酒井忠弘
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酒井 忠弘(さかい ただひろ、1868年8月8日(明治元年6月20日[1])- 1936年(昭和11年)1月19日[2])は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院男爵議員。幼名は鉄太郎[3]。
経歴
旧姫路藩主酒井忠績の長男として生まれる[1][3][4]。1889年(明治22年)5月、忠弘に改名[3]。父の死去に伴い、1895年(明治28年)11月22日、男爵を襲爵した[1][5]。
1897年(明治30年)7月10日、貴族院男爵議員に選出[6][7]。1898年の万朝報に神楽坂の芸妓(当時16)を落籍したと報道されるなど素行面での評判は悪かった。1901年(明治34年)7月19日、華族の礼遇が停止され[8]、同年7月24日に貴族院議員を辞職した[2][9]。1920年(大正9年)6月15日、背任罪の確定判決により華族令21条による男爵を失爵、正五位を失位した[10][11]。報道によれば日光東照宮に出仕していた田沼正(当時36)と酒井忠弘(同52)ほか5名が数年に渡り拝観料及び賽銭の一部を横領し酒色に費していたとして検挙、裁判で有罪が確定したためであるという[12]。
墓所は染井霊園であるが平成28年に無縁墓として酒井忠績とともに改葬が通知されている[13]。
親族
脚注
- ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』上巻、642頁。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』72頁。
- ^ a b c 『大日本華族大鑑』235頁。
- ^ 『人事興信録』〔初版〕、967頁。
- ^ 『官報』第3723号、明治28年11月25日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、8頁。
- ^ 『官報』第4219号、明治30年7月26日。
- ^ 『官報』第5414号、明治34年7月20日。
- ^ 『官報』第5419号、明治34年7月26日。
- ^ 『官報』第2374号、大正9年7月1日。
- ^ 官報 1920年7月3日 七八頁
- ^ 新聞「日米」大正8年6月26日4面3段[1]、および大正9年7月8日5面6段[2]
- ^ 官報号外266号48頁「無縁墳墓等改葬公告」平成28年2016年12月1日付
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録〔初版〕』人事興信所、1903年。
- 筒井住蓮編『大日本華族大鑑』都通信社、1911年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 酒井忠績 |
男爵 (姫路)酒井家(忠績分家) 第2代 1895年 - 1920年 |
次代 失爵 |
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