宮城県 歴史

宮城県

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/13 14:43 UTC 版)

歴史

古代

雷神山古墳。写真の右が前方部で、左が後円部。

現在の宮城県の地には、古墳時代からヤマト王権の影響力が及んでおり、雷神山古墳名取市)や遠見塚古墳(仙台市)などの前方後円墳が造られた。雷神山古墳は東北地方の中では最大の古墳である。古墳時代後期には、厚葬禁止の令に従い、横穴式古墳も多く造られた。

大化元年8月、改新政府は「東国国司」8組を、今後の政治改革遂行のために人口と田地面積の調査、武器の収公などの任務を与え、現在の中部・関東から東北地方南部に臨時的に派遣した。孝徳朝(645年 - 654年)の後半に第2次使者が派遣されて国造制が評制へ転換され、の上にが設けられ、国司の前身である国宰が派遣された。この時期に道奥国(みちのおくくに)が設けられた。その領域は、国造制が施行されていた宮城県南端と福島県で、最初に置かれた評は曰理(わたり)、伊具(いぐ)、宇多(うだ)、行方(なめかた)、標葉(しめは)、信夫(しのぶ)、安積(あさか)、岩背(盤瀨;いわせ)、白河、会津の10評。菊多(きくた)、安達(あだち)、耶麻(やま)郡は後に分置された郡で、石城(磐城)評ははじめ常陸国の管轄であった。この10評のうち行方、会津評を除く8評が国造のクニであって、行方評は分割・新置された評。曰理・伊具評が宮城県南端、宇多評以下が福島県域である。道奥国の表記は、後に陸奥国(みちのおくくに)と改められた[34]

多賀城政庁跡。

最初の陸奥国府と推定される官衙郡山遺跡)は、現在の仙台市太白区郡山(旧名取郡)に設置された。養老8年/神亀元年(724年)には、多賀城(旧宮城郡)が設置され、現在の宮城県中南部は奥六郡日高見国)と対峙する軍事・政治の拠点化が進んだ。又、陸奥国分寺国分尼寺が、現在の仙台市若林区木下周辺(旧宮城郡)に設置された。後に多賀城は、現在の仙台市宮城野区岩切(旧宮城郡)に移転したと考えられているが、遺構は発見されていない。

奈良時代末期から平安時代初期、仙台平野北部・三陸沿岸の蝦夷がたびたび大和朝廷の拠点を襲撃し、三十八年戦争が勃発した。伊治(コレハル、栗原?)を拠点とするアザマロは当初大和朝廷側に帰属し多賀城に出仕していたが、蝦夷への差別に怒って反乱を起こし多賀城を滅ぼした。これをきっかけに胆沢[要曖昧さ回避]アテルイモレによる抵抗戦争が起こった。11世紀半ば北上平野俘囚奥州安倍氏が仙台平野に影響力を拡大し、多賀城の国司と対立した。安倍氏討伐の命を受けた源頼義が下向しても仙台平野の郡司らは中立を守り、苦戦した朝廷軍は仙北の俘囚主清原氏の参戦でようやく安倍氏を滅ぼすことができた。その後12世紀、奥州藤原氏の時代になると、奥州の軍事警察権が平泉に遷り、仙台平野は中央勢力の荘園と在地勢力の自治が混在するようになった。奥州藤原氏の行政権の程度については諸説がある。

中世

鎌倉時代には、奥州藤原氏追討の恩賞により、葛西氏などの関東地方の有力氏族や武士たちが守護地頭として現在の宮城県域に多く入植した。多賀城の留守所長官として陸奥国留守職に任ぜられたのが伊沢家景で、家景の子孫が留守氏を名乗るようになり、代々、陸奥国留守職に任ぜられた。

室町時代に入ると、南北朝の争いが起こったが、足利一族の斯波氏奥州探題を称して多賀城に入ると、争いは次第に沈静化していった。斯波氏の傍流である大崎氏奥州管領職に就いた。元中9年(1392年)に奥羽両国が鎌倉府直轄支配下に置かれ、大崎氏の奥州管領権は大きく制約を受けた。大崎氏は応永7年(1400年)に奥州探題となった。

戦国時代から江戸時代まで

仙台藩祖である伊達政宗の肖像画。

戦国時代になると、南東北奥羽山脈西側に連なる盆地群に拠点を置く武将たちの勢力が強くなり、大崎氏の権勢は衰退し、最終的に伊達郡信夫郡福島盆地)と置賜郡米沢盆地)を本拠地とする伊達氏の軍門に下った。伊達氏は源頼朝奥州合戦で功を立てて伊達郡に封じられた関東武士の末裔で、鎌倉時代から伊達郡を中心に勢力を拡大した。

安土桃山時代戦国大名伊達政宗常陸国佐竹義重会津地方の蘆名氏らに勝利し、領土を拡大した。しかし、政宗は豊臣秀吉に服属し、秀吉の奥州仕置によって、征服した会津地方などを奪い取られた。政宗は、奥州仕置によって取り潰された葛西氏大崎氏の旧臣を扇動して、葛西大崎一揆を起こさせたが、この一揆扇動は蒲生氏郷に露見し、政宗は秀吉から一揆の鎮圧を命じられた。政宗は佐沼城から秀吉の家臣・木村吉清を救出して、一揆を鎮圧した。戦後、秀吉は政宗の領地を、それまでの山形県南部、福島県、宮城県南部から、宮城県および岩手県南部へと北へ追いやった。政宗は玉造郡の岩出山城を居城として新しい領地の統治に当たった。秀吉の死後、政宗は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の会津征伐で家康に協力した。

伊達政宗は、豊臣氏徳川氏との緊張関係を考慮して、天然の地形が防御に適した青葉山に居城として仙台城を構えた。慶長5年12月24日(1601年1月28日)に城の縄張りを始め、「千代(せんだい)」を「仙臺(仙台)」に改めて、城下町の建設も開始した。伊達氏は伊達郡から置賜郡(米沢)、岩出山、仙台と家臣団や寺社、職人集団を引き連れて移動したため、仙台城下の町や寺社、旧家、職人の家系には、伊達郡を起源とするものが少なくなかった。城下町では冬季の乾燥や季節風対策として、防火林や防風林防雪林の植樹が奨励された。四ツ谷用水の開削もあって、仙台は多くの居住者を涵養できるようになり、62万石の仙台藩の藩経済を背景に、仙台城下は奥州一の都会となった。江戸中期には実石高は100万石を超え、港町である石巻江戸(東京都区部)との交易で栄えた。家老の片倉氏は代々白石城(現宮城県白石市)を居城とし、家臣や一族を一国一城令にもかかわらず「要害」と言う特有の制度化で藩内を治めさせた。要害としては涌谷城、岩出山城、金山城、岩沼城、角田城、丸森城、寺池城、佐沼城、宮沢城、高清水城、不動堂城、川崎城、平沢城、船岡城、亘理城、坂本城、岩ケ崎城、滝野館、石森城、米谷城、武田館、宮崎館、宮崎城、千石城、大窪城、吉岡城、宮床館、村田城などがあった。

伊達政宗はスペイン帝国との太平洋貿易を企図し、仙台領内で洋式大型帆船・サン・ファン・バウティスタ号を建造。慶長18年(1613年)、家臣・支倉常長を使節とする慶長遣欧使節団をスペイン王国およびローマ法王庁バチカン)へ派遣した。使節派遣の目的は、スペイン王国との通商にとどまらず、倒幕のためのスペインとの軍事同盟であったともいわれている。支倉常長はスペイン国王およびローマ法王に謁見した。しかし、徳川幕府が日本国内でキリスト教徒を大弾圧したため、目的は達成されなかった。政宗の死後、仙台藩は、徳川幕府との関係を重視するようになる。

伊達氏は代々「陸奥守」を称し、初代仙台藩祖・伊達政宗以来、東北の雄藩であった。仙台藩は幕末に、幕府の命令で北海道の警護を担当した。このとき会津藩庄内藩などの東北諸藩も北海道の警護を担当した。仙台藩の警衛地と領地は北海道の約3分の1を占めた。

仙台藩は、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年)の戊辰戦争の際に、奥羽越列藩同盟の盟主となった。仙台藩は孝明天皇の弟(明治天皇の叔父)・輪王寺宮(のちの北白川宮)を擁立し、輪王寺宮を「東武皇帝」として即位させ、仙台藩主・伊達慶邦征夷大将軍に就任する予定であったといわれる。しかし奥羽越列藩同盟は薩摩藩と長州藩を主力とする明治新政府軍に敗北し、仙台藩は石高を28万石にまで減らされた。このとき、秩禄が減って困窮した家臣団を救うために、仙台藩は蝦夷地(北海道)への入植を行った。仙台藩は明治新政府と共同で札幌市を開拓したほか、単独で伊達市[注釈 3] などを開拓した。こうして仙台藩は北海道開拓の歴史上に功績を残した。

近現代

明治政府が誕生すると、日本は中央集権体制の下に組み込まれたが、東北地方支配の政治的拠点とされた仙台市を中心に発展が始まった。

仙台藩を前身とする仙台県廃藩置県後も存続し、旧領である登米県角田県の編入、宮城県への改称[35]磐前県(現福島県浜通り)、磐井県(現岩手県南部)との管轄区域の変更を経て、明治9年(1876年)、現在の県域が確定した[35]

仙台には、陸軍第二師団が置かれ[36]、また東北帝国大学(現在の東北大学)を初めとした高等教育機関が設立された。

一方で、仙台湾の大半が砂浜で臨海工業の適地がなかったため、殖産興業時代から高度経済成長に至るまで、宮城県では第二次産業が発展しなかった。ただし、石巻湾に石巻工業港、仙台湾に仙台港(いずれも掘り込み式)が造られ、工業集積はある程度進んだ。

高度経済成長期ごろから、第二次産業から第三次産業への転換が進むと、東北自動車道仙台バイパスの建設、および広大な流通団地の建設によって、仙台は東北地方の卸売り商業の中心地、そして支店経済都市として人口が激増し、その他の県内拠点都市も発展した。その後、東北新幹線の開業やモータリゼーション、仙台市の政令指定都市化、バブル景気の影響から、仙台市とその周辺が特に発展して「仙台都市圏」の一極集中が進んだ。

年表


注釈

  1. ^ 気仙沼地方振興事務所[19]、東部地方振興事務所[20]、東部地方振興事務所登米地域事務所[21]、北部地方振興事務所[22]、北部地方振興事務所栗原地域事務所[23]、仙台地方振興事務所[24]、大河原地方振興事務所[25]
  2. ^ 昭和52年8月10日自治振第66号。各都道府県知事あて自治事務次官通知。
  3. ^ 2006年(平成18年)、福島県の伊達郡5町合併によって、伊達氏の先祖の地・福島県伊達市と伊達氏の末裔の地・北海道伊達市の、2つの伊達市が存在することとなった。
  4. ^ 宮城県に限らず、東北地方で私鉄が現存する県も青森県と福島県の2県のみである。

出典

  1. ^ a b c d e 宮城県の地勢・気候・コラム”(仙台管区気象台)2019年7月20日閲覧。
  2. ^ a b c d 『宮城県の地名』15頁。
  3. ^ 『角川日本地名大辞典4 宮城県』24頁。
  4. ^ 『角川日本地名大辞典4 宮城県』25-26頁。
  5. ^ 『角川日本地名大辞典4 宮城県』31-33頁。
  6. ^ 『宮城県の地名』20頁。
  7. ^ a b みやぎの産業(農業)”(宮城県)2019年7月20日閲覧。
  8. ^ a b 『日本地名大百科』 小学館、1996年、1114-1115頁。
  9. ^ みやぎの産業(水産業)”(宮城県)2019年7月20日閲覧。
  10. ^ 宮城の伝統的工芸品一覧”(宮城県)2019年7月20日閲覧。
  11. ^ 宮城県の位置・気候”(宮城県)2019年7月20日閲覧。
  12. ^ 『仙台市史』特別編1(自然)497-498頁。
  13. ^ 日本の条約湿地”(環境省)2019年7月21日閲覧。
  14. ^ 北海道・東北地方の東西南北端点と重心の経度緯度国土交通省国土地理院
  15. ^ 14 全国、都道府県の人口重心(平成7年・12年)独立行政法人統計センター
  16. ^ a b 気象警報・注意報や天気予報の発表区域 -宮城県” (PDF). 気象庁 (2016年10月10日). 2018年9月20日閲覧。
  17. ^ 震度情報や緊急地震速報で用いる区域の名称”. 気象庁 (2016年10月13日). 2018年9月20日閲覧。
  18. ^ 宮城県地域区分図”(宮城県)2019年7月25日閲覧。
  19. ^ 気仙沼地方振興事務所”(宮城県)2019年7月25日閲覧。
  20. ^ 東部地方振興事務所”(宮城県)2019年7月25日閲覧。
  21. ^ 東部地方振興事務所登米地域事務所”(宮城県)2019年7月25日閲覧。
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  23. ^ 北部地方振興事務所栗原地域事務所”(宮城県)2019年7月25日閲覧。
  24. ^ 仙台地方振興事務所”(宮城県)2019年7月25日閲覧。
  25. ^ 大河原地方振興事務所”(宮城県)2019年7月25日閲覧。
  26. ^ 協議会の概要(仙台都市圏広域行政推進協議会)
  27. ^ 黒川地域行政事務組合
  28. ^ 亘理地区行政事務組合
  29. ^ 塩釜地区広域行政連絡協議会
  30. ^ 亘理名取地区広域行政連絡協議会
  31. ^ 漁業を巡る国際情勢外務省
  32. ^ 平成17年国勢調査1次結果(宮城県)
  33. ^ 平成27年国勢調査人口等基本集計結果(確定値)(宮城県)
  34. ^ 今泉隆雄「宮城の夜明け」33-35ページ(渡辺信夫・今泉隆雄・大石直正・難波信雄『宮城県の歴史』山川出版社 1999年3月
  35. ^ a b 渡辺ほか 2010, p. 266.
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  37. ^ 岩手の欠食児、年末には5万人を越すか『東京朝日新聞』昭和9年10月12日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p461 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  38. ^ 日外アソシエーツ編集部編 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年、137頁。ISBN 9784816922749 
  39. ^ 公式Twitter公式Instagram
  40. ^ 平成20年度 宮城県民経済計算(確報)
  41. ^ a b c 平成30年度 宮城県民経済計算年報(概要版)-みやぎの経済のすがた 2018- (PDF) 2020年12月 宮城県震災復興・企画部統計課 2021年1月2日閲覧。
  42. ^ 仙台牛・仙台黒毛和牛について - 宮城県公式ウェブサイト
  43. ^ <震災7年半>実れ 復興の綿花(上)生産者/前例なき栽培に挑む - 河北新報
  44. ^ 宮城:ワタリガニ、震災契機に漁獲激増 新たな名物に - 毎日新聞
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  46. ^ 都道府県別1km当たり渋滞損失額 Archived 2007年2月7日, at the Wayback Machine.
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  48. ^ a b c d e f g h i j k l m n 名誉県民・県民栄誉賞・知事表彰 - 宮城県、2019年7月28日閲覧。
  49. ^ 宮城県県民栄誉賞規則 (PDF) - 宮城県、2019年7月28日閲覧。






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