北小路俊昌とは? わかりやすく解説

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北小路俊昌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/23 07:59 UTC 版)

 
北小路俊昌
北小路俊昌
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保7年4月15日1836年5月29日
死没 明治17年(1884年11月22日[1]
官位 従五位男爵
主君 仁孝天皇孝明天皇明治天皇
氏族 大江姓北小路家
父母 父:北小路俊文
養父:北小路俊常北小路俊威
兄弟 養兄弟:俊方俊堅、俊長俊徳俊親
俊岳、友麿、敷麿
養子:俊茂
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北小路 俊昌(きたこうじ としまさ)は、江戸時代後期の公家、明治期の官僚本姓大江氏官位従五位男爵

経歴

北小路俊文の子として生まれ、北小路家本家・北小路俊常の五男として育てられる[1]。叔父・北小路俊威の養子となる[1]

養父の死去により天保14年2月29日1843年3月29日)家督を継承[1]孝明天皇の皇子祐宮の蔵人となり、中務大丞に任じられる。祐宮が明治天皇として即位すると堂上家に列し、昇殿を許される。

1868年伊那県知事に就任する。伊那県は当初、県内に流布していた贋二分金を回収するため、豪農商に商社を設立させ、商社札を発行したが、政府が府藩県による私製紙幣の製造停止を命じたため、やむなく禁止されていたオランダ商人からの借り入れを断行し、その返済に税金を流用した伊那県商社事件が発生した。北小路はその責任を取らされる形で明治2年(1870年)に罷免された。明治11年(1878年)には宮内省維新前諸儀式取調を命じられる 明治17年(1884年7月8日に男爵に叙されたが、同年に死去した。

系譜

  • 父:北小路俊文
  • 母:不詳
  • 養父:北小路俊常、北小路俊威
  • 妻:不詳
  • 養子
    • 男子:北小路俊茂 - 細川常典の三男

著書

  • 『北小路俊昌手記』

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』上巻、495頁。
  2. ^ 1893年10月6日、梅丸から俊岳に改名。『官報』第3085号、明治26年10月9日。

参考文献

日本の爵位
先代
叙爵
男爵
大江姓北小路家(分家)初代
1884年
次代
北小路俊岳


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