路線工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 18:37 UTC 版)
1915年(大正4年)上半期の営業報告書では、八栄村高根のみ用地の価格協定が成立、豊富村の区間の工事に着手したということが報告された。更に同年下半期の営業報告書では続いて八栄村夏見、米ケ崎、金杉、二和、三咲、豊富村神保新田、大神保、八木ケ谷、白井村富塚、風早村藤ケ谷、藤ケ谷新田、塚崎、大島田、大井の土地価格協定が成立したこと、それ以外の土地はまだ交渉中のものと全然交渉しようとしないところがある、ということが報告された。要するに現在の船橋市内は全て用地を確保することが出来たが、現在の白井市内の用地がなかなか確保することができない状況である。 また工事も八栄村高根よりだんだんと北上してきたものの、まだ地価の協定が不成立の富ヶ沢(現在の白井市復字富ヶ沢、白井市に入ったばかりの土地)で歯止めをかけられた。そのため一旦前進を控えて施行完了部分の水路や踏切などの補修工事を行うに過ぎない、ということが報告された。 株式の第二回払込に関しては、数回督促しても払込が済んでいない株が多く未払いにせざるを得ない状況だった。未払いの株に対しては失権処分をすることとなっているが、払込の期限を1年延長して1916年(大正5年)5月末日とした。このことについて営業報告書はただの不況であるためと説明している。しかし社内が二派に対立していることから事業成算に疑問を持った株主が、株金の払いこみを躊躇ったことが本当の理由である。その結果、工事の進行するにあたって払込済の株だけでは足りないため、資金の借入を船橋商業銀行の頭取を兼ねる岡田耕平(社長)に委ねた。 1915年(大正4年)12月12日に第三回株主総会が開かれた。これに引き続き臨時株主総会も開かれ、取締役4名と監査役1名の辞任が審議された。理由は病気または高齢化である。社長岡田耕平は2名の取締役と1名の監査役を推薦するも応じず、1916年(大正5年)1月20日の定例重役会において重役が一人も出席しないという事態になった。
※この「路線工事」の解説は、「船橋鉄道」の解説の一部です。
「路線工事」を含む「船橋鉄道」の記事については、「船橋鉄道」の概要を参照ください。
- 路線工事のページへのリンク