建設工事とは? わかりやすく解説

建設工事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 19:49 UTC 版)

飛驒トンネル」の記事における「建設工事」の解説

先進抗は飛島建設鉄建建設JV担当しTBM天生太郎」の設計製作は三菱重工業担当した籾糠山それまでトンネル掘削例がなく、ボーリング調査もほとんどうまくいかなかったためまさに「蓋を開けてみるまでわからない」状態で工事開始された。当初より難工事予想されていたため、工事入り口部には「臥薪嘗胆」の文字掲げられた。この難工事一連は、飛島建設動画まとめて公開をしている。 最大土被りは1,000 mを超え水圧5.4 MPa55 kgf/cm2)、最大湧水量は毎分70 tになるなど青函トンネル上の数値となり、刻々と変わる地盤相俟って建設開始当初予想超えた難工事となった。その過酷さ証明するかのように投入されトンネル掘削機(先進坑直径4.5 mの「天生太郎(フルシールド型)」、本坑用に同12.84 mの「夢天2000改良オープン型)」)のうち「天生太郎」については幾多水抜坑を設置しカッター部分改良しながら掘削進めてきたが、貫通まで残り310 m地点土圧により圧壊して停止してしまった。シールド部分破壊されもはや修復不可能の状態であったその後今後掘削に関する委員会開かれトンネル掘削機が使用できなかった箇所NATM工法による掘削行った。なお、天生太郎側壁部分トンネル一部としてそのまま残される事となった。この天生太郎掘り進んだ避難坑掘削データにより本坑夢天2000軟弱地盤埋もれるどしたが危険に阻まれながらもなんとか掘り進んだ。その夢天2000貫通後に、天生太郎とほぼ同じ場所で土砂埋もれてしまい、外殻トンネル一部分として山中残されている。 本坑大成建設西松建設佐藤工業JV担当しTBM夢天2000」の設計製作は三菱重工業川崎重工業コマツ日立造船JV担当した。本貫通後再び貫通点での崩落など異常事態発生し、それが付帯工事の遅れにも波及してしまう。その結果現場切実な声に中日本高速道路株式会社2007年度平成19年度)末としていた開通時期を変更せざるを得ない状況になってしまった。 なお、本トンネル入口間の高低差が約214 mあり、白川村側から飛驒市側へ2 %の上勾配である。施工時の排水や、飛驒市坑口交通が不便であったことを考慮して当初白川村側からのみの掘削予定であったが、前述難工事ゆえ迎え掘り必要に迫られ飛驒市側から下り勾配での突っ込み施工急遽行ったため両側での掘削開始時期異なっている。 前述通り当初開通予定当初2005年愛知県開催され愛・地球博前の完成予定していた)より3年9か月延期後の開通予定からも更に3か月余り遅れて開通となった。総事業費は約1,000億円。 これら一連の土木史上稀に見る難工事にもかかわらず同様に難工事であった青函トンネル安房トンネル異なり死亡事故0を達成している。

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マニラMRT7号線」の記事における「建設工事」の解説

2016年2月土壌調査が行われた。2016年4月20日には起工式が行われ、当時大統領だったベニグノ・アキノ3世出席した。アーサー・タゲード運輸長官によると、MRT7号線2019年第4四半期までに完成する予定となっている。 2017年8月15日着工しケソン市コモンウェルス通り英語版)とキリノ高速道路英語版)では車線規制が行われた。この影響により、同道路にて交通渋滞発生したまた、ノース・アベニュー駅とケソン・メモリアル駅の建設において影響を受けるスクオッター不法占拠者)は、タナイリサールブラカン移された。 2017年10月7日にバタサン駅の起工が行われ、2017年11月現在、ケソンメモリアルサークル地下掘削作業進行中である。また、2018年1月22日にはノース・アベニュー駅線路建設開始された。 2019年1月には、エリプティカル道路英語版)およびケソン通り英語版)での掘削工事原因による深刻な交通渋滞引き起こしたとして、マニラ首都圏開発庁はEEI対し25,000フィリピン・ペソ罰金科した当初2020年に全区間開通する予定であったが、土地収用問題など着工大幅に遅れているため、サン・ミゲルフィリピン政府は、2021年までに一部区間優先して開通させることで合意した。なお、2022年に全区間開通する予定である。 土地収用問題車両基地建設延期されていたが、2019年11月26日着工された。建設地計画当初ブラカン州サン・ホセ・デル・モンティからマニラ首都圏ケソン市変更された。

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スタッド・サプト」の記事における「建設工事」の解説

建設費用1700カナダ・ドル (約16億9500万円 )で、そのうち半分850ドルモントリオール・インパクトオーナーであるサプト家によって賄われ残り個人から寄付金によって賄われた。現在スタッド・サプトは、モントリオール・インパクト球団事務所だけでなく特別室選手のための福利厚生施設備わっている施設総面積は約1,600,000平方フィート (150,000 m2)である 現在主としてモントリオール・インパクトがしているが、地元クラブにも門戸開放している。スタジアム天然芝敷き詰めていることから、あるサッカーカナダ代表メンバー人工芝覆われているBMOフィールドよりも優れているというほどである。 モントリオール・インパクトMLS参入先立ち収容人数13,404人から20,000人に拡張することとなったモントリオールが、2012年シーズンから19番目のフランチャイズとして認められるための計画であった

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東京駅の歴史」の記事における「建設工事」の解説

中央停車場以北建設については日本鉄道側の予算事情などによって先送りされることになり、まず官設鉄道中央停車場以南高架線建設されることになった。この高架橋複々線(4線)として建設されそのうち2線を電車線呼んで山手線京浜線(後の京浜東北線)用に、もう2線を列車線呼んで東海道本線横須賀線用に用いることになった1899年明治32年)の地質調査から開始され、翌1900年明治33年)に5つ工区分けて着工した。しかし同年義和団の乱北清事変)や1904年 - 1905年日露戦争など、戦乱による工事中断相次いだ日露戦争後工事再開され、さらに鉄道国有化により東京中心部主要な鉄道はすべて国の手帰したことから東京鉄道網全体を国が責任持って整備する体制整った1907年明治40年9月には煉瓦アーチ橋が、さらに1910年明治41年9月には架道橋部分それぞれ全面完成した。この完成した高架線利用して山手線電車1909年明治40年12月16日品川から烏森(後の新橋)まで、1910年明治41年6月25日有楽町まで、そして9月15日には現在の永代通り面して建設され仮駅呉服橋まで開通した東京駅完成するまでのおよそ4年間、山手線電車はその工事中構内通り抜けて呉服橋駅発着していた。 中央停車場については、1902年明治35年7月から高架橋工事がまず始められた。駅舎についても、1908年明治41年3月25日基礎工事開始された。この時点駅舎設計そのものはすべて完了していなかったが、上部構造概要固まっていたことや、1912年明治45年)に東京万国博覧会を開く計画があったことなどから、当局工事速成要望して設計完了前に着工されたものとされている。ただし博覧会については予算超過準備遅延から結局中止となっている。 工事監督金井彦三郎、基礎工事指揮今村信男、建築工事指揮小笠原鈅が担当した建設請け負ったのは関西地盤とする当時新興建設業者大林組で、指名競争入札により落札した大林組としては、大阪電気軌道(現:近畿日本鉄道近鉄))の生駒トンネル工事並んで社業発展させる大工事と称された。大林組工事は大変入念で、完成後に練達の検査官検査をしても1つ欠点発見できない舌を巻いたほどで、鉄道院から褒状送られている。基礎工事としては地表から3.6 mまで掘削したところに3.6 - 7.2 mの長さ60 cm間隔合計11,050打ち込みその上に厚さ1.2 mの基礎コンクリート打ち、さらに平鋼と丸鋼を格子状並べたうえで再びコンクリート打って完成させた。青森営林局から調達したもので、また鉄骨建てる場所に礎石として配置した花崗岩茨城県稲田産のものであった鉄骨一部八幡製鐵所(現:日本製鉄)製の国内産の他、イギリスおよびアメリカからの輸入鋼材使用され石川島造船所(後の石川島播磨重工業・現:IHI)が製作・組立請け負った1909年明治42年10月1日から1911年明治44年7月31日にかけて鉄骨の製作が行われ、現場で組み立て1910年明治43年8月1日着工1911年明治44年9月12日完成となった使用され鋼材は約3,500トン達する。壁体および床は1911年明治44年4月20日着工1913年大正2年5月18日完成となった煉瓦構造用に日本煉瓦製造製のものを約767イギリス積みで、化粧用品川白煉瓦製のものを927000小口積み使用し目地仕上げ覆輪目地とされている。他に、腰回り入口窓枠車寄せ馬車回り柱形装飾など花崗岩擬石漆喰塗混用した。皇室用の部屋寄木張り大理石敷き白木格天井などで仕上げたが、一般用部屋1階敷瓦人工石敷・アスファルト敷、2・3階にコンクリート上に木造床、天井漆喰塗などとなっている。屋根銅板葺およびスレート葺で、スレートには宮城県雄勝産の約32万枚用いている。南北八角形大広間ドーム天井には、の像や十二支モチーフにしたレリーフ、兜や鎧など日本的なモチーフデザインした装飾など取り付けられている。電気工事給排水工事暖房工事などを含め1914年大正3年12月15日竣工となった基礎工事着手から6年9か月かかったが、設計完了する前に基礎工事始めてしかもそれが順調に進んだことから、基礎工事完了設計完了して建物鉄骨組み立て始められるまで1年1か月あまり工事中断しており、実質的な工事期間は5年7か月あまりであった完成時東京駅本屋地上3階地下1階建、建築面積約7800平方メートル延べ床面積2万3900平方メートルで、高さは地盤からドーム上面まで約34.8 m(避雷針を除く)、中央部軒高は約16.7 m、長さは約335 mであるが南部斜めに折れ曲がっているウィングを除くと約270 mであった使用した材料煉瓦9266500個、セメント2万8843花崗岩83395切、鉄材3500トン木材1万8200尺、松丸1万1050本に上った作業員延べ747294人で、1日平均300人強が働いていたがもっと現場忙し時期には1000人近く働いていた。工事中に4人が転落事故亡くなっている。工費は「東京停車場建築工事報告」で集計時点2822005円で、その当時工事中であったステーションホテル費用16万円含めると約298万円達した正面から向かって右側(南側)の八角大広間乗車口で、出札口一等待合室一二婦人待合室二等待合室三等待合室手荷物一時預所鉄道案内所小手荷物受取所、食堂駅長室及事務室などが設置され、また駅舎背面付属建物中に一二用便洗面所三等用便洗面所公衆電信電報郵便取扱所物品販売店などが置かれていた。一方正面から向かって左側(北側)の八角大広間降車口で、待合室婦人待合室小手荷物交付所、手荷物一時預所鉄道案内所公衆電信電話所、小手荷物倉庫駅舎背後付属建物便所置かれていた。中央部皇室口の中には玄関広間広間両側に2か所の待合室休憩室、また階段の上にも待合室が2室用意されていた。この皇室口の北側隣接して電車用の降車口電車降車口)がある。また左右それぞれ1か所ずつ、駅舎貫通して背後到達する車道があって、資材搬入使えるようになっていた。南側車道の脇に東京ステーションホテル入口があり、中央より南側2階3階はその客室などに使われていた。中央より北側2階3階および1階大半駅務であった地下室北側南側にあり、暖房用や給湯用のボイラーがあり、南側にはこの他調理室洗い場食品保管庫などが設けられていた。 プラットホーム丸の内駅舎側に電車発着用の2面八重洲側に列車発着用の2面用意された。このうちもっとも西側丸の内駅舎側)の電車1面のみ幅が30尺 (9.1 m) で、他は40尺 (12.1 m) 用意された。当時としては非常に広いプラットホームで、これは天皇行幸時の歓送迎儀式必要な大きさから決められたものであった長さ電車用が492尺 (149.1 m)、列車用が775尺 (234.8 m) あった。乗車口降車口電車降車口と結ぶ3本通路高架下通り、またこれとは別に皇室口から特別通路設けられていた。さらに手荷物運搬用の通路や、東京中央郵便局連絡する郵便物運搬用の地下通路なども設けられていた。この他構内には客車用の留置線洗浄線、検査修繕設備機関庫などが配置されていた。駅舎高架線プラットホーム通路などを含めた中央停車場総工費4071210円と集計されている。 皇居真正面に駅が建設され行幸道路により直結され、また駅舎中央皇室口が設けられたことなど、完成した東京駅は「国家中心駅」「天皇の駅」としての位置づけ強く打ち出されたものとなった。それは、利便性無視して乗車口降車口200 m以上も離れたところに配置され、さらに当時東京市街の繁華街であった日本橋に近い八重洲側には出入口設けられなかったことに表れていた。これは当時としても批判招き当時新進建築家であった遠藤新は、皇室口が中央にあるために建物内有機的な連絡欠き各部分が自己主張をしてまとまりがないと痛烈な批評加えている。実用性無視した設計は、東京駅利用客急増予想はるかに上回るのだったとはいえ完成して十数年で駅の機能が行き詰まることにつながり以降絶え改築工事続けられるということになった。これは1937年昭和12年完成名古屋駅完成60年以上にわたって大きな手を加えず供用され続けたことに比して少なくとも駅舎としての東京駅失敗作との評価なされている。 丸の内駅舎のドーム天井完成時 乗車口丸の内南口)の広間 一等待合室 皇室通路 皇室待合室

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雨竜第一ダム」の記事における「建設工事」の解説

以後日本発送電によって建設進められたが、折から戦争に伴う資材不足と冬はマイナス40にもなる酷寒悩まされ(この地域日本で最も極寒地域でもある)、多く建設従事者犠牲になりながらも1943年昭和18年)に雨竜第二ダムと共に完成した。だが建設に際しては、連合国軍捕虜強制労働強いられたほか、アジアからの多く出稼ぎ労働者等も同様の劣悪な環境従事せざるを得なかった。建設従事した労働者延べ600万人と言われ一日当たりでは最大7,000人が労働従事した伝えられる。その殆どは過酷なタコ部屋労働であり、更に約3,000人に及ぶアジアからの出稼ぎ労働者建設従事したともいわれる正確な状況は現在も不明であるが、多数労働者過酷な労働厳寒気候に耐えられず犠牲となった湖畔程近い場所に建つ光顕寺当時犠牲者位牌遺品史料パネルとともに展示されている。

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アルジェ地下鉄」の記事における「建設工事」の解説

1988年アルジェリア政府が、二つ国有企業建設契約認可する工事は始まるものの、中断余儀なくされ、四つの駅の区間掘り進むのに15年かかってしまう。アルジェ地盤を掘ることについて、比較的困難というのが一つ理由である。2003年より、本格的工事が行われる。ドイツシーメンス社スペインCAF社の技術協力なされる2008年に、営業開始予定設定されていたが、延期される

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依佐美送信所」の記事における「建設工事」の解説

工事1927年昭和2年2月1日アース線埋設から始まり、高さ250mのアンテナ鉄塔8本、局舎建設送信器材設置が行われた。建設資材運搬のために三河鉄道(現・名古屋鉄道三河線小垣江駅から現地までの約2.4kmに専用鉄道敷設された。58,000トン資材運搬予定され運搬終了後鉄道撤去された。送信機テレフンケン高周波発電機送信機)が採用されドイツから輸入された。建設予算550万円だった。この費用第一次世界大戦によるドイツからの賠償金充てられたと言われることがあるが、無線機購入費用一部当てられに過ぎないまた,ドイツからの賠償によって青島から移築されたという説もあるがその根拠はない。

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伊良部大橋」の記事における「建設工事」の解説

本橋は、2006年平成18年3月18日着工した当初の計画では2013年平成25年3月竣工予定していた。当初、主航路部は鋼中路アーチ橋計画していたが、2007年平成19年)に行われた耐風検討委員会風洞実験耐久性問題があることが判明した。主航路検討委員会にて再検討し結果2008年平成20年)に鋼床版箱桁変更した。同部分実施設計1年遅れたため、完成当初計画から1年遅れの2014年平成26年3月となった2012年平成24年6月、主航路部の中央径間架設するための大型起重機船フローティング・クレーン)が台風影響避けるために兵庫県母港帰港し気象条件から宮古島再度呼び戻すのは2013年平成25年4月ごろになる見込みとなったこのため完成はさらに10か月ほど遅れ、2015年平成27年1月ごろとなった2006年平成18年3月18日 - 伊良部大橋着工2010年平成22年5月23日 - 上部セグメント架設延長1,000 mに到達し達成記念式開かれる7月13日 - 海中道路部で整地作業をしていたパワーショベル操縦誤って海中転落する事故発生着工以来初の事故)。 2011年平成23年4月15日 - 平良久貝側に建設中伊良部大橋見学施設伊良部大橋見学ステーション」が開館2012年平成24年4月 - 宮古島側および伊良部島側の主航路部の箱桁架設2013年平成25年4月 - 中央部箱桁架設2014年平成26年6月30日 - 上部セグメント最終生コン打設式。 9月9日 - 伊良部島側と宮古島側がつながる「上部連結式」が行われた。 工事中伊良部大橋 2007年平成19年7月桟橋宮古島から撮影 2009年平成21年7月伊良部島から撮影 2009年平成21年7月伊良部島牧山展望台から撮影 2012年平成24年8月伊良部島牧山展望台から撮影 2012年平成24年9月宮古島伊良部大橋見学ステーションから撮影 2014年平成26年8月伊良部島牧山展望台から撮影 2014年平成26年8月宮古島伊良部大橋見学ステーションから撮影

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建設」の記事における「建設工事」の解説

詳細は「建設工事」を参照 現在において、建築工事土木工事は、企業管轄行政法律において重複した区分が違う場合がある。 鉄塔などである高さが備わるものダムなどに備わるエレベーターシャフト排水機場施設建屋衛生管理処理施設汚水処理場など)、樋門管理建屋など、また地下街など、屋根がついていて、人が中に入ることができる工作物に関しては、建築基準法による「建築物」にあたるため、工事区分や行政の取り扱い土木工事であっても、また土木構造物範疇であっても一定の規模なら建築確認申請必要になり、建築士設計に当たる必要がある土木構造物設計自体建設コンサルタント担当する工事区分や行政の取り扱い土木工事である。また基礎工事建築土木ともに重要でありほとんど全ての工事に伴うが、工事区分としては土木工事である。 建設業法による建設工事区分 詳細は「建設業#建設工事の業種一覧」を参照

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笹子トンネル (中央本線)」の記事における「建設工事」の解説

下り線入口大月側) 下り線出口甲斐大和側) 中央東線八王子 - 甲府間は全部21工区分割して工事が行われ、多く工区請負によることにしたが、途中難工事予想される区間一定の条件に基づく請負難しかったこともあり、その前後区間付帯工事含めて直営工事を行うことにされた。笹子トンネル中央東線16工区属していたが、やはり難工事予想されたことからこのトンネル前後区間のみ直営工事とされた。八王子出張所設置以来所長技師古川阪次郎務め全般監督行ったが、笹子トンネルに関して勝沼派出所がおかれ、当初岡村初之助が、1897年明治30年10月から小川東吾が1899年明治32年3月から岸金三郎が工事監督務めた1902年明治35年4月からは勝沼派出所廃止され八王子出張所直轄となった。また山本信要が現場監督務めた1896年明治29年12月9日着工となった東口笹子川から坑口に至るまで約5チェーン(約100 m)を切土とする工事から始め本坑掘削着手したのは12月22日となった一方西口では、日川断崖面していてそのままでは掘削できないため、12月9日より本坑取り付くための横坑掘削した。この横坑下り列車に対して左側西側坑口を外から見ると右側)にあり、本坑4255分の角度全長172フィート5インチ(約52.6 m)を掘削して1897年明治30年1月15日本坑到達し、そこから西側坑口222フィート(67.7 m)戻って2月29日日川断崖到達した。これ以外には斜坑立坑用いて取り付くのに適当な谷筋などがなかったため、両側からの掘削のみに頼って工事が行われた。 工事は頂設導坑先進するという日本式建設工法が採られた。これは最初に掘る導坑トンネル天井付近に位置させ、そこから下へ向かって切り広げていくものであった当時一般的には底設導坑先進が採られており、この方法だとずりの積み込み運搬が容易であるという利点があるのに対して、頂設導坑先進ではその利点がないばかりか、下へ向かって切り広げを行うたびにずり輸送トロッコ線路敷き直さなければならないという欠点があった。これにもかかわらず頂設導坑先進採用した理由明確にはなっていない。まず天井付近中央導坑掘りその後第1切り広げとして両側広げ、第2切り広げ中段まで全体掘り下げ第3切り広げ底部中央掘りその後排水溝中央掘削した後、第4切り広げ底部両側面へ掘るという順序工事が行われた。その後排水溝部分煉瓦石畳構築し側壁煉瓦積み行い最後に上部アーチ覆工行った掘削は、1フィートから2フィート程度の穴を掘ってそこにダイナマイト詰め発破行って岩石破砕していく方法が採られた。ダイナマイト詰める穴の掘削当初手掘りで、後に削岩機導入したがほぼ導坑のみに使用しその後切り広げ依然として手作業頼っていた。 坑内における作業員避難所として、マンホールを2チェーン(約40 m)おきに合計115か所、下り列車に対して本線左側設置した。また両側坑口から3100フィート(約945 m)、5600フィート(約1,707 m)、および中央点の合計5か所は大マンホールとした。工事中監督員の仮詰所設置したり、工事資材倉庫として利用したりした。また将来的複線化を行う際には、これらのマンホールのうち12か所から横坑掘削して同時に着手することで、工期2年程度短縮することも考えられていた。 工事中1897年明治30年7月から8月にかけて山梨県内において赤痢流行発生し、特に笹子側にあたる北都留郡流行激しかった人夫感染予防努めて工事中止することは無かったが、それでも一時的に作業員の数が減少して工事の進捗影響出た。また1898年明治31年)には不況影響予算減額され導坑から第3切り広げまでの工事のみを行って4切り広げおよび覆工工事中断することになった。翌1899年明治32年)には状況回復して4切り広げ以降作業進行改善努めたが、この遅れにより多少重複作業発生するなど効率影響及ぼした

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ロンドン・アンド・クロイドン鉄道」の記事における「建設工事」の解説

建設費当初18ポンド想定されていたが、実際には3倍以上の61.5ポンド要した費用増の主な原因はニュー・クロスとフォレスト・ヒルにおける掘割である。 線路幅は4フィート8.5インチ(1,435mm)の標準軌採用された。建設の際には9フィート(2,743mm)や7フィート(2,134mm)の広軌検討されたが、実現には至らなかった。 ロンドン・ブリッジではL&GR北側L&CR専用の駅が設置され、コーベッツ・レーンで合流した1839年6月晴れて路線開業し途中駅としてニュー・クロス(現ニュー・クロス・ゲート(英語版))、ダートマス・アームズ(現フォレスト・ヒル(英語版))、サイデンハム(英語版)、ペンジ英語版)、アナーリー・ブリッジ(現アナーリー(英語版))、ジョリー・セイラー(英語版)が設置された。

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ロンドン・アンド・グリニッジ鉄道」の記事における「建設工事」の解説

線路はトゥーリー・ストリートと平行に走り、ブルー・アンカー・ロード、コーベッツ・レーン、グランド・サリー運河英語版)を横切っていた。そこから最初の駅であるデットフォード・ハイ・ストリート駅(英語版)に向かってカーブしグリニッジへと向かった。なお、建設工事はヒュー・マッキントッシュ(英語版)が担当した下層部が泥炭層となっており、ランドマン世界先んじて基礎補強コンクリート用いた。それでもコーベッツ・レーンに近いいくつかの橋脚は垂直から4~5インチ100~125mm)もずれてしまい、1836年1月18日にはトゥーリー・ストリートに近い2つアーチ崩壊した。なお他の場所ではレンガ横方向広がりを防ぐために鉄製タイ使われた。さらに1840年には多くアーチの上に9インチ(230mm)のコンクリート敷きその上にアスファルト重ねて改良した。 デットフォードとグリニッジの間にあるデットフォード・クリークでレイヴンスボーン川(英語版)を渡った。このマスト船が下を通れ構造になっており、8人で操作が行われていた。しかし基礎不安定だったため1884年1963年の2回架け替えが行われた。 当初は、石のブロック枕木固定された4フィート8.5インチ(1,435mm)の標準軌使用した単線敷かれていた。1840年までは様々な種類線路混在していた。また当時レール騒音がひどく、構造物車両悪影響及ぼしていた。またデットフォード - グリニッジ間の高架橋では当初縦材に4フィート間隔横木敷いたレール使われていた。この時デットフォードでは4分の1マイル400m)に渡って重さ78ポンド新しいダブルパラレルレールが木材枕木敷設されたと思われるその後このコンクリート基盤バラスト軌道置き換えられた。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 22:20 UTC 版)

クレイトン・トンネル」の記事における「建設工事」の解説

1830年代ロンドン・アンド・ブライトン鉄道グレートブリテン島南部鉄道網起点作ることとなった。のちにブライトン本線英語版)として知られるこの路線工事における難所はサウス・ダウンズ(英語版)の丘陵地帯であり、これを通過するためにクレイトン・トンネル掘られた。他のルート検討されたがトンネル使わないルート大幅な迂回を必要としたため鉄道会社主任技師だったジョン・アーペス・ラストリック(英語版)はトンネルによる通過選択した1839年トンネルの建設工事は運河トンネル設計経験豊富に持つウィリアム・フーフに任され、そのデザインも彼が担当した伝えられるところによると、このトンネル建築はクレイトン・マナーに住んでいたウィリアム・カンピオンが設計したハーストピアポイント(英語版)のダニー・ハウス(英語版)の影響受けているという。誰がどのようにして設計したかはともかく、クレイトン・トンネル設計案1840年10月1日取締役会承認された。このプロジェクト批判的な意見がなかった訳ではなく地元紙ブライトン・ガーディアンは、トンネル工事実現性懐疑的でかつ完全な迂回本当に必要なのか疑問呈した一方で、その技術的な難しさ認識しつつも関係者能力認め報道存在した。 建設工事中は近く土地購入して材料集めその場レンガ製造した。そのためトンネル内壁入口構造物大部分は、この地元産のレンガでできている。またトンネル内にガス灯設置されているのが特徴で、ガスはマースタム(英語版)の蒸留器から供給された。これは、列車乗客楽しませるためのものだったが、列車通過によって照明消えてしまいトンネル管理人が常に再点灯しなければならなかったため、すぐに使われなくなった

※この「建設工事」の解説は、「クレイトン・トンネル」の解説の一部です。
「建設工事」を含む「クレイトン・トンネル」の記事については、「クレイトン・トンネル」の概要を参照ください。

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