久邇静子
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久邇 静子 (多嘉王妃 静子) |
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1920年代撮影
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続柄 | 水無瀬忠輔第1女子 |
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全名 | 久邇 静子(くに しずこ) |
身位 | 王妃 →(皇籍離脱) |
敬称 | 殿下 →(皇籍離脱) |
出生 | 1884年9月25日 |
死去 | 1959年9月27日(75歳没)![]() |
埋葬 | 京都府京都市、賀陽宮・久邇宮墓地 |
配偶者 | 多嘉王 |
子女 | 発子女王 賀彦王 珖子女王 恭仁子女王 家彦王 徳彦王 |
父親 | 水無瀬忠輔 |
母親 | 東園富子 |
久邇 静子(くに しずこ、1884年〈明治17年〉9月25日 - 1959年〈昭和34年〉9月27日)は、日本の旧皇族。久邇宮朝彦親王の第5王男子多嘉王の妃。旧名は、水無瀬 静子(みなせ しずこ)。皇籍離脱前の身位は王妃で、皇室典範における敬称は殿下。皇族時代の名は、多嘉王妃 静子(たかおうひ しずこ)であった。久邇洋裁学校創設者。
略歴
子爵水無瀬忠輔の長女。母は東園基敬の娘・富子。兄は水無瀬忠政。1907年(明治40年)に多嘉王と結婚し、「多嘉王妃 静子(たかおうひ しずこ)」となり、発子女王、賀彦王、珖子女王、恭仁子女王、家彦王、徳彦王の3男3女をもうける。1937年(昭和12年)、多嘉王と死別。1947年(昭和22年)10月14日、皇室典範第11条1項により、皇籍離脱。以後は、「久邇 静子(くに しずこ)」と名乗る。離脱後、京都市上京区河原町荒神口に久邇洋裁学校を設立。1959年(昭和34年)に75歳で逝去。
栄典
- 勲章等
受章年 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
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1907年(明治40年)3月9日 | ![]() |
勲二等宝冠章[1] | |
1924年(大正13年)1月8日 | ![]() |
勲一等宝冠章[2] | |
1928年(昭和3年)11月10日 | ![]() |
大礼記念章(昭和)[3] | |
1940年(昭和15年)8月15日 | ![]() |
紀元二千六百年祝典記念章[4] |
脚注
- 久邇静子のページへのリンク