増田勇とは? わかりやすく解説

増田勇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 14:17 UTC 版)

増田 勇(ますだ いさむ、明治5年11月25日1872年12月25日) - 昭和20年(1945年3月10日)は、日本の医学者皮膚科医ハンセン病研究の先覚者である。青森県で開業し、1904年に青森県の医師会で自分が作った薬が有効と主張、患者を連れて発表した。その後横浜に転じ、1907年『癩病と社会問題』という著書を発表、同年のらい予防法を強く批判した。本の出版に対し、政府による圧迫があったようで、その後の活躍はみられない。横浜時代の患者の写真を撮影しハンナ・リデルに送付している。


  1. ^ 山本俊一 『日本らい史』 東京大学出版会 1993 p32
  2. ^ 藤野豊 『いのちの近代史』 かもがわ出版 2001 『歴史のなかのらい者』 藤野豊編 p160,ゆみる出版 1996
  3. ^ 成田稔『日本のらい対策から何を学ぶか』 明石書店 2009
  4. ^ らい医増田勇を追跡する  中西淳朗 診療研究 379,2002, 診療研究 382002


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増田勇

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ハンセン病に関連した人物」の記事における「増田勇」の解説

増田勇 (1872-1945)はハンセン病先覚者である。東京済生学舎卒業青森県開業したが、自力ハンセン病治療法研究したある程度成績がでたので、医学会に患者同席発表した明治39年に、横浜乞食谷戸近く転居、らいを研究した明治40年らい予防法反発批判の書「らい病社会問題」を書くも、政府反発を買い、現在国立国図書館に1冊しか残っていない。なお、国立ハンセン病資料館コピー本がある。らいは怖い病気でもなんでもなく、研究すれば治癒する病気であると考えていた。その後浅草病院移し花柳病専門医となった患者写真撮影しリデル贈った記録残っている。東京大空襲死亡した

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