改元
改元とは、改元の意味
改元とは、元号を改めることである。それまで使用してきた元号を廃し、新たな号を冠して元年から始めることである。今日では、元号を公式に用いている国は日本のみであり、改元も日本のみで存続している習わしとなっている。改元は、多くの場合、君主の交替に伴って行われる。現代日本では皇位継承に付随する形でのみ改元される。天皇(君主)一代につき元号をひとつのみ定めることを「一世一元」という。日本では明治以降に一世一元が原則化された。かつては、君主の交替同じ君主の治世において改元が行われることもあった。吉事(瑞祥)を記念する改元や凶事の後に縁起直しの意味で行われる改元などが行われた例がある。
平成から令和への改元
明治に一世一元が確立して以降、大正・昭和・平成への改元はいずれも天皇の崩御に伴う形で行われてきた。平成から令和への改元については、天皇陛下の御意向を受けて2019年に退位・譲位が執り行われ、崩御に伴わない形で改元が行われることになった。天皇崩御によらない改元はおよそ200年ぶりの事となる。改元の日一覧(明治以降)
かい‐げん【改元】
かいげん 【改元】
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/18 02:05 UTC 版)
改元(かいげん)とは、元号を改める(変更する)こと。
注釈
- ^ 『扶桑略記』や『帝王編年記』では「踰月改元」(7月)、『元亨釈書』では「立年改元」(正月:7月に布告)、『国史大辞典』(吉川弘文館、1908年)や土橋の論文(2010年)では「即日改元」(6月19日)となっている。さらにそもそも「大化」という元号自体が同時代に使われていないとする藪田嘉一郎・佐藤宗諄(造作説)や田中卓・新川登亀男(追号説)の説がある[2]。
- ^ ただし日本も南北東西に長く、特に北海道と沖縄県を編入した明治初期以降はますます日時較差は開くことになる。交通の不便な離島は数か月以上遅延したこともあった。
出典
- ^ a b c 七戸(2017)
- ^ 河内春人「年号制の成立と古代天皇制」『駿台史學』第156号、明治大学史学地理学会、2016年2月29日、1-23頁、NAID 40020759469。
- ^ 勝俣鎮夫「戦国時代東国の地域年号について」『戦国時代論』(岩波書店、1996年)
- ^ 丸島和洋「岩松持国の改元認識」(初出:『戦国史研究』58号(2009年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一五巻 上野岩松氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-164-6)
- ^ 久保貴子「朝廷の再生と朝幕関係」『近世の朝廷運営』岩田書院、1998年 P241-242.
- ^ 久保貴子「朝廷の再生と朝幕関係」『近世の朝廷運営』岩田書院、1998年 P61-66・236-240.
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 09:09 UTC 版)
寛保4年2月21日(グレゴリオ暦1744年4月3日) 讖緯説に基づく甲子革令に当たるため改元 延享5年7月12日(グレゴリオ暦1748年8月5日) 寛延に改元 今回は改元の予定は決まっていたものの、候補が絞り切れず、幕府には7つの案を出してそのうち「天明」「延享」「宝暦」を推挙する形を取った。これに対して幕府は「延享」を推して「宝暦」を次点としたため、その意向に従って改元を行った。
※この「改元」の解説は、「延享」の解説の一部です。
「改元」を含む「延享」の記事については、「延享」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 03:59 UTC 版)
天長11年1月3日(ユリウス暦834年2月14日):改元。 承和15年6月13日(ユリウス暦848年7月16日):嘉祥に改元。
※この「改元」の解説は、「承和 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「承和 (日本)」の記事については、「承和 (日本)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 06:53 UTC 版)
寛平10年4月26日(ユリウス暦898年5月20日):改元。4月16日、8月16日の異説あり。 昌泰4年7月15日(ユリウス暦901年8月31日):延喜に改元。
※この「改元」の解説は、「昌泰」の解説の一部です。
「改元」を含む「昌泰」の記事については、「昌泰」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 09:01 UTC 版)
斉衡4年2月21日(ユリウス暦857年3月20日):改元。 天安3年4月15日(ユリウス暦859年5月20日):貞観に改元。
※この「改元」の解説は、「天安 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「天安 (日本)」の記事については、「天安 (日本)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 09:04 UTC 版)
貞観19年4月16日(ユリウス暦877年6月1日):改元。 元慶9年2月21日(ユリウス暦885年3月11日):仁和に改元。
※この「改元」の解説は、「元慶」の解説の一部です。
「改元」を含む「元慶」の記事については、「元慶」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 10:22 UTC 版)
天福2年11月5日(ユリウス暦1234年11月27日):天変地震により改元。 文暦2年9月19日(ユリウス暦1235年11月1日):嘉禎に改元。
※この「改元」の解説は、「文暦」の解説の一部です。
「改元」を含む「文暦」の記事については、「文暦」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:20 UTC 版)
建保7年4月12日(ユリウス暦1219年5月27日):改元。旱魃と三合によるとされる(『百錬抄』)。 承久4年4月13日(ユリウス暦1222年5月25日):貞応に改元。
※この「改元」の解説は、「承久」の解説の一部です。
「改元」を含む「承久」の記事については、「承久」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:22 UTC 版)
承元5年3月9日(ユリウス暦1211年4月23日):順徳天皇の代始により改元。 建暦3年12月6日(ユリウス暦1214年1月18日):建保に改元。
※この「改元」の解説は、「建暦」の解説の一部です。
「改元」を含む「建暦」の記事については、「建暦」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 10:14 UTC 版)
建暦3年12月6日(ユリウス暦1214年1月18日):改元。「天変地妖(大地震)」が原因(『百錬抄』)とされている。 建保7年4月12日(ユリウス暦1219年5月27日):承久に改元。
※この「改元」の解説は、「建保」の解説の一部です。
「改元」を含む「建保」の記事については、「建保」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:24 UTC 版)
建永2年10月25日(ユリウス暦1207年11月16日):改元。三合を原因とする説(『百錬抄』)と疱瘡、疾疫、雨水により改元を原因とする説がある。 承元5年3月9日(ユリウス暦1211年4月23日):建暦に改元。
※この「改元」の解説は、「承元」の解説の一部です。
「改元」を含む「承元」の記事については、「承元」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 10:09 UTC 版)
元久3年4月27日(ユリウス暦1206年6月5日):改元。赤斑瘡を原因とする説(『百錬抄』)と摂政九条良経の急死を原因とする説(『一代要記』)がある。 建永2年10月25日(ユリウス暦1207年11月16日):承元に改元。
※この「改元」の解説は、「建永」の解説の一部です。
「改元」を含む「建永」の記事については、「建永」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:37 UTC 版)
正治3年2月13日(ユリウス暦1201年3月19日):辛酉革命に当たるため改元。 建仁4年2月20日(ユリウス暦1204年3月23日):元久に改元。
※この「改元」の解説は、「建仁」の解説の一部です。
「改元」を含む「建仁」の記事については、「建仁」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 19:02 UTC 版)
『書経』堯典百姓昭明、協和萬邦→百姓(ひゃくせい)昭明(せうめい)にして、萬邦(ばんぱう)を協和(けふわ)す 昭和は登極令(皇室令の一部)による制度での最後の元号であり、1979年(昭和54年)の元号法制定の際、同法附則第2項により、「本則第1項の規定に基づき定められたもの」とされた。 「昭和」の由来は、四書五経の一つ書経堯典の「百姓昭明、協和萬邦」(百姓昭明にして、萬邦を協和す)による。漢学者・吉田増蔵の考案。「昭和」が元号の候補になったのはこれが最初である。なお、江戸時代に全く同一の出典で「明和」(1764年〜1772年)の元号が制定されている(「百姓昭明、協和萬邦」)。国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味である。 当時枢密院議長だった倉富勇三郎の日記によれば、宮内省(現:宮内庁)作成の元号案として「神化」「元化」「昭和」「神和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」があったが、数回の勘申の結果、「昭和」を候補とし、「元化」「同和」を参考とする最終案が決定した。一方、内閣では「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」を元号案の候補に挙げていた。
※この「改元」の解説は、「昭和」の解説の一部です。
「改元」を含む「昭和」の記事については、「昭和」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 10:24 UTC 版)
暦仁2年2月7日(ユリウス暦1239年3月13日):天変や地震により改元。 延応2年7月16日(ユリウス暦1240年8月5日):仁治に改元。
※この「改元」の解説は、「延応」の解説の一部です。
「改元」を含む「延応」の記事については、「延応」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:14 UTC 版)
貞応3年11月20日(ユリウス暦1224年12月31日):改元。天変炎旱による(百錬抄)とされる。 元仁2年4月20日(ユリウス暦1225年5月28日):嘉禄に改元。
※この「改元」の解説は、「元仁」の解説の一部です。
「改元」を含む「元仁」の記事については、「元仁」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 08:52 UTC 版)
仁寿4年11月30日(ユリウス暦854年12月23日):改元。 斉衡4年2月21日(ユリウス暦857年3月20日):天安に改元。
※この「改元」の解説は、「斉衡」の解説の一部です。
「改元」を含む「斉衡」の記事については、「斉衡」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:56 UTC 版)
応和4年7月10日(ユリウス暦964年8月19日):甲子革令により改元。 康保5年8月13日(ユリウス暦968年9月8日):安和に改元。
※この「改元」の解説は、「康保」の解説の一部です。
「改元」を含む「康保」の記事については、「康保」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:09 UTC 版)
元仁2年4月20日(ユリウス暦1225年5月28日):改元。理由については、備考を参照のこと。 嘉禄3年12月10日(ユリウス暦1228年1月18日):安貞に改元。
※この「改元」の解説は、「嘉禄」の解説の一部です。
「改元」を含む「嘉禄」の記事については、「嘉禄」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:31 UTC 版)
元暦2年8月14日(ユリウス暦1185年9月9日):改元。『百錬抄』には「十四日甲子、有改元、依地震也、」とあり地震(文治地震)が原因とされるが、『一代要記』には「八月十四日改元、依兵革也、」とあり兵革を理由とする説もある。 文治6年4月11日(ユリウス暦1190年5月16日):建久に改元。
※この「改元」の解説は、「文治」の解説の一部です。
「改元」を含む「文治」の記事については、「文治」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 09:17 UTC 版)
嘉祥4年4月28日(ユリウス暦851年6月1日):改元。 仁寿4年11月30日(ユリウス暦854年12月23日):斉衡に改元。
※この「改元」の解説は、「仁寿」の解説の一部です。
「改元」を含む「仁寿」の記事については、「仁寿」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 10:18 UTC 版)
嘉禄3年12月10日(ユリウス暦1228年1月18日):天変が相次いだため、また、三合や疱瘡の流行のため改元。 安貞3年3月5日(ユリウス暦1229年3月31日):天変が続き飢饉状態となったことから寛喜に改元。 なお、それまで朝廷から鎌倉幕府に改元を報じる使者が派遣されていたが、今回より六波羅探題に派遣され、六波羅探題の使者が鎌倉に伝えるようになった。また、鎌倉では改元に伴って幕府の政所にて吉書始の儀式が行われるようになった。
※この「改元」の解説は、「安貞」の解説の一部です。
「改元」を含む「安貞」の記事については、「安貞」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:05 UTC 版)
延応2年7月16日(ユリウス暦1240年8月5日):彗星・地震・旱魃などにより改元。 仁治4年2月26日(ユリウス暦1243年3月18日):寛元に改元。
※この「改元」の解説は、「仁治」の解説の一部です。
「改元」を含む「仁治」の記事については、「仁治」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 10:15 UTC 版)
承久4年4月13日(ユリウス暦1222年5月25日):後堀河天皇の代始による改元。 貞応3年11月20日(ユリウス暦1224年12月31日):元仁に改元。
※この「改元」の解説は、「貞応」の解説の一部です。
「改元」を含む「貞応」の記事については、「貞応」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/26 14:40 UTC 版)
庚申年(1200年)に、宣宗功極帝段智興が死去し、段智廉が即位、翌年(辛酉年、1201年)改元する。在位中に「元寿」に改元しているが、時期は不明である。
※この「改元」の解説は、「鳳暦 (大理)」の解説の一部です。
「改元」を含む「鳳暦 (大理)」の記事については、「鳳暦 (大理)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 08:32 UTC 版)
建久10年4月27日(ユリウス暦1199年5月23日):改元。土御門天皇即位に伴う代始改元とされる(『百錬抄』)。 正治3年2月13日(ユリウス暦1201年3月19日):建仁に改元。
※この「改元」の解説は、「正治」の解説の一部です。
「改元」を含む「正治」の記事については、「正治」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:45 UTC 版)
延慶4年4月28日(ユリウス暦1311年5月17日):疫病により改元。 応長2年3月20日(ユリウス暦1312年4月27日):正和に改元。
※この「改元」の解説は、「応長」の解説の一部です。
「改元」を含む「応長」の記事については、「応長」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 15:11 UTC 版)
文保3年4月28日(ユリウス暦1319年5月18日):後醍醐天皇即位のため改元。 元応3年2月23日(ユリウス暦1321年3月22日):元亨に改元。
※この「改元」の解説は、「元応」の解説の一部です。
「改元」を含む「元応」の記事については、「元応」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:28 UTC 版)
嘉元4年12月14日(ユリウス暦1307年1月18日):天変により改元。 徳治3年10月9日(ユリウス暦1308年11月22日):延慶に改元。
※この「改元」の解説は、「徳治」の解説の一部です。
「改元」を含む「徳治」の記事については、「徳治」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:58 UTC 版)
応長2年3月20日(ユリウス暦1312年4月27日):天変地震により改元。 正和6年2月3日(ユリウス暦1317年3月16日):文保に改元。
※この「改元」の解説は、「正和」の解説の一部です。
「改元」を含む「正和」の記事については、「正和」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 15:05 UTC 版)
正和6年2月3日(ユリウス暦1317年3月16日):大地震などにより改元。 文保3年4月28日(ユリウス暦1319年5月18日):元応に改元。
※この「改元」の解説は、「文保」の解説の一部です。
「改元」を含む「文保」の記事については、「文保」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 13:51 UTC 版)
弘安11年4月28日(ユリウス暦1288年5月29日):伏見天皇の即位により改元。 正応6年8月5日(ユリウス暦1293年9月6日):永仁に改元。
※この「改元」の解説は、「正応」の解説の一部です。
「改元」を含む「正応」の記事については、「正応」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:03 UTC 版)
正安4年11月21日(ユリウス暦1302年12月10日):後二条天皇の即位により改元。 乾元2年8月5日(ユリウス暦1303年9月16日):嘉元に改元。
※この「改元」の解説は、「乾元 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「乾元 (日本)」の記事については、「乾元 (日本)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:18 UTC 版)
乾元2年8月5日(ユリウス暦1303年9月16日):彗星と日照りにより改元。 嘉元4年12月14日(ユリウス暦1307年1月18日):徳治に改元。
※この「改元」の解説は、「嘉元」の解説の一部です。
「改元」を含む「嘉元」の記事については、「嘉元」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:13 UTC 版)
永仁7年4月25日(ユリウス暦1299年5月25日):後伏見天皇の即位により改元。 正安4年11月21日(ユリウス暦1302年12月10日):乾元に改元。
※この「改元」の解説は、「正安」の解説の一部です。
「改元」を含む「正安」の記事については、「正安」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/17 15:16 UTC 版)
霊亀3年11月17日(ユリウス暦717年12月24日):養老の滝命名に因んで改元。 養老8年2月4日(ユリウス暦724年3月3日):神亀に改元。
※この「改元」の解説は、「養老」の解説の一部です。
「改元」を含む「養老」の記事については、「養老」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 13:54 UTC 版)
正応6年8月5日(ユリウス暦1293年9月6日):天変と関東の地震により改元。 永仁7年4月25日(ユリウス暦1299年5月25日):正安に改元。
※この「改元」の解説は、「永仁」の解説の一部です。
「改元」を含む「永仁」の記事については、「永仁」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:34 UTC 版)
徳治3年10月9日(ユリウス暦1308年11月22日):花園天皇即位により改元。 延慶4年4月28日(ユリウス暦1311年5月17日):応長に改元。
※この「改元」の解説は、「延慶 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「延慶 (日本)」の記事については、「延慶 (日本)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 15:18 UTC 版)
元応3年2月23日(ユリウス暦1321年3月22日):辛酉革命に当たるため改元。 元亨4年12月9日(ユリウス暦1324年12月25日):正中に改元。 ただし、「柳原家文書」所収の元亨改元に関する議論では、吉田定房・北畠親房・洞院公賢らの諸公卿が辛酉革命説を批判し、徳政推進の観点から改元を行うことを後醍醐天皇に進言している。これは当時日本に入ってきた宋学の影響とも言われている。
※この「改元」の解説は、「元亨」の解説の一部です。
「改元」を含む「元亨」の記事については、「元亨」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 00:15 UTC 版)
文治6年4月11日(ユリウス暦1190年5月16日):三合により改元(『百錬抄』)。 建久10年4月27日(ユリウス暦1199年5月23日):正治に改元。
※この「改元」の解説は、「建久」の解説の一部です。
「改元」を含む「建久」の記事については、「建久」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 00:18 UTC 版)
貞永2年4月15日(ユリウス暦1233年5月25日):改元。 天福2年11月5日(ユリウス暦1234年11月27日):文暦に改元。
※この「改元」の解説は、「天福 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「天福 (日本)」の記事については、「天福 (日本)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 06:17 UTC 版)
建武5年8月28日(ユリウス暦1338年10月11日)、改元。代始改元(光明天皇の即位に伴う改元)。 暦応5年4月27日(ユリウス暦1342年6月1日)、康永に改元。災異改元(天変地妖〈天変地異〉に対する改元)。 江戸時代に柳原紀光が著した歴史書『続史愚抄』によれば、「暦応」改元の決定を朝廷が室町幕府に伝えなかったために、足利尊氏ら室町幕府の人々が改元の事実を知ったのは9月4日のことであったという。このことは、洞院実夏の『実夏公記』暦応元年8月28日条からも裏付けられる。もっとも、以後においても改元詔書到達後に幕府側の施行手続であった室町殿(将軍)の吉書始と管領の沙汰始が諸般の事情で速やかに行い得ない場合には公武間にて新旧別元号が用いられる場合もあった。
※この「改元」の解説は、「暦応」の解説の一部です。
「改元」を含む「暦応」の記事については、「暦応」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/04 06:53 UTC 版)
913年1月、帝位を簒奪した2代皇帝朱友珪が鳳暦に改元する。しかし、同年2月、朱友珪が殺害され、3代皇帝として朱友貞が即位、元号を乾化に戻した。
※この「改元」の解説は、「乾化」の解説の一部です。
「改元」を含む「乾化」の記事については、「乾化」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/21 02:12 UTC 版)
永寿5年9月、神宗の不豫により改元。 元年9月22日、神宗崩ず。 元年11月、玄宗即位により翌年より景治に改元。
※この「改元」の解説は、「万慶」の解説の一部です。
「改元」を含む「万慶」の記事については、「万慶」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/21 02:30 UTC 版)
元年10月:乾符有道より改元。 3年10月:チャンパ王国(占城)首都ヴィジャヤ(現代のビンディン省)への親征から凱旋帰国。天感聖武に改元。
※この「改元」の解説は、「明道 (李朝)」の解説の一部です。
「改元」を含む「明道 (李朝)」の記事については、「明道 (李朝)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/09 05:43 UTC 版)
元年5月1日、衛王即位により立年改元。2年2月6日、崖山の戦いに敗れた衛王が入水して没し、南宋は完全に滅亡する。 なお定説では『宋史』及び『続資治通鑑』などの史書に依拠し、1278年改元とするが、1279年旧正月に踰年改元したとする説もある。『元史』は黄華の称した私年号について、1283年を「5年」としているが、この場合1279年改元が符合する。
※この「改元」の解説は、「祥興」の解説の一部です。
「改元」を含む「祥興」の記事については、「祥興」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 01:57 UTC 版)
曹操の死去に伴い改元された。最高実力者といえども、皇帝の臣下に過ぎない者の死を理由にした改元は極めて異例であり、呉と蜀漢などでは認められなかった。 プロジェクト 紀年法
※この「改元」の解説は、「延康 (漢)」の解説の一部です。
「改元」を含む「延康 (漢)」の記事については、「延康 (漢)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 08:00 UTC 版)
貞享5年9月30日(グレゴリオ暦1688年10月23日) 東山天皇の代始のため改元 元禄17年3月13日(グレゴリオ暦1704年4月16日) 宝永に改元 この時の改元の経緯については不明な点も多いが、朝廷は「宝永」と「寛禄」を候補として、特に霊元上皇は「宝永」を候補として推していたが、幕府はこれを拒否して最終案から漏れた候補の中から選ばれた「元禄」を選択したとされる。皮肉にもこの時幕府が拒否した「宝永」が次の改元で採用されることになる。
※この「改元」の解説は、「元禄」の解説の一部です。
「改元」を含む「元禄」の記事については、「元禄」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 17:49 UTC 版)
応永35年4月27日(ユリウス暦1428年6月10日) 称光天皇の即位に伴う代始改元 正長2年9月5日(ユリウス暦1429年10月3日) 永享に改元 称光天皇は応永19年8月29日(1412年10月5日)に践祚したが、室町幕府は長い間改元を認めず、即位後16年にしてようやく代始改元の実施が認められた。そのため、実際には室町幕府が新将軍(足利義教)就任に伴う代始改元を要求したとする見方もある(ただし、義教の実際の将軍就任は翌2年に入ってからとなる)。 なお、改元の3か月後に称光天皇は崩御することになる。 また、永享改元当時、義教と対立していた鎌倉公方・足利持氏は永享への改元を認めず、「正長4年」(=永享3年=1431年)までこの元号を用いた(永享の乱のさきがけ)。
※この「改元」の解説は、「正長」の解説の一部です。
「改元」を含む「正長」の記事については、「正長」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 21:28 UTC 版)
宝徳4年7月25日(ユリウス暦1452年8月10日) 三合の厄を避けるため改元 享徳4年7月25日(ユリウス暦1455年9月6日) 康正に改元 当時の関白であった一条兼良の強い意向によって行われた改元とされている(『建内記』享徳元年7月25日条)。 なお、康正改元当時、室町幕府から追討を受けていた古河公方・足利成氏は康正以後の改元を認めず、以後も関東の広い地域において、「享徳27年」(=文明10年=1478年)まで用いられていた(享徳の乱)。これについては、京都の室町幕府に抵抗して改元を受け入れなかったとする佐藤博信説と室町幕府が改元詔書を関東管領上杉氏(幕府方)のみに下したからだとする峰岸純夫説がある。
※この「改元」の解説は、「享徳」の解説の一部です。
「改元」を含む「享徳」の記事については、「享徳」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 02:03 UTC 版)
永観3年4月27日(ユリウス暦985年5月19日)- 改元。 寛和3年4月5日(ユリウス暦987年5月5日)- 永延に改元。
※この「改元」の解説は、「寛和」の解説の一部です。
「改元」を含む「寛和」の記事については、「寛和」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 04:52 UTC 版)
文化15年4月22日(グレゴリオ暦1818年5月26日): 仁孝天皇即位のため改元 文政13年12月10日(グレゴリオ暦1831年1月23日): 天保に改元 朝廷は7つの案を出した上で「文政」と「文長」を推し、幕府はこれを受けて「文政」を新元号とした。
※この「改元」の解説は、「文政」の解説の一部です。
「改元」を含む「文政」の記事については、「文政」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 20:56 UTC 版)
弘化5年2月28日(グレゴリオ暦1848年4月1日): 孝明天皇の代始のため改元 嘉永7年11月27日(グレゴリオ暦1855年1月15日): 安政に改元 朝廷は「万延」・「明治」などを含めた7つの案のうち、最終的に「天久」と「嘉永」の2案に絞り、朝廷の内意は「天久」であると幕府に伝えた。だが、幕府は「嘉永」を推して譲らず、最終的に朝廷もこれに従った。
※この「改元」の解説は、「嘉永」の解説の一部です。
「改元」を含む「嘉永」の記事については、「嘉永」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 05:16 UTC 版)
文政13年12月10日(グレゴリオ暦1831年1月23日)、 同年に起きた江戸神田佐久間町火事(文政大火。3月21日、グレゴリオ暦4月24日)や、文政京都地震(7月2日、同8月19日)などの災異のため改元 天保15年12月2日(同1845年1月9日)、 弘化に改元 勘者として式部大輔の桑原為顕・同権大輔の高辻以長・文章博士の唐橋在久の3名が知られ、桑原の勘進した案の中に「天保」があったことが知られている。後述のような曰くのある元号であったが、朝議でもその後の幕府への内慮でも特段の異論が出ずに改元が実施されている。
※この「改元」の解説は、「天保」の解説の一部です。
「改元」を含む「天保」の記事については、「天保」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 20:52 UTC 版)
天保15年12月2日(グレゴリオ暦1845年1月9日) 江戸城火災などの災異のため改元 弘化5年2月28日(グレゴリオ暦1848年4月1日) 嘉永に改元 天保9年(1838年)の江戸城西ノ丸の火災の際には改元の議論は生じなかったが、天保15年5月の火災は本丸の火事でしかも立て続けの火災であったこと、先に崩じた光格上皇に対する諡号復活の際に幕府の協力を得た事を背景に幕府の意向に配慮した改元が行われたとされる。
※この「改元」の解説は、「弘化」の解説の一部です。
「改元」を含む「弘化」の記事については、「弘化」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 07:07 UTC 版)
応安8年2月27日(ユリウス暦1375年3月29日):後円融天皇の即位に伴う代始改元。 永和5年3月22日(ユリウス暦1379年4月9日):康暦に改元。
※この「改元」の解説は、「永和 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「永和 (日本)」の記事については、「永和 (日本)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 14:34 UTC 版)
天応2年8月19日(ユリウス暦782年9月30日):改元。 延暦25年5月18日(ユリウス暦806年6月8日):大同に改元。
※この「改元」の解説は、「延暦」の解説の一部です。
「改元」を含む「延暦」の記事については、「延暦」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 17:31 UTC 版)
元号制度は孝徳天皇の代から始められ、大化・白雉の2つの元号が定められたが、孝徳天皇が崩御して次の斉明天皇の代より断絶していた。天武天皇15年7月20日(ユリウス暦686年8月14日)に朱鳥と定められ、32年ぶりに再開された。理由は明記されていないが、浄御原の宮号と共に天皇の病気平癒を祈願した改元と思われる。しかし同年(末日は閏12月30日(ユリウス暦687年2月17日))に天武天皇が崩御すると、翌年以降、701年の大宝までは、元号が定められることはなかった。
※この「改元」の解説は、「朱鳥」の解説の一部です。
「改元」を含む「朱鳥」の記事については、「朱鳥」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 01:26 UTC 版)
文禄5年10月27日(グレゴリオ暦1596年12月16日) 天変地異などの災異のため改元 慶長20年7月13日(グレゴリオ暦1615年9月5日) 元和に改元 豊臣政権は自己の権威の維持を図るために豊臣秀次が自害した文禄4年と豊臣秀吉が病死した慶長3年に朝廷に対して改元を要請したことが知られているが、朝廷はこれを拒んでいる。この時期(豊臣政権)の改元はあくまでも公家側と武家側の意見の一致が必要であり、それが成立したのが後陽成天皇即位に伴う代始改元の動きと豊臣政権による全国平定が重なった「文禄」改元と京都などで地震が相次いだ「慶長」改元のみであったとみられている。
※この「改元」の解説は、「慶長」の解説の一部です。
「改元」を含む「慶長」の記事については、「慶長」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 18:59 UTC 版)
ウィキソースに今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔書の原文があります。 1868年10月23日(慶応4年9月8日)- 皇太子睦仁親王(後の明治天皇)の即位による改元。ただし、改元の詔書には「吉凶之象兆ニ隨ヒ」(吉凶の象兆に随ひ)「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて明治元年と為す)とあり、改元が年の呼称を改めるということから。また、一世一元の詔も併せて出され、天皇在位中の改元は行わないものとした。 『元号 全247総覧』によると、松平春嶽に新元号の考案が委ねられ、複数の案を出し、最終的に明治天皇自身によるくじ引きで「明治」が選定されたとされる。 1912年(明治45年)7月30日(1873年〈明治6年〉に太陽暦を施行)- 明治天皇の崩御と皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の践祚(即位)により、大正(たいしょう)と改元。同日施行され、大正元年7月30日となった。
※この「改元」の解説は、「明治」の解説の一部です。
「改元」を含む「明治」の記事については、「明治」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:05 UTC 版)
文久4年2月20日:(グレゴリオ暦1864年3月27日) 讖緯説に基づく甲子革令の年に当たるため改元。 元治2年4月7日(グレゴリオ暦1865年5月1日): 慶応に改元。
※この「改元」の解説は、「元治」の解説の一部です。
「改元」を含む「元治」の記事については、「元治」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 13:56 UTC 版)
明和9年11月16日(グレゴリオ暦1772年12月10日) 改元。後桃園天皇即位のためと、続いて起こった火事風水害が「明和九年(めいわくねん)」すなわち「迷惑年」によるとされたため。ただし、前者については後桃園天皇と同様に中継ぎを挟んで即位した霊元天皇の先例に倣って代始改元を行わなかった(安永改元と新帝即位は無関係)とする記録もある。 安永10年4月2日(グレゴリオ暦1781年4月25日) 天明に改元
※この「改元」の解説は、「安永 (元号)」の解説の一部です。
「改元」を含む「安永 (元号)」の記事については、「安永 (元号)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 08:24 UTC 版)
隆武2年11月18日(1646年12月24日):永明王朱由榔が皇帝(永暦帝)に即位。踰年改元法に則り、翌年元日をもって永暦元年とする。 永暦16年4月15日(1662年6月1日):南明最後の皇帝永暦帝が、呉三桂により処刑される。しかし、これ以降も台湾の鄭氏政権が永暦年号を使用し続ける。 永暦37年(1683年):台湾の鄭克塽が清に降伏し、鄭氏政権が滅亡。
※この「改元」の解説は、「永暦 (南明)」の解説の一部です。
「改元」を含む「永暦 (南明)」の記事については、「永暦 (南明)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 23:02 UTC 版)
天平神護3年8月16日(ユリウス暦767年9月13日):瑞雲の発現により改元。 神護景雲4年10月1日(ユリウス暦770年10月23日):宝亀に改元。
※この「改元」の解説は、「神護景雲」の解説の一部です。
「改元」を含む「神護景雲」の記事については、「神護景雲」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 05:37 UTC 版)
長和6年4月23日(ユリウス暦1017年5月21日) 、改元。 寛仁5年2月2日(ユリウス暦1021年3月17日) 、「治安」に改元。
※この「改元」の解説は、「寛仁」の解説の一部です。
「改元」を含む「寛仁」の記事については、「寛仁」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 03:13 UTC 版)
延暦25年5月18日(ユリウス暦806年6月8日):改元。 大同5年9月19日(ユリウス暦810年10月20日):弘仁に改元。
※この「改元」の解説は、「大同 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「大同 (日本)」の記事については、「大同 (日本)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 15:33 UTC 版)
慶雲5年1月11日(ユリウス暦708年2月7日):和銅が献じられたことにより改元。 和銅8年9月2日(ユリウス暦715年10月3日):霊亀に改元。
※この「改元」の解説は、「和銅」の解説の一部です。
「改元」を含む「和銅」の記事については、「和銅」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 01:17 UTC 版)
元文6年2月27日(グレゴリオ暦1741年4月12日) 讖緯説に基づく辛酉革命に当たるため改元 寛保4年2月21日(グレゴリオ暦1744年4月3日) 延享に改元 「寛保」は正徳改元の時に当時の霊元上皇が強く推したものの、新井白石から「柳沢吉保を想像させる」として拒絶された経緯があったとされる。しかし、今回は先例に基づいて2月中の改元を実現させるために勧進する候補を17に増やしたところ、却って選定に手間取って幕府に案が届いたのは2月になってからで、桜町天皇や摂関家が推す「寛保」に対して幕府も異論を挟まなかったために、予定の2月改元に間に合せることが出来た。
※この「改元」の解説は、「寛保」の解説の一部です。
「改元」を含む「寛保」の記事については、「寛保」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 06:37 UTC 版)
弘仁15年1月5日(ユリウス暦824年2月8日):改元。 天長11年1月3日(ユリウス暦834年2月14日):承和に改元。
※この「改元」の解説は、「天長」の解説の一部です。
「改元」を含む「天長」の記事については、「天長」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 03:35 UTC 版)
大化6年2月15日(ユリウス暦650年3月22日):1月1日に遡って改元(立年改元)。以後は明治まで立年改元が慣行となる。 孝徳天皇が崩御した白雉5年(末日は12月30日、ユリウス暦655年2月11日)を最後に使用されなくなり、以降686年に朱鳥と定められるまで元号はなかった。
※この「改元」の解説は、「白雉」の解説の一部です。
「改元」を含む「白雉」の記事については、「白雉」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:39 UTC 版)
弘和4年4月28日(ユリウス暦1384年5月18日) 後亀山天皇の即位および甲子革令に当たるため改元 元中9年閏10月5日(ユリウス暦1392年11月19日) 南北朝合一に伴って廃止。北朝の元号「明徳」に統一される。
※この「改元」の解説は、「元中」の解説の一部です。
「改元」を含む「元中」の記事については、「元中」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:56 UTC 版)
永禄13年4月23日(ユリウス暦1570年5月27日) 戦乱などの災異のため改元。 元亀4年7月28日(ユリウス暦1573年8月25日) 天正に改元。 義昭は自らが将軍に就任した際、元号を「元亀」と改元するべく朝廷に奏請した(『言継卿記』永禄12年4月8日条ほか)。これに対して、織田信長はそれが将軍権威の復活につながること、正親町天皇の在位が続いているのに必要ないと反対した。しかし、義昭は朝廷を説得するために下行費用の名目で5000疋もの朝廷への献金を実施(『康雄記』同4月6日条)し、信長が朝倉氏討伐に出陣した4月23日、改元を実行している。 信長は信長包囲網の中で悪戦苦闘を続けていた。『信長公記 巻六』によると、元亀3年(1572年)9月に足利義昭に提出した17か条の意見書で、「元亀の年号、不吉に侯間、改元然るべしの由、天下の沙汰につきて、申し上げ侯」と改元するよう申し出ている。義昭追放後に改元を実行させたことからも、信長にとって元亀の年号は不愉快なものだったと推察される。
※この「改元」の解説は、「元亀」の解説の一部です。
「改元」を含む「元亀」の記事については、「元亀」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:41 UTC 版)
観応3年9月27日(ユリウス暦1352年11月4日) 後光厳天皇の即位による代始改元 文和5年3月28日(ユリウス暦1356年4月29日) 延文に改元 当時の代始改元は即位翌年に行う踰年改元が一般的であったが、正平一統に絡む緊迫した政治状況下において、足利尊氏の名代であった嫡男義詮は北朝立て直しのために至急の改元を求める武家執奏を行い、新天皇の践祚から1か月余りで改元が実施された。
※この「改元」の解説は、「文和」の解説の一部です。
「改元」を含む「文和」の記事については、「文和」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:36 UTC 版)
詳細は「建武の新政#建武の元号」を参照 元弘3年/正慶2年(1333年)5月22日に元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇は、遷幸先の船上山行宮から京都に戻る途上の5月25日、鎌倉幕府によって擁立された持明院統の光厳天皇の即位とその元号である「正慶」の無効を宣言した。後醍醐天皇は親政を開始して、元弘4年1月29日(ユリウス暦1334年3月5日)、勅旨を出し建武に改元した。 その後、足利尊氏との対立で発生した建武の乱により、建武の新政は数年で崩壊した。後醍醐天皇は建武3年2月29日(ユリウス暦1336年4月11日)に延元に改元した。のちに光明天皇を擁立した北朝方は、建武の元号を使い続け、建武5年8月28日(ユリウス暦1338年10月11日)に暦応に改元した。
※この「改元」の解説は、「建武 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「建武 (日本)」の記事については、「建武 (日本)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:42 UTC 版)
延文6年3月29日(ユリウス暦1361年5月4日) 改元 康安2年9月23日(ユリウス暦1362年10月11日) 貞治に改元 『太平記』(巻36)によれば、改元の日の夜、京都で大火があり改元に批判の声が高まったが、室町幕府の強硬な主張で改元がそのまま実施されたという。
※この「改元」の解説は、「康安」の解説の一部です。
「改元」を含む「康安」の記事については、「康安」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:44 UTC 版)
嘉慶3年2月9日(ユリウス暦1389年3月7日) 改元。病事を理由とする(『続史愚抄』)。 康応2年3月26日(グレゴリオ暦1390年4月12日) 明徳に改元 病事とは、前年に近衛兼嗣・二条良基と摂関が2代続けて死去したことなどを指すと考えられている。
※この「改元」の解説は、「康応」の解説の一部です。
「改元」を含む「康応」の記事については、「康応」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:11 UTC 版)
平治2年1月10日(ユリウス暦1160年2月18日):大乱(平治の乱)により改元。 永暦2年9月4日(ユリウス暦1161年9月24日):応保に改元。
※この「改元」の解説は、「永暦」の解説の一部です。
「改元」を含む「永暦」の記事については、「永暦」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 06:37 UTC 版)
大同5年9月19日(ユリウス暦810年10月20日):代始により改元。 弘仁15年1月5日(ユリウス暦824年2月8日):天長に改元。
※この「改元」の解説は、「弘仁」の解説の一部です。
「改元」を含む「弘仁」の記事については、「弘仁」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:52 UTC 版)
延徳4年7月19日(ユリウス暦1492年8月12日) 疫病などにより改元。ただし、室町幕府は改元吉書始を7月28日に行い、この日から新元号を採用している。 明応10年2月29日(ユリウス暦1501年3月18日) 文亀に改元 権大納言甘露寺親長が疫病の流行を理由に改元を発議をしたとされる(『親長卿記』延徳4年5月1日条)。将軍・足利義材の強い政治的関与があった改元であるとされ、改元の上卿・実施日、更には新元号に「明」の字を用いることまで干渉したと伝えられている(『親長卿記』延徳4年7月2・10・19日各条)。
※この「改元」の解説は、「明応」の解説の一部です。
「改元」を含む「明応」の記事については、「明応」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:52 UTC 版)
文明19年7月20日(ユリウス暦1487年8月9日) 戦乱・疫病などにより改元 長享3年8月21日(ユリウス暦1489年9月16日) 延徳に改元 ただし、改元後も幕府側の準備不足の為、8月9日まで公家も武家も文明年号を使用した。
※この「改元」の解説は、「長享」の解説の一部です。
「改元」を含む「長享」の記事については、「長享」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 08:56 UTC 版)
天平感宝元年7月2日(ユリウス暦749年8月19日):孝謙天皇即位により改元。 天平勝宝9歳8月18日(ユリウス暦757年9月6日):天平宝字に改元。
※この「改元」の解説は、「天平勝宝」の解説の一部です。
「改元」を含む「天平勝宝」の記事については、「天平勝宝」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:26 UTC 版)
建長8年10月5日(ユリウス暦1256年10月24日) 改元。赤斑瘡による説(『百錬抄』)がある。 康元2年3月14日(ユリウス暦1257年3月31日) 正嘉に改元
※この「改元」の解説は、「康元」の解説の一部です。
「改元」を含む「康元」の記事については、「康元」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:43 UTC 版)
永和5年3月22日(ユリウス暦1379年4月9日) 疫病・兵革による改元 康暦3年2月24日(ユリウス暦1381年3月20日) 永徳に改元 菅原秀長の『迎陽記』によれば、室町幕府から准三后二条良基を介して、改元の日時や使用する文字に関して様々な介入があったことが記されている。当時、改元は朝廷の権限であったが、室町幕府の同意なくして実現できなかった状況を反映している。
※この「改元」の解説は、「康暦」の解説の一部です。
「改元」を含む「康暦」の記事については、「康暦」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 14:09 UTC 版)
崇禎17年(1644年)3月19日、李自成軍の北京攻略により明朝は滅亡するが、5月15日に万暦帝の孫である福王朱由崧が南京において皇帝に即位し、亡命政権(南明)を発足させ、明朝復興運動の中心となる。即位の際に年号を「弘光」と定め、踰年改元法に則り、翌年(1645年)をもって弘光元年に改元する。 しかし、弘光元年5月24日に、清軍の攻撃を受けて南京が陥落、28日に、弘光帝は清軍に捕らえられた。残存の南明勢力は福州に逃れ、閏6月15日、唐王朱聿鍵が皇帝に即位(隆武帝)、年号を「隆武」と定め、その年の7月1日を以って改元した。
※この「改元」の解説は、「弘光」の解説の一部です。
「改元」を含む「弘光」の記事については、「弘光」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 14:21 UTC 版)
弘光元年(1645年)閏6月15日、清軍に捕らえられた弘光帝に代わり、福州において唐王朱聿鍵が皇帝に即位(隆武帝)、年号を「隆武」と定め、その年の7月1日を以って改元した。 しかし、隆武2年8月28日、隆武帝(朱聿鍵)もまた清軍に捕らわれたため、11月5日に隆武帝の弟、朱聿𨮁が広州で即位した。年号を「紹武」と定め、踰年改元法に則り、翌年(1647年)1月1日を以って紹武元年に改元する予定であったが、12月15日に清軍の攻撃を受け紹武帝(朱聿𨮁)が自害したことにより、紹武年号は施行されなかった。 一方、この年の11月18日には、弘光帝の従兄弟にあたる永明王朱由榔も肇慶で皇帝に即位し(永暦帝)、年号を「永暦」と定め、踰年改元法に則り、翌年1月1日を以って永暦元年に改元した。
※この「改元」の解説は、「隆武」の解説の一部です。
「改元」を含む「隆武」の記事については、「隆武」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 07:06 UTC 版)
享保21年4月28日(グレゴリオ暦1736年6月7日) 桜町天皇即位のため改元 元文6年2月27日(グレゴリオ暦1741年4月12日) 寛保に改元 この改元の際、中御門上皇が清原氏系の伏原宣通を勘案者に加えるように命じたところ、菅原氏系の学者が明経道(清原氏)が紀伝道(菅原氏)の領域を侵すものだと猛反対して朝廷内部が紛糾した。結局、桜町天皇の決断で宣通起用は中止されたものの、桜町天皇と関白一条兼香による官制改革のきっかけとなる事件の一つであった。
※この「改元」の解説は、「元文」の解説の一部です。
「改元」を含む「元文」の記事については、「元文」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 15:03 UTC 版)
万延2年2月19日(グレゴリオ暦1861年3月29日): 讖緯説に基づく辛酉革命の年に当たるため改元。 文久4年2月20日(グレゴリオ暦1864年3月27日):元治に改元。 なお、前回の万延改元の時に最終的に絞られた2つのうち最後に外されたのが「文久」であった。
※この「改元」の解説は、「文久」の解説の一部です。
「改元」を含む「文久」の記事については、「文久」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 16:50 UTC 版)
宝暦14年6月2日(グレゴリオ暦1764年6月30日) 後桜町天皇即位のため改元 明和9年11月16日(グレゴリオ暦1772年12月10日) 安永に改元 当初1月28日改元の予定であったが、朝鮮通信使の来日中の改元は事務上の問題に加えて外聞の問題も生じるとして4ヶ月延期された。
※この「改元」の解説は、「明和」の解説の一部です。
「改元」を含む「明和」の記事については、「明和」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 16:49 UTC 版)
寛延4年10月27日(グレゴリオ暦1751年12月14日) 改元。前年の桜町上皇の崩御、この年の大御所徳川吉宗の薨去、そしてその間に発生した地震のためともみられる。 宝暦14年6月2日(グレゴリオ暦1764年6月30日) 明和に改元 公式には上皇と大御所の逝去を理由にしているものの、実際には凶作や地震を理由とした災異改元の要素があった。実際、天保改元の際には宝暦改元を前例として災異改元を行っている。
※この「改元」の解説は、「宝暦」の解説の一部です。
「改元」を含む「宝暦」の記事については、「宝暦」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 05:43 UTC 版)
天明9年1月25日(グレゴリオ暦1789年2月19日): 天明の大飢饉や内裏炎上などのため改元 寛政13年2月5日(グレゴリオ暦1801年3月19日): 享和に改元 災異のための改元が検討されたものの、内裏の再建が優先され、実際に改元の議論が始まったのは、火災より1年近く経った天明8年12月に入ってからであった。7つの候補のうち、「寛政」と「寛安」が朝廷から推され、幕府の意向で「寛政」に決定された。
※この「改元」の解説は、「寛政」の解説の一部です。
「改元」を含む「寛政」の記事については、「寛政」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 09:48 UTC 版)
安政7年3月18日(グレゴリオ暦1860年4月8日): 江戸城火災や桜田門外の変などの災異のため改元。 万延2年2月19日(グレゴリオ暦1861年3月29日): 文久に改元。 なお、この改元の際に朝廷や幕府の一部には翌年は辛酉革命による改元の年(かつ当時の慣習で辛酉改元は2月に行われる事になっていた)なのに、1年足らずのための改元はおかしいとする異論が出されたものの、黒船来航以来の国内の混乱に危機感を抱いた孝明天皇の強い意向を受けて行われたのだという。
※この「改元」の解説は、「万延」の解説の一部です。
「改元」を含む「万延」の記事については、「万延」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 09:04 UTC 版)
神護景雲4年10月1日(ユリウス暦770年10月23日):瑞亀献上により改元。 宝亀12年1月1日(ユリウス暦781年1月30日):天応に改元。
※この「改元」の解説は、「宝亀」の解説の一部です。
「改元」を含む「宝亀」の記事については、「宝亀」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 09:04 UTC 版)
天平宝字9年1月7日(ユリウス暦765年2月1日):改元。 天平神護3年8月16日(ユリウス暦767年9月13日):神護景雲に改元。
※この「改元」の解説は、「天平神護」の解説の一部です。
「改元」を含む「天平神護」の記事については、「天平神護」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 09:04 UTC 版)
天平勝宝9歳8月18日(ユリウス暦757年9月6日): 蚕が「五月八日開下帝釋標知天皇命百年息」の文字を成したことにより改元。 天平宝字9年1月7日(ユリウス暦765年2月1日): 天平神護に改元。
※この「改元」の解説は、「天平宝字」の解説の一部です。
「改元」を含む「天平宝字」の記事については、「天平宝字」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 19:07 UTC 版)
天平21年4月14日(ユリウス暦749年5月4日):陸奥からの黄金献上により改元。 天平感宝元年7月2日(ユリウス暦749年8月19日):天平勝宝に改元。
※この「改元」の解説は、「天平感宝」の解説の一部です。
「改元」を含む「天平感宝」の記事については、「天平感宝」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 09:03 UTC 版)
養老8年2月4日(ユリウス暦724年3月3日) - 白亀出現の瑞祥により改元。 神亀6年8月5日(ユリウス暦729年9月2日) - 天平に改元。
※この「改元」の解説は、「神亀」の解説の一部です。
「改元」を含む「神亀」の記事については、「神亀」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 09:07 UTC 版)
永承8年1月11日(ユリウス暦1053年2月2日)に改元 天喜6年8月29日(ユリウス暦1058年9月19日)に康平となる。
※この「改元」の解説は、「天喜」の解説の一部です。
「改元」を含む「天喜」の記事については、「天喜」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 21:11 UTC 版)
いずれも西暦304年内。 太安2年の翌年正月より永安と改元。 永安元年7月:建武と改元。 建武元年11月:永安に再び改元。 永安元年12月:永興と改元。
※この「改元」の解説は、「永安 (晋)」の解説の一部です。
「改元」を含む「永安 (晋)」の記事については、「永安 (晋)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 16:00 UTC 版)
和銅8年9月2日(ユリウス暦715年10月3日):瑞亀献上により霊亀に改元。 霊亀3年11月17日(ユリウス暦717年12月24日):養老に改元。
※この「改元」の解説は、「霊亀」の解説の一部です。
「改元」を含む「霊亀」の記事については、「霊亀」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 00:48 UTC 版)
寛政13年2月5日(グレゴリオ暦1801年3月19日): 辛酉革命に当たるため改元 享和4年2月11日(グレゴリオ暦1804年3月22日): 文化に改元 辛酉革命に基づく改元自体が朝廷と幕府の間で恒例となっており、特に問題が起きたとも伝わっておらず、平穏のうちに決定が進められたとみられる。
※この「改元」の解説は、「享和」の解説の一部です。
「改元」を含む「享和」の記事については、「享和」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 00:48 UTC 版)
安永10年4月2日(グレゴリオ暦1781年4月25日): 光格天皇の即位のため代始改元 天明9年1月25日(グレゴリオ暦1789年2月19日): 寛政に改元 朝廷は7つの案のうち「天明」を強く推し、幕府は新元号・改元日に異論なしと回答したために問題なく改元が実施されたとされる。
※この「改元」の解説は、「天明」の解説の一部です。
「改元」を含む「天明」の記事については、「天明」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 23:03 UTC 版)
天正20年12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日) 改元理由は後陽成天皇の代始改元だが、即位6年目という歴史上3番目に長い遅滞で、豊臣秀次の関白就任による改元という説がある。 文禄5年10月27日(グレゴリオ暦1596年12月16日) 慶長に改元 文禄への改元は、「武家関白制」を採った豊臣政権最初の改元であり、新天皇の代始改元を行いたかった公家側の希望と日本全国の平定を果たした武家側の要請が一致して実施された改元であると考えられている。秀次関白就任1年後に改元され、さらに秀次切腹事件の1年後、慶長へと豊臣政権2度目の改元に至った。
※この「改元」の解説は、「文禄」の解説の一部です。
「改元」を含む「文禄」の記事については、「文禄」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 04:13 UTC 版)
神亀6年8月5日(ユリウス暦729年9月2日)- 「天王貴平知百年」の文字を背に負った瑞亀の献上により改元。 天平21年4月14日(ユリウス暦749年5月4日)- 天平感宝に改元。
※この「改元」の解説は、「天平」の解説の一部です。
「改元」を含む「天平」の記事については、「天平」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 15:56 UTC 版)
天和4年2月21日(グレゴリオ暦1684年4月5日) 讖緯説に基づく甲子革令に当たるため改元 貞享5年9月30日(グレゴリオ暦1688年10月23日) 元禄に改元 朝廷は当初、「文長」と「天明」を候補として決めたが、江戸幕府が両方の案に反対したために紛糾し、最終的に朝廷が「天明」と差し替える形で提案された「貞享」で両者が折り合う形となった(「貞享」は最終案から落選した候補であり、朝廷が強く推していた「文長」とともに再提案の候補とされたが、幕府は再び「文長」を拒否して「貞享」を選択した)。
※この「改元」の解説は、「貞享」の解説の一部です。
「改元」を含む「貞享」の記事については、「貞享」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 08:13 UTC 版)
宝永8年4月25日(グレゴリオ暦1711年6月11日) 中御門天皇即位のため改元 正徳6年6月22日(グレゴリオ暦1716年8月9日) 享保に改元 朝廷が提示した5つ案から、幕府が新井白石に命じて選択させたのが「正徳」であったといわれている。なお、これに反発した林鳳岡は徳川家継の将軍就任を機に再度の改元を幕府・朝廷に働きかけたが失敗に終わっている。
※この「改元」の解説は、「正徳 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「正徳 (日本)」の記事については、「正徳 (日本)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:35 UTC 版)
延享5年7月12日(グレゴリオ暦1748年8月5日) 桃園天皇即位による代始改元 寛延4年10月27日(グレゴリオ暦1751年12月14日) 宝暦に改元 なお、当初4月25日改元の予定であったが、前将軍徳川家継の33回忌法要当日にぶつけてきたことから幕府が激怒、さらに朝鮮通信使も来日中と言うことで強く反対して、改元を進めたいとする朝廷との間に紛糾を招いたものの、2ヵ月半の延期で両者が折り合った。
※この「改元」の解説は、「寛延」の解説の一部です。
「改元」を含む「寛延」の記事については、「寛延」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 16:27 UTC 版)
宝治3年3月18日(ユリウス暦1249年5月2日) 天変・火災による改元 建長8年10月5日(ユリウス暦1256年10月24日) 康元に改元 宝治3年2月1日、里内裏となっていた閑院が焼失する火災(閑院火災)があったことを受けて改元が行われた。しかし、改元からわずか5日後に洛中の主要部(三条・西洞院・八条・東京極を囲む一帯)を焼き、更に鴨川対岸の蓮華王院まで焼失する大火災が発生している(2月の火災は内裏を焼いたとは言え、被害自体は近辺のみに留まっていた)。
※この「改元」の解説は、「建長」の解説の一部です。
「改元」を含む「建長」の記事については、「建長」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 10:00 UTC 版)
弘治4年2月28日(ユリウス暦1558年3月18日) 正親町天皇即位のため改元 永禄13年4月23日(ユリウス暦[の間でも「弘治」を使い続ける者と「永禄」に改める者で分かれた。結局永禄元年の終わりに長慶と義輝は和睦したことで「永禄」改元が日本全国で承認されることになるが、これは天皇を掌握している長慶と対立した将軍義輝が「朝敵」になる事態を回避する苦肉の策であった。なんででしょう 6年後の永禄7年の甲子革令の時も三好長慶の側から改元の申請が行われた(当時の武家伝奏・広橋国光の妹婿は長慶の重臣である松永久秀で、国光を介して上奏された)。しかし、足利義輝と三好長慶の対立が収まらない中での改元実施が京都における軍事衝突に発展することを警戒した正親町天皇は改元を実施しない決断を下すことになり、次の改元は長慶・義輝の死とその後の戦乱を経て、織田信長の援助を受けて将軍に就任した義輝の弟・義昭が主導する形で行われることになる。
※この「改元」の解説は、「永禄」の解説の一部です。
「改元」を含む「永禄」の記事については、「永禄」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 01:18 UTC 版)
元亀4年7月28日(ユリウス暦1573年8月25日):戦乱などの災異のため改元。 天正20年12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日) :文禄に改元。
※この「改元」の解説は、「天正」の解説の一部です。
「改元」を含む「天正」の記事については、「天正」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 21:32 UTC 版)
元和10年2月30日(グレゴリオ暦1624年4月17日) 讖緯説に基づく甲子革令に当たるため改元。ただし、徳川家光の征夷大将軍任命にあたり、「将軍代始改元」を改元事由に加えようとした江戸幕府の意向とする説もある。 朝廷から提示された8つの候補のうち、幕府が選んだ寛永・享明・貞正の3候補から、天皇の意向によって選ばれた。 寛永21年12月16日(グレゴリオ暦1645年1月13日) 正保に改元。
※この「改元」の解説は、「寛永」の解説の一部です。
「改元」を含む「寛永」の記事については、「寛永」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 22:06 UTC 版)
正保5年2月15日(グレゴリオ暦1648年4月7日) 「正保」が「焼亡」に繋がると批判が起きたため改元 慶安5年9月18日(グレゴリオ暦1652年10月20日) 承応に改元 なお、改元予定日は2月3日に定められていたが、閏1月21日に覚深法親王が逝去したために関白一条昭良と上卿近衛尚嗣が共に服忌に入ったため(→皇別摂家)に改元に必要な儀礼が行われずに一旦延期されている。
※この「改元」の解説は、「慶安」の解説の一部です。
「改元」を含む「慶安」の記事については、「慶安」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 20:25 UTC 版)
寛永21年12月16日(グレゴリオ暦1645年1月13日) 後光明天皇即位のため改元。また、1つの元号が三帝に渡った前例がないことによる。 なお、改元の背景に江戸幕府の意向があったとする説がある。 寛永の飢饉を受けた幕政の立て直しを図っていた時期と重なる 摂政二条康道が勘文が出揃ったら、幕府の提示を受けてその判断を受けてから作業を進めることを主張していること 将軍徳川家光は「年号は天下共に用いることなれば、武家より定むべき事勿論なり」として、年号は諸家の勘文から武家が定めると述べたと、林鵞峯の『改元物語』に記されている 正保5年2月15日(グレゴリオ暦1648年4月7日) 慶安に改元 なお、この「正保」という元号は以下の理由から不評であった。 「正保(しょうほう)」は「焼亡(しょうぼう)」と音が似ている 「正」の字が「一にして止まる」、「保」の字が「人口木」とそれぞれ読める 「正保元年」と書き記すと、かつて大乱があった元号「保元」より、「正(まさ)に保元の年」と読め、再び大乱が起こる兆しがある このような批判が京都から始まり、ついには本当に良くない兆しを持つ元号ではないかという世論が高まってしまったため、結局短期間で改元されることになった。
※この「改元」の解説は、「正保」の解説の一部です。
「改元」を含む「正保」の記事については、「正保」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 02:02 UTC 版)
元禄17年3月13日(グレゴリオ暦1704年4月16日) 前年11月22日の元禄地震のため改元 宝永8年4月25日(グレゴリオ暦1711年6月11日) 正徳に改元 前回の元禄改元の際に霊元上皇が希望して幕府が拒絶した案だったが、今回の改元の際には朝廷の案と幕府の希望が合致しなかったために採用されたと言われている。貞享・元禄の改元の時には朝廷が出した最終案の候補2つが両方幕府から拒絶されて再提出した経緯があったために、今回は最終案の候補を7つとして幕府に提出したが全て拒絶された。このため、再提出の際には候補に挙がった22の案が出され、幕府も最終的には「宝永」を選ぶ事で事態を収拾させた。また、施行時にも京都市中への布告は改元から24日後の4月7日のことになり、近衛基煕を嘆かせた(当時、元号の施行権は幕府にあり、京都の朝廷から江戸の幕府への改元の告知→江戸城における公達→江戸から京都所司代への公達の通知→京都所司代から京都市中への布告の手続きを踏むことになっており、布告前に京都市民が新元号を使うことが禁じられていた)。
※この「改元」の解説は、「宝永」の解説の一部です。
「改元」を含む「宝永」の記事については、「宝永」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/20 03:53 UTC 版)
宝亀12年1月1日(ユリウス暦781年1月30日):伊勢斎宮に現れた美雲の瑞祥により改元。元日の改元は日本史上唯一。 天応2年8月19日(ユリウス暦782年9月30日):延暦に改元。
※この「改元」の解説は、「天応 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「天応 (日本)」の記事については、「天応 (日本)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 01:38 UTC 版)
明暦4年7月23日(グレゴリオ暦1658年8月21日) 江戸の大火(明暦の大火)などの災異のため改元 万治4年4月25日(グレゴリオ暦1661年5月23日) 寛文に改元 朝廷は「貞正・安永・康徳」の3つの案を提示していたが、幕府はこれに不満を抱いて選外となっていた「万治」を強硬に推したために朝幕間で紛糾したが、幕命によって押し切られたとされる。
※この「改元」の解説は、「万治」の解説の一部です。
「改元」を含む「万治」の記事については、「万治」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 09:13 UTC 版)
寛文13年9月21日(グレゴリオ暦1673年10月30日) 京都大火などの災異のため改元 延宝9年9月29日(グレゴリオ暦1681年11月9日) 天和に改元 前回の寛文改元と同様、京都での大火とそれによる内裏の焼失を理由として改元が実施された。五条為庸・為到父子、東坊城知長・長詮父子、高辻豊長の5名が17の案を出したが、最終的に「宝永・延宝・天亀・享延・建禄・弘徳・至元・嘉永」に絞って幕府に提出した。幕府から諮問を受けた林鵞峯が8案を上中下に分類した上で、延宝を最良で望ましいと幕府に回答し、これが幕府側の意見として採用されたという。
※この「改元」の解説は、「延宝」の解説の一部です。
「改元」を含む「延宝」の記事については、「延宝」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 01:27 UTC 版)
慶安5年9月18日(グレゴリオ暦1652年10月20日)改元。 承応・文嘉・享応・承禄・承延の候補の中から後光明天皇が承応・文嘉・享応を選び、幕府へ提示。幕府がその中から承応を選んだ。 承応4年4月13日(グレゴリオ暦1655年5月18日) 明暦に改元。 改元の理由は不明であるが、関白近衛尚嗣の日記によれば江戸幕府から改元の申し入れがあったが理由は明示されておらず、尚嗣も不審の念を抱いている。幕府側の史料である林鵞峯の『改元物語』によれば、実は徳川家光の逝去と徳川家綱の将軍就任を理由に代始改元を求めたものであったことが明記されており、何らかの事情で朝廷側には本当の理由を示されなかったと推測される。
※この「改元」の解説は、「承応」の解説の一部です。
「改元」を含む「承応」の記事については、「承応」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 02:14 UTC 版)
万治4年4月25日(グレゴリオ暦1661年5月23日) 内裏火災などの災異のため改元 寛文13年9月21日(グレゴリオ暦1673年10月30日) 延宝に改元 前回の万治改元が江戸での大火(明暦の大火)を理由とした江戸幕府からの申し入れによる改元であったため、京都での大火を理由とした朝廷からの申し入れによる改元を幕府は拒否しなかった。また、3月には朝廷から10程度の候補が内々に幕府へと伝えられていたが、幕府の使者である高家吉良義冬の申し入れで「寛文を含めた3つの候補を正式な候補として幕府に通知し、幕府はそれに基づいて寛文を選択する」というシナリオに基づいて一連の手続きが行われたという。
※この「改元」の解説は、「寛文」の解説の一部です。
「改元」を含む「寛文」の記事については、「寛文」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 01:50 UTC 版)
嘉永7年11月27日(グレゴリオ暦1855年1月15日): 内裏炎上、地震、黒船来航などの災異のため改元 安政7年3月18日(グレゴリオ暦1860年4月8日): 万延に改元 朝廷は「文長」を希望していたが、幕府の介入によって「安政」に差し替えられ、実施日も前将軍徳川家慶の月法要(毎月22日)終了後に変えられた。
※この「改元」の解説は、「安政」の解説の一部です。
「改元」を含む「安政」の記事については、「安政」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:49 UTC 版)
元治2年4月7日(グレゴリオ暦1865年5月1日): 禁門の変や社会不安などの災異のために改元。 慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日): 明治に改元。
※この「改元」の解説は、「慶応」の解説の一部です。
「改元」を含む「慶応」の記事については、「慶応」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 19:00 UTC 版)
ウィキソースに明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト爲スの原文があります。 1912年(明治45年)7月30日 - 明治天皇が崩御して皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が践祚(即位)したため、登極令(1909年〈明治42年〉公布)に基づき改元の詔書を公布、即日施行して同日は「大正元年7月30日」となった。 大正改元の詔書(1912年(明治45年)7月30日) 朕菲德ヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗ノ威靈ニ誥ケテ萬機ノ政ヲ行フ茲ニ先帝ノ定制ニ遵ヒ明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト爲ス主者施行セヨ(以下略) ウィキソースに昭和ト改元の原文があります。 1926年(大正15年)12月25日 - 大正天皇が47歳で崩御し、その長男である皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が25歳で践祚したため昭和に改元。同日は「昭和元年12月25日」となった。なお、皇太子裕仁親王は1921年(大正10年)11月25日以降、持病が篤くなった大正天皇の摂政を務めている。
※この「改元」の解説は、「大正」の解説の一部です。
「改元」を含む「大正」の記事については、「大正」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 09:03 UTC 版)
延長9年4月26日(ユリウス暦931年5月16日):延長から改元。 承平8年5月22日(ユリウス暦938年6月22日):天慶に改元。
※この「改元」の解説は、「承平 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「承平 (日本)」の記事については、「承平 (日本)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 09:08 UTC 版)
承平8年5月22日(ユリウス暦938年6月22日):改元。 天慶10年4月22日(ユリウス暦947年5月15日):天暦に改元。
※この「改元」の解説は、「天慶」の解説の一部です。
「改元」を含む「天慶」の記事については、「天慶」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 09:28 UTC 版)
天暦11年10月27日(ユリウス暦957年11月21日):改元。 天徳5年2月16日(ユリウス暦961年3月5日):応和に改元。
※この「改元」の解説は、「天徳 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「天徳 (日本)」の記事については、「天徳 (日本)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/09 03:09 UTC 版)
1885年7月4日(咸宜元年5月22日)、咸宜帝の檄に端を発した抗仏勤王大反乱で帝がフエ王宮を脱出した後、フランスに擁立された同慶帝は咸宜帝を尊重して帰順を促し、元号も越年改元の予定で公布した。しかし地方の抗仏勢力をバックにした咸宜帝は従わなかったため、咸宜元号の使用に対する違和感が強まり、やむなく旧暦の10月から12月までを同慶乙酉年と称し、1886年から元年とした。
※この「改元」の解説は、「同慶 (阮朝)」の解説の一部です。
「改元」を含む「同慶 (阮朝)」の記事については、「同慶 (阮朝)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 09:44 UTC 版)
安和3年3月25日(ユリウス暦970年5月3日):改元。 天禄4年12月20日(ユリウス暦974年1月16日):天延に改元。
※この「改元」の解説は、「天禄」の解説の一部です。
「改元」を含む「天禄」の記事については、「天禄」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 09:31 UTC 版)
天徳5年2月16日(ユリウス暦961年3月5日):辛酉革命に当たるため改元。 応和4年7月10日(ユリウス暦964年8月19日):甲子革令により康保に改元。
※この「改元」の解説は、「応和」の解説の一部です。
「改元」を含む「応和」の記事については、「応和」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 09:40 UTC 版)
康保5年8月13日(ユリウス暦968年9月8日):改元。 安和3年3月25日(ユリウス暦970年5月3日):天禄に改元。
※この「改元」の解説は、「安和」の解説の一部です。
「改元」を含む「安和」の記事については、「安和」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 09:36 UTC 版)
天慶10年4月22日(ユリウス暦947年5月15日):改元。 天暦11年10月27日(ユリウス暦957年11月21日):天徳に改元。
※この「改元」の解説は、「天暦」の解説の一部です。
「改元」を含む「天暦」の記事については、「天暦」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 20:25 UTC 版)
元徳3年8月9日(ユリウス暦1331年9月1日)、後醍醐天皇は「元徳」から「元弘」へと改元したが、鎌倉幕府はこれを認めず「元徳」を使い続けるとともに、9月20日(10月22日)には光厳天皇を新たな天皇として即位させた。翌年、後醍醐天皇は隠岐に流され、元徳4年/元弘2年4月28日(1332年5月23日)、光厳天皇は正慶に代始改元した。 しかし、正慶2年/元弘3年(1333年)、後醍醐天皇が還幸して鎌倉幕府は滅亡した。5月25日(7月7日)に光厳天皇は退位し、正慶の元号は廃された。その翌年の元弘4年1月29日(1334年3月5日)には建武へと改元された。後醍醐天皇はこのとき、光厳天皇の即位と「正慶」の元号の無効を宣言した。
※この「改元」の解説は、「正慶」の解説の一部です。
「改元」を含む「正慶」の記事については、「正慶」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 06:19 UTC 版)
延喜23年閏4月11日(ユリウス暦923年5月29日):改元。 延長9年4月26日(ユリウス暦931年5月16日):承平に改元。
※この「改元」の解説は、「延長 (元号)」の解説の一部です。
「改元」を含む「延長 (元号)」の記事については、「延長 (元号)」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 09:07 UTC 版)
元慶9年2月21日(ユリウス暦885年3月11日):改元。 仁和5年4月27日(ユリウス暦889年5月30日):寛平に改元。
※この「改元」の解説は、「仁和」の解説の一部です。
「改元」を含む「仁和」の記事については、「仁和」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 07:09 UTC 版)
昌泰4年7月15日(ユリウス暦901年8月31日):辛酉革命・昌泰の変などにより改元。 延喜23年閏4月11日(ユリウス暦923年5月29日):延長に改元。
※この「改元」の解説は、「延喜」の解説の一部です。
「改元」を含む「延喜」の記事については、「延喜」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 07:03 UTC 版)
仁和5年4月27日(ユリウス暦889年5月30日):改元。 寛平10年4月26日(ユリウス暦898年5月20日):昌泰に改元。
※この「改元」の解説は、「寛平」の解説の一部です。
「改元」を含む「寛平」の記事については、「寛平」の概要を参照ください。
改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 10:00 UTC 版)
天安3年4月15日(ユリウス暦859年5月20日):改元。 貞観19年4月16日(ユリウス暦877年6月1日):元慶に改元。
※この「改元」の解説は、「貞観 (日本)」の解説の一部です。
「改元」を含む「貞観 (日本)」の記事については、「貞観 (日本)」の概要を参照ください。
「 改元」の例文・使い方・用例・文例
- 改元のページへのリンク