ポツダム宣言 ポツダム宣言の概要

ポツダム宣言

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 02:17 UTC 版)

1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン

日本は1945年8月14日にこの宣言を受諾し、9月2日に調印・即時発効(降伏文書)に至って第二次世界大戦太平洋戦争は終結した。

概要

ドイツ降伏後の1945年(昭和20年)7月17日から8月2日にかけ、ベルリン郊外ポツダムにおいて、英国、米国、ソ連の3カ国の首脳(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルおよびクレメント・アトリー[3]アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリン)が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について話し合われた(ポツダム会談)。

ポツダム宣言は、この会談の期間中、イギリスのチャーチル首相と中華民国の蔣介石国民政府主席およびアメリカのトルーマン大統領の3首脳連名で日本に対して発せられた降伏勧告である。事後報告を受けたソ連は署名していない。

1945年(昭和20年)8月14日、日本政府は宣言の受諾を駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、このことは翌8月15日に国民に発表された(玉音放送)。9月2日、東京湾内に停泊する戦艦ミズーリ甲板で日本政府全権の重光葵大本営(日本軍)全権の梅津美治郎および連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。これにより、宣言ははじめて外交文書として固定された。

内容

英文

原文である。 下部#外部リンク参照

日本語文語訳

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日本語口語訳

日本の降伏のための定義および規約
1945年7月26日、ポツダムにおける宣言

  1. 我々合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣は、我々の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。
  2. 3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。この軍事力は、日本国の抵抗が止まるまで、同国に対する戦争を遂行する一切の連合国の決意により支持され且つ鼓舞される。
  3. 世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ナチス・ドイツに対して適用された場合にドイツドイツ軍に完全に破壊をもたらしたことが示すように、日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する。
  4. 日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
  5. 我々の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。
  6. 日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和安全正義の新秩序も現れ得ないからである。
  7. 第6条の新秩序が確立され、戦争能力が目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点は占領されるべきものとする。
  8. カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州北海道九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない。
  9. 日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる。
  10. 我々の意志は日本人を民族として奴隷化し、また日本国民を滅亡させようとするものではないが、日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。
  11. 日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争再軍備に関わらないものが保有出来る。また将来的には国際貿易に復帰が許可される。
  12. 日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退するべきである。
  13. 我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである。

宣言の策定と発表

背景

1943年1月のカサブランカ会談において、連合国は枢軸国ドイツイタリア王国大日本帝国に対し、無条件降伏を求める姿勢を明確化した。この方針はアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領の意向が強く働いたものであり[4]、11月17日のカイロ宣言においてもこの姿勢は確認された。ソ連の最高権力者ヨシフ・スターリンやイギリスのウィンストン・チャーチル首相は条件を明確化したほうが良いと考えていたが、結局ルーズベルトの主張が通った[4]。政府内のグループには天皇制維持などの条件を提示したほうが早期に対日戦が終結するという提案を行う者も存在したが、大きな動きにはならなかった[5]。ルーズベルト大統領が閣僚たちに相談もせずに突然決めたこの方針は、敵国の徹底抗戦を招き、無用に戦争を長引かせるとして、陸海軍の幹部はもとより、国務長官のコーデル・ハルも反対したが、ルーズベルトは亡くなるまでこの方針に固執した[6]

この方針は、表明されてから8ヶ月後に早くも破綻した。1943年9月にイタリア連合国に和平を打診してきたとき、連合国側は無条件降伏を突きつけなかった。これまでと同じく、休戦協定によって戦闘が停止したのち、立場の強い方が弱い方に、自分に有利な終戦協定を押しつけるという従来の形で終戦がもたらされた。負けた側が条件にこだわるのは当然であったが、ルーズベルトはあくまで勝者の論理で、漠然としか考えていなかった[7]

1945年2月のヤルタ会談においてはルーズベルトが既に病身であったために強い姿勢に出られず、南樺太千島列島満州における権益などの代償を提示してソ連に対して対日戦への参加を要請した。4月12日にルーズベルトが死去し、副大統領に就任してわずか3か月のハリー・S・トルーマンが急遽大統領となった。トルーマンは外交分野の経験は皆無であり、また外交は主にルーズベルトが取り仕切っていたため、アメリカの外交政策は事実上白紙に戻った上で開始されることとなった[8]。トルーマン大統領は就任後、4月16日のアメリカ議会上下両院合同会議で、前大統領の無条件降伏方針を受け継ぐと宣言し、4月22日、日本とドイツに無条件降伏を求める方針に変わりはないことをソ連のモロトフ外相に伝えたが、彼もまた、それをどう規定するのかはっきり考えてなかった[9]

5月7日にドイツ国が崩壊したあと、できるだけ早期に対日戦争を終わらせる必要に迫られ、トルーマン大統領は日本に降伏を呼びかけるために、無条件降伏を定義する必要に迫られた。そこで彼は5月8日、戦争情報局が用意し、大統領軍事顧問ウィリアム・リーヒが賛同した、次のような無条件降伏の定義と和平の呼びかけを、日本に対して発表した。「我々の攻撃は日本の陸軍と海軍が無条件降伏して武器を置くまでやむことはないだろう。日本国民にとって無条件降伏とは何を意味するのか。それは戦争が終わることを意味する。日本を現在の災厄へ導いた軍事的指導者の影響力が除去されることを意味する。無条件降伏とは日本国民の絶滅や奴隷化を意味するのではない。」またアメリカ政府による日本に降伏を求める、アメリカ海軍情報局から戦争情報局に出向していたエリス・M・ザカライアス海軍大佐の「ザカライアス放送」が8月4日までに14回行われている[5][10]。もともとアメリカ軍の幹部は、無条件降伏が政治的スローガンにすぎず、早期和平の妨げになると思っていたので、無条件降伏とは軍事に限定されるのであって、政治的なものではないことを明らかにすることによって、日本に受け入れられやすいものにしようとした[11]。しかし日本政府は5月9日に徹底抗戦を改めて表明するなど、これを受け入れる姿勢をとらなかった[5]

降伏勧告路線の本格化

ヘンリー・スティムソン(1945年)
ポツダム会談の最中に、占領アメリカ軍を訪問するマックロイ。左側のヘルメットをかぶった人物はジョージ・パットン

アメリカ合衆国政府内では、日本を降伏に追い込む手段として、原子爆弾の開発、日本本土侵攻作戦(ダウンフォール作戦コロネット作戦やその前哨であるオリンピック作戦等を包括する総合計画)、ソ連の対日参戦の三つの手段を検討していた。原子爆弾はその威力によって日本にショックを与えることができると考えられ、開発計画が進展していた。一方で陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルを中心とする軍は、日本降伏には日本本土侵攻作戦が必要であるが膨大な犠牲を伴うことが予想され、それを軽減するためにはソ連の参戦が必要であると考えていた[12]。ソ連の参戦は日本軍を大陸に釘付けにするとともに、ソ連を仲介として和平を試みていた日本に大きなショックを与えるとみられていた[12]

一方で国務次官ジョセフ・グルーをはじめとする国務省内のグループは、政治的解決策を模索していた。グルーは日本が受け入れ可能な降伏可能案を提示して降伏に応じさせる、「条件付き無条件降伏」を提案していた[13]。5月28日には天皇制を保障した降伏勧告案をトルーマン大統領に提示した[14]。一方陸軍長官ヘンリー・スティムソンは無条件降伏原則を破ることに否定的であったが、日本本土侵攻作戦の犠牲者数想定が膨大なものとなると、グルーやジョン・マックロイ陸軍次官補、ハーバート・フーヴァー元大統領らの意見に従い、降伏条件提示に傾くようになった[15]

1945年6月18日のホワイトハウスにおける会議で、日本本土侵攻作戦が討議された。スティムソンは日本本土侵攻作戦に賛成の意を示しつつも、政治的解決策が存在することをほのめかした[16]。マックロイはこの会議の最中発言せず、会議終了直前にトルーマンがマックロイの意見を問いただした。マックロイは「閣下は別の方策をお持ちだと思います。それは徹底的に検討されるべき方法で、もし我々が通常の攻撃および上陸以外の方法を検討しないのであれば、どうかしていると言われても仕方の無い事だと思いますよ。」「我々が良しとする条件を日本政府に対して説明してやる事です。」と答え、政治的解決策の重要性を主張した[17]。トルーマンが具体的にどういう条件かと聞いたところ、マックロイは「私は、日本が国家として生存する事を許し、また立憲君主制という条件でミカド(天皇)の保持を認めるという事です」と答えた。トルーマンは「それはまさに私が考えていたことだ」と答え、スティムソンも「(この案が表明されたことは)たいへん喜ばしい」と同意した[18]。マックロイは原爆の投下についても事前に日本に警告を行うべきであるとしたが、もし爆発が失敗した場合にアメリカの威信に傷が付くという反発を受けた。トルーマンはマックロイに日本に対するメッセージについて検討するべきであると命じたが、原爆については言及しないようにと付け加えた[19]。これはトルーマンも対日降伏勧告の意志を持っていたが、マーシャルらの手前自ら主張することは好ましくないと考え、マックロイらに口火を切らせたとも見られている[20]。これ以降、スティムソン、マックロイらを中心とした陸軍が日本への降伏勧告案について検討を本格化するようになった[21]

三人委員会

ジェームズ・フォレスタル
ジョセフ・グルー

6月19日、陸軍、海軍、国務省の検討機関である三人委員会(Committee of Three)、すなわちスティムソン、ジェームズ・フォレスタル海軍長官、グルーらによって対日降伏勧告の討議が始まった。フォレスタルの回想によると、対日降伏勧告には大統領付参謀長ウィリアム・リーヒ元帥やアーネスト・キングチェスター・ニミッツといった海軍首脳も賛成していると述べられた[22]。この日の午後、スティムソンの起草による対日降伏勧告のための大統領覚書の口述筆記が開始された[22]。6月26日の三人委員会ではスティムソンがこの覚書案となる「対日計画案」を提示した[22]

6月26日の対日計画案
  • 我々が日本に対して行使しようとしている力は多様かつ圧倒的である。この力を行使した場合、日本の破壊は不可避であり徹底的となる。
  • 連合国は世界征服の挙に出て国を欺いた者達の権力と勢力を除去する。
  • 日本の主権は日本本土諸島に限定され、日本が再び戦争を起こし、それを支持することができないよう無力化する。
  • 我々は日本の国を滅亡させ、日本民族を絶滅させる意志を持たない。
  • 日本から軍国主義の影響が排除された場合、我々は日本が生存に必要な産業を保持することを認める。やがては日本と互恵的な貿易関係を構築することを認める
  • 前記の目的が達成され、日本国民の多数を代表する平和的政権が成立すれば、連合軍は日本から撤退する。

この降伏勧告はアメリカとイギリス、そしてもしソ連が参戦していた場合にはソ連の首脳も加えた名義で公表されるとしていた。またスティムソンは個人的意見として現皇統における立憲君主制を排除しないことを付け加えれば降伏は実現しやすいであろうと述べた[23]。また宣言発表のタイミングは日本本土侵攻作戦が行われる前、日本が狂信的な絶望に追い込まれる前に行う必要があるとした。またソ連の参戦が行われても、ソ連軍の侵攻があまり進展しないうちに行うのが望ましいとした[23]。委員会ではこの勧告が実際に行われて失敗した場合でもアメリカ国民の戦意を高める効果があり、失敗しても害はないと判定され[23]、スティムソンの原案をグルーとフォレスタルは承認した。

勧告文の検討

三人委員会は実際の降伏勧告文を策定する小委員会を結成させ、そのチームに検討を行わせる事とした。この委員会はマックロイ、海軍長官特別補佐官のコレア大佐、国務次官補特別補佐官のユジーン・ドゥーマン、国務省極東課長ジョセフ・ウィリアム・バランタインらによって構成されていた[24]。トルーマンはポツダム会議のために7月6日にはアメリカを離れるため、委員会はそれまでに宣言案を策定する必要があった。6月27日に最初の委員会が開かれた。最初の会議にはコレアとドゥーマンは欠席したため、バランタインを除いたメンバーはすべて陸軍関係者であった。討議においてはスティムソン案を原案とすることとなっており、マックロイが実質的な委員会の主宰者となった[24]。しかしバランタインが国務省案の降伏勧告案を提議したため、議論は難航することとなった。国務省案は以前グルーが大統領に提出していたドゥーマン案を元としており、天皇制の存続については極めてぼやかした表現となっていた。このため国務省案は会議によって退けられ、再びスティムソン案を中心として討議されることとなった[25]。この日の会議で陸軍作戦部(OPD)のファーヒー大佐が宣言の発出者に蔣介石を加えるべきであることや、連合国と日本が交渉を行うべきでないことなどの意見を述べた。

翌6月28日の会議でドゥーマンは天皇制保障の文言を入れるべきでないと主張した。グルーら国務省内の知日派は天皇制保障が不可欠であると考えていたが、これらの意見は対日融和的であると批判され、国務省内でも世論の反発を怖れ、彼ら知日派は孤立する傾向があった[26]。ドゥーマンはこの降伏勧告を日本が受け入れる可能性は極めて低いと考えており、文言に対するアメリカ世論の反発を防ごうと考えていた[26]。1945年6月のギャラップ調査によると33%が昭和天皇の処刑を求め、17%が裁判を、11%が生涯における拘禁、9%が国外追放するべきであると回答するなど、天皇に対するアメリカ世論は極めて厳しかった[27]

スティムソンら陸軍は天皇制保障が必要不可欠であると考えており、議論は紛糾した。しかし陸軍が議論の主導権を握り、OPDのチャールズ・H・ボーンスティール3世が、国務省案を一部参考にしながらもスティムソン案を基本的な原案とする箇条書きの草案を作成することとなった。ボーンスティールは周囲からの助言も受けて6月29日までに草案を策定した。6月29日の早朝にボーンスティール草案がマックロイの元に届けられた。この日の委員会でボーンスティール草案が採択されたが、国務省はこの草案は国務省で再検討されなければならないと条件をつけた[28]。またOPDは同時期に宣言発表のタイミングとしてソ連の対日参戦直後が最も効果的であるという勧告を行っている[28]。マックロイはスティムソンにボーンスティール草案を送付し、6月30日からスティムソンとともに草案の修正作業を行った。スティムソンは「かなりの修正をした」と回顧録に残している[29]。7月2日、スティムソンはこの修正草案と6月26日の「対日計画案」一部修正したものをトルーマンに提出した。この修正草案は13条となっており、「現皇統による立憲君主制を排除しない」という文言も入ったものであり、第二項で「日本国が無条件降伏するまで」という文言はあるものの、日本軍隊の無条件降伏を求めたものであった[30]

発表直前の修正

スティムソンとバーンズ。1945年7月15日、ベルリン

7月3日、ジェームズ・F・バーンズが新たな国務長官に就任した。バーンズはトルーマンに信頼された私的な助言者であり、彼の就任はスティムソンの大統領に対する影響力を低下させた[31]。バーンズは対日強硬派であり、国務次官補アーチボルト・マクリーシュをはじめとする親中国派は巻き返しを図った。7月6日、国務省はスティムソン草案のさらなる改訂を要求し、7月7日の幹部会で草案が「日本」「日本政府」に呼びかけていた部分が「日本国民」に変更された[32]。省内の混乱を見たバーンズはコーデル・ハル元国務長官に相談し、直接天皇制に言及した天皇制保障条項を一旦削除することを考えるようになった。バーンズは占領の際に天皇制が利用できるかどうかを見た上で、天皇制の存続をアメリカが決定できるようにと考えていた[32]

ポツダム会談の公式日程では対日問題は議題とならなかった。一方でスティムソンは日本がソ連に和平仲介を求めていることを察知し、日本がソ連の懐に飛び込む前に日本を降伏させるべきと考えた。そのためこの会談中に降伏勧告を発するべきと主張し、リーヒ参謀長の支持を得たものの、バーンズは反対した。またリーヒ参謀長は、草案第二項において「日本の無条件降伏」となっていた部分を「日本軍の無条件降伏」と改め、天皇制保障条項を「日本国民は自らの政治形態を決定できる」と天皇に言及しない形に改めるよう提案した[32]。トルーマンは公表の意思を固め、リーヒの提唱した変更を行うと決定した。スティムソンは天皇制に言及しないことが日本の降伏拒否を招くのではないかと懸念し、もし日本側がこの一点で戦い続けるならば大統領が外交チャンネルを通じて「口頭で保証」を与えるように提案した。トルーマンはスティムソンの意見を承諾し、後の国務省による回答につながることになる[32]

7月24日にイギリスに声明案が提示され、翌7月25日にチャーチルが修正案を回答した。その内容は声明が呼びかける対象を「日本国民」から「日本」「日本政府」に再度変更すること、民主化の主体を「日本政府」と明記すること、占領の対象を「日本領土」から「日本領土の諸地点」に変更すること、の三点であった[32]。トルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明発出の準備を行うとともに原爆投下命令を承認した。会談に参加しなかった蔣介石には、電報で草案が伝えられた。蔣介石は宣言文の一か所だけを直してきた。それは自分は国家元首だから、(元首でない) チャーチルより前に自分の名前が置かれるべきである、ということであった[33]。7月26日、「ポツダム宣言」として知られる降伏勧告がトルーマン、チャーチル、蔣介石の名で発表された。また宣言文はポツダム協定の付属議定書に「検討されたアメリカ提案」として付記された。

日本への伝達

ベルリン時間の7月26日午後9時20分の宣言の発表と同時にトルーマン大統領は戦時情報局 (OWI) に対し、この宣言をあらゆる手段で日本国民に周知させることを指示した。これに基づき東部戦時時間午後4時(東京時間7月27日午前5時)OWI の西海岸の短波送信機から英語の放送が始まった。重要な部分は4時5分から日本語で放送された。日本語の全文は OWIサンフランシスコ支部が作成し、ワシントンD.C.国務省の言語専門家が電話でチェックしたのち、午後6時(東京時間午前7時)サンフランシスコから放送された。その後、日本語の放送は西海岸の11の短波送信機、ホノルルの短波送信機、サイパンの中波送信機が繰り返した。すべての定時番組は中止され宣言の放送を繰り返した。西海岸からは20の言語で宣言が放送された。その後数日間に渡って一定間隔で宣言の放送が繰り返された。日本側では外務省、同盟通信社、陸軍、海軍の各受信施設が第一報を受信した[34]


  1. ^ 下記邦訳、および下記外部リンク「ポツダム宣言 - 国立国会図書館」参照
  2. ^ 大東亜戦争終結ノ詔書(玉音放送の原文)では「米英中蘇」となっている。複数国による宣言や協定や条約の場合、その宣言や協定や条約に参加したからといって宣言中で定められる権利等の全てが宣言、協定、条約国全てに等しく与えられるとは限らない。権利や義務は宣言中で具体的に明示された事項について具体的に明示された参加者にのみ与えられたり負わされる。宣言参加者には宣言内で定められる事項について遵守義務が発生する
  3. ^ 首相交代による。チャーチルは7月26日まで。アトリーは27日以降(ただ前半も次席として参加)。
  4. ^ a b 山下祐志 1995, pp. 11.
  5. ^ a b c 山下祐志 1995, pp. 14.
  6. ^ 有馬哲夫『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.87-88, pp.99-100
  7. ^ 有馬哲夫『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.101-104
  8. ^ 山下祐志 1995, pp. 13.
  9. ^ 有馬哲夫『歴史問題の正解』新潮新書2016年、p.104
  10. ^ 有馬哲夫『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.104-105
  11. ^ 有馬哲夫『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.105-106
  12. ^ a b 藤田宏郎 2011, pp. 305–306.
  13. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 306.
  14. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 337.
  15. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 307.
  16. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 308–309.
  17. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 311.
  18. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 311–312.
  19. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 312.
  20. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 314.
  21. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 315.
  22. ^ a b c 藤田宏郎 2011, pp. 316.
  23. ^ a b c 藤田宏郎 2011, pp. 319.
  24. ^ a b 長谷川毅 2006, pp. 128.
  25. ^ 長谷川毅 2006, pp. 182–184.
  26. ^ a b 藤田宏郎 2011, pp. 322.
  27. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 339.
  28. ^ a b 藤田宏郎 2011, pp. 323.
  29. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 325.
  30. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 326–329.
  31. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 331.
  32. ^ a b c d e f g 山下祐志 1995, pp. 16.
  33. ^ 読売新聞社編『昭和史の天皇 3 本土決戦とポツダム宣言』中公文庫 p.269 2012年
  34. ^ 読売新聞社編『昭和史の天皇 3 本土決戦とポツダム宣言』中公文庫 pp.348 - 349 2012年
  35. ^ a b c d e 山下祐志 1998, pp. 2.
  36. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 333.
  37. ^ 蔣介石のこと。当時日本は南京の汪兆銘政権を承認していたため
  38. ^ 通説では8月9日深夜に始まったとされていたが、『昭和天皇実録』において8月10日0時3分開始と確認された(「昭和天皇、苦悩の日々…実録1万2千ページ公表」 読売新聞 2014年9月9日)。
  39. ^ a b 山下祐志 1998, pp. 5.
  40. ^ 読売新聞社編『昭和史の天皇 4 玉音放送まで』中公文庫 p.117 2012年
  41. ^ a b c d e 山下祐志 1998, pp. 6.
  42. ^ "… the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander …"
  43. ^ The ultimate form of government of Japan... government は無冠詞である(プログレッシブ英和中辞典(第4版) government)。
  44. ^ “The Decision to Use the Atomic Bomb” by Henry Stimson
  45. ^ August 10, 1945 Truman Diary
  46. ^ 翻訳を行った下田は"subject to"は「隷属する」の意味では有るが、これでは軍部が受け入れないので、「制限の下に置かれる」と意訳したと説明している。さらに、米国の回答には「日本国の最終的の政治形態は『ポツダム』宣言に遵い日本国民の自由に表明する意志に拠り決定されるべきものとす」となっていたところを、下田は「日本国の最終的の政治形態」の部分を「最終的の日本国の政府の形態」と訳し、天皇は無傷でその下の政府の形態が国民の意志で決められると取れるように改めた。(出典:下田武三/著 戦後日本外交の証言 上 1984年(昭和59年)8月、行政問題研究所)
  47. ^ a b 山下祐志 1998, pp. 7.
  48. ^ 国体護持と「八月革命」─ 戦後日本の「平和主義」の生成 ─ 波多野澄雄
  49. ^ 藤田宏郎「フランクリン・D・ローズベルトの無条件降伏論」(甲南大学法学部 甲南法学48(1)pp.1-36 20070900)[1]
  50. ^ TOP SECRETであり事前に連合国各国の同意を得たものではなく、マッカーサーがこの文書が公開されることを望んだため、公表の事前に英ソ中各国政府に知らせることを条件に大統領も同意した[要出典]。なお対日占領政策の最高意思決定機関は極東委員会であり、その諮問機関である対日理事会の第一回会合は1946年4月5日。
  51. ^ 大日本帝国議会第90回衆議院本会議7号昭和21年6月27日吉田茂(発言番号8)[2]
  52. ^ 焦点になる「契約的基礎」については第7回衆議院外務委員会昭和25年3号(2月8日並木芳雄・発言者番号117)6号(3月9日横田喜三郎・発言者番号3)、第10回参議院外務委員会昭和26年2号(1月31日黒田寿男・発言者番号83)などで論じられあるいは反論されている。第24回衆議院内閣委員会公聴会昭和31年1号(3月16日神川彦松)でも言及あり。
  53. ^ 杉田一次の回想-2-杉田一次著『情報なきミズリー号艦上の降伏調印 映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る- 永井和京都大学教授
  54. ^ 日ソ中立条約のソ連邦による廃棄通告は1945年4月5日であり、同条約は1946年4月25日に失効することになっていた。なおこの条約では日ソ両国は領土保全と不可侵を相互に尊重しあう義務を負っていた(第一条)。
  55. ^ 「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集」 (PDF) 外務省
  56. ^ 外務省「北方領土」HP[3][4]
  57. ^ なお、平和的に確定したと言う点では樺太・千島交換条約においても同様であり、これを根拠として日本共産党は"南樺太を除く"千島列島全島の返還を要求している。
  58. ^ 日ソ共同宣言は外交文書(条約)であり同条約の締結と批准により戦争状態は終了し両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされている[要出典]
  59. ^ 「三、中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。」
  60. ^ ポツダム宣言とサンフランシスコ平和条約についての政府の認識に関する質問主意書提出者は和田政宗
  61. ^ 参議院議員和田政宗君提出ポツダム宣言とサンフランシスコ平和条約についての政府の認識に関する質問に対する答弁書
  62. ^ 読売新聞社編『昭和史の天皇 3 本土決戦とポツダム宣言』中公文庫 pp.299 - 312 2012年






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