かいしゅん‐びょういん〔クワイシユンビヤウヰン〕【回春病院】
回春病院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 23:45 UTC 版)
イギリス本国では最初はLeper Hospitalと紹介されたが、名称を回春病院にすることに苦心があった。英語にするとResurrection of Hope(希望の復活)となるというが、回春病院の名前は本田増次郎の助言になる。熊本の江戸時代の医育機関である再春館 (学校)が意識されていたのでないかという。この病院の設立にはリデルやノットの訴えでCMSの位の高い宣教師が自らも拠金した。本田増次郎がベルツに相談にいったり、またリデルの協力者たちが1894年に4000坪の土地を購入したこと、リデルたちの募金などが功を奏した。設計図は日本赤字病院の勤務医岩井禎三であった。診察室、薬局、事務室、礼拝室、男子病棟、女子病棟、医師住宅、伝染病室、重症病室、看護室、炊事場、職員用の浴場、洗濯場、消毒場、物置、患者用の浴室など10棟で計138坪。和風の建築である。創立記念日の写真にはエヴィントン、ブランドラム、リデル、ノットその他大勢の人が記念写真に写っている。 宣教師でリデルやライトの友人のメイ・フリースは発足1年後の1896年12月に回春病院を訪れ、くわしい報告書を残している。それには、お茶をふるまわれ、患者は日光浴をしていること、但し患者は楽しげに笑っていたが、体は不自由で醜いと書いている。クリスマスの日に3人が洗礼を受けたという。病院の定員は79名であった。回春病院の患者たちは、他のハンセン病療養所の患者たちに比べ、身なりもずっとよかった。許可なしに街中に出ているところを警官に見咎められても、すぐ回春病院の患者とわかるのだった。警察当局がリデルに注意すると「私の患者がそんなことをするはずがありません」と断言していた。リデルは高圧的で、院内の秩序や服装についても非常に厳格であったため、時には患者も不平をもらすこともあった。とはいえ、患者たちはこうして文明的な水準の高い環境に暮らし、身なりもきちんとすることによって、この恐ろしい病気に罹ったことで、一度は失ってしまった人間としての誇りや尊厳を、新たに取り戻すことだできたのだと理解していた。 回春病院の詳しい経理報告が残っているのは1903年、1904年からである。昭和5年の経常費、食糧費(一人一日あたり)、治療費の文献も残っている。
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