久邇静子とは? わかりやすく解説

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久邇静子

(多嘉王妃静子 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 05:33 UTC 版)

久邇 静子
(多嘉王妃 静子)
1920年代撮影
続柄 水無瀬忠輔第1女子

全名 久邇 静子(くに しずこ)
身位 王妃 →(皇籍離脱
敬称 殿下 →(皇籍離脱)
出生 1884年9月25日
死去 (1959-09-27) 1959年9月27日(75歳没)
日本京都府京都市
埋葬 日本京都府京都市、賀陽宮・久邇宮墓地
配偶者 多嘉王
子女 発子女王
賀彦王
珖子女王
恭仁子女王
家彦王
徳彦王
父親 水無瀬忠輔
母親 東園富子
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久邇 静子(くに しずこ、1884年明治17年〉9月25日 - 1959年昭和34年〉9月27日)は、日本旧皇族久邇宮朝彦親王の第5王男子多嘉王。旧名は、水無瀬 静子(みなせ しずこ)。皇籍離脱前の身位王妃で、皇室典範における敬称殿下皇族時代の名は、多嘉王妃 静子(たかおうひ しずこ)であった。久邇洋裁学校創設者。

略歴

子爵水無瀬忠輔の長女。母は東園基敬の娘・富子。兄は水無瀬忠政1907年(明治40年)に多嘉王と結婚し、「多嘉王妃 静子(たかおうひ しずこ)」となり、発子女王、賀彦王、珖子女王恭仁子女王家彦王徳彦王の3男3女をもうける。1937年(昭和12年)、多嘉王と死別。1947年(昭和22年)10月14日皇室典範第11条1項により、皇籍離脱。以後は、「久邇 静子(くに しずこ)」と名乗る。離脱後、京都市上京区河原町荒神口に久邇洋裁学校を設立。1959年(昭和34年)に75歳で逝去。

栄典

脚注

  1. ^ 『官報』第7106号「叙任及辞令」明治40年3月11日、249頁。
  2. ^ 『官報』第3411号「叙任及辞令」大正13年1月9日、53頁。
  3. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。



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