東京大空襲とは? わかりやすく解説

とうきょう‐だいくうしゅう〔トウキヤウダイクウシフ〕【東京大空襲】

読み方:とうきょうだいくうしゅう

昭和20年19453月10日未明米軍B29爆撃機300機による東京へ大規模な空襲死者10万人、焼失家屋27万戸達し下町一帯焦土化した


【東京大空襲】(とうきょうだいくうしゅう)

太平洋戦争(大東亜戦争)中、アメリカ軍東京に対して実施した一連の計画的且つ大規模な戦略爆撃
東京1944年11月14日以降、計104回の爆撃受けたが、その中で1945年3月10日4月13日15日5月25日大規模な空襲受けた
特に3月10日空襲一連の空襲中でも大規模なもので、死者は約9万人負傷者は約4万人被災者100万人を超えた

3月10日の空襲

この日の空襲それまで爆撃とは異なり、低高度、夜間焼夷弾攻撃だった。
その目的は、市民の生活の場である木造家屋密集する下町市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼くことにあった
この攻撃についてアメリカ軍は、日本中小企業軍需産業生産拠点となっていると理由付けをした。
アメリカ軍爆撃部隊は第73、第313、第314航空団の計325機ものB-29構成されていた。

まず、3月9日2230分に2機のB-29東京上空飛来し、これにより警戒警報発令された。
まもなくこの機は房総沖飛び去ったため、一旦警報解除された。
これで東京市民が安心した10日0時7分、深川地区第一弾投下され、それから約二時間半わたって絨毯爆撃が行われた。
爆撃による火災の煙は高度15,000mの成層圏まで達し、100m/秒という竜巻並み暴風吹き荒れた
この爆撃のために、各機に通常の2倍もの搭載量である6tの高性能焼夷弾搭載され結局制御投下弾量は381,300発、重量は1,783tにものぼった

2時37分に米軍爆撃隊は退去したが、この空襲一夜にして東京市街地の東半分、約41km²が焼失し当時警視庁調査では、死者83,793人、負傷者40,918人、被災者1,008,005人、被災家屋268,358となった
しかし人的被害はこれよりも多く民間団体新聞社調査では死者行方不明者10万人以といわれる

なお、この爆撃においてM69焼夷弾中心とする油脂焼夷弾黄燐焼夷弾エレクトロン焼夷弾のほか、ナパーム弾使われた。


東京大空襲

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東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦太平洋戦争)末期にアメリカ合衆国により行われた、東京都区部に対するM69焼夷弾などの焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下沖縄戦と並んで、東京の都市部を標的とした無差別爆撃によって、市民に大きな被害を与えた。爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上[注 1][注 2]、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸以上の件数となった[4]


注釈

  1. ^ 確認された死者の遺体数は約10万5400人である[2]
  2. ^ 疎開などによる住民避難などが始まる前の、1940年時点での東京市の人口は約680万人である[3]
  3. ^ 『昭和37年警視庁史昭和前編』の記録で、死者は8万4千人に及んだとされる[8]
  4. ^ 二発が不発弾となったことは確実で、更に一発が不発弾となったと言われているが確定的ではない。

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  210. ^ NHK特集 東京大空襲 - NHK放送史



東京大空襲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 15:00 UTC 版)

石川光陽」の記事における「東京大空襲」の解説

1945年昭和20年3月10日の東京大空襲の際も、その惨状33写真残した空襲開始後に両国警察署(現・本所警察署)にかろうじて到達したが、猛烈な風と煙と火の粉のために撮影はできず、目前多数市民死んでいくのをどうすることもできなかったという。カメラ抱いて逃げまどい、奇跡的に生存夜が明けてから被害様相撮影した。このときの様子については「無惨同胞死体カメラを向けることは、死者から叱られるようで一番つらかった。然し使命前に非情ならざるを得なかった。合掌しながらそこを立ち去り警視庁まで歩いて帰った」と戦後記している。 この後5月25日山の手空襲まで光陽記録写真撮影した光陽撮影した空襲記録写真は、ドーリットル空襲での写真含め600以上にのぼる。 戦時中一般市民空襲被災現場写真撮影することは事実上禁じられていたため、光陽撮影した一連の写真空襲の被害伝え貴重な映像となった

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東京大空襲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 13:25 UTC 版)

日本本土の戦い」の記事における「東京大空襲」の解説

詳細は「東京大空襲」を参照 3月10日東京B-29325機による大空襲無差別爆撃受けた米軍は既に日本軍防空能力皆無であると判断し迎撃銃器全て外した上で軽量となった多く焼夷弾搭載した日本家屋は木と紙で出来ていた為燃え易く投下される30メートル四方高熱ナパーム噴出する焼夷弾のごとく投下されまたたく間東京全土火の海化した民間人死者10万人を超え東京3分の1焼失した

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東京大空襲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 19:40 UTC 版)

日本の鉄道に関する事件」の記事における「東京大空襲」の解説

1945年昭和20年3月10日 アメリカ軍爆撃機B-29東京都都心部空爆し国鉄都電などの車両施設焼き尽くしたことにより、東京駅3階失ったほか、東京都心部の鉄道数日から数ヶ月間にわたって運行不能となった詳細は「東京大空襲」を参照

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