研究者・その他の人物
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「ハンセン病に関連した人物」の記事における「研究者・その他の人物」の解説
アルマウェル・ハンセン アルマウェル・ハンセン(Gerhard Henrick Armauer Hansen、1841年7月29日 - 1912年2月12日)はらい菌の発見で知られるノルウェーの医師。ハンセン病は彼の名に因む。ベルゲンで生まれ、王立フレデリーク大学(現在のオスロ大学)で医学を学び、1866年学位を取得した。専門家であったダニエル・コルネリウス・ダニエルセンと共に研究を進めた。1873年、全ての患者かららい菌を発見したことを発表したが、支持は得られなかった。1879年彼はアルバート・ナイサーに組織標本を与えた。ナイサーは菌を染色することに成功し、1880年病原性生物を発見したと発表した。彼との間に対立もあったが、結局ハンセンの発見が公認された。 エルヴィン・フォン・ベルツ エルヴィン・フォン・ベルツ (1849-1913):ドイツ出身。東京大学医学部内科教授。明治9年来日。明治11年以降たびたび草津温泉を訪れ、草津温泉の治療効果に注目、草津温泉を世界に伝えた。らいの研究についても、結節らいの治療せる1例(1884年)、らいの学説について(1885年)を書いた。草津温泉には、彼を称えて胸像がある。 詳細は「エルヴィン・フォン・ベルツ」を参照 Guy Henry Faget ガイ・ヘンリィ・ファジェット 米国カーヴィル療養所の病院長(director,1940-1947)で、プロミンのハンセン病に対する有効性を発見した。1947年に心臓病で亡くなり、没後の1958年に東京の国際らい学会と、1984年のカーヴィル百年祭でも表彰された。なお、The Starの初代編集長によると、健康を害したあと事故でなくなったことを示唆している。ガイ ヘンリィ ファジェット英文 Sister Hilary Ross 米国カーヴィル療養所の薬剤師、検査技師、研究生化学者(research biochemist), Fagetとの共著を含め46編の論文を書いた。特にスルホン剤の尿中、血中濃度を測定し、使用法の決定、その他広くハンセン病学に貢献し、色々な学会に出席し、1958年にはDamien-Dutton 賞、President's Medal(女性では初)を与えられた。患者にも慕われ、「カーヴィルの奇蹟」のBetty Martinに検査技術を教えた。 Eduart Arning Eduart Arning. ブレスラウ(現ポーランド)のアルベルト ナイセル(ハンセンとらい発見を争ったドイツの皮膚科医、細菌学者。1879年、淋病の病原体を発見。1906年、ワッセルマンらと共同で「梅毒血清診断法」=『「ワッセルマン反応」を考案した)の弟子。ハワイのやり手の首相に招かれらいの生体実験をした。またダミアン神父のハンセン病を診断した。法律で許可され死刑囚にらい腫を植えた、3年後に発病、8年後に死亡したが、後から死刑囚の親族にハンセン病が多発していることがわかり、その意義は認められなくなった。 村田茂助 村田茂助は、ハンセン病の反応で有名な癩性結節性紅斑Erythema nodosum leprosum ENL(俗に熱コブ)を世界に先駆けて研究、命名した。全生園の外科医師で、光田健輔と同時代の研究家、彼との共著もある。しかし早く開業に転じた。 詳細は「村田茂助」を参照 石館守三(いしだてもりぞう) 石館守三(1901-1996)はハンセン病治療薬であるプロミンの合成を日本ではじめて成功した。東大医学部薬学科で研究した。 詳細は「石館守三」を参照 ウイリアム・ジョップリング ウイリアム・ジョップリング William Joplingはハンセン病の分類で有名である。ロンドン大学卒。戦前はハンセン病にも興味があったようであるがアフリカで内科・産婦人科を担当、戦時中は軍医であった。戦後の1947年、36歳の時にロンドンに帰り、大学院で熱帯医学を専攻した。その後、1950年に戦後ロンドン郊外の古城につくられたハンセン病病院Jordan病院の住み込み院長となり、そこで病理医のRidleyと共にRidley-Jopling分類を完成した。1962年にはらい反応も研究した。Joplingのエピソードとして「1950年代の初めにErythema nodosum leprosumの命名者が知りたくて尋ねてまわり、東京からの客人によりそれは村田茂助であるとわかった」ということがある。Joplingは一人で書かれた教科書Handbook of Leprosyでも有名で、この教科書は5版を数える。その他、Leprosy stigmaについての論文やThe Starに自叙伝も書いた。 増田勇 増田勇 (1872-1945)はハンセン病先覚者である。東京済生学舎卒業。青森県で開業したが、自力でハンセン病治療法を研究した。ある程度成績がでたので、医学会に患者同席で発表した。明治39年に、横浜の乞食谷戸の近くに転居、らいを研究した。明治40年のらい予防法に反発、批判の書「らい病と社会問題」を書くも、政府の反発を買い、現在国立国会図書館に1冊しか残っていない。なお、国立ハンセン病資料館にコピー本がある。らいは怖い病気でもなんでもなく、研究すれば治癒する病気であると考えていた。その後、浅草に病院を移し、花柳病専門医となった。患者の写真を撮影し、リデルに贈った記録も残っている。東京大空襲で死亡した。らい病と社会問題 太田正雄 太田正雄(木下杢太郎、1885-1945)はハンセン病研究家。文学者。東北大皮膚科教授、東京大学皮膚科教授。同大学伝染病研究所らい研究部長。らい菌の培養並びに動物接種実験を行う。療養所の医師と病型分類など多少意見の違いがあったが、よく耳を傾けられ、光田反応を認め、国際らい学会雑誌を発行させたというエピソードがある。文学者としても高名で、全生園開園30周年記念山桜誌の創作の選者となる。らいの治療法を目指して研究していたが、プロミン開発を知ることなく1945年没。なお、皮膚科領域では太田母斑で世界的に有名である。 詳細は「木下杢太郎」を参照 太田正雄(英文) 神谷美恵子 神谷美恵子(かみや みえこ、1914年1月12日 - 1979年10月22日)はハンセン病患者の治療に生涯を捧げたことで知られる女性精神科医で哲学書の翻訳でも著名。「戦時中の東大大学病院精神科を支えた3人の医師の内の一人」、「戦後にGHQと文部省の折衝を一手に引き受けていた」、「美智子皇后の相談役」などの逸話で知られている。語学の素養と文学の愛好に由来する深い教養を身につけており、自身の優しさと相まって接する人々に大きな影響を与えた。著書の『生きがいについて』 は初版刊行から40年が過ぎても読者に強い感銘を与えている。 田尻敢 田尻敢(たじり いさむ、博士論文データベースによる、文献によってはひろし)、(1902-1966)は日本の医師、ハンセン病の医師で国立療養所長島愛生園、国立療養所菊池恵楓園(ここでは園長)、国立療養所多磨全生園 などで患者を治療し、ハンセン病を研究した。acute infiltration of leprosyを発表した。 内田守 内田守(短歌の場合内田守人)(1900-1982)うちだまもる、うちだもりと。九州療養所、長島愛生園、松丘保養園で医師として働いた。医学博士、眼科医、ハンセン病研究家、ハンセン病療養所入所者、刑務所受刑者に短歌の指導を行い多くの短歌集を編集した。ハンセン病文学全集8 短歌には冒頭に1926年 1929年の檜の影の編集者として記載されている。った。終戦前健康を害し後回復し、戦後は開業、熊本短大教授となり、社会福祉を研究、講義した。広範な事象に興味があり、著書論文が多く、実行力があり、余りにも活動が盛んで「内田公害」とも言われた。資料は熊本県立図書館に内田文庫として寄贈した。 多田景義 多田景義(ただ かげよし、? - 1950年12月26日)は日本の医師。韓国の小鹿島更生園、宮古療養所(後の国立療養所宮古南静園)、国立療養所菊池恵楓園に勤務した。1938年-1945年の宮古南静園園長時代、入園者を厳しく取り締まった。戦時中官舎が焼け幹部と共に陸軍の壕に隠れる。入園者は園を離れ、1945年に戦災、マラリア、餓えで110名が死亡した。戦後は菊池恵楓園に勤務。 杉村春三 杉村春三(すぎむら しゅんぞう1910-1994)は在学時代からハンセン病のフィールドワークを始め、九州大学で学び、国立療養所星塚敬愛園、満州国立らい療養所同康院、リデル・ライト記念養老院などで働き、 『らいと社会福祉』 の研究をまた、老人の福祉についても研究した。 池尻愼一 池尻愼一(いけじりしんいち1908-1945) ハンセン病を専門とした医師で、作家でもある。ハンセン病に関してのエッセイ「傷める葦」は1年以内に30版を重ねた。応召し1945年1月ジャワで戦死した。ペンネーム邑楽愼一(おおらしんいち)。 保田耕 保田耕(やすだ こう、1907年 - 1943年9月7日)は、日本の眼科医。外島保養院と邑久光明園というハンセン病療養所に勤務し、初代奄美和光園園長が発令されたが、応召し、中国で戦病死した。 今田虎次郎 今田虎次郎(いまだとらじろう,1859-1940)、大阪府曽根崎警察署長の後に初代のハンセン病療養所外島保養院院長を1909年から、1925年まで勤めた。患者の自治を認めた。 菅井 竹吉 菅井竹吉(すがい たけきち、1871年 - 1944年)は、ハンセン病療養所外島保養院の初代医長。光田健輔と同様、済生学舎出身であるが、光田同様、ハンセン病を精力的に研究した。 飛松甚吾 飛松甚吾(とびまつじんご、 1883-1945)は、熊本のハンナ・リデルとその後継者ライトのハンセン病病院の回春病院の事務長を務めた。(1915-1945)。英語がうまく、リデルの手足となって活躍した。回春病院はイギリス系の病院であるので、太平洋戦争前に特高警察の拘束を受け、そのために健康を害し1945年に没した。 宮川量 宮川量(みやがわはかる,1905-1949)。千葉県立高等園芸学校卒業。全生病院国立療養所多磨全生園,国立療養所長島愛生園勤務。沖縄県の国立療養所沖縄愛楽園(初代事務長)勤務、国立療養所星塚敬愛園勤務。園内の緑化に尽し、ハンセン病の歴史などを研究した。 第1回、第2回、第3回国際らい会議、ローマ会議に出席した日本人 第1回国際らい会議に出席した日本代表は土肥慶蔵、高木友枝。北里柴三郎は第1回会議には論文を寄せた。明治42年の第2回会議には北里が出席。ハンセンの横に座った写真がある。第3回は光田健輔と佐藤秀三。2列目中央に光田が写った写真がある。光田は7人いる名誉副会頭の一人である。この時の大旅行の記録がある。1956年の国際らい会議(ローマ会議)の出席者は藤楓協会理事 浜野規矩雄、多磨全生園長 林芳信、青松園長 野島泰治である。 患者と結婚した職員 患者と事実上結婚して、それをオープンにしている人もいる。しかしここに述べる人の場合は特殊である。 数奇な運命のこの方は、満州で通州事件に遭い1937年7月29日、本人以外の家族全員が殺害された。父親は医師で、開業されていた。幸い、中国人看護婦の一人が、身をもって庇い、自分の子と言い張って難を逃れた。日本に戻り、親戚の家にいったが、気まずい生活であった。多磨全生園付属準看護学校に入った。ある患者と仲良くなった。どちらかといえば、看護婦の方が熱をあげたようである。(夫にあたる人はその母親から、たのむから死んでくれといわれたという)夫は自分から他園にいくことを希望し、看護婦とわかれることになるが、看護婦はついていったという。そこは綱脇龍妙師の病院であった。 入籍した人もおられる。 柳駿 (Joon Lew) 柳駿は、韓国の延世大学名誉教授であり、韓国におけるハンセン病指導者である。医学生時、徘徊するらい病患者にショックを受け、韓国(京城帝国大学)、日本(九州大学細菌学教室)、米国(カルフォルニア大)でハンセン病を学んだ。医師になり最初に勤務したのは小鹿島更生園であった。1947年らい浮浪者の団体のボスを集め、物乞いをやめようと、希望村という運動を始めた。韓国動乱前には16もの希望村ができた。希望村運動は中央政府により新しい定着村運動となった。その他、柳駿医科学研究所理事長になり、ハンセン病関係の種々の役職を歴任した。一時は日本ハンセン病学会にも出席していた。 Kate Marsden イギリスの看護婦・冒険家・旅人。彼女の生涯は1859-1931年。リデルより4年遅く生まれ、1年早く死んでいる。父親はロンドンの弁護士。8人兄弟の末っ子。たいへんおてんばであったという。父親が若死したので病院の見習看護婦になった。当時彼女はブルガリアの戦争にいく志願をしている。トルコと戦争をしたロシア人を介護したようであるが、これに関しては資料はおざなりである。イギリスに帰り正規の看護婦になり、婦長になる。ハンセン病のハワイの療養所に勤務したいと申し出、断られている。インドにいこうと考えていた時、ロシア赤十字から先の戦争で看護に功績があったと招待をうける。彼女はロンドンの宮殿で皇太子妃に拝謁、ロシアの女帝に親書を書いてもらい、旅に出る。エレサレム、コンスタンチノープル、現在のトビリシ(グルジアの首都)にいく。1890年11月。モスクワに到着。大主教とかトルストイ伯爵夫人の支援をとりつける。北東シベリアを目指したが、バイカル湖近くのイルクーツクで支援委員会を作った。(イルクーツクらい療養所を創設したようだ)その後の活躍も述べられているが、このプロジェクトに協力した人もいる。この旅行が真実であったのか、疑問、批判もある。 藤野豊 藤野豊 (ふじの ゆたか、1952年11月5日 - )は、日本の歴史学者(専攻は日本近代史)、思想史家、前富山国際大学准教授を経て現在は敬和学園大学人文学部教授。特にハンセン病の歴史を研究している。
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