研究者による評価
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「少年 (谷崎潤一郎)」の記事における「研究者による評価」の解説
一般的には野口武彦や笠原伸夫、千葉俊二らの論考に見られるように、本作は「刺青」などど並びマゾヒズム的傾向が色濃く現れ、谷崎文学の原型を示す最初期の作品の一つとして論じられることが多い。その一方で野村尚吾などは「生の恐怖、変態性欲的な官能美、さらに「刺青」からつづいている女性支配が、巧緻に描かれていると同時に、作者の育った明治二十年代の日本橋の下町環境が、じつにいきいきと描写されている点でも印象的で「刺青」とならぶ初期の秀作であることは言うまでもない」と下町の描写に高い評価を下している。 「少年」の風景描写や舞台の設定は谷崎研究の外からも注目されており「『少年』は"原っぱ"の遊びに飽き足らない子供の、秘密の"隅っこ"への夢想である」と述べる奥野健男は「東京にはもと武家屋敷であった塀に囲まれ内部をうかがうことのできぬ宏大な邸が方々にあった。そういう邸の中はどうなっているのか、その秘密を知りたいという夢想を作品化したのが『少年』である」と論じた。槇文彦も「奥の思想」の中で奥野のこの論を援用する形で「少年」に言及しているなど、東京論や都市論の文脈から本作品が読まれることもある。
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研究者による評価
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ハーバート・ファイス 「米国のこの提案に述べられている極東の政治的・社会的秩序は、日本がこれまで夢みてきたものと真っ向から衝突するものであった。米国の構想は、相互の独立と安全を尊重し、相互に平等な立場で相接し通商を行う秩序ある平等の諸国家間の国際的社会であった。日本の構想は、日本が極東の安定的中心となるというのである。(中略)米国の提案は、日本が戦略や武力で実施しようとした右のような一切のことを拒否しようとするものであった」「しかしそれにしても、この米国の提案を最後通牒と見なすのは、政治的にも軍事的にも妥当ではないように筆者には考えられる」「米国の提案に同意してその政策を転換する。南・北いずれにもこれ以上武力進出は行わないが中国における戦争は極力これを続ける、軍隊の撤収を開始してこれに対し中国・米国・英国から如何なる反応があるかを待ってみる、あくまで勝利をうるための政策を強行する、というのが日本に許された四つの手段であった。日本はこの最後の方法を選んだ」。 入江昭 「十一月中旬から同月末までという短期間に、日本か米国かどちらかが立場を変更するということはまずあり得なかった。そのような状態にあって、米国が原点に戻り、その対外政策の基本原則をハル・ノートとして十一月二十六日に日本側に手渡したのもそれなりの必要性を持っていた。ワシントンの日本外交団及び日本政府はハル・ノートによって日米の立場の開きを思い知ったのであるが、彼等がハル・ノートを米国の最後通牒と受け止めたのは当を得ていなかった。このノートの言わんとしたことは、米国は中国、英国、蘭印を支援するが、日本にもこの陣営への参加を呼びかけた上でアジア・太平洋地域の秩序再編を目指したいということだったのである。しかし、日本がこれを拒む以上、両国間に妥協のあり得なかったのも確かである」。 中村粲 「ハル・ノートはそれまでの交渉経過を無視した全く唐突なものだった。日本への挑戦状でありタイムリミットなき最後通牒であると東郷が評したのも極論とは言えまい」「この提案の中にはいささかの妥協や譲歩も含まれておらず、ハルもルーズベルトも日本がこれを拒否するであろうことは十二分に承知していた」「ルーズベルトは対日戦争を策謀していた、11/25の会議で議題としたのは和平ではなく、戦争をいかにして開始するかの問題だった」。 秦郁彦 ハル・ノート等の外交的挑発により日本は開戦を強いられたという主張を「広義のルーズベルト陰謀説」とし(「狭議の陰謀説」はルーズベルトが事前に真珠湾攻撃を知っていながらハワイに伝えなかったという真珠湾攻撃陰謀説)、ハル・ノートはルーズベルトからの「挑戦状」であるが、日本もそれ以前に真珠湾に向けて機動部隊を出発させているので、どちらが先に挑発したかは水掛け論だとしている。また、秦は「アメリカは、満州事変に対するスティムソン・ドクトリン、日中戦争に対する「隔離演説」など満州事変以後の日本の行動について承認しないことを表明し続けていた。ハル・ノートで要求した満州事変以後の既成事実の全面放棄は、実力による阻止行動を取って来なかった日本の行動についてその清算を求めたに過ぎない」とも述べている。 森山優 「日本側は、ハル・ノートをアメリカが日本に突き付けた「条件」と解釈した。中国・仏印からの撤兵にしろ、無差別原則の適用にしろ、例外なしに実現を迫っているように読めるからである。それは、お互いの条件のすりあわせをはかる外交交渉の常道から懸け離れていた」 「日本側が衝撃を受けたのは、第一にその唐突さと不可解さであった。それを補う役割を担うはずだったのが、暫定協定案であった。もし暫定協定案が付随していれば、ハル・ノートが即座に日本に実行を迫るものではなく、未来に向けて提言された原則論であることが、比較的正確に理解されて筈だからである。(中略)暫定協定案がはずされたことで、際立ったのはアメリカの頑な態度と交渉放棄の姿勢だった」 「しかし、将来構想としても、日本側が全てを鵜呑みにすることは不可能であろう。陸軍とアメリカという強大な敵の狭間で二正面作戦を強いられていた東郷が条件闘争を展開するには、ハル・ノートはあまりに不寛容であった」。 大杉一雄 「ハル・ノートの性格は、基本的に米国六月二十一日案および十月二日案の延長線上にあり、その反復にすぎず、原理原則論から一歩も譲歩していないということである。その理念は米国が構想した戦後の自由主義国際体制の素案であり、…その理念は日本軍部ですら否定できないものが含まれており、…問題は、日本が要求している現実的処理方法に、なぜ配慮してくれないのかということであった。撤兵問題も二ヵ所の駐兵要求のうち一ヵ所(たとえば華北・内蒙)だけでも認めてくれれば、日本の譲歩は、期間の点を含めて、十分あり得ただろう。…とにかく米国が相手国のプレステージに配慮しようという姿勢はまったく認められなかった」。 ジョン・トーランド 「実はハル・ノートの内容については、日米間に悲劇的な誤解があった。ハルのいう『シナ』には満州は含まれず、だいいち彼は最初から日本による満州国の放棄など考えていなかったのである。ハル・ノートは、この点をもっと明瞭にしておくべきだった。満州国はそのままとさえわかれば、日本側はあれほど絶対に呑めぬと考えはしなかったであろう」。 「筆者は東郷外相に近かった数人に、ハル・ノートが『シナ』の定義をもっと厳密にしていたらどうだったかと質問してみた。・・・佐藤賢了は、ひたいを叩き『そうでしたか!あなたのほうが満州国を承認するとさえ言ってくれれば、ハル・ノートを受諾するところでしたよ』と言った。・・・賀屋(興宣)は、『ハル・ノートが満州国を除外していれば、開戦決断にはもっと長くかかったはずです。連絡会議では、共産主義の脅威を知りつつ北支から撤兵すべきかどうかで大激論になったでしょう』と答えた」。
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研究者による評価
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