川村家 (伯爵家)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/04 15:45 UTC 版)
川村家 | |
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種別 |
武家 士族 華族(伯爵) |
出身地 | 薩摩国 |
主な根拠地 |
薩摩藩 東京市豊島区 |
著名な人物 | 川村純義 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
川村家(かわむらけ)は、武家・士族・華族だった日本の家。近世には薩摩藩士の家系だったが、近代に川村純義海軍大将を出し、その勲功により華族の伯爵家に列せられた[1]。
歴史

川村純義の川村家は近世に薩摩藩士だった家系である[1]。純義は、薩摩藩の大砲鋳造方川村與十郎方臣の息子として生まれた。安政元年に父が死去して家督した後に父の與十郎の通称を継いだ[2][3]。純義の夫人ハルは椎原国幹の長女だが、国幹の妹は西郷隆盛の母であり、純義は隆盛に子供のように可愛がられた[2]。
純義は、戊辰戦争で薩摩藩軍の小銃四番隊長を務め、鳥羽伏見、熊谷、白河、会津などで多くの武功を挙げた。後の内閣総理大臣山本権兵衛は当時15歳にして純義率いる四番隊に参加して初陣を飾っている[2]。
明治2年10月、鹿児島藩知事島津忠義に従って上京していた際に大久保利通により兵部省に採用され、兵部大丞に任じられた。明治3年2月に陸軍掛と海軍掛に分けられた際に海軍掛となって以降海軍軍人としての道を進む[4]。明治4年7月には兵部少輔となり、明治5年2月に兵部省が廃止されて陸軍省と海軍省が設置されると海軍少輔へ転任[5]。明治7年には海軍中将、明治11年には参議・海軍卿に就任[1]。明治17年7月7日に維新の功により華族の伯爵に列せられた[6]。
明治34年以降は明治天皇の命により、皇孫の迪宮(昭和天皇)・淳宮(秩父宮雍仁親王)の御養育にあたったが、明治37年8月12日に死去。死去に際して従一位を追贈されるとともに海軍大将に昇進した[1][7]。
純義の死後長男の鉄太郎が爵位と家督を相続。鉄太郎は明治40年から貴族院の伯爵議員に5回当選して務め、研究会に所属した[1]。大正13年にはブリュッセルで開かれた万国議員商事会議に日本貴族院代表で出席[8]。鉄太郎夫人安は大久保春野男爵の三女[3]。昭和前期に伯爵家の住居は東京市豊島区雑司谷にあった[7]。
昭和20年に鉄太郎が死去した後、長男の雅彦が爵位と家督を相続[3]。雅彦夫人美地子は錦織重実長女[3]。その養子に幸陞(鴻池幸武長男)がある[3]。
系図
- 実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『平成新修旧華族家系大成 上巻』[3]に準拠。
川村方臣 | |||||||||||||||||||||||||||||
純義 | |||||||||||||||||||||||||||||
鉄太郎 | 純蔵 | 常子[† 1] | 花[† 2] | ||||||||||||||||||||||||||
雅彦 | 艶[† 3] | 文[† 4] | 武子[† 5] | ||||||||||||||||||||||||||
幸陞[† 6] | |||||||||||||||||||||||||||||
潤 | 奈々子 | ||||||||||||||||||||||||||||
系譜注
脚注
出典
- ^ a b c d e 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 472.
- ^ a b c 田村栄太郎 1944, p. 3.
- ^ a b c d e f 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 471.
- ^ 田村栄太郎 1944, p. 42-43.
- ^ 田村栄太郎 1944, p. 44.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 324.
- ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 76.
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 77.
参考文献
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036702。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
- 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。ISBN 978-4642014724。
- 田村栄太郎『川村純義・中牟田倉之助伝 : 明治海軍の創始者』日本軍事図書、1944年(昭和19年)。
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