◆ジェンダー、フェミニズム、ダイバーシティ、スピリチュアリティ◆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 01:14 UTC 版)
「伊田広行」の記事における「◆ジェンダー、フェミニズム、ダイバーシティ、スピリチュアリティ◆」の解説
フェミニズム: 伊田はフェミニストというと誤解されたり嫌われることが多いことに対して、積極的に自分は男性であるがフェミニストだと宣言。学生時代からフェミニズム、女性解放論に共鳴。しかし自分事としてとらえていくのは、シングル単位論に至る80年代の議論(小倉千賀子や上野千鶴子)に触発されて以降。マルクス主義フェミニズムやリベラルフェミ、ラジカルフェミなどに親和性あり。マルフェミでは、上野の二元論を批判する統一論的なマルフェミの立場。シングル単位論、スピシン主義、主流秩序・ジェンダー秩序観点などの独自のフェミニズムを展開している。シングル単位論を中心にして社民主義システムをめざす現実的なフェミであるべきと主張。たとえば「フェミニズム戦略としてのシングル単位論」『女性労働研究』39号(ドメス出版2001年)など。フェミの魅力を簡潔に説明したものとして「『フェミ嫌い』の論理あるいは気分・無意識に対する私の語り方」(『唯物論研究』93号、2005年夏、「性に向かい合う哲学」特集)、「フェミを見切っているつもりのあなたへ――フェミニズムの魅力」(『現代の理論』5号 2005年10月発行 )。1990年代から日本のフェミニズム業界において労働(経済)問題が弱いことを指摘し、年功賃金制度批判や非正規労働問題など労働問題も含んだ社会改革としてのフェミに変わることを提唱。その一つが「私の女性学教育の試行錯誤」「女性学に労働問題をどう位置づけるか」(『女性学教育ネットワーク95』1995年)であり、その後1998年の「21世紀労働論」となった。 シングル単位論: 社会の基本単位を家族(異性愛。男女二分法に基づく結合)とするのではなく、個人にするという考えや制度設計思想。結婚しているかしていないかを社会(国家、行政、他者)が気にしないし差別しない状態。近代家族の諸特性が家族単位システムというまとめ方でとらえられるので、その稀代家族を規範として押し付ける状況を変革して多様な家族や生き方が尊重される方向を目指すということであり、その時の中核的思想が「家族単位からシングル単位へ」であるという考え。 シングル単位については、社会システム・制度のあり方の話の面もあれば、社会的意識の面も、個人の生き方や考え方の面の話、DVやパワハラ・虐待などが起こらないようにするための人間関係の視点の話もある。短期的目標と中期的、長期的目標の話もある。その多層的な意味(以下の5つ)をを理解することが大事と主張。 A:シングル単位という社会のシステム・制度として、社会民主主義にするはなし。具体的諸制度の制度設計の考え B;適切な人間関係の話 : 家族内での役割分担の乗り越え方、職場会社でのパワハラ・セクハラなどを防止するもの性暴力防止、バウンダリーの話 課題の分離、DVやストーカー防止、恋愛観・結婚観の変更、つまり様々な人間関係における、いい関係のコツとしてのシングル単位 C:ジェンダーにとらわれない人(ジェンダーフリーに生きる人)という意味:ジェンダーの意識や構造を解体して自由に生きていく基礎の感覚としてのシングル,多様性ダイバーシティの社会にすることとジェンダー平等とは一体だが、その時の中心概念としてのシングル単位。異性愛男女二元制をこえてのジェンダー理解。LGBTQの問題を他者の問題としない視点としてのシングル単位。 D: 将来、多数派/少数派の区分、男女区分などがなくなる(不要となる)中での個人のこと E: 主流秩序に対抗する生き方の人、スピシン主義的に生きる人という意味のシングル(今ロシアで戦争反対、反プーチンを言う人など、森友問題の赤城さんとか) 親しいパートナー関係の否定ではないが結婚制度の批判ではあるとする。義援金や給付金が世帯主の口座に振り込まれることも家族単位の問題であるし、年功賃金も、非正規労働差別も、長時間労働も、福祉の貧困も、家事分担の不平等も、女性の低賃金も、ぜんぶ家族単位の問題であるが、そう理解していない人がまだまだ多いと感じている。ジェンダー問題の理解と解決に肝要な概念であるのに、そこを理解していない人が多いと一貫して主張している。 シングル単位論について、最初の提起は、「カップル単位からシングル単位へ」(『情況』2巻10号、1991年)でなされた。簡単な説明の一つが、神原文子・他編『よくわかる現代家族』(ミネルヴァ書房2009年)の中の「シングル単位」の項目。初期の基本的な総合説明は、『性差別と資本制 ――シングル単位社会の提唱』(啓文社 1995)、『21世紀労働論 規制緩和へのジェンダー的対抗』(青木書店 1998)、『シングル単位の社会論―― ジェンダー・フリーな社会へ』(世界思想社 1998)、『シングル単位の恋愛・家族論 ――ジェンダー・フリーな関係へ』(世界思想社 1998)にあるが、そこさえ理解されていないことがほとんどであると伊田は考えている。その後、シングル単位論も大きく展開していっている。ユニークな特集として「未来派シングル単位宣言」(およびQ&A)(『週刊金曜日』99年9月3日号)がある。 参考 「ジェンダーフリーとシングル単位論への疑問・批判を考える」『大阪経大論集』55巻第1号(04年5月) 「伊田広行さんに「シングル単位」で考える子育てについて聞きました」 スピリチュアル・シングル主義 シングル単位論が「強い個人による自立の論」とみられていることに対応して、そうではなく、社会的に支え合うシステムにおいて個人を基本単位とするものであることなどを示すために、シングル単位論にスピリチュアリティ概念を結合させたもの。「スピリチュアル・シングル――生き方と社会運動の新しい原理を求めて ――」(『大阪経大論集』50巻第1-3号1999年)で体系的に示し、その後、『スピリチュアル・シングル宣言 ーー生き方と社会運動の新しい原理を求めて」( 明石書店 2003)で整理した。その観点で、いかに生きるか、幸福とは何かを考察したものとして「幸福な生き方、充実した生き方について」(『大阪経大論集』55巻第2号2004年7月)。そうした生き方論をのちに主流秩序論としてまとめていくこととなる。 ジェンダー秩序: 主流秩序の中のサブ秩序の一つである「ジェンダー秩序」とは、「異性愛で男女二分法、男/女らしくあるのがいいというジェンダーによる秩序」のことである。色々な内容があるが、例えば、世間の言う女らしさ、男らしさが強い(それをよいと思って追及している)ほど上位、旧来の性別役割をなぞっているほど上位、女/男らしさが少ないあるいは反逆しているほど下位といったものだ。また男らしく/女らしくてモテて恋愛できたり結婚できている方が上の秩序、結婚して標準的・典型的家族像にどれだけ近いかの秩序でもあり、正社員で働き結婚し、子どもがいるという、理想の家族像に近い人ほど上位、そこから外れている程度の大きい人(例えば、子どもなし結婚→正規職事実婚→非正規結婚→非正規事実婚→同棲→離婚→独身→性的マイノリティ)ほど下位といった序列のことである。つまりジェンダー秩序は、男らしさ/女らしさの序列・異性愛主義・男女二分法・家族単位、美の秩序、結婚秩序などほかのサブ秩序と絡まっている、ジェンダーに関係するサブ秩序の全体のことである。(伊田『閉塞社会の秘密』より) 美の秩序、「ブスと美人」問題 伊田は、ブスで笑う問題、美人をほめる問題、ダイエット・化粧・整形問題、ルッキズム=美醜差別、年齢差別などつなげて深堀することで、ジェンダー秩序への囚われや加担を考えることを提起している。SNSで煽られる問題、コンプレックス商法の問題もかかわる。伊田が大学の講義で力を入れているこの問題について、紹介したものとして、「女性の人権――ジェンダーにかかわる人権」(『身近に考える人権』高井由起子編著、ミネルヴァ、2022年)や『はじめて学ぶ主流秩序論』(2018年)がある。 日本のパンプス強制などを問題とする「#KuToo」運動、韓国での女性たちを縛る美の「コルセット」を脱ぎ捨てようという「脱コルセット」運動、ミスコン反対運動、キャンペーンガール見直しなどに賛同。整形や化粧・ダイエットを全否定するのでなく、個人のエンパワメントと主流秩序との絡みで評価する立場。女子アナや受付が若くて美人である必要はないとする立場。 関連 美の秩序」に関する小島慶子さんの気合のこもった文章 スピリチュアリティ 伊田の言うスピリチュアリティ概念は独特である。特定宗教や神秘主義肯定の話ではなく、無神論者・唯物論者である伊田が大事にすべき価値として概念化した。シングル単位論を補う「エゴイズムを超えるひととひとのつながり」を示すもの。伊田は合理主義者であるが、近代合理主義の枠の限界も認識するので、近代合理主義の枠を超えての直感や感性・感情・自然を重視し、自己拡張意識を地球レベル・歴史レベルに大きくする傾向に賛成する。そうした感覚をスピリチュアリティという。近代合理主義の中で劣位に置かれていたものに、一定の価値を再発見することを示すために使われる概念。具体的には、主流秩序において上位に行くような「賢さ」でとはまったく異なったもので、「受験的お勉強」ができない人も持てる、連帯意識ややさしさの感性のこと。 人間の歴史において様々な言葉で、これに近い感覚が過去表現されてきた。例えば、「人の深い思い」「家族・国(ナショナリズム)を超えた世界の様々なものとのつながり」「動物も含め、命の輝きを感じる感性」「瞬間性に永遠を感じる力」「主流秩序に抵抗たり離れるときに大事にされる感覚」「強者(主流秩序)に抵抗する勇気」など。 その他、「相手を深く信頼する感覚」「本当に心に響くもの」「ある人がそこにかけた歳月、時間、そういうものが見えない力になってかたまったもの」「とにかく優しい、その感覚」「その人自身のいちばん正直な価値観」「凛々しく、凛として生きる感覚」「『あなた自身であれ』という精神」「よく生きていこうとする感覚」「『行く言葉が美しくてこそ 返る言葉も美しい』と感じる美しさ感覚」「日常から見て遠く高い異次元的なところ」「ハイヤーパワーの感覚」「植民地支配をした側としてそれを恥じて償おうとする感覚」「無名で誠実に生きていこうとする姿勢」「お金や地位・名声の誘惑に負けない心根」「自分の何気ない言葉が相手を傷つけることに気づき自分の迂闊(うかつ)さに恥じ入る姿勢」「自分自身を深く見つめる感性」「長い時間をかけて醸成されて紡がれた言葉」「人が相手の痛みを自分事として感じる力」「ピンポンのような言葉の応酬と真逆の、丁寧に言葉を選んで出す姿勢」「他者とせわしなく表面的な薄っぺらい言葉を交わすことを恥じる姿勢」「心に響くもの」「主流秩序の上位に行くのではないようにその人を励ます姿勢」「人の良さを主流秩序とは別に見れる眼」「荒れ果てている社会で、そういうものに毒されないこと」「心の奥底のきれいなところ」 「ちゃんと生きようとする人の、好き嫌い、へんと思う判断の軸」「自分自身の芯を正してくれる言葉が分かる感覚」「生きていくうえで何を大切にしているのかを意識した中心軸」「一人の個として立ち続けることを大事にする姿勢」「非暴力を貫く勇気」「ぱさぱさに乾いてゆく心に危機を感じて、潤いを取り戻しての感受性」「できあいの思想に倚りかからずに自分で考える力」「今の社会での生き方で、たかをくくず、なめてかからず、謙虚に生きる」「わかったうような背伸びした生き方をしない」「初々しさを大事にした生き方」「自分が偉くなったと思って、人を人とも思わなくなるようなことを恥じる意識」「人が堕落したことが見える感覚」「主流秩序に従属した人の堕落を感じる力」などともいえる。 これは歴史的に、以下のような言葉として「たましい」が伝われてきたことと重なる。 「魂のこもった一球」「魂に触れる言葉」「魂の感受性で味わうもの」「魂の殺人」など。 参考:「〈スピリチュアリティ〉概念をめぐる一考察」(日本ホスピス・在宅ケア研究会・スピリチュアル部会編『スピリチュアルケアとスピリチュアリティ』(スピリチュアルケアテキスト第1集2003年)、「やむにやまれず動き出す、スピリチュアルな人」(『Volo(ウォロ)』2003年12月号)、「スピリチュアルに生きる人々①~⑧」(『大阪経大論集』54巻第5号~55巻6号 2004-2005年)などで具体的に示したもの。 関連:「“弱者”の集団的な戦い」への感性と立場 [19] *ドラマ評 田太一脚本「早春スケッチブック」 韓国ドラマ『緑豆の花』について: 2021年4月30日「ソウルヨガ」ブログ スピリチュアル・ケア 死ぬような病気や本当に苦しい絶望状況を前にして人に必要なことは、狭義の近代医療や浅いカウンセリングだけでなく、深い精神的なケア、スピリチュアルなレベルでのケアである。伊田はキリスト教や仏教者とともに、スピリチュアル・ケアについて議論し、その意義を主張している。「スピリチュアルケアをめぐる議論を見渡す」(『大阪経大論集』54巻第5号 2004年)、「スピリチュアルケアをめぐる論点」(日本ホスピス・在宅ケア研究会・スピリチュアル部会編『スピリチュアルケアの理解を深める』スピリチュアルケアテキスト第2)2004年)。 ダイバーシティの基本理解 伊田は、ネットなどによくある、ダイバーシティとは多様な人材を積極的に活用しようというような、経営効果や生産性観点の考え方という理解を批判するスタンス。 社会的マイノリティの権利の問題や主流秩序自体を問い直す水準にまで深めることを提唱。もともとは、アメリカにおいてマイノリティーや女性の積極的な採用、差別ない処遇を実現するために広がったもの。したがってダイバーシティにおいて、『反差別』という観点が骨抜きになるのは不十分と主張。ダイバーシティ&インクルージョン(Diversity &Inclusion)も、組織(社会)が均質な状態(主流秩序が強いモノカルチャー状態)から、多様性を内包した状態、皆を包摂していく社会になること、これを主流秩序からの離脱ととらえるのが伊田のスタンス。主流秩序を温存し、無批判で、そこに仲間として入れてあげるというような「包摂」に反対。 伊田が言う多様性は、男女二分法・異性愛などを前提とした主流秩序から皆が自由になること、自由に生きられること。序列、優劣、勝ち負け(上からこうしろ、こうあるべきという社会)でなく、横並びに違いを優劣なく認め合う。 100人100様の「性」という認識。ジェンダー・バイアス(性別に基づく固定観念)などの「アンコンシャス・バイアス」(無意識の偏見)に気づき、そこから離れること、その縛りから離れること。「アンコンシャス・バイアス」(主流秩序)などは、学んで意識しないと、「自覚できないために対処もむつかしい」もので、無意識に再生産してしまうもの。多様性はこうしたものを意識的に乗り越えていくことで得られるもの。「多様な困りごと」を「上」から見て指導者が全部分かっているわけではない。今の主流秩序に沿った社会の仕組みは多様な人が安心して暮らせるようにはなっていない。各個人・現場に様々な状況(多様な困りごと)があるので、当事者が参画して、そこから解決策を出していく必要がある。臨機応変な社会はそうした下(ボトム)からの声をすいあげていくシステムやポリシーがある社会。一つの軸で統制するようなもの、強いもの・多数派が「少数派、弱いもの」を支配・心配・包摂するのでなく、意識的に当事者各個人を尊重すること。「功利主義、多数決発想」からの離脱などが、ダイバーシティには大事。 LGBTQ+、性の多様性 生物学的性、社会的性、性表現、性指向にくわえて、フェミや生別役割・結婚制度・カップル単位への考えなど「生き方・思想としての性」も含めて性を多層的に考える立場。男女二分法を批判する立場から百人百様の性があるとし、LGBTQのひとを特別としながら理解したり包摂したり権利を与えてあげるのではなく、性的多数派など本当はないとする立場。多数派が自分たちを多数派と思って普通・標準と思い、振り返ることなくLGBTQを理解することに反対。自分たちを普通と思い問い直さないこと自体を問い直すことが、LGBTQが突き付けている問題という理解の立場。 男女2分類によって、連続的なものが明確に分断され区分分け(区別)され、区分で異種とされたものは別物(差異、異質性)とされる一方、区別されたときの同種のものは同質性が強調される。様々な属性をこの2種類に振り分けていき、男らしさ、女らしさができあがったが、この問題の克服は、ジェンダー秩序(異性愛主義・男女二分法、秩序の上位が幸せ) をこえるということ = 100人100様の「性」という意味でのダイバーシティ。 その観点から伊田は講義で学生さんに「あなたは自分の「性」を大事にできているか、解放できているか」と問いかけている。なお歴史的過渡期には、主流秩序(権力格差構造)を解体するために、多数派・マジョリティ、所数派・マイノリティ概念は必要。 少数派と多数派 伊田が大学の講義で示しているのは以下の考え。性的少数派、LGBTQなどというとらえ方は、大きく見て差別構造・ジェンダーの序列があるときに差別や格差別などを可視化するためには必要な概念と考える。特に少数派というのは、単に人数が少ないということではなく、今の社会の多数派(主流秩序上位者)が持っている特権を持てない、不利な集団という意味がある。だから名付けて問題にしている。したがって性的マイノリティ(少数派)」の意味は、ジェンダー秩序の下位(=不利)な人々という言うことも含意している。単に数が少ないなら超美人でも億万長者でも、超賢い天才でも少数派だが、そういう人は勝ち組なので「差別問題でいうところのマイノリティ、少数派、差別される側の人」ということではない。多数派というのは主流秩序の上位で標準となる人々で、相対的に多数であることが多いのでそういっているからで、ケース別には多数でないこともある。実際に超大金持ちは少数だが、差別・貧困問題では超金持ちは「多数派」の側。 講義で多くの角度から学ぶように、性も含めて人間は多面的なので、交差性・インターセクショナリーでとらえると、ある面では多数派は、ある面では少数派ということがある。またそもそも、多数派の中にも少数派の中にも差異がある。同じ顔がないように、同じ人間はいないから、多数派を一色に塗りつぶして同質とみること自体が厳密には間違い。それは所数派も均質・同質とみるべきでないことを意味する。 以上のことを考えると「多数派」というもの自体が将来的には解体していく。つまり、将来社会で、多様性がそのまま平等に尊重される社会では、この人は少数派だとか多数派だということが問題ではなくなり、皆が異なりながら共存することになる。 「みんな違う、同じひとはだれひとりいない」、その意味で「多数派はいなくて皆が少数派」と理解することが必要であると同時に、現状に対しては「多数派/少数派というとらえ方」も必要ということ。理解のポイントは、多数派/少数派というのは単なる数のことを言っているのではなく、主流秩序・ジェンダー秩序という権力構造・上下構造の中での問題をあぶりだすために歴史的に必要な概念であるということ。 少数派概念とダイバーシティと主流秩序とシングル単位 「多数派と少数派」やシングル単位の話、主流秩序の話などを上記ダイバーシティとあわせて理解することを伊田は提唱。伊田が講義で示しているのは以下のようなこと。 多数派は自分が普通と思う。そしてそうでない人を例外としたり下に見て、かわいそうな対象とみて、仲間に入れてあげる(包摂)、助けてあげる、とみる。そのためにそうした「例外」だけに名前を付けるが、自分たち多数派には名前を特につけない。普通だから。しかしその姿勢自体がゆがんでいるというのが、伊田のダイバーシティの感覚である。異なる人が対等なのだから。すると、健常者が「自分と心身が異なる人を『障がい者』とよぶこと」「多数派が性的小数派をLGBTと呼ぶが自分のことを普通ということ」自体がおかしいとみる。それが主流秩序への気づき。自分をトランスでないならシスジェンダーということ。同性愛でないなら異性愛ということ。すると恋人がいる?というときに異性を前提に言わないこと。結婚しているとか子供がいるということを普通にしないために、必ず独身者がいるという前提で話すこと。恋愛欲求や性欲があるのが当然ではないので、アセクシャルの人の存在、新しい家族のようなものを考える必要がある。そういう感覚がない社会は、多数派による傲慢な「非・多様性の社会」である。だから異性愛家族を基本単位とする社会はおかしい。だからシングル単位の社会にすることが必要。これがジェンダー論であるが、そこを分かってない人が多い。 過渡期には主流秩序・ジェンダー秩序にのっとる「上下・差別」を明確にするために、あるカテゴリーに名前を付けることは必要だが、差別をなくしていって真の平等・多様性の実現が見えてきたら、多数派と少数派の境目の非絶対性に気づき、「皆が違っている」ということで皆が少数派であり、したがって特別に一部だけを「障がい者」「LGBTQ」という必要はなくなる。こうした展望の中で言葉や概念を理解することが必要。 社会民主主義・北欧社会 スウェーデン留学をふまえて、北欧の個人単位型社会民主主義がどのように確立され、制度は具体的どうなっているのかを整理したものが「スウェーデンの男女平等――その歴史、制度、課題」(『大阪経大論集』50巻第1-2号、1999年)、「スウェーデンはなぜ男女平等の社会になったか」(池内靖子・二宮周平・姫岡とし子・武田春子編著『21世紀のジェンダー論』晃洋書房所収、1999年)、「スウェーデンから学ぶもの――個人単位政策によって男女平等を達成した新福祉国家」(『女性労働研究』37号2000年1月)など。わかりやすく説明したものとして、伊田広行『いろんな国、いろんな生き方』(ジェンダーフリー絵本第5巻、石橋富士子・絵、大月書店、2001) ジェンダー・フリー・バッシング ジェンダーフリー概念と運動への攻撃が強くなった時代に、擁護の立場で主張。上野千鶴子などがジェンダーフリー概念を批判したことを批判した。まとめたものとして、「『ジェンダー概念の整理』の進展と課題」(1)~(3)(大阪経済大学『人間科学研究』第1号2007年4月、第2号2008年3)、第3号2009年3月)、「ジェンダーフリーとシングル単位論への疑問・批判を考える」『大阪経大論集』55巻第1号(2004年5月)、「家族のあり方とジェンダー・フリー・バッシング」(木村涼子編『ジェンダー・フリー・トラブル―――バッシング現象を検証する』白澤社、05年12月発行)、「バックラッシュ状況とジェンダー概念」(女性労働問題研究会編『女性労働研究』NO50青木書店2006年7月)、 「攻撃的であることを見直す」「ジェンダーフリー・バッシングの言説」(ジェンダー・学び・プロジェクト編集『ジェンダーの視点から社会を見る』解放出版社、2006年10月)、「フェミニストの一部がどうしてジェンダーフリー概念を避けるのか」(若桑みどり・他編著『「ジェンダー」の危機を超える! 徹底討論!バックラッシュ』青弓社、2006年8月) など。 ジェンダー秩序(主流秩序論)でジェンダー問題を考える意義 「女性 対 男性」で対立的にとらえる単純論が、フェミニズム VS アンチ・フェミで見られる。男性を敵視し、男性全部が差別加害者だというようにとらえての反発がある。しかし、ジェンダー平等を目指す議論を、ジェンダー秩序に囚われること自体の問題点の修正ととらえるならば、男性でも生きづらい人は、ジェンダー秩序の犠牲者だと理解できて、女性と連帯できると、伊田は主張。これは女性や男性を均質にみる見方の批判でもある。 DVの原因としてジェンダーの指摘だけでは不十分であるのは「対等な性別分業で何が悪いのか。不満はない」と言われた時に説明しきれないからである。実態として統計的にジェンダー格差があるとか男性が上とか男性の特権意識などジェンダー意識に基づく酷い例があるからと、一定のことは現実を踏まえて言えるが、論理的に十分でなく説得性に欠ける面がある。 これは、ジェンダー秩序の上位の人にとって有利なことがあるので論理的にはジェンダー意識や構造でDVや性差別を説明し、ジェンダー批判でDVをなくすということは言い切れないという問題につながる。「夫が家事育児などしないで勝手」というDVがあるが、妻が性別分業しても平気だ、それで満足という人にそれはDV被害だとは言えない。男性の特権意識に対しては女性の特権もあるという事実によって、DV説明として不十分である。たとえば、女性は夫に養ってもらえる(働かなくても経済的に保障される)、美しい女性は多くの利益を得られるなどということが女性の特権という場合もある。男性でもDVをしない人がいること、女性のDV加害者がいること、同性愛カップルでもDVがあることの説明も十分にはできない。 こうしたことからことから女性でも男性でもジェンダーはいいものだと考える人がおり、フェミやDVの説明としては不十分である。女性でも、ジェンダー秩序上位者にとってジェンダーは不利益にならない。男性でもジェンダー秩序下位者は不利益になり、弱くなり、支配されやすくなる。 それに対し二人で一つというカップル単位の考えになるとそこに個人の異なる自己決定の尊重(二人の考えが違うこと)があり得なくなるので問題だと論理的に説明できるメリットがある。カップル単位(一心同体)の場合、「ふたりでひとつとおもえて嬉しい、愛し愛されている感覚をもてる」という人がいるが、それはシングル単位でも可能である。カップル単位のマイナス面として「カップル二人の間には異なる意見が認められない」ということがあり、これは原理的に避けられないので、異なる意見の場合、話しあいで強い方の意見に合わせないといけないとなってDVの支配関係に原理的につながる。 以上からジェンダーだけでは足りないこと、ジェンダー秩序の理解含め、カップル単位構造の批判としてのシングル単位の視点によって、DVでない関係の原理的なイメージが提起できる。シングル単位では「女性から男性への DV」「同性愛カップルのDV」 なども問題とできる。 こうしたことから「女性学」も含め「ジェンダー論」として、特に「ジェンダー秩序」と「カップル単位/シングル単位」の観点まで含めて、大きく「性の問題」を捉えることが説得力を増す道である。 LGBTQへの差別問題も含めジェンダー秩序という理解で整理されるということの理解が広がることが、「男性弱者論」「フェミはなんでもかんでも男性を悪とみなす思想」「女性優遇思想」「男性は女性嫌悪を持っていると決めつける思想」など、フェミニズムへの低級な反発への対策ともなる。 昔ながらの単純な、「今の社会は女性嫌悪だ、女性を下に見ている、男性は男性特権を捨ててない」「男性はホモソーシャル的に集まって女性を排除している」、というようなところだけでフェミニズムを止めることは、入門としてはありえるが、シングル単位やジェンダー秩序の指摘が明確にされない限り不十分である。 結婚制度批判: 結婚している者を優遇し、非婚者を差別する結婚制度を批判する。それは主流秩序・ジェンダー秩序の重要な一部とする。結婚制度にのる実践が主流秩序への加担性あることを指摘。一夫一婦制を絶対真理とはせずポリアモリーの生き方があるとみとめるが、しかし、傷つける権利はないとして現実的なバランスを主張。シングル単位に基づき各自の自己決定に基づく多様な関係がいいと思う一方、実際的にはだれかを傷つけることがダメと考えているので、現実的にはポリアモリーはむつかしい人が多いと考えている。実際には少数の人との深い関係を大事にすることになる。相手を傷つけないことと自由のバランスが大事。過去のウィキペディアでは伊田はポリアモリー主義者のように書かれていたが間違い。伊田著『「まだ結婚しないの?」に答える理論武装』(光文社新書2008年)では、様々な結婚圧力へのシングル単位論からの反論を載せている。また結婚制度に関しては、「結婚制度肯定論の批判的検討――望月嵩氏の伊田批判に対しての反論」(『大阪経大論集』54巻第4号 2003年)、「シングル単位視点からみえる「結婚」と「恋愛」『家族社会学研究』(第14巻2号2003年)などもある。 エリート女性へのスタンス 「女性に関する政策実現のためにはフェミニスト官僚、ジェンダー研究者、女性運動家、政治家などの異なった立場の女性たちが連携することが必要なのに、「『エリート女性』に対する冷ややかな目」がそれを妨げていると批判する態度に対しては、伊田は、ジェンダー秩序に加担しているか否かで判断すべきととらえる立場。伊田は基本的に、勝ち組女性、エリート女性への批判は、主流秩序との関係で行われている限り重要と考える。もちろん、男性も、主流秩序の上位者への批判が大事。 ジェンダー・家族関係の民法改正問題; 戸籍制度の根本改革(戸籍廃止)を主張。選択的夫婦別姓制度導入に賛成。同性婚導入に賛成。離婚の破綻主義の実質化に賛成。男女の結婚可能年齢を統一することに賛成。女性に6カ月間の再婚を禁じた規定の廃止に賛成。離婚から300日以内だと前の夫の子供とする「嫡出推定」の規定を、離婚から300日以内でもDNA型鑑定などによって実の父親の子どもとできるように見直すことに(当面の改善として)賛成。無戸籍問題の解決に賛成。婚外子差別に反対。婚外子の遺産相続の取り分を結婚した男女の子の半分とした規定の見直し(平等化)に賛成。子に対する親の「懲戒権」の廃止に賛成。 ミソジニー 伊田は、ミソジニーを単に女嫌いととらえるのでなく、フェミ的な男の言いなりならない女性を嫌うことと理解する。したがってジェンダー秩序にそう女性を優遇することも「ミソジニー」ととらえる。フェミニズムは、男を批判する男嫌いの思想ではなく、ジェンダー秩序の解体を目指す理論・思想と運動という立場。だから主流秩序に違和感のある男性にとっても、解放論になりえる。「うるさい女が男をヘイト(不当攻撃)するのがフェミ」と思っている人が多いが、「ジェンダー秩序に抵抗しない女性でないと怒る」のがミソジニーととらえ、ジェンダー秩序にそって女子力高く、皆に評価されるような性をめざすのは、ミソジニーに加担しているとみている。 中絶問題: 女性が主体的に「産む・産まない」を選ぶ権利を保障すること(選択肢保障)として、中絶の権利の擁護に賛成。中絶手術方法の改善に賛成。飲む中絶薬の承認・保険適用化に賛成(すでに約80カ国で承認されている)。低用量ピルや緊急避妊薬の保適用化に賛成。 セックスワーク論: セックスワークについては、職業選択の自由、労働者の権利を守るということを中心としてセックスワーク擁護の立場。しかし、主流秩序、ジェンダー秩序に加担する側面がある場合にはその側面には批判的。性的搾取には反対。売買春については当初「買売春問題への私の態度」(『女たちの21世紀』16号、1998年10月)を書いたが、その後「シングル単位で考える魂ふれあう性のあり方」(『週刊金曜日』2000年)で基本姿勢を修正して示し、その後「続・はじめて学ぶジェンダー論」でスタンスを表明。 性教育 バックラッシュ派が性教育を攻撃したことに反対し、積極的な性教育に賛成。デートDV 防止教育は同時に性教育であると位置づけ。「主流秩序を意識した性教育へ」(『季刊セクシュアリティ』2021年 101号所収) 性暴力・レイプ: 現行の刑法規定を改正し、性的同意を基準に、刑法を根本改正することに賛成。スウェーデンの性行為同意法(2018年)のように、「積極的な同意(Yes)」を必要とするという性犯罪規定にすべきと考えている。暴行や脅迫、被害者の弱い立場を利用(上下関係や社会的地位)したなど「強要」はもはやレイプ成立の条件ではなく、自発的な参加であるかどうかがポイントとなるべきという考え。男女共同参画の中での位置づけからの整理として「性にかかわる暴力をなくしていくためには」(『部落解放』2016年6月号 特集 「ジェンダー平等の今」)。 伊藤詩織さんの事件 伊藤さんは性暴力被害にあったがバッシングを受け続けている。伊田は伊藤さん側に立つスタンス。 2017年5月東京地裁内の司法記者クラブで山口敬之(のりゆき)氏から受けた被害について顔と名前を明かして会見を行った時から、伊藤さんは在日、売名、ハニートラップ、枕営業……などとTwitterやまとめサイト、YouTubeといったSNSでデマや誹謗中傷の言葉を浴びせられ続けてきた。漫画家のはすみとしこ氏は、「米国じゃキャバ嬢だけど、私、ジャーナリストになりたいの!試しに大物記者と寝てみたわ。だけどあれから音沙汰なし 私にただ乗りして、これってレイプでしょ?」「『事実を書いたら売れないでしょう?だから私はこれを書きました』 マスコミの皆さんもやるでしょう? そうだ デッチあげよう!」 などと作品に書いた。それをみた多くの人が同調したり、リツイート(シェア、いいね!するなど含む)した。「伊藤詩織」「I.Shiori」、さらには隠語として使われた「オシリちゃん」「伊●詩織」「尹詩織」など、数十以上のワードで伊藤さん攻撃が行われた。 伊田は、こうした攻撃に憤り、批判する立場。「どちらの言い分が正しいかわからないので片方にくみしない」とか、政治問題になっているといった傍観者的意見を言うスタンスを批判。 三井マリ子「すてっぷ」館長裁判へのスタンス 「すてっぷ」館長の雇止めの取消しを求めて大阪地裁に提訴した件で、伊田は、三井支持の側に立った。伊田のスタンスは、引きずりおろそうとした勢力に屈服するようなことが主流秩序への加担・従属なので、それに反対する立場を選ぶということ。したがって、そういう流れのなかで「すてっぷ」側擁護に間接的にでも加担する言動に対して違和感を感じるスタンス。ジェンダーフリー攻撃の空気のときもそうだが、行政や世間などににらまれたくないからと、あえてもめているところにはかかわらず、中立のような態度をとる人に伊田は批判的。「仕事が来なくなることを恐れて沈黙・距離をとる」ような人を軽蔑する。 なお裁判は、一審では棄却されたが、控訴審の大阪高裁は2010年3月、「三井の行動に反対する宗教右翼等の勢力から受けた組織的な攻撃に市が屈した」「説明せずに常勤化に動いたのは人格権の侵害」と一審判決を破棄し、市に150万円の賠償を命じた。 日本軍「慰安婦」問題(日本軍性奴隷問題): いわゆる「従軍慰安婦問題」(正しく言えば「日本軍性奴隷問題」、慰安婦は「日本軍性奴隷制度被害者」) について、伊田は、日本国内でまちがった認識が広がっていることに憤っている。強制性があったという立場。日本社会のこの問題への態度にスピリチュアルな人権感覚のなさが如実に現れているとみている。「女性のためのアジア平和国民基金」のやり方を当時から批判。日本の主要各新聞社はすべて基本的に国民基金支持であった。日本社会の主流は、本質的な謝罪を避けて、金で黙らせようとする姿勢を日本は一貫してとっている。真に日本の侵略を認め、それを繰り返さない様にしようということを心から相手に伝えようとしていないと伊田は言う。2002年5月に「女性国際戦犯法廷」の法律顧問などが川口外相に日本政府の賠償などを求める判決文を手渡したときに、外相は「女性の尊厳を傷つけた問題についてはアジア女性基金で対応している」と官僚的対応をとった。つまりそのように、国の責任を免罪する方便として利用されていた。 こうした国民基金への批判は、多くの点で、2015年の日韓合意の問題にも通じる。日韓合意は謝罪でなく、右翼等がこの問題を終わらせたいがために、そして慰安婦少女像を撤去させるために、日本がかかわらずに韓国政府にやらせようとする、正式な賠償を避けて金を出して終わらせようとした愚劣なものであった。 2020年に首相となった菅義偉は若いころ、右翼的な「歴史教育を考える若手議員の会」(会長・中川昭一、事務局長・安倍晋三、幹事長・衛藤晟一)のメンバーだった。その証拠が、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が編集した本『歴史教科書への疑問』(1997年、展転社)に残っている。当時の歴史教科書を「反日的」と断じ、従軍慰安婦問題の記述をなくそうと活動した自民党議員の集まりの記録で、菅義偉衆院議員は「勉強会を通じて(中略)有識者の皆さまの検証によって、「従軍慰安婦」の強制連行など実際にはなかったことが明らかになっているにもかかわらず、それが堂々と中学生の歴史教教科書に載っているのは、非常に問題であります。「従軍慰安婦」に軍が深く「関与」していた、という誤った情報を教科書に載せているだけでも問題です」などと述べている。 伊田の慰安婦問題への見解は伊田著『戦争に近づく時代の生き方について』の第3部に詳しい。そこにも掲載されているNHK番組への批判は以下。 NHK・クローズアップ現代+「“少女像”問題」のひどさを確認する―――全4回 関連:「韓国と日本の差は、人権意識、という点で大きく大きく、差が開いた。」慰安婦問題 北原みのりさんの意見紹介 NHK番組改ざん問題 女性国際戦犯法廷に関するNHKの番組が放送直前に安倍晋三などの介入で急遽改ざんされた問題について、伊田はNHKを批判、抗議活動にも参加した。受信料不払いの形でも抵抗。「NHK番組改ざん問題の背後にあるもの――スピリチュアリティはどこに立ち現れるのか」(『情況』2005年4月号) 責任の取り方 責任を取るとはどういうことか。伊田は口先で根拠なく謝るのではなく、過去に戻ってなぜそれを選んでしまったのかを深く説明し、他の選択肢があったのにその間違った道を選んだ深く理由を解明し、結果・影響への正しい認識、倍賞をちゃんとすること、再発防止の対処、などが必要であると考えている。これについて簡単にブログでまとめている。 「帝国の慰安婦」をめぐっては批判側 日韓で政治的社会的問題となった朴裕河『帝国の慰安婦』に対して、学者系の中には言論の自由などの観点から擁護する人が出たが、伊田は、現実の運動、当事者の側に立つかどうか、主流秩序へのスタンスなど総合観点から批判する立場。「帝国の慰安婦」擁護派を批判する前田朗の主張に賛成。 伊田は、WAM, VAWW NET/RAC、松井やより、西野瑠美子、鈴木裕子、吉見義明、林博史、などのまともな研究や運動を重視するので、日本で、あまりにひどい慰安婦問題バッシングがある中で、朴裕河『帝国の慰安婦』の位置や意味を判断できないことを問題とするスタンス。 ***********************
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