宮城県
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歴史
古代
現在の宮城県の地には、古墳時代からヤマト王権の影響力が及んでおり、雷神山古墳(名取市)や遠見塚古墳(仙台市)などの前方後円墳が造られた。雷神山古墳は東北地方の中では最大の古墳である。古墳時代後期には、厚葬禁止の令に従い、横穴式古墳も多く造られた。
大化元年8月、改新政府は「東国国司」8組を、今後の政治改革遂行のために人口と田地面積の調査、武器の収公などの任務を与え、現在の中部・関東から東北地方南部に臨時的に派遣した。孝徳朝(645年 - 654年)の後半に第2次使者が派遣されて国造制が評制へ転換され、評の上に国が設けられ、国司の前身である国宰が派遣された。この時期に道奥国(みちのおくくに)が設けられた。その領域は、国造制が施行されていた宮城県南端と福島県で、最初に置かれた評は曰理(わたり)、伊具(いぐ)、宇多(うだ)、行方(なめかた)、標葉(しめは)、信夫(しのぶ)、安積(あさか)、岩背(盤瀨;いわせ)、白河、会津の10評。菊多(きくた)、安達(あだち)、耶麻(やま)郡は後に分置された郡で、石城(磐城)評ははじめ常陸国の管轄であった。この10評のうち行方、会津評を除く8評が国造のクニであって、行方評は分割・新置された評。曰理・伊具評が宮城県南端、宇多評以下が福島県域である。道奥国の表記は、後に陸奥国(みちのおくくに)と改められた[34]。
最初の陸奥国府と推定される官衙(郡山遺跡)は、現在の仙台市太白区郡山(旧名取郡)に設置された。養老8年/神亀元年(724年)には、多賀城(旧宮城郡)が設置され、現在の宮城県中南部は奥六郡(日高見国)と対峙する軍事・政治の拠点化が進んだ。又、陸奥国分寺・国分尼寺が、現在の仙台市若林区木下周辺(旧宮城郡)に設置された。後に多賀城は、現在の仙台市宮城野区岩切(旧宮城郡)に移転したと考えられているが、遺構は発見されていない。
奈良時代末期から平安時代初期、仙台平野北部・三陸沿岸の蝦夷がたびたび大和朝廷の拠点を襲撃し、三十八年戦争が勃発した。伊治(コレハル、栗原?)を拠点とするアザマロは当初大和朝廷側に帰属し多賀城に出仕していたが、蝦夷への差別に怒って反乱を起こし多賀城を滅ぼした。これをきっかけに胆沢[要曖昧さ回避]のアテルイ・モレによる抵抗戦争が起こった。11世紀半ば北上平野の俘囚の奥州安倍氏が仙台平野に影響力を拡大し、多賀城の国司と対立した。安倍氏討伐の命を受けた源頼義が下向しても仙台平野の郡司らは中立を守り、苦戦した朝廷軍は仙北の俘囚主清原氏の参戦でようやく安倍氏を滅ぼすことができた。その後12世紀、奥州藤原氏の時代になると、奥州の軍事警察権が平泉に遷り、仙台平野は中央勢力の荘園と在地勢力の自治が混在するようになった。奥州藤原氏の行政権の程度については諸説がある。
中世
鎌倉時代には、奥州藤原氏追討の恩賞により、葛西氏などの関東地方の有力氏族や武士たちが守護、地頭として現在の宮城県域に多く入植した。多賀城の留守所長官として陸奥国留守職に任ぜられたのが伊沢家景で、家景の子孫が留守氏を名乗るようになり、代々、陸奥国留守職に任ぜられた。
室町時代に入ると、南北朝の争いが起こったが、足利一族の斯波氏が奥州探題を称して多賀城に入ると、争いは次第に沈静化していった。斯波氏の傍流である大崎氏は奥州管領職に就いた。元中9年(1392年)に奥羽両国が鎌倉府直轄支配下に置かれ、大崎氏の奥州管領権は大きく制約を受けた。大崎氏は応永7年(1400年)に奥州探題となった。
戦国時代から江戸時代まで
戦国時代になると、南東北の奥羽山脈西側に連なる盆地群に拠点を置く武将たちの勢力が強くなり、大崎氏の権勢は衰退し、最終的に伊達郡・信夫郡(福島盆地)と置賜郡(米沢盆地)を本拠地とする伊達氏の軍門に下った。伊達氏は源頼朝の奥州合戦で功を立てて伊達郡に封じられた関東武士の末裔で、鎌倉時代から伊達郡を中心に勢力を拡大した。
安土桃山時代に戦国大名の伊達政宗は常陸国の佐竹義重や会津地方の蘆名氏らに勝利し、領土を拡大した。しかし、政宗は豊臣秀吉に服属し、秀吉の奥州仕置によって、征服した会津地方などを奪い取られた。政宗は、奥州仕置によって取り潰された葛西氏や大崎氏の旧臣を扇動して、葛西大崎一揆を起こさせたが、この一揆扇動は蒲生氏郷に露見し、政宗は秀吉から一揆の鎮圧を命じられた。政宗は佐沼城から秀吉の家臣・木村吉清を救出して、一揆を鎮圧した。戦後、秀吉は政宗の領地を、それまでの山形県南部、福島県、宮城県南部から、宮城県および岩手県南部へと北へ追いやった。政宗は玉造郡の岩出山城を居城として新しい領地の統治に当たった。秀吉の死後、政宗は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の会津征伐で家康に協力した。
伊達政宗は、豊臣氏や徳川氏との緊張関係を考慮して、天然の地形が防御に適した青葉山に居城として仙台城を構えた。慶長5年12月24日(1601年1月28日)に城の縄張りを始め、「千代(せんだい)」を「仙臺(仙台)」に改めて、城下町の建設も開始した。伊達氏は伊達郡から置賜郡(米沢)、岩出山、仙台と家臣団や寺社、職人集団を引き連れて移動したため、仙台城下の町や寺社、旧家、職人の家系には、伊達郡を起源とするものが少なくなかった。城下町では冬季の乾燥や季節風対策として、防火林や防風林、防雪林の植樹が奨励された。四ツ谷用水の開削もあって、仙台は多くの居住者を涵養できるようになり、62万石の仙台藩の藩経済を背景に、仙台城下は奥州一の都会となった。江戸中期には実石高は100万石を超え、港町である石巻は江戸(東京都区部)との交易で栄えた。家老の片倉氏は代々白石城(現宮城県白石市)を居城とし、家臣や一族を一国一城令にもかかわらず「要害」と言う特有の制度化で藩内を治めさせた。要害としては涌谷城、岩出山城、金山城、岩沼城、角田城、丸森城、寺池城、佐沼城、宮沢城、高清水城、不動堂城、川崎城、平沢城、船岡城、亘理城、坂本城、岩ケ崎城、滝野館、石森城、米谷城、武田館、宮崎館、宮崎城、千石城、大窪城、吉岡城、宮床館、村田城などがあった。
伊達政宗はスペイン帝国との太平洋貿易を企図し、仙台領内で洋式大型帆船・サン・ファン・バウティスタ号を建造。慶長18年(1613年)、家臣・支倉常長を使節とする慶長遣欧使節団をスペイン王国およびローマ法王庁(バチカン)へ派遣した。使節派遣の目的は、スペイン王国との通商にとどまらず、倒幕のためのスペインとの軍事同盟であったともいわれている。支倉常長はスペイン国王およびローマ法王に謁見した。しかし、徳川幕府が日本国内でキリスト教徒を大弾圧したため、目的は達成されなかった。政宗の死後、仙台藩は、徳川幕府との関係を重視するようになる。
伊達氏は代々「陸奥守」を称し、初代仙台藩祖・伊達政宗以来、東北の雄藩であった。仙台藩は幕末に、幕府の命令で北海道の警護を担当した。このとき会津藩や庄内藩などの東北諸藩も北海道の警護を担当した。仙台藩の警衛地と領地は北海道の約3分の1を占めた。
仙台藩は、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年)の戊辰戦争の際に、奥羽越列藩同盟の盟主となった。仙台藩は孝明天皇の弟(明治天皇の叔父)・輪王寺宮(のちの北白川宮)を擁立し、輪王寺宮を「東武皇帝」として即位させ、仙台藩主・伊達慶邦は征夷大将軍に就任する予定であったといわれる。しかし奥羽越列藩同盟は薩摩藩と長州藩を主力とする明治新政府軍に敗北し、仙台藩は石高を28万石にまで減らされた。このとき、秩禄が減って困窮した家臣団を救うために、仙台藩は蝦夷地(北海道)への入植を行った。仙台藩は明治新政府と共同で札幌市を開拓したほか、単独で伊達市[注釈 3] などを開拓した。こうして仙台藩は北海道開拓の歴史上に功績を残した。
近現代
明治政府が誕生すると、日本は中央集権体制の下に組み込まれたが、東北地方支配の政治的拠点とされた仙台市を中心に発展が始まった。
仙台藩を前身とする仙台県は廃藩置県後も存続し、旧領である登米県、角田県の編入、宮城県への改称[35]、磐前県(現福島県浜通り)、磐井県(現岩手県南部)との管轄区域の変更を経て、明治9年(1876年)、現在の県域が確定した[35]。
仙台には、陸軍の第二師団が置かれ[36]、また東北帝国大学(現在の東北大学)を初めとした高等教育機関が設立された。
一方で、仙台湾の大半が砂浜で臨海工業の適地がなかったため、殖産興業時代から高度経済成長に至るまで、宮城県では第二次産業が発展しなかった。ただし、石巻湾に石巻工業港、仙台湾に仙台港(いずれも掘り込み式)が造られ、工業集積はある程度進んだ。
高度経済成長期ごろから、第二次産業から第三次産業への転換が進むと、東北自動車道や仙台バイパスの建設、および広大な流通団地の建設によって、仙台は東北地方の卸売り商業の中心地、そして支店経済都市として人口が激増し、その他の県内拠点都市も発展した。その後、東北新幹線の開業やモータリゼーション、仙台市の政令指定都市化、バブル景気の影響から、仙台市とその周辺が特に発展して「仙台都市圏」の一極集中が進んだ。
年表
- 古墳時代:雷神山古墳や遠見塚古墳が造られる。
- 飛鳥時代:陸奥国の国府(郡山遺跡)が仙台市南部に置かれる。
- 養老8年/神亀元年(724年):陸奥国の国府と鎮守府が多賀城市に移転する。
- 鎌倉時代:伊沢家景が陸奥国留守職に就任し、その子孫が留守氏を名乗る。
- 応永7年(1400年):大崎氏が奥州探題となる。
- 天正17年(1589年):伊達政宗が蘆名氏を滅ぼす。
- 慶長6年(1601年):伊達政宗が仙台城を築き仙台藩の基礎を築く。
- 慶長18年(1613年):伊達政宗が家臣・支倉常長らをスペインおよびローマへ派遣(慶長遣欧使節)。
- 慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年):戊辰戦争で仙台藩が奥羽越列藩同盟を結成し明治新政府と戦う。陸奥国が分割され、仙台藩は陸前国全域と、陸中国・磐城国の一部に渡るようになる。
- 明治元年12月24日(1869年2月5日):仙台藩が減封され、桃生県、江刺県、涌谷県、白石県、栗原県が分立。
- 明治4年11月2日(1871年12月13日):第1次府県統合により仙台県と一関県(後に磐井県に改名)が置かれる。
- 明治5年1月8日(1872年2月16日):仙台県が宮城県に改名。
- 1876年(明治9年)4月18日:第2次府県統合に伴い、磐井県より気仙郡・本吉郡・栗原郡・登米郡・玉造郡を編入し、刈田郡・伊具郡・亘理郡を宮城県から分離して磐前県に編入した。5月25日、気仙郡を分離して岩手県に移管。8月21日、磐前県に編入されていた刈田郡・伊具郡・亘理郡が宮城県に復帰し、現在の県域が確定。
- 1887年(明治20年):東京・上野と塩釜の間に鉄道が開通する。
- 1889年(明治22年)4月1日:仙台区が市制施行し、仙台市となる。
- 1907年(明治40年):東北帝国大学が設立される。
- 1933年(昭和8年):4月1日、牡鹿郡石巻町が市制施行し、石巻市となる。
- 1934年(昭和9年):極端な冷害により昭和農業恐慌が発生。農村部でも欠食児童が相次ぐ[37]。
- 1941年(昭和16年)11月23日:宮城郡塩竈町が市制施行し、塩竈市となる。
- 1957年(昭和32年):仙台空港開港。
- 1956年(昭和31年) - 1963年(昭和38年):財政再建団体の指定を受ける。
- 1959年(昭和34年):レプトスピラ症(ワイル病)が県内で流行。患者539人のうち23人が死亡[38]。
- 1960年(昭和35年):チリ地震津波来襲。
- 1971年(昭和46年):仙台港開港。
- 1978年(昭和53年):宮城県沖地震が発生。全国の建築基準が大幅改訂(阪神淡路大震災まで)。
- 1978年(昭和53年)ごろ:仙台市にコンビニエンスストアが初登場。
- 1982年(昭和57年):東北新幹線開業。
- 1989年(昭和64年/平成元年):仙台市が政令指定都市に移行。
- 1993年(平成5年):本間俊太郎宮城県知事と石井亨仙台市長がゼネコン汚職事件で逮捕される。
- 1999年(平成11年):ベガルタ仙台が日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟する。
- 2003年(平成15年):三陸南地震発生。
- 2004年(平成16年):プロ野球球団、東北楽天ゴールデンイーグルスが設立(2005年シーズンから参戦)。
- 2005年(平成17年):プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)の仙台89ERSが設立される。
- 2006年(平成18年)10月10日:ご当地ナンバー(仙台)を導入。
- 2008年(平成20年)6月14日:岩手・宮城内陸地震発生。
- 2010年(平成22年)2月28日:チリ地震津波来襲。
- 2011年(平成23年)3月11日:東北地方太平洋沖地震発生。M9.0(国内観測史上最大かつ過去100年間で世界4番目の規模)を記録する巨大地震となった。この地震で栗原市では震度7を観測し、沿岸部は大津波に襲われた。
- 2016年(平成28年):G7首脳会合伊勢志摩サミットの開催に合わせ、G7財務大臣・中央銀行総裁会議が仙台市の秋保温泉で行われた。
- 2016年(平成28年)10月10日:黒川郡富谷町が市制施行し富谷市となる。宮城県内では市町村合併を伴わない単独市制移行は45年振り。
- 2017年(平成29年):宮城県大崎市を中心とする「大崎耕土」が、国連食糧農業機関が認定する世界農業遺産に認定される。
- 2020年(令和2年):マイナビ仙台レディースが日本女子プロサッカーリーグ(WEリーグ)に加盟する。
注釈
出典
- ^ a b c d e “宮城県の地勢・気候・コラム”(仙台管区気象台)2019年7月20日閲覧。
- ^ a b c d 『宮城県の地名』15頁。
- ^ 『角川日本地名大辞典4 宮城県』24頁。
- ^ 『角川日本地名大辞典4 宮城県』25-26頁。
- ^ 『角川日本地名大辞典4 宮城県』31-33頁。
- ^ 『宮城県の地名』20頁。
- ^ a b “みやぎの産業(農業)”(宮城県)2019年7月20日閲覧。
- ^ a b 『日本地名大百科』 小学館、1996年、1114-1115頁。
- ^ “みやぎの産業(水産業)”(宮城県)2019年7月20日閲覧。
- ^ “宮城の伝統的工芸品一覧”(宮城県)2019年7月20日閲覧。
- ^ “宮城県の位置・気候”(宮城県)2019年7月20日閲覧。
- ^ 『仙台市史』特別編1(自然)497-498頁。
- ^ “日本の条約湿地”(環境省)2019年7月21日閲覧。
- ^ 北海道・東北地方の東西南北端点と重心の経度緯度(国土交通省国土地理院)
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- ^ 協議会の概要(仙台都市圏広域行政推進協議会)
- ^ 黒川地域行政事務組合
- ^ 亘理地区行政事務組合
- ^ 塩釜地区広域行政連絡協議会
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- ^ 日外アソシエーツ編集部編 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年、137頁。ISBN 9784816922749。
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- ^ <震災7年半>実れ 復興の綿花(上)生産者/前例なき栽培に挑む - 河北新報
- ^ 宮城:ワタリガニ、震災契機に漁獲激増 新たな名物に - 毎日新聞
- ^ “さくら野石巻店が閉店”. 河北新報 (河北新報社). (2008年4月28日)
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- ^ a b c d e f g h i j k l m n 名誉県民・県民栄誉賞・知事表彰 - 宮城県、2019年7月28日閲覧。
- ^ 宮城県県民栄誉賞規則 (PDF) - 宮城県、2019年7月28日閲覧。
固有名詞の分類
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