華族 華族の概要

華族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/01 20:42 UTC 版)

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ピアズ・クラブ(華族会館)の内装
(1912年・東京)

概要

公家堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。1869年に華族に列せられたのは、それまでの公卿142家、諸侯285家の計427家[1]。1874年1月(明治4年)に内務省が発表した資料によると華族は2891人[2][3]

爵位制度以前

華族の誕生

明治2年6月17日1869年7月25日)、岩倉具視の政策による版籍奉還と同日の太政官達54号「公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム」により、従来の身分制度の公卿諸侯の称を廃し、これらの家は華族となることが定められた[4]。公家137家・諸侯270家[注釈 1]・明治維新後に公家となった家5家[注釈 2]・維新後に諸侯となった家15家[注釈 3]の合計427家[注釈 4]は新しい身分層である「華族」に組み入れられた。当初は華族に等級はなかったが、本人一代限りの華族である終身華族と、子孫も華族となる永世華族があった。

またこの後も新たな華族が加えられた。奈良興福寺門跡院家だった公家の子弟が還俗して新たな華族となった26家は奈良華族と総称された。また、大久保利通の功により大久保家が、木戸孝允の功により木戸家が[注釈 5]広沢真臣の功により広沢家が[注釈 6]、それぞれ明治天皇の特旨によって華族になったが、華族令以前に華族に列した元勲の家系はこの3家のみである。さらに歴史上天皇に対して忠節を尽くした者の子孫[注釈 7]も天皇の特旨によりこの時代に華族となっている。

華族の名称

華族という名称が採用された経緯ははっきりとしない。華族制度の策定にあたった伊藤博文は「公卿」、広沢真臣・大久保利通・副島種臣は「貴族」、岩倉具視は「勲家」「名族」「公族」「卿家」などの案を持っていた。討議の結果「貴族」と「名族」が候補に残ったが、決定したのは「華族」だった。

明治以前までは華族といえば公家家格を表す名称で、摂家に次ぐ第2位の家格である清華家の別称だった。

華族制度の整備

11月20日、旧諸侯の華族は原則東京に住居することが定められた。ただし地方官や外交官として赴任するものはこの限りでなかった。また同月には旧公家の華族の禄制が定められ、また華族はすべて地方官の貫属とする旨が布告された。

明治4年(1871年)には皇族華族取扱規則が定められ、華族は四民の上に立ってその模範となることが求められた。また諸侯華族は2月20日にすべて東京府の貫属となった。7月14日には廃藩置県が行われ、知藩事としての地位も失った。

明治7年(1874年)には華族の団結と交友のため華族会館が創立された。明治10年(1877年)には華族の子弟教育のために学習院が開校された。同年華族銀行とよばれた第十五国立銀行も設立された。これら華族制度の整備を主導したのは自らも公家華族である右大臣岩倉具視だった。

明治9年(1876年)、全華族の融和と団結を目的とした宗族制度が発足し、華族は武家公家の区別なく、系図上の血縁ごとに76の「類」として分類された。同じ類の華族は宗族会を作り、先祖の祭祀などで交流を持つようになった。明治11年(1878年)にはこれをまとめた『華族類別録』が刊行されている。

明治11年(1878年)1月10日、岩倉は華族会館の組織として華族部長局を置き、華族の統制に当たらせた。しかし公家である岩倉の主導による統制に武家華族が不満を持ち、部長局の廃止を求めた。明治15年(1882年)、華族部長局は廃され、華族の統制は宮内省直轄の組織である華族局が取り扱うこととなった。

岩倉は政治的には伊藤と協力関係にあったが、伊藤や木戸が構想した将来の議会上院形成のために華族を増員すること、具体的には維新の功労者を華族に加えることには強い拒否反応を示した。岩倉はそもそも華族が政治に参加することに反対だった。しかし明治14年(1881年)に国会開設の詔が出されると、岩倉もようやく伊藤の方針に同意した。岩倉の死後は、伊藤を中心に設置された制度取調局で華族制度の整備が進められた。

叙爵

爵位制度の検討

華族制度の発足以前から、爵位による華族の格付けは検討されていた。明治2年(1869年)5月には華族を「公」「卿」「太夫」「士」の四つに分け、公と卿は上下の2段階、太夫と士は上中下の3段階という計9等級に分ける案が三職会議から提出された。明治4年(1871年)9月には正院から左院に、「上公」「公」「亜公」「上卿」「卿」の5等級に分ける案が下問された。これを受けた左院は10月に、「公」「卿」「士」の3等級に分ける案を提出した。明治9年(1876年)には法制局が「公」「伯」「士」の3等級案を提出し、西南戦争以前は3等級案が主流となっていた。

明治11年(1878年)」2月4日、法制局大書記官尾崎三良と少書記官桜井能堅から伊藤博文に対し、「公」「侯」「伯」「子」「男」の5等級案が提出された。これは五経の一つである『礼記』の王制篇に「王者之制禄爵 公侯伯子男 凡五等」とあるのにならったものである。

華族令発布による爵位制度の発足

明治17年(1884年7月7日華族令が制定された。これにより華族となった家の当主は「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の五階の爵位に叙された[注釈 8]

爵位の基準は、明治17年(1884年)5月7日に賞勲局総裁柳原前光から太政大臣三条実美に提出された「爵制備考」として提出されたものが元になっており、維新期の勲功を加味された一部の華族を除いては、実際の叙爵もおおむねこの基準に沿って行われている。公家の叙爵にあたっては家格はある程度考慮されたが、武家に関しては徳川家と元対馬藩宗家以外は江戸時代の家格(国主伺候席など)が考慮されず、石高、それも実際の収入である「現米」が選定基準となった。しかし叙爵内規は公表されなかったために様々な憶測を産み、叙爵に不満を持つ者も現れた。

また華族令発布と同時期に、維新前に公家や諸侯でなかった者、特に伊藤博文維新の元勲であった者の家29家が華族に列せられ、当主は爵位を受けている。叙爵は7月中に3度行われ、従来の華族と合計して509人の有爵者が生まれた。これらの華族は新華族や勲功華族と呼ばれている。また、終身華族はすべて永世華族に列せられ、終身華族が新たに生まれることもなかったため、全ての華族は永世華族となった。これ以降も勲功による授爵、皇族臣籍降下によって華族は増加した。

爵位制度の概要

爵位は華族となった家の戸主、しかも男性のみが襲位した。土地の所有権を示すヨーロッパの爵位や中国の爵位と異なり、この爵位は家に対して与えられるものであり、複数の爵を一人の個人が所有することや、華族で別の爵位を名乗るような事態は存在しなかった。陞爵(爵位の昇進)によって爵位が変化した家もあるが、爵位の格下げは一例も無い[注釈 9]

爵位の上下により、叙位や宮中席次などでは差別待遇が設けられた。たとえば功績を加算しない場合公爵は64歳で従一位になるが、男爵が従一位になるのは96歳である。公爵は宮中席次第16位であるが、男爵は第36位である。また、公爵・侯爵は貴族院議員に無条件で就任できたが、伯爵以下は同じ爵位を持つ者の互選で選出された。

英語呼称

公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵は、それぞれ英国princemarquessearlviscountbaronに相当するものとされた。しかし英国におけるprinceは王族に与えられる爵位であるため、近衛文麿公爵が英米の文献において皇族と勘違いされる例もあった。英国の爵位で公爵と日本語訳されるのは、通常はdukeである。

叙爵基準による最初の叙爵

華族取立に関する問題

華族になれるとされた基準は曖昧であり、様々な問題が発生した。華族となれなかった人物やその旧臣などの人物は華族への取り立てを求めて運動を起こしたが、多くは成功しなかった。松田敬之は900名に及ぶ華族請願者をまとめているが、和歌山県の平民北畠清徳のように旧南朝功臣の子孫を称して爵位を請願したが、系譜が明らかではないとされ拒絶された例も多い[5]。また家格がふさわしいと評価されても相応の家産を持っていることが必要とされた[6]

旧諸侯による運動

  • 江戸幕府第15代将軍でかつ内大臣でもあった徳川慶喜は、幕府滅亡後に徳川宗家の家督を田安亀之助(徳川家達)に譲って同家の隠居扱いとなっていたが、明治35年(1902年)になって養子・家達とは別に公爵を授けられ、宗家とは別家(徳川慶喜家)を創設した。
  • 請西藩林忠崇は戊辰戦争で旧幕府側についたことを理由に改易され、維新前に諸侯だった大名家中、唯一士族に編入された[6]。旧家臣や領民が長く叙爵運動を続け、明治26年(1894年)になって忠崇の甥林忠弘が、本来よりも1つ低い男爵に叙せられた[6]
  • 越前松平家福井藩の御附家老の本多家は、陪臣とされ旧大名としての待遇を受けることができず、当主の本多副元は華族ではなく士族とされた。これを不服とした旧家臣・旧領民らによって暴動(武生騒動)が勃発した。武生騒動は多くの処罰者を出したが、それらの運動の結果、本多家は徳川御三家の附家老と同じく明治12年(1879年)に改めて華族に列せられ、明治17年(1884年)に男爵に叙された。

旧南朝功臣による運動

  • 交代寄合旗本であった岩松家は当初は士族とされたが、高家旗本で同じく士族とされた由良家と「新田氏」の正統子孫を巡って争い、紆余曲折の末に岩松家が正統とされ、男爵となった。



注釈

  1. ^ このうち広島新田藩浅野家は廃藩後に華族となることを辞退した。
  2. ^ 松崎家(松崎万長家)・玉松家(玉松操家)・岩倉具経家(岩倉具視の三男)・北小路家北小路俊昌家)・若王子家(聖護院院家若王子住職家)。
  3. ^ 徳川御三卿のうち2家(一橋徳川家田安徳川家)、徳川御三家附家老家5家(成瀬家・竹腰家(尾張徳川家)、安藤家水野家紀伊徳川家)、中山家水戸徳川家))、毛利氏の家臣扱いだった岩国藩吉川家、1万石以上の所領を持つ交代寄合6家(山名家池田家山崎家平野家本堂家生駒家)、1万石以上の所領を持つ高家だった大沢家。ただし大沢家は所領の水増し申告が露見し1万石以下であることが確認されたことから、後に華族の身分を剥奪され士族に編入された。
  4. ^ 徳川御三卿の清水徳川家は当主不在であり、翌年に徳川篤守が相続した際に華族に列せられた。
  5. ^ 大久保家と木戸家は明治11年(1878年)5月23日に華族に列した。いずれも後に侯爵
  6. ^ 広沢家は明治12年(1879年)12月27日に華族に列した。後に伯爵
  7. ^ 南北朝時代南朝方の忠臣だった新田義貞の功により新田家新田岩松家)が、名和長年の功により名和家が、菊池武光の功により菊池家米良菊池家)が、それぞれ華族になっている。いずれも後に男爵。
  8. ^ ただし、全ての華族が同時に叙爵されたわけではなく、戸主が女性であった家や終身華族・門跡華族・戸主が実刑を受けていた芝亭家などは叙爵が遅れた。
  9. ^ 清水徳川家で初め徳川篤守が伯爵、次代の徳川好敏が男爵となったが、これは篤守が爵位を返上ののち、家督を継いだ好敏が改めて自身の功績により男爵に叙せられたものである。
  10. ^ 大名家の表向きの石高である「草高」ではなく、実収を基準に決められた石高を現米とする。
  11. ^ 尚氏当主の尚泰の叙爵は翌年の明治18年(1885年5月2日。叙爵内規では「旧・琉球藩王」となっている。
  12. ^ 中納言を一旦辞すことなく直に大納言に任じられることを「直任」といい、一旦中納言を辞した後に改めて大納言に任じられることよりも格上とみなされた
  13. ^ 成羽藩矢島藩村岡藩
  14. ^ 平田家は家格こそは押小路家・壬生家の次とされていたが、実質においては「地下官人之棟梁」として両家と同格扱いを受けていた。詳細は西村慎太郎『近世朝廷社会と地下官人』第一部「近世地下官人の組織と制度」第二章<近世地下官人組織と「地下官人之棟梁」>に詳しい。
  15. ^ 北島家千家家出雲大社)、到津家・宮成家(宇佐神宮)、河辺家・松木家(伊勢神宮)、津守家住吉大社)、阿蘇家阿蘇神社)、紀家日前神宮・國懸神宮)、高千穂家(英彦山神社)、小野家(日御碕神社)、金子家(物部神社)、西高辻家太宰府天満宮
  16. ^ 渋谷家(佛光寺)、華園家(興正寺)、常磐井家専修寺)、木辺家(錦織寺)。ただしいずれの門跡も当時は皇族摂家から養子に入った者であった。
  17. ^ 華族の一族内に限って通用する法規
  18. ^ 有爵者、もしくは有爵者の嫡子が20歳になると従五位に叙せられる。
  19. ^ ただし実際にはほとんどが「有爵者(当主)の子女」だった。大正天皇第二皇子の雍仁親王(秩父宮)松平恒雄長女の節子(勢津子妃)と結婚した際には、恒雄が無爵だったことが大きな話題となった(子爵会津松平家の当主は恒雄の兄の容大、その跡を恒雄の弟の保男が継いでおり、結婚に際して保男が勢津子の養父となった)。
  20. ^ 姫路藩主酒井家で、酒井文子が当主を務めたのち、満8歳で家督を譲られた忠興が同時に伯爵を授爵している。
  21. ^ 白洲次郎の各種述懐による。

出典

  1. ^ 浅見雅男『華族誕生』リブロポート、1994年、24頁。
  2. ^ 神谷次郎、安岡昭男et al.、小西四郎(監修)『幕末維新事典』新人物往来社、1983年9月20日、596-599頁。
  3. ^ 同じ時期の士族は188万3265人、卒7246人。旧神官8914人、僧19万8435人、尼7680人。平民3151万4835人(このほかに樺太人2374人)。『幕末維新事典』による
  4. ^ 居相正広『華族要覧(第1輯)』居相正広、1936年9月28日、21頁。doi:10.11501/1018502
  5. ^ 佐藤雄基「松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』(吉川弘文館、二〇一五年)」『史苑』第78巻第2号、2018年、 109-110頁、 doi:10.14992/00016470
  6. ^ a b c 細野哲弘「一文字大名 脱藩す」『特技懇』第290号、特許庁技術懇話会、2018年、 130-137頁。
  7. ^ 酒巻芳男「第11章 華族の特権」『華族制度の研究 在りし日の華族制度』霞会館、1987年、301-331頁。
  8. ^ a b c 浅見雅男『華族たちの近代』NTT出版、1999年、20頁。
  9. ^ 小林和幸 2013, pp. 75-76.
  10. ^ 小林和幸 2013, pp. 66.
  11. ^ 小林和幸 2013, pp. 67-78.
  12. ^ 小林和幸 2013, pp. 76.
  13. ^ 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の昭和』中央公論新社〈中公文庫〉、243-252頁。ISBN 978-4-12203542-3
  14. ^ 内藤一成『貴族院』同成社、2008年、122頁。
  15. ^ a b 芦田均日記 憲法改正関連部分(拡大画像) 日本国憲法の誕生”. ndl.go.jp. 国立国会図書館. 2020年2月12日閲覧。


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