衛王即位により立年改元。2年2月6日崖山の戦い敗れた衛王入水して没し南宋は完全に滅亡する。 なお定説では『宋史』及び『続資治通鑑』などの史書依拠し1278年改元とするが、1279年旧正月踰年改元したとする説もある。『元史』は黄華称した私年号について、1283年を「5年」としているが、この場合1279年改元が符合する

※この「改元」の解説は、「祥興」の解説の一部です。
「改元」を含む「祥興」の記事については、「祥興」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 01:57 UTC 版)

延康 (漢)」の記事における「改元」の解説

曹操死去に伴い改元された。最高実力者といえども皇帝臣下に過ぎない者の死を理由にした改元は極めて異例であり、呉と蜀漢などでは認められなかった。 プロジェクト 紀年法

※この「改元」の解説は、「延康 (漢)」の解説の一部です。
「改元」を含む「延康 (漢)」の記事については、「延康 (漢)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 08:00 UTC 版)

元禄」の記事における「改元」の解説

貞享5年9月30日グレゴリオ暦1688年10月23日東山天皇代始のため改元 元禄17年3月13日グレゴリオ暦1704年4月16日宝永に改元 この時の改元の経緯については不明な点も多いが、朝廷は「宝永」と「寛禄」を候補として、特に霊元上皇は「宝永」を候補として推していたが、幕府はこれを拒否して最終案から漏れた候補の中から選ばれた「元禄」を選択したとされる皮肉にもこの時幕府拒否した宝永」が次の改元で採用されることになる。

※この「改元」の解説は、「元禄」の解説の一部です。
「改元」を含む「元禄」の記事については、「元禄」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 17:49 UTC 版)

正長」の記事における「改元」の解説

応永35年4月27日ユリウス暦1428年6月10日称光天皇即位に伴う代始改元 正長2年9月5日ユリウス暦1429年10月3日永享に改元 称光天皇応永19年8月29日1412年10月5日)に践祚したが、室町幕府長い間改元を認めず即位16年にしてようやく代始改元の実施認められた。そのため、実際に室町幕府が新将軍足利義教就任に伴う代始改元を要求したとする見方もある(ただし、義教実際将軍就任は翌2年入ってからとなる)。 なお、改元の3か月後に称光天皇崩御することになる。 また、永享改元当時義教対立していた鎌倉公方足利持氏永享への改元を認めず、「正長4年」(=永享3年1431年)までこの元号用いた永享の乱さきがけ)。

※この「改元」の解説は、「正長」の解説の一部です。
「改元」を含む「正長」の記事については、「正長」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 21:28 UTC 版)

享徳」の記事における「改元」の解説

宝徳4年7月25日ユリウス暦1452年8月10日三合の厄を避けるため改元 享徳4年7月25日ユリウス暦1455年9月6日康正に改元 当時関白であった一条兼良の強い意向によって行われた改元とされている(『建内記享徳元年7月25日条)。 なお、康正改元当時室町幕府から追討受けていた古河公方足利成氏康正以後の改元を認めず以後関東の広い地域において、「享徳27年」(=文明10年1478年)まで用いられていた(享徳の乱)。これについては、京都室町幕府抵抗して改元を受け入れなかったとする佐藤博信説と室町幕府が改元詔書関東管領上杉氏幕府方)のみに下したからだとする峰岸純夫説がある。

※この「改元」の解説は、「享徳」の解説の一部です。
「改元」を含む「享徳」の記事については、「享徳」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 02:03 UTC 版)

寛和」の記事における「改元」の解説

永観3年4月27日ユリウス暦985年5月19日)- 改元。 寛和3年4月5日ユリウス暦987年5月5日)- 永延に改元。

※この「改元」の解説は、「寛和」の解説の一部です。
「改元」を含む「寛和」の記事については、「寛和」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 04:52 UTC 版)

文政」の記事における「改元」の解説

文化15年4月22日グレゴリオ暦1818年5月26日): 仁孝天皇即位のため改元 文政13年12月10日グレゴリオ暦1831年1月23日): 天保に改元 朝廷7つの案を出した上で文政」と「文長」を推し幕府はこれを受けて文政」を新元号とした。

※この「改元」の解説は、「文政」の解説の一部です。
「改元」を含む「文政」の記事については、「文政」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 20:56 UTC 版)

嘉永」の記事における「改元」の解説

弘化5年2月28日グレゴリオ暦1848年4月1日): 孝明天皇代始のため改元 嘉永7年11月27日グレゴリオ暦1855年1月15日): 安政に改元 朝廷は「万延」・「明治」などを含めた7つの案のうち、最終的に天久」と「嘉永」の2案に絞り朝廷内意は「天久」であると幕府伝えた。だが、幕府は「嘉永」を推して譲らず、最終的に朝廷もこれに従った

※この「改元」の解説は、「嘉永」の解説の一部です。
「改元」を含む「嘉永」の記事については、「嘉永」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 05:16 UTC 版)

天保」の記事における「改元」の解説

文政13年12月10日グレゴリオ暦1831年1月23日)、 同年起きた江戸神田佐久間町火事文政大火3月21日グレゴリオ暦4月24日)や、文政京都地震7月2日、同8月19日)などの災異のため改元 天保15年12月2日(同1845年1月9日)、 弘化に改元 勘者として式部大輔桑原為顕・同権大輔高辻長・文博士唐橋在久の3名が知られ桑原勘進した案の中に天保」があったことが知られている。後述のような曰くのある元号であったが、朝議でもその後幕府への内慮でも特段異論出ずに改元が実施されている。

※この「改元」の解説は、「天保」の解説の一部です。
「改元」を含む「天保」の記事については、「天保」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 20:52 UTC 版)

弘化」の記事における「改元」の解説

天保15年12月2日グレゴリオ暦1845年1月9日江戸城火災などの災異のため改元 弘化5年2月28日グレゴリオ暦1848年4月1日嘉永に改元 天保9年1838年)の江戸城西ノ丸火災の際には改元の議論生じなかったが、天保15年5月火災本丸火事でしかも立て続け火災であったこと、先に崩じた光格上皇対す諡号復活の際に幕府協力得た事を背景幕府意向配慮した改元が行われたとされる

※この「改元」の解説は、「弘化」の解説の一部です。
「改元」を含む「弘化」の記事については、「弘化」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 07:07 UTC 版)

永和 (日本)」の記事における「改元」の解説

応安8年2月27日ユリウス暦1375年3月29日):後円融天皇即位に伴う代始改元。 永和5年3月22日ユリウス暦1379年4月9日):康暦に改元。

※この「改元」の解説は、「永和 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「永和 (日本)」の記事については、「永和 (日本)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 14:34 UTC 版)

延暦」の記事における「改元」の解説

天応2年8月19日ユリウス暦782年9月30日):改元。 延暦25年5月18日ユリウス暦806年6月8日):大同に改元。

※この「改元」の解説は、「延暦」の解説の一部です。
「改元」を含む「延暦」の記事については、「延暦」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 17:31 UTC 版)

朱鳥」の記事における「改元」の解説

元号制度孝徳天皇の代から始められ大化白雉2つ元号定められたが、孝徳天皇崩御して次の斉明天皇の代より断絶していた。天武天皇15年7月20日ユリウス暦686年8月14日)に朱鳥定められ32年ぶりに再開された。理由明記されていないが、浄御原宮号と共に天皇病気平癒祈願した改元と思われる。しかし同年末日は閏12月30日ユリウス暦687年2月17日))に天武天皇崩御すると、翌年以降701年大宝までは、元号定められることはなかった。

※この「改元」の解説は、「朱鳥」の解説の一部です。
「改元」を含む「朱鳥」の記事については、「朱鳥」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 01:26 UTC 版)

慶長」の記事における「改元」の解説

文禄5年10月27日グレゴリオ暦1596年12月16日天変地異などの災異のため改元 慶長20年7月13日グレゴリオ暦1615年9月5日元和に改元 豊臣政権自己の権威維持を図るために豊臣秀次自害した文禄4年豊臣秀吉病死し慶長3年朝廷に対して改元を要請したことが知られているが、朝廷はこれを拒んでいる。この時期豊臣政権)の改元はあくまでも公家側と武家側の意見一致が必要であり、それが成立したのが後陽成天皇即位に伴う代始改元の動き豊臣政権による全国平定重なった文禄」改元と京都などで地震相次いだ慶長」改元のみであったとみられている。

※この「改元」の解説は、「慶長」の解説の一部です。
「改元」を含む「慶長」の記事については、「慶長」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 18:59 UTC 版)

明治」の記事における「改元」の解説

ウィキソース今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔書原文あります1868年10月23日慶応4年9月8日)- 皇太子睦仁親王(後の明治天皇)の即位による改元。ただし、改元の詔書には「吉凶之象兆ニ隨ヒ」(吉凶の象兆に随ひ)「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年改め明治元年為す)とあり、改元が年の呼称改めということから。また、一世一元の詔併せて出され天皇在位中の改元は行わないものとした。 『元号247総覧』によると、松平春嶽新元号考案委ねられ複数の案を出し最終的に明治天皇自身によるくじ引きで「明治」が選定されとされる1912年明治45年7月30日1873年明治6年〉に太陽暦施行)- 明治天皇崩御皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の践祚即位)により、大正たいしょう)と改元。同日施行され大正元年7月30日となった

※この「改元」の解説は、「明治」の解説の一部です。
「改元」を含む「明治」の記事については、「明治」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:05 UTC 版)

元治」の記事における「改元」の解説

文久4年2月20日:(グレゴリオ暦1864年3月27日讖緯説に基づく甲子革令の年に当たるため改元。 元治2年4月7日グレゴリオ暦1865年5月1日): 慶応に改元。

※この「改元」の解説は、「元治」の解説の一部です。
「改元」を含む「元治」の記事については、「元治」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 13:56 UTC 版)

安永 (元号)」の記事における「改元」の解説

明和9年11月16日グレゴリオ暦1772年12月10日) 改元。後桃園天皇即位のためと、続いて起こった火事風水害が「明和九年(めいわくねん)」すなわち「迷惑年」によるとされたため。ただし、前者については後桃園天皇同様に中継ぎ挟んで即位した霊元天皇先例倣って代始改元を行わなかった(安永改元と新帝即位無関係)とする記録もある。 安永10年4月2日グレゴリオ暦1781年4月25日天明に改元

※この「改元」の解説は、「安永 (元号)」の解説の一部です。
「改元」を含む「安永 (元号)」の記事については、「安永 (元号)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 08:24 UTC 版)

永暦 (南明)」の記事における「改元」の解説

隆武2年11月18日1646年12月24日):永明王由榔が皇帝永暦帝)に即位踰年改元法に則り翌年元日をもって永暦元年とする。 永暦16年4月15日1662年6月1日):南明最後の皇帝永暦帝が、呉三桂により処刑される。しかし、これ以降台湾鄭氏政権永暦年号使用し続ける。 永暦37年1683年):台湾鄭克塽清に降伏し鄭氏政権滅亡

※この「改元」の解説は、「永暦 (南明)」の解説の一部です。
「改元」を含む「永暦 (南明)」の記事については、「永暦 (南明)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 23:02 UTC 版)

神護景雲」の記事における「改元」の解説

天平神護3年8月16日ユリウス暦767年9月13日):瑞雲発現により改元。 神護景雲4年10月1日ユリウス暦770年10月23日):宝亀に改元。

※この「改元」の解説は、「神護景雲」の解説の一部です。
「改元」を含む「神護景雲」の記事については、「神護景雲」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 05:37 UTC 版)

寛仁」の記事における「改元」の解説

長和6年4月23日ユリウス暦1017年5月21日) 、改元。 寛仁5年2月2日ユリウス暦1021年3月17日) 、「治安」に改元。

※この「改元」の解説は、「寛仁」の解説の一部です。
「改元」を含む「寛仁」の記事については、「寛仁」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 03:13 UTC 版)

大同 (日本)」の記事における「改元」の解説

延暦25年5月18日ユリウス暦806年6月8日):改元。 大同5年9月19日ユリウス暦810年10月20日):弘仁に改元。

※この「改元」の解説は、「大同 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「大同 (日本)」の記事については、「大同 (日本)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 15:33 UTC 版)

和銅」の記事における「改元」の解説

慶雲5年1月11日ユリウス暦708年2月7日):和銅献じられたことにより改元。 和銅8年9月2日ユリウス暦715年10月3日):霊亀に改元。

※この「改元」の解説は、「和銅」の解説の一部です。
「改元」を含む「和銅」の記事については、「和銅」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 01:17 UTC 版)

寛保」の記事における「改元」の解説

元文6年2月27日グレゴリオ暦1741年4月12日讖緯説に基づく辛酉革命に当たるため改元 寛保4年2月21日グレゴリオ暦1744年4月3日延享に改元 「寛保」は正徳改元の時に当時霊元上皇強く推したものの、新井白石から「柳沢吉保想像させる」として拒絶され経緯があったとされる。しかし、今回先例基づいて2月中の改元を実現させるために勧進する候補17増やしたところ、却って選定手間取って幕府に案が届いたのは2月になってからで、桜町天皇摂関家推す寛保に対して幕府異論を挟まなかったために、予定2月改元に間に合せることが出来た

※この「改元」の解説は、「寛保」の解説の一部です。
「改元」を含む「寛保」の記事については、「寛保」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 06:37 UTC 版)

天長」の記事における「改元」の解説

弘仁15年1月5日ユリウス暦824年2月8日):改元。 天長11年1月3日ユリウス暦834年2月14日):承和に改元。

※この「改元」の解説は、「天長」の解説の一部です。
「改元」を含む「天長」の記事については、「天長」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 03:35 UTC 版)

白雉」の記事における「改元」の解説

大化6年2月15日ユリウス暦650年3月22日):1月1日遡って改元(立年改元)。以後明治まで立年改元が慣行となる。 孝徳天皇崩御し白雉5年末日12月30日ユリウス暦655年2月11日)を最後に使用されなくなり以降686年朱鳥定められるまで元号はなかった。

※この「改元」の解説は、「白雉」の解説の一部です。
「改元」を含む「白雉」の記事については、「白雉」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:39 UTC 版)

元中」の記事における「改元」の解説

弘和4年4月28日ユリウス暦1384年5月18日後亀山天皇即位および甲子革令に当たるため改元 元中9年10月5日ユリウス暦1392年11月19日南北朝合一伴って廃止北朝元号明徳」に統一される

※この「改元」の解説は、「元中」の解説の一部です。
「改元」を含む「元中」の記事については、「元中」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:56 UTC 版)

元亀」の記事における「改元」の解説

永禄13年4月23日ユリウス暦1570年5月27日戦乱などの災異のため改元。 元亀4年7月28日ユリウス暦1573年8月25日天正に改元。 義昭は自らが将軍就任した際、元号を「元亀」と改元するべく朝廷奏請した(『言継卿記永禄12年4月8日条ほか)。これに対して織田信長はそれが将軍権威復活につながること、正親町天皇在位続いているのに必要ないと反対した。しかし、義昭朝廷説得するために下行費用名目5000疋もの朝廷への献金実施(『康雄記』同4月6日条)し、信長朝倉氏討伐出陣した4月23日、改元を実行している。 信長信長包囲網の中で悪戦苦闘続けていた。『信長公記 巻六』によると、元亀3年1572年9月足利義昭提出した17か条の意見書で、「元亀年号不吉に侯間、改元然るべしの由、天下沙汰につきて、申し上げ侯」と改元するよう申し出ている。義昭追放後に改元を実行させたことからも、信長にとって元亀年号不愉快なのだった推察される。

※この「改元」の解説は、「元亀」の解説の一部です。
「改元」を含む「元亀」の記事については、「元亀」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:41 UTC 版)

文和」の記事における「改元」の解説

観応3年9月27日ユリウス暦1352年11月4日後光厳天皇即位による代始改元 文和5年3月28日ユリウス暦1356年4月29日延文に改元 当時代始改元は即位翌年に行う踰年改元が一般的であったが、正平一統に絡む緊迫した政治状況下において、足利尊氏名代であった嫡男義詮北朝立て直しのために至急の改元を求め武家執奏行い新天皇の践祚から1か月余りで改元が実施された。

※この「改元」の解説は、「文和」の解説の一部です。
「改元」を含む「文和」の記事については、「文和」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:36 UTC 版)

建武 (日本)」の記事における「改元」の解説

詳細は「建武の新政#建武の元号」を参照 元弘3年/正慶2年1333年5月22日元弘の乱鎌倉幕府打倒し後醍醐天皇は、遷幸先の船上山行宮から京都に戻る途上5月25日鎌倉幕府によって擁立された持明院統光厳天皇即位とその元号である「正慶」の無効宣言した後醍醐天皇親政開始して元弘4年1月29日ユリウス暦1334年3月5日)、勅旨出し建武に改元した。 その後足利尊氏との対立発生した建武の乱により、建武の新政数年崩壊した後醍醐天皇建武3年2月29日ユリウス暦1336年4月11日)に延元に改元した。のちに光明天皇擁立した北朝方は、建武の元号使い続け建武5年8月28日ユリウス暦1338年10月11日)に暦応に改元した。

※この「改元」の解説は、「建武 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「建武 (日本)」の記事については、「建武 (日本)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:42 UTC 版)

康安」の記事における「改元」の解説

延文6年3月29日ユリウス暦1361年5月4日) 改元 康安2年9月23日ユリウス暦1362年10月11日貞治に改元 『太平記』(巻36によれば、改元の日の夜、京都大火があり改元に批判の声高まったが、室町幕府強硬な主張で改元がそのまま実施されたという。

※この「改元」の解説は、「康安」の解説の一部です。
「改元」を含む「康安」の記事については、「康安」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:44 UTC 版)

康応」の記事における「改元」の解説

嘉慶3年2月9日ユリウス暦1389年3月7日) 改元。病事を理由とする(『続史愚抄』)。 康応2年3月26日グレゴリオ暦1390年4月12日明徳に改元 病事とは、前年近衛兼嗣二条良基摂関2代続けて死去したことなどを指すと考えられている。

※この「改元」の解説は、「康応」の解説の一部です。
「改元」を含む「康応」の記事については、「康応」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:11 UTC 版)

永暦」の記事における「改元」の解説

平治2年1月10日ユリウス暦1160年2月18日):大乱平治の乱)により改元。 永暦2年9月4日ユリウス暦1161年9月24日):応保に改元。

※この「改元」の解説は、「永暦」の解説の一部です。
「改元」を含む「永暦」の記事については、「永暦」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 06:37 UTC 版)

弘仁」の記事における「改元」の解説

大同5年9月19日ユリウス暦810年10月20日):代始により改元。 弘仁15年1月5日ユリウス暦824年2月8日):天長に改元。

※この「改元」の解説は、「弘仁」の解説の一部です。
「改元」を含む「弘仁」の記事については、「弘仁」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:52 UTC 版)

明応」の記事における「改元」の解説

延徳4年7月19日ユリウス暦1492年8月12日疫病などにより改元。ただし、室町幕府は改元吉書始7月28日行い、この日から新元号採用している。 明応10年2月29日ユリウス暦1501年3月18日文亀に改元 権大納言甘露寺親長疫病の流行理由に改元を発議をしたとされる(『親長卿記延徳4年5月1日条)。将軍足利義材の強い政治的関与があった改元であるとされ、改元の上卿・実施日更には新元号に「明」の字を用いることまで干渉した伝えられている(『親長卿記延徳4年7月2・1019日各条)。

※この「改元」の解説は、「明応」の解説の一部です。
「改元」を含む「明応」の記事については、「明応」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:52 UTC 版)

長享」の記事における「改元」の解説

文明19年7月20日ユリウス暦1487年8月9日戦乱疫病などにより改元 長享3年8月21日ユリウス暦1489年9月16日延徳に改元 ただし、改元後も幕府側の準備不足の為、8月9日まで公家武家文明年号使用した

※この「改元」の解説は、「長享」の解説の一部です。
「改元」を含む「長享」の記事については、「長享」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 08:56 UTC 版)

天平勝宝」の記事における「改元」の解説

天平感宝元年7月2日ユリウス暦749年8月19日):孝謙天皇即位により改元。 天平勝宝9歳8月18日ユリウス暦757年9月6日):天平宝字に改元。

※この「改元」の解説は、「天平勝宝」の解説の一部です。
「改元」を含む「天平勝宝」の記事については、「天平勝宝」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:26 UTC 版)

康元」の記事における「改元」の解説

建長8年10月5日ユリウス暦1256年10月24日) 改元。赤斑瘡による説(『百錬抄』)がある。 康元2年3月14日ユリウス暦1257年3月31日正嘉に改元

※この「改元」の解説は、「康元」の解説の一部です。
「改元」を含む「康元」の記事については、「康元」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:43 UTC 版)

康暦」の記事における「改元」の解説

永和5年3月22日ユリウス暦1379年4月9日疫病兵革による改元 康暦3年2月24日ユリウス暦1381年3月20日永徳に改元 菅原秀長の『迎陽記』によれば室町幕府から准三后二条良基を介して、改元の日時使用する文字に関して様々な介入があったことが記されている。当時、改元は朝廷権限であったが、室町幕府同意なくして実現できなかった状況反映している。

※この「改元」の解説は、「康暦」の解説の一部です。
「改元」を含む「康暦」の記事については、「康暦」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 14:09 UTC 版)

弘光」の記事における「改元」の解説

崇禎17年1644年3月19日李自成軍の北京攻略により明朝滅亡するが、5月15日万暦帝の孫である福王由崧が南京において皇帝即位し亡命政権南明)を発足させ、明朝復興運動中心となる即位の際に年号を「弘光」と定め踰年改元法に則り翌年1645年をもって弘光元年改元する。 しかし、弘光元年5月24日に、清軍の攻撃受けて南京陥落28日に、弘光帝は清軍に捕らえられた。残存南明勢力福州逃れ、閏6月15日唐王聿鍵が皇帝即位隆武帝)、年号を「隆武」と定め、その年の7月1日以って改元した。

※この「改元」の解説は、「弘光」の解説の一部です。
「改元」を含む「弘光」の記事については、「弘光」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 14:21 UTC 版)

隆武」の記事における「改元」の解説

弘光元年1645年)閏6月15日、清軍に捕らえられ弘光帝代わり福州において唐王聿鍵が皇帝即位隆武帝)、年号を「隆武」と定め、その年の7月1日以って改元した。 しかし、隆武2年8月28日隆武帝聿鍵)もまた清軍に捕らわれたため、11月5日隆武帝の弟、聿𨮁が広州即位した年号を「紹武」と定め踰年改元法に則り翌年1647年1月1日以って紹武元年改元する予定であったが、12月15日に清軍の攻撃を受け紹武帝聿𨮁)が自害したことにより、紹武年号施行されなかった。 一方この年11月18日には、弘光帝従兄弟にあたる永明王由榔も肇慶皇帝即位し永暦帝)、年号を「永暦」と定め踰年改元法に則り翌年1月1日以って永暦元年に改元した。

※この「改元」の解説は、「隆武」の解説の一部です。
「改元」を含む「隆武」の記事については、「隆武」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 07:06 UTC 版)

元文」の記事における「改元」の解説

享保21年4月28日グレゴリオ暦1736年6月7日桜町天皇即位のため改元 元文6年2月27日グレゴリオ暦1741年4月12日寛保に改元 この改元の際、中御門上皇清原氏系の伏原宣通を勘案者に加えるように命じたところ、菅原氏系の学者明経道清原氏)が紀伝道菅原氏)の領域侵すものだと猛反対して朝廷内部紛糾した結局桜町天皇決断で宣通起用中止されたものの、桜町天皇関白一条兼香による官制改革きっかけとなる事件一つであった

※この「改元」の解説は、「元文」の解説の一部です。
「改元」を含む「元文」の記事については、「元文」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 15:03 UTC 版)

文久」の記事における「改元」の解説

万延2年2月19日グレゴリオ暦1861年3月29日): 讖緯説に基づく辛酉革命の年に当たるため改元。 文久4年2月20日グレゴリオ暦1864年3月27日):元治に改元。 なお、前回万延改元の時に最終的に絞られ2つのうち最後に外されたのが「文久であった

※この「改元」の解説は、「文久」の解説の一部です。
「改元」を含む「文久」の記事については、「文久」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 16:50 UTC 版)

明和」の記事における「改元」の解説

宝暦14年6月2日グレゴリオ暦1764年6月30日後桜町天皇即位のため改元 明和9年11月16日グレゴリオ暦1772年12月10日安永に改元 当初1月28日改元の予定であったが、朝鮮通信使来日中の改元は事務上の問題加えて外聞問題生じるとして4ヶ月延期された。

※この「改元」の解説は、「明和」の解説の一部です。
「改元」を含む「明和」の記事については、「明和」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 16:49 UTC 版)

宝暦」の記事における「改元」の解説

寛延4年10月27日グレゴリオ暦1751年12月14日) 改元。前年桜町上皇崩御この年大御所徳川吉宗薨去、そしてその間発生した地震ためともみられる宝暦14年6月2日グレゴリオ暦1764年6月30日明和に改元 公式には上皇大御所逝去理由にしているものの、実際に凶作地震理由とした災異改元の要素があった。実際天保改元の際には宝暦改元を前例として災異改元を行っている。

※この「改元」の解説は、「宝暦」の解説の一部です。
「改元」を含む「宝暦」の記事については、「宝暦」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 05:43 UTC 版)

寛政」の記事における「改元」の解説

天明9年1月25日グレゴリオ暦1789年2月19日): 天明の大飢饉内裏炎上などのため改元 寛政13年2月5日グレゴリオ暦1801年3月19日): 享和に改元 災異のための改元が検討されたものの、内裏再建優先され実際に改元の議論始まったのは、火災より1年近く経った天明8年12月入ってからであった7つ候補のうち、「寛政」と「寛安」が朝廷から推され幕府意向で「寛政」に決定された。

※この「改元」の解説は、「寛政」の解説の一部です。
「改元」を含む「寛政」の記事については、「寛政」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 09:48 UTC 版)

万延」の記事における「改元」の解説

安政7年3月18日グレゴリオ暦1860年4月8日): 江戸城火災桜田門外の変などの災異のため改元。 万延2年2月19日グレゴリオ暦1861年3月29日): 文久に改元。 なお、この改元の際に朝廷幕府一部には翌年辛酉革命による改元の年(かつ当時慣習辛酉改元は2月行われるになっていた)なのに、1年足らずのための改元はおかしいとする異論出されたものの、黒船来航以来国内混乱危機感抱いた孝明天皇の強い意向受けて行われたのだという。

※この「改元」の解説は、「万延」の解説の一部です。
「改元」を含む「万延」の記事については、「万延」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 09:04 UTC 版)

宝亀」の記事における「改元」の解説

神護景雲4年10月1日ユリウス暦770年10月23日):瑞亀献上により改元。 宝亀12年1月1日ユリウス暦781年1月30日):天応に改元。

※この「改元」の解説は、「宝亀」の解説の一部です。
「改元」を含む「宝亀」の記事については、「宝亀」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 09:04 UTC 版)

天平神護」の記事における「改元」の解説

天平宝字9年1月7日ユリウス暦765年2月1日):改元。 天平神護3年8月16日ユリウス暦767年9月13日):神護景雲に改元。

※この「改元」の解説は、「天平神護」の解説の一部です。
「改元」を含む「天平神護」の記事については、「天平神護」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 09:04 UTC 版)

天平宝字」の記事における「改元」の解説

天平勝宝9歳8月18日ユリウス暦757年9月6日): が「五月八日開下帝釋標知天皇百年息」の文字成したことにより改元。 天平宝字9年1月7日ユリウス暦765年2月1日): 天平神護に改元。

※この「改元」の解説は、「天平宝字」の解説の一部です。
「改元」を含む「天平宝字」の記事については、「天平宝字」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 19:07 UTC 版)

天平感宝」の記事における「改元」の解説

天平21年4月14日ユリウス暦749年5月4日):陸奥からの黄金献上により改元。 天平感宝元年7月2日ユリウス暦749年8月19日):天平勝宝に改元。

※この「改元」の解説は、「天平感宝」の解説の一部です。
「改元」を含む「天平感宝」の記事については、「天平感宝」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 09:03 UTC 版)

神亀」の記事における「改元」の解説

養老8年2月4日ユリウス暦724年3月3日) - 白亀出現瑞祥により改元。 神亀6年8月5日ユリウス暦729年9月2日) - 天平に改元。

※この「改元」の解説は、「神亀」の解説の一部です。
「改元」を含む「神亀」の記事については、「神亀」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 09:07 UTC 版)

天喜」の記事における「改元」の解説

永承8年1月11日ユリウス暦1053年2月2日)に改元 天喜6年8月29日ユリウス暦1058年9月19日)に康平となる。

※この「改元」の解説は、「天喜」の解説の一部です。
「改元」を含む「天喜」の記事については、「天喜」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 21:11 UTC 版)

永安 (晋)」の記事における「改元」の解説

いずれも西暦304年内。 太安2年翌年正月より永安と改元。 永安元年7月建武と改元。 建武元年11月永安に再び改元。 永安元年12月永興と改元。

※この「改元」の解説は、「永安 (晋)」の解説の一部です。
「改元」を含む「永安 (晋)」の記事については、「永安 (晋)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 16:00 UTC 版)

霊亀」の記事における「改元」の解説

和銅8年9月2日ユリウス暦715年10月3日):瑞亀献上により霊亀に改元。 霊亀3年11月17日ユリウス暦717年12月24日):養老に改元。

※この「改元」の解説は、「霊亀」の解説の一部です。
「改元」を含む「霊亀」の記事については、「霊亀」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 00:48 UTC 版)

享和」の記事における「改元」の解説

寛政13年2月5日グレゴリオ暦1801年3月19日): 辛酉革命に当たるため改元 享和4年2月11日グレゴリオ暦1804年3月22日): 文化に改元 辛酉革命に基づく改元自体朝廷幕府の間で恒例となっており、特に問題起きたとも伝わっておらず、平穏のうちに決定進められとみられる

※この「改元」の解説は、「享和」の解説の一部です。
「改元」を含む「享和」の記事については、「享和」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 00:48 UTC 版)

天明」の記事における「改元」の解説

安永10年4月2日グレゴリオ暦1781年4月25日): 光格天皇即位のため代始改元 天明9年1月25日グレゴリオ暦1789年2月19日): 寛政に改元 朝廷7つの案のうち「天明」を強く推し幕府新元号・改元日に異論なしと回答したために問題なく改元が実施されとされる

※この「改元」の解説は、「天明」の解説の一部です。
「改元」を含む「天明」の記事については、「天明」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 23:03 UTC 版)

文禄」の記事における「改元」の解説

天正20年12月8日グレゴリオ暦1593年1月10日) 改元理由後陽成天皇代始改元だが、即位6年目という歴史上3番目に長い遅滞で、豊臣秀次関白就任による改元という説がある。 文禄5年10月27日グレゴリオ暦1596年12月16日慶長に改元 文禄への改元は、「武家関白制」を採った豊臣政権最初の改元であり、新天皇の代始改元を行いたかった公家側の希望日本全国平定果たした武家側の要請一致して実施された改元であると考えられている。秀次関白就任1年後に改元され、さらに秀次切腹事件1年後慶長へと豊臣政権2度目の改元に至った

※この「改元」の解説は、「文禄」の解説の一部です。
「改元」を含む「文禄」の記事については、「文禄」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 04:13 UTC 版)

天平」の記事における「改元」の解説

神亀6年8月5日ユリウス暦729年9月2日)- 「天王貴平知百年」の文字を背に負った瑞亀の献上により改元。 天平21年4月14日ユリウス暦749年5月4日)- 天平感宝に改元。

※この「改元」の解説は、「天平」の解説の一部です。
「改元」を含む「天平」の記事については、「天平」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 15:56 UTC 版)

貞享」の記事における「改元」の解説

天和4年2月21日グレゴリオ暦1684年4月5日讖緯説に基づく甲子革令に当たるため改元 貞享5年9月30日グレゴリオ暦1688年10月23日元禄に改元 朝廷当初、「文長」と「天明」を候補として決めたが、江戸幕府両方の案に反対したため紛糾し最終的に朝廷が「天明」と差し替える形で提案された「貞享」で両者折り合うとなった(「貞享」は最終案から落選した候補であり、朝廷強く推していた「文長とともに提案候補とされたが、幕府は再び「文長」を拒否して貞享」を選択した)。

※この「改元」の解説は、「貞享」の解説の一部です。
「改元」を含む「貞享」の記事については、「貞享」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 08:13 UTC 版)

正徳 (日本)」の記事における「改元」の解説

宝永8年4月25日グレゴリオ暦1711年6月11日中御門天皇即位のため改元 正徳6年6月22日グレゴリオ暦1716年8月9日享保に改元 朝廷提示した5つ案から、幕府新井白石命じて選択させたのが「正徳であったといわれている。なお、これに反発した林鳳岡徳川家継将軍就任機に再度の改元を幕府朝廷働きかけたが失敗終わっている。

※この「改元」の解説は、「正徳 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「正徳 (日本)」の記事については、「正徳 (日本)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:35 UTC 版)

寛延」の記事における「改元」の解説

延享5年7月12日グレゴリオ暦1748年8月5日桃園天皇即位による代始改元 寛延4年10月27日グレゴリオ暦1751年12月14日宝暦に改元 なお、当初4月25日改元の予定であったが、前将軍徳川家継33回忌法要当日ぶつけてきたことから幕府激怒、さらに朝鮮通信使来日と言うこと強く反対して、改元を進めたいとする朝廷との間に紛糾招いたものの、2ヵ月半の延期両者折り合った

※この「改元」の解説は、「寛延」の解説の一部です。
「改元」を含む「寛延」の記事については、「寛延」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 16:27 UTC 版)

建長」の記事における「改元」の解説

宝治3年3月18日ユリウス暦1249年5月2日天変火災による改元 建長8年10月5日ユリウス暦1256年10月24日康元に改元 宝治3年2月1日里内裏となっていた閑院焼失する火災閑院火災)があったことを受けて改元が行われた。しかし、改元からわずか5日後に洛中主要部三条・西洞院八条・東京極を囲む一帯)を焼き、更に鴨川対岸蓮華王院まで焼失する大火災発生している(2月火災内裏焼いたとは言え被害自体近辺のみに留まっていた)。

※この「改元」の解説は、「建長」の解説の一部です。
「改元」を含む「建長」の記事については、「建長」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 10:00 UTC 版)

永禄」の記事における「改元」の解説

弘治4年2月28日ユリウス暦1558年3月18日正親町天皇即位のため改元 永禄13年4月23日ユリウス暦[の間でも「弘治」を使い続ける者と「永禄」に改める者で分かれた結局永禄元年終わり長慶義輝和睦したことで「永禄」改元が日本全国承認されることになるが、これは天皇掌握している長慶対立した将軍義輝が「朝敵」になる事態回避する苦肉の策であった。なんででしょう 6年後の永禄7年甲子革令の時も三好長慶側から改元の申請が行われた(当時武家伝奏広橋国光妹婿長慶重臣である松永久秀で、国光を介して上奏された)。しかし、足利義輝三好長慶対立収まらない中での改元実施京都における軍事衝突発展することを警戒した正親町天皇は改元を実施しない決断下すことになり、次の改元は長慶義輝の死とその後戦乱経て織田信長援助受けて将軍就任した義輝の弟・義昭主導する形で行われることになる。

※この「改元」の解説は、「永禄」の解説の一部です。
「改元」を含む「永禄」の記事については、「永禄」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 01:18 UTC 版)

天正」の記事における「改元」の解説

元亀4年7月28日ユリウス暦1573年8月25日):戦乱などの災異のため改元。 天正20年12月8日グレゴリオ暦1593年1月10日) :文禄に改元。

※この「改元」の解説は、「天正」の解説の一部です。
「改元」を含む「天正」の記事については、「天正」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 21:32 UTC 版)

寛永」の記事における「改元」の解説

元和10年2月30日グレゴリオ暦1624年4月17日讖緯説に基づく甲子革令に当たるため改元。ただし、徳川家光征夷大将軍任命にあたり、「将軍代始改元」を改元事由加えようとした江戸幕府意向とする説もある。 朝廷から提示され8つ候補のうち、幕府選んだ寛永・享明・貞正の3候補から、天皇意向によって選ばれた。 寛永21年12月16日グレゴリオ暦1645年1月13日正保に改元。

※この「改元」の解説は、「寛永」の解説の一部です。
「改元」を含む「寛永」の記事については、「寛永」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 22:06 UTC 版)

慶安」の記事における「改元」の解説

正保5年2月15日グレゴリオ暦1648年4月7日) 「正保」が「焼亡」に繋がると批判起きたため改元 慶安5年9月18日グレゴリオ暦1652年10月20日承応に改元 なお、改元予定日2月3日定められていたが、閏1月21日覚深法親王逝去したために関白一条昭良上卿近衛尚嗣が共に服忌入ったため(→皇別摂家)に改元に必要な儀礼が行われずに一旦延期されている。

※この「改元」の解説は、「慶安」の解説の一部です。
「改元」を含む「慶安」の記事については、「慶安」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 20:25 UTC 版)

正保」の記事における「改元」の解説

寛永21年12月16日グレゴリオ暦1645年1月13日後光明天皇即位のため改元。また、1つ元号が三帝に渡った前例がないことによる。 なお、改元の背景江戸幕府意向があったとする説がある。 寛永の飢饉受けた幕政立て直し図っていた時期重な摂政二条康道勘文出揃ったら、幕府提示受けてその判断受けてから作業進めることを主張していること 将軍徳川家光は「年号天下共に用いことなれば、武家より定むべき事勿論なり」として、年号諸家勘文から武家定めると述べたと、林鵞峯の『改元物語』に記されている 正保5年2月15日グレゴリオ暦1648年4月7日慶安に改元 なお、この「正保」という元号は以下の理由から不評であった。 「正保(しょうほう)」は「焼亡(しょうぼう)」と音が似ている 「正」の字が「一にして止まる」、「保」の字が「人口木」とそれぞれ読める正保元年と書き記すと、かつて大乱があった元号保元」より、「正(まさ)保元の年」と読め、再び大乱が起こる兆しがある このような批判京都から始まりついには本当に良くない兆しを持つ元号ではないかという世論高まってしまったため、結局短期間で改元されることになった

※この「改元」の解説は、「正保」の解説の一部です。
「改元」を含む「正保」の記事については、「正保」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 02:02 UTC 版)

宝永」の記事における「改元」の解説

元禄17年3月13日グレゴリオ暦1704年4月16日前年11月22日元禄地震のため改元 宝永8年4月25日グレゴリオ暦1711年6月11日正徳に改元 前回元禄改元の際に霊元上皇希望して幕府拒絶した案だったが、今回の改元の際には朝廷の案と幕府希望合致しなかったために採用されと言われている。貞享元禄の改元の時には朝廷出した最終案候補2つ両方幕府から拒絶されて再提出した経緯があったために、今回最終案候補7つとして幕府提出した全て拒絶された。このため、再提出の際には候補挙がった22の案が出され幕府最終的には「宝永」を選ぶ事で事態収拾させた。また、施行時にも京都市中への布告は改元から24日後の4月7日のことになり、近衛基煕を嘆かせた(当時元号施行幕府にあり、京都朝廷から江戸幕府への改元の告知江戸城における公達江戸から京都所司代への公達通知京都所司代から京都市中への布告の手続きを踏むことになっており、布告前に京都市民が新元号を使うことが禁じられていた)。

※この「改元」の解説は、「宝永」の解説の一部です。
「改元」を含む「宝永」の記事については、「宝永」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/20 03:53 UTC 版)

天応 (日本)」の記事における「改元」の解説

宝亀12年1月1日ユリウス暦781年1月30日):伊勢斎宮現れた美瑞祥により改元。元日の改元は日本史唯一天応2年8月19日ユリウス暦782年9月30日):延暦に改元。

※この「改元」の解説は、「天応 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「天応 (日本)」の記事については、「天応 (日本)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 01:38 UTC 版)

万治」の記事における「改元」の解説

明暦4年7月23日グレゴリオ暦1658年8月21日江戸の大火明暦の大火)などの災異のため改元 万治4年4月25日グレゴリオ暦1661年5月23日寛文に改元 朝廷は「貞正・安永・康徳」の3つの案を提示していたが、幕府はこれに不満を抱いて選外となっていた「万治」を強硬に推したために朝幕間紛糾したが、幕命によって押し切られとされる

※この「改元」の解説は、「万治」の解説の一部です。
「改元」を含む「万治」の記事については、「万治」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 09:13 UTC 版)

延宝」の記事における「改元」の解説

寛文13年9月21日グレゴリオ暦1673年10月30日京都大火などの災異のため改元 延宝9年9月29日グレゴリオ暦1681年11月9日天和に改元 前回寛文改元と同様、京都での大火とそれによる内裏焼失理由として改元が実施された。五条為庸・為到父子、東坊城長・長父子高辻豊長の5名が17の案を出したが、最終的に宝永延宝・天亀・享延・建禄・弘徳・至元嘉永」に絞って幕府提出した幕府から諮問受けた林鵞峯が8案を上中下に分類した上で延宝最良で望ましいと幕府回答し、これが幕府側の意見として採用されたという。

※この「改元」の解説は、「延宝」の解説の一部です。
「改元」を含む「延宝」の記事については、「延宝」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 01:27 UTC 版)

承応」の記事における「改元」の解説

慶安5年9月18日グレゴリオ暦1652年10月20日)改元。 承応文嘉・享応・承禄・承延の候補の中から後光明天皇承応文嘉・享応を選び幕府提示幕府がその中から承応選んだ承応4年4月13日グレゴリオ暦1655年5月18日明暦に改元。 改元の理由不明であるが、関白近衛尚嗣日記によれば江戸幕府から改元の申し入れがあったが理由明示されておらず、尚嗣も不審の念を抱いている。幕府側の史料である林鵞峯の『改元物語によれば、実は徳川家光逝去徳川家綱将軍就任理由代始改元を求めたものであったことが明記されており、何らかの事情朝廷側には本当理由示されなかったと推測される

※この「改元」の解説は、「承応」の解説の一部です。
「改元」を含む「承応」の記事については、「承応」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 02:14 UTC 版)

寛文」の記事における「改元」の解説

万治4年4月25日グレゴリオ暦1661年5月23日内裏火災などの災異のため改元 寛文13年9月21日グレゴリオ暦1673年10月30日延宝に改元 前回万治改元が江戸で大火明暦の大火)を理由とした江戸幕府からの申し入れによる改元であったため、京都での大火理由とした朝廷からの申し入れによる改元を幕府拒否しなかった。また、3月には朝廷から10程度候補内々幕府へと伝えられていたが、幕府使者である高家吉良義冬申し入れで「寛文含めた3つの候補正式な候補として幕府通知し幕府はそれに基づいて寛文選択する」というシナリオ基づいて一連の手続きが行われたという。

※この「改元」の解説は、「寛文」の解説の一部です。
「改元」を含む「寛文」の記事については、「寛文」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 01:50 UTC 版)

安政」の記事における「改元」の解説

嘉永7年11月27日グレゴリオ暦1855年1月15日): 内裏炎上地震黒船来航などの災異のため改元 安政7年3月18日グレゴリオ暦1860年4月8日): 万延に改元 朝廷は「文長」を希望していたが、幕府介入によって「安政」に差し替えられ、実施日前将軍徳川家慶の月法要毎月22日終了後変えられた。

※この「改元」の解説は、「安政」の解説の一部です。
「改元」を含む「安政」の記事については、「安政」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:49 UTC 版)

慶応」の記事における「改元」の解説

元治2年4月7日グレゴリオ暦1865年5月1日): 禁門の変社会不安などの災異のために改元。 慶応4年9月8日グレゴリオ暦1868年10月23日): 明治に改元。

※この「改元」の解説は、「慶応」の解説の一部です。
「改元」を含む「慶応」の記事については、「慶応」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 19:00 UTC 版)

大正」の記事における「改元」の解説

ウィキソース明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト爲スの原文あります1912年明治45年7月30日 - 明治天皇崩御して皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が践祚即位したため登極令1909年明治42年公布に基づき改元の詔書公布即日施行し同日は「大正元年7月30日となった大正改元の詔書1912年明治45年7月30日) 朕菲德ヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗威靈ニ誥ケテ萬機ノ政ヲ行フ茲ニ先帝ノ定制ニ遵ヒ明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト爲ス主者施行セヨ以下略ウィキソース昭和ト改元の原文あります1926年大正15年12月25日 - 大正天皇47歳崩御し、その長男である皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が25歳践祚したため昭和に改元。同日は「昭和元年12月25日となった。なお、皇太子裕仁親王1921年大正10年11月25日以降持病篤くなった大正天皇摂政務めている。

※この「改元」の解説は、「大正」の解説の一部です。
「改元」を含む「大正」の記事については、「大正」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 09:03 UTC 版)

承平 (日本)」の記事における「改元」の解説

延長9年4月26日ユリウス暦931年5月16日):延長から改元。 承平8年5月22日ユリウス暦938年6月22日):天慶に改元。

※この「改元」の解説は、「承平 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「承平 (日本)」の記事については、「承平 (日本)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 09:08 UTC 版)

天慶」の記事における「改元」の解説

承平8年5月22日ユリウス暦938年6月22日):改元。 天慶10年4月22日ユリウス暦947年5月15日):天暦に改元。

※この「改元」の解説は、「天慶」の解説の一部です。
「改元」を含む「天慶」の記事については、「天慶」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 09:28 UTC 版)

天徳 (日本)」の記事における「改元」の解説

天暦11年10月27日ユリウス暦957年11月21日):改元。 天徳5年2月16日ユリウス暦961年3月5日):応和に改元。

※この「改元」の解説は、「天徳 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「天徳 (日本)」の記事については、「天徳 (日本)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/09 03:09 UTC 版)

同慶 (阮朝)」の記事における「改元」の解説

1885年7月4日咸宜元年5月22日)、咸宜帝端を発した抗仏勤王反乱で帝がフエ王宮脱出した後、フランス擁立された同慶帝咸宜帝尊重して帰順促し元号越年改元の予定公布した。しかし地方の抗仏勢力バックにした咸宜帝は従わなかったため、咸宜元号使用対す違和感強まりやむなく旧暦10月から12月までを同慶乙酉年と称し1886年から元年とした。

※この「改元」の解説は、「同慶 (阮朝)」の解説の一部です。
「改元」を含む「同慶 (阮朝)」の記事については、「同慶 (阮朝)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 09:44 UTC 版)

天禄」の記事における「改元」の解説

安和3年3月25日ユリウス暦970年5月3日):改元。 天禄4年12月20日ユリウス暦974年1月16日):天延に改元。

※この「改元」の解説は、「天禄」の解説の一部です。
「改元」を含む「天禄」の記事については、「天禄」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 09:31 UTC 版)

応和」の記事における「改元」の解説

天徳5年2月16日ユリウス暦961年3月5日):辛酉革命に当たるため改元。 応和4年7月10日ユリウス暦964年8月19日):甲子革令により康保に改元。

※この「改元」の解説は、「応和」の解説の一部です。
「改元」を含む「応和」の記事については、「応和」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 09:40 UTC 版)

安和」の記事における「改元」の解説

康保5年8月13日ユリウス暦968年9月8日):改元。 安和3年3月25日ユリウス暦970年5月3日):天禄に改元。

※この「改元」の解説は、「安和」の解説の一部です。
「改元」を含む「安和」の記事については、「安和」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 09:36 UTC 版)

天暦」の記事における「改元」の解説

天慶10年4月22日ユリウス暦947年5月15日):改元。 天暦11年10月27日ユリウス暦957年11月21日):天徳に改元。

※この「改元」の解説は、「天暦」の解説の一部です。
「改元」を含む「天暦」の記事については、「天暦」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 20:25 UTC 版)

正慶」の記事における「改元」の解説

元徳3年8月9日ユリウス暦1331年9月1日)、後醍醐天皇は「元徳」から「元弘」へと改元したが、鎌倉幕府はこれを認めず元徳」を使い続けとともに9月20日10月22日)には光厳天皇新たな天皇として即位させた。翌年後醍醐天皇隠岐流され元徳4年/元弘2年4月28日1332年5月23日)、光厳天皇正慶代始改元した。 しかし、正慶2年/元弘3年1333年)、後醍醐天皇還幸して鎌倉幕府滅亡した5月25日7月7日)に光厳天皇退位し正慶元号廃された。その翌年元弘4年1月29日1334年3月5日)には建武へと改元された。後醍醐天皇はこのとき、光厳天皇即位と「正慶」の元号無効宣言した

※この「改元」の解説は、「正慶」の解説の一部です。
「改元」を含む「正慶」の記事については、「正慶」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 06:19 UTC 版)

延長 (元号)」の記事における「改元」の解説

延喜23年4月11日ユリウス暦923年5月29日):改元。 延長9年4月26日ユリウス暦931年5月16日):承平に改元。

※この「改元」の解説は、「延長 (元号)」の解説の一部です。
「改元」を含む「延長 (元号)」の記事については、「延長 (元号)」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 09:07 UTC 版)

仁和」の記事における「改元」の解説

元慶9年2月21日ユリウス暦885年3月11日):改元。 仁和5年4月27日ユリウス暦889年5月30日):寛平に改元。

※この「改元」の解説は、「仁和」の解説の一部です。
「改元」を含む「仁和」の記事については、「仁和」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 07:09 UTC 版)

延喜」の記事における「改元」の解説

昌泰4年7月15日ユリウス暦901年8月31日):辛酉革命昌泰の変などにより改元。 延喜23年4月11日ユリウス暦923年5月29日):延長に改元。

※この「改元」の解説は、「延喜」の解説の一部です。
「改元」を含む「延喜」の記事については、「延喜」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 07:03 UTC 版)

寛平」の記事における「改元」の解説

仁和5年4月27日ユリウス暦889年5月30日):改元。 寛平10年4月26日ユリウス暦898年5月20日):昌泰に改元。

※この「改元」の解説は、「寛平」の解説の一部です。
「改元」を含む「寛平」の記事については、「寛平」の概要を参照ください。


改元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 10:00 UTC 版)

貞観 (日本)」の記事における「改元」の解説

天安3年4月15日ユリウス暦859年5月20日):改元。 貞観19年4月16日ユリウス暦877年6月1日):元慶に改元。

※この「改元」の解説は、「貞観 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「貞観 (日本)」の記事については、「貞観 (日本)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「 改元」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「 改元」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「 改元」の関連用語

1
100% |||||


3
100% |||||


5
踰年 デジタル大辞泉
98% |||||

検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



 改元のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
実用日本語表現辞典実用日本語表現辞典
Copyright © 2024実用日本語表現辞典 All Rights Reserved.
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
中経出版中経出版
Copyright (C) 2024 Chukei Publishing Company. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの改元 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの延享 (改訂履歴)、承和 (日本) (改訂履歴)、昌泰 (改訂履歴)、天安 (日本) (改訂履歴)、元慶 (改訂履歴)、文暦 (改訂履歴)、承久 (改訂履歴)、建暦 (改訂履歴)、建保 (改訂履歴)、承元 (改訂履歴)、建永 (改訂履歴)、建仁 (改訂履歴)、昭和 (改訂履歴)、延応 (改訂履歴)、元仁 (改訂履歴)、斉衡 (改訂履歴)、康保 (改訂履歴)、嘉禄 (改訂履歴)、文治 (改訂履歴)、仁寿 (改訂履歴)、安貞 (改訂履歴)、仁治 (改訂履歴)、貞応 (改訂履歴)、鳳暦 (大理) (改訂履歴)、正治 (改訂履歴)、応長 (改訂履歴)、元応 (改訂履歴)、徳治 (改訂履歴)、正和 (改訂履歴)、文保 (改訂履歴)、正応 (改訂履歴)、乾元 (日本) (改訂履歴)、嘉元 (改訂履歴)、正安 (改訂履歴)、養老 (改訂履歴)、永仁 (改訂履歴)、延慶 (日本) (改訂履歴)、元亨 (改訂履歴)、建久 (改訂履歴)、天福 (日本) (改訂履歴)、暦応 (改訂履歴)、乾化 (改訂履歴)、万慶 (改訂履歴)、明道 (李朝) (改訂履歴)、祥興 (改訂履歴)、延康 (漢) (改訂履歴)、元禄 (改訂履歴)、正長 (改訂履歴)、享徳 (改訂履歴)、寛和 (改訂履歴)、文政 (改訂履歴)、嘉永 (改訂履歴)、天保 (改訂履歴)、弘化 (改訂履歴)、永和 (日本) (改訂履歴)、延暦 (改訂履歴)、朱鳥 (改訂履歴)、慶長 (改訂履歴)、明治 (改訂履歴)、元治 (改訂履歴)、安永 (元号) (改訂履歴)、永暦 (南明) (改訂履歴)、神護景雲 (改訂履歴)、寛仁 (改訂履歴)、大同 (日本) (改訂履歴)、和銅 (改訂履歴)、寛保 (改訂履歴)、天長 (改訂履歴)、白雉 (改訂履歴)、元中 (改訂履歴)、元亀 (改訂履歴)、文和 (改訂履歴)、建武 (日本) (改訂履歴)、康安 (改訂履歴)、康応 (改訂履歴)、永暦 (改訂履歴)、弘仁 (改訂履歴)、明応 (改訂履歴)、長享 (改訂履歴)、天平勝宝 (改訂履歴)、康元 (改訂履歴)、康暦 (改訂履歴)、弘光 (改訂履歴)、隆武 (改訂履歴)、元文 (改訂履歴)、文久 (改訂履歴)、明和 (改訂履歴)、宝暦 (改訂履歴)、寛政 (改訂履歴)、万延 (改訂履歴)、宝亀 (改訂履歴)、天平神護 (改訂履歴)、天平宝字 (改訂履歴)、天平感宝 (改訂履歴)、神亀 (改訂履歴)、天喜 (改訂履歴)、永安 (晋) (改訂履歴)、霊亀 (改訂履歴)、享和 (改訂履歴)、天明 (改訂履歴)、文禄 (改訂履歴)、天平 (改訂履歴)、貞享 (改訂履歴)、正徳 (日本) (改訂履歴)、寛延 (改訂履歴)、建長 (改訂履歴)、永禄 (改訂履歴)、天正 (改訂履歴)、寛永 (改訂履歴)、慶安 (改訂履歴)、正保 (改訂履歴)、宝永 (改訂履歴)、天応 (日本) (改訂履歴)、万治 (改訂履歴)、延宝 (改訂履歴)、承応 (改訂履歴)、寛文 (改訂履歴)、安政 (改訂履歴)、慶応 (改訂履歴)、大正 (改訂履歴)、承平 (日本) (改訂履歴)、天慶 (改訂履歴)、天徳 (日本) (改訂履歴)、同慶 (阮朝) (改訂履歴)、天禄 (改訂履歴)、応和 (改訂履歴)、安和 (改訂履歴)、天暦 (改訂履歴)、正慶 (改訂履歴)、延長 (元号) (改訂履歴)、仁和 (改訂履歴)、延喜 (改訂履歴)、寛平 (改訂履歴)、貞観 (日本) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2024 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2024 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS