皇帝 皇帝の概要

皇帝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/12 13:29 UTC 版)

キリスト教圏における「唯一の神、唯一の皇帝」という理念は、キリスト教がローマ帝国主義融合国教化していった歴史から大きく影響されている[10][注 1]ロシアでは1990年代初期以降、皇帝制の復興を目指す運動プロパガンダが活発化しており[11]大統領が皇帝(ツァーリ)になることを望む人々が都市部で増加している[12][13][注 2]。現代まで在位が続くイスラーム系君主号「スルタン Sultan」は、権威・専制的意味があり、「皇帝 Emperor」とも訳される[14][15]。「皇帝」(スルタン)の復権を目指す運動は、イスラーム帝国主義新オスマン帝国主義)と同調している[16]。日本では「皇帝」と「天皇」が併用されていたが、1936年(昭和11年)には「天皇」に統一された[17](現代英語での「天皇」は“emperor”[18]、“Emperor of Japan”[19]、“tenno”等[20])。

概要

王の中の王」としての皇帝は、王権の範囲が共同体部族氏族連合を越える帝国と結びついており、国際関係を帝国の秩序に組み込む観念と不可分と言える[21]。「帝国主義」という言葉の語源は「皇帝国家(インペリウム imperium)」であり[22]中西治の学術論文によれば、インペリアリズム(帝国主義)は19世紀末頃まで「プラスのシンボル」だった[23]。インペリアリズムの日本語訳は国家や訳者によって政治的に異なり[24]、「帝国主義」[25][26]・「帝政」[25]・「帝制」[26]・「皇帝制」[27]・「皇帝制度」などと訳されている[28]。"imperialist"は「帝国主義者」・「皇帝支持者」・「帝政主義者」など[29][25]

」に対して皇帝は、いくつもの異民族を包括する普遍的な国家首長である[30]。皇帝は本来、一つの部族民族の首長としての王より上位の、普遍的支配者と考えられた[6]。ただし、漢字の「王」や英語の“king”(キング)が帝王・皇帝を指すこともあり[31][2]、特に先頭の“k”が大文字である“the King”(ザ・キング)は、唯一神(God)・王の中の王・皇帝なども指す[2][3][32]。例えば「ザ・キング・オブ・イングランド」(the King of England)は、「英国皇帝」とも訳される[33]

ヨーロッパにおける皇帝の概念は、その語源が古代ローマ元首の称号「インペラトル」(imperator)および「カエサル」(caesar)であるように、古代ローマ帝国の元首政治との結びつきによって生まれた[34]中国では始皇帝から、歴朝天子尊号として用いられた[34]。始皇帝の創始した「皇帝」は東アジアの他地域に拡大・継承され、日本の天皇も、こうした概念拡大の系統に属する[35]。日本の天皇号は、中国を統一した隋王朝の国際秩序の中で、朝鮮半島の三国との国際関係から自らを「大国」と位置づけることによって成立したとされる[21]

女性の皇帝を「女皇」や「女帝」と言う[36]。「女帝」は女性の皇帝・帝王・天皇、女王などの君主を指す[37]。皇帝、天皇の配偶者は「皇后[38]、「皇妃」[39]

なお「諸王の王」(king of kings)や皇帝(emperor)は、唯一神ヤハウェイエス=キリストアッラーフ)をも意味し[1][40]、一神教で唯一神は皇帝、「唯一の皇帝 (sole emperor)」、「真の皇帝 (true emperor)」等と見なされている[7][41]

皇帝の称号は皇帝権から派生して、その模倣や僭称としても使用されるようになった[6]

ヨーロッパの皇帝

ナポレオン・ボナパルトが、1804年国民投票によってフランス皇帝となるまで、長きにわたってヨーロッパにおける皇帝の称号は(若干の例外を除いて)「ローマ皇帝の後継者」としての称号であった。ヨーロッパ諸国で皇帝を意味する単語は、ローマ帝国の支配者の称号が起源である。

ローマ帝国

元首政

初代ローマ皇帝アウグストゥス(オクタウィアヌス)

帝政ローマの最高支配者となったガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(アウグストゥス)は、後世において最初の「ローマ皇帝」とされる。しかし、彼は建前としての共和政を遵守する立場であり、大きな権威と権力を手中にしながら、共和政下のローマでは伝統的にネガティブなイメージを帯びていた「王」の称号を採用せず、代わりに共和政時代から存在する官職や権限を一身に兼ねるという形をとっている。そのため、ローマ帝権は多数の称号を身に帯びることになった。中でも特に重要な称号が「インペラートル」「カエサル」「アウグストゥス」の3つである。

インペラートルimperator)は、英語の「エンペラー」(emperor)やフランス語の「アンプルール」(empereur)、トルコ語の「インパラトール」(imparator)の語源であり、皇帝と訳される称号のように認識されているが、そのまま当てはめることはできない。インペラートルの語源であるインペリウムimperium)は「命令権」や「支配」を意味し、王政期には王権の一部だったが、共和政期には軍指揮権を意味した。インペラートルはこの語に由来し、「命令者」を意味する。そのため将軍を指す称号のひとつとなり、凱旋式に際しては兵士たちが将軍に呼びかける際の尊称として用いられた。したがって共和政期にはインペラートルが同時に複数存在することもあった。共和政後期になると意味が広がり、ローマの支配権や支配領域を指してインペリウムというようにもなった。このように、ローマのインペラートルとインペリウムは必ずしも君主制を前提としてはおらず、語源は同じでも「帝国の支配者=皇帝」に対して用いることを予定したものでもなかった。この特徴はローマ滅亡後の後代にも引き継がれ、皇帝のいない国を「帝国」と呼ぶ用法などが生まれることとなった。

カエサルcaesar)もまた皇帝の称号のひとつであり、ドイツロシアなどで用いられた称号(カイザーツァーリ)の語源である。カエサルは、本来ユリウス氏族に属するカエサル家の家族名である。ここの出身であるガイウス・ユリウス・カエサルが終身独裁官となり、その養子となりカエサル家を継いだオクタウィアヌス(アウグストゥス)によって帝政が開かれたことから、皇帝を表す名のひとつとなった。後のディオクレティアヌス帝の時代には「副帝」を意味する称号となり、正規の君主号となった。

アウグストゥスaugustus)は「尊厳者」を意味し、元はオクタウィアヌスに贈られた添え名である。権威的には重要な称号だが、命令権や血統とは直接関係ないものだった。しかしながらオクタウィアヌスがこの名を贈られた紀元前27年1月16日が歴史的に帝政開始の日とされること、以後すべての後継者が帯びる称号となったこと、インペラートルやカエサルと異なりローマ皇帝以外に保持者のいない称号であること、ディオクレティアヌス帝の時代には正規の皇帝号になったことなどから、ローマ皇帝を指す最も重要な称号として認識されている。また、単にアウグストゥスといえば前述の初代ローマ皇帝アウグストゥスを指す。

またローマの皇帝崇拝帝国主義は当初、キリスト教王の中の王唯一神)への信仰に対立していたが[42]、313年の寛容令(ミラノ勅令)などを通して皇帝側とキリスト教側は深く結びついていった[10]

専制君主制

ローマ皇帝ディオクレティアヌスは、293年に広大な領土を東西に分け、2人の正帝と2人の副帝が共同で統治する四分治制(テトラルキア)を導入した。ここで「アウグストゥス」が正帝、「カエサル」が副帝の称号となった。以後、東西の帝国が統合したり分裂したりを繰り返し、395年に皇帝テオドシウス1世が没すると、テオドシウスの長男アルカディウスが帝国の東の正帝に、次男ホノリウスが帝国の西の正帝になった。

東西のローマ帝国における皇帝については以下で述べる。

東ローマ帝国

皇帝レオーン6世(在位:886年 - 912年)の銅貨。裏面には"+LEOn En ΘEO bASILEVS ROMEOn"(レオーン、神に(忠実なる)ローマ人バシレウス)と書かれている。
キリストに加冠される皇帝コンスタンティノス7世(在位:913年 - 920年、944年 - 959年)の象牙浮彫(10世紀 プーシキン美術館蔵)。コンスタンティノスの上にギリシア語で「コンスタンティノス、神に(祝福された)アウトクラトール」、キリストとコンスタンティノスの間に「ローマ人のバシレウス」と書かれている

東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)では「皇帝」の称号は、王朝の交代はあったものの、1453年に東ローマ帝国が滅びるまで代々受け継がれた。東ローマ帝国では、7世紀以降公用語ラテン語からギリシア語となった。「皇帝」を表す称号としては、元はアケメネス朝サーサーン朝シャーを指したギリシア語である「バシレウス: Βασιλεύς)」(バシレイオスと表記することもある。古典ギリシア語読み。中世ギリシア語の読み方ではヴァシレフス。なお古代ギリシャ時代には単なる「王」を示す単語だった)が用いられた(それまではラテン語の「インペラトル」「カエサル」「アウグストゥス」が引き続き使われていた)。

これは、7世紀の皇帝ヘラクレイオス628年サーサーン朝ペルシャ帝国を降して首都コンスタンティノポリスへ凱旋した時に「キリスト教徒のバシレウス」と名乗ったことによる。この「バシレウス=シャー」には、「諸王の王」(ペルシャ語の「シャーハーン・シャー」、ギリシア語の「バシレウス・バシレオーン」)という意味を含んでおり、ローマ帝国の皇帝であると同時に「諸王の王」である、という宣言であった[43]。これによって東ローマ帝国の皇帝は、古代のローマ皇帝とは異なって「君主」としての意味が強くなり、このことは西欧の皇帝にも大きな影響を与えた。またキリスト教化の進行によって、皇帝は「神の代理人」という位置付けがされ、宗教的にも大きな権威を持つ存在となった。

ただし一方で、帝位の正統性は「元老院・軍隊・市民の推戴」によって示される、という古代ローマ以来の原理も残され(例えば皇帝の即位式の際は、「軍隊が、民衆が、元老院が帝位に就けと要求しているのだ」、という歓呼がされた)、帝位は必ずしも世襲されるとは限らなかった。この辺りに東西の文明が融合した東ローマ帝国の特徴を見ることが出来よう。

他に皇帝の称号としては「アウトクラトール: αὐτοκράτωρ 」(単独の支配者、専制君主を意味するギリシア語。既に6世紀からインペラートルに相当する称号として、ギリシア語版の勅令で使われていた)、「セバストス英語版(: σεβαστός )」(尊厳なるもの。ラテン語アウグストゥスに相当)などが用いられた。

西ローマ帝国が滅亡した際、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが西ローマ皇帝位を東ローマ皇帝ゼノンに返還していたため、西ローマ帝国の滅亡後は名目上、東ローマ皇帝がローマ帝国全土の皇帝であった。こうした経緯もあってか、一時はイタリアイベリア半島の一部にまで及んだ東ローマ帝国の勢力が後退した後も、唯一の正統なローマ皇帝として単に「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」と名乗り、「東ローマ皇帝」という呼び方は使われなかった

また、後にフランクカールブルガリアシメオンドイツ神聖ローマ帝国)の王たちが「ローマ皇帝」を名乗った際は、東ローマ皇帝は彼らを「皇帝」としては認めるが「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」としては認めない立場をとり、あくまでも自分だけが唯一のローマ皇帝であると主張した。

この他にも東ローマ帝国を一時滅ぼした第4回十字軍が建国したラテン帝国や、それによって亡命した東ローマの皇族達が建てたニカイア帝国エピロス専制侯国トレビゾンド帝国の君主も、東ローマの正統な後継者であることを示すために「皇帝」を称した(エピロスは一時期のみ)。

亡命政権ニカイア帝国は1261年にラテン帝国を滅ぼし、ミカエル8世パレオロゴスコンスタンティノポリスにおいて改めて皇帝に即位し、東ローマ帝国の復活を果たした。東ローマにおける皇帝権はこの後も継承されたが、国威はふるわず、15世紀には帝国は首都コンスタンティノポリスとわずかな属領だけに押し込められてしまった。1453年、オスマン帝国によってコンスタンティノポリスは攻略され、最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスは戦死、ここに、アウグストゥス以来約1500年にわたって受け継がれてきた「ローマ皇帝」の正統は消滅した(オスマン皇帝の中には、ローマ皇帝の継承者であるとして「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗った者もいるが、一時的なものに終わった)。

中世以後の西ヨーロッパ

カール大帝の「西ローマ帝国」

476年に西ローマ帝国が滅びた後の西ヨーロッパに対しては、前述のように東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスにいる皇帝が全ローマ帝国の皇帝として宗主権を主張し、6世紀の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の時代には、イタリアイベリア半島の一部を東ローマ帝国が征服した。

このため、西ヨーロッパ諸国やローマ教皇は、コンスタンティノポリスにいる皇帝の宗主権を認め、その臣下とならざるを得なかった(ヨーロッパにおいて、王が皇帝よりも格下であるという認識は、この時に生まれた)。ゲルマン人に布教を進めてローマ教会の勢力を拡大し、「大教皇」と呼ばれた6世紀末のグレゴリウス1世でさえも、それは同じであった。実際、7世紀の教皇マルティヌス1世のように、教義をめぐって対立した東ローマ皇帝コンスタンス2世によって逮捕され、流刑に処せられた者もいたほどであった。

しかし7世紀以降、東ローマ帝国イスラム帝国ブルガリア帝国などの攻撃を受けて弱体化したためにイタリアでの覇権を維持できず、またローマ教会とは聖像破壊論争などの教義の問題や、教会の首位をめぐるローマとコンスタンティノポリスの争いなどで対立を深めるようになった。このためローマ教会は、東ローマ帝国に代わる新たな後ろ盾を必要とするようになった。

797年、東ローマ帝国で皇帝コンスタンティノス6世の母エイレーネーがコンスタンティノスを廃位し、自ら女帝として即位するという事件が起きた。これを機に、ローマ教皇レオ3世は「コンスタンティノスの廃位によって正統なローマ皇帝は絶えた」として、800年に国力の伸張著しいフランク王国の国王カールに「ローマ帝国を統治する皇帝」の称号を与えた。これがカール大帝である。ただし、カールは自分の皇帝位に満足せず(それまで、教皇から皇帝位が与えられるという前例はなかった)、東ローマ帝国に自分の皇帝位を承認してもらうための運動を粘り強く行った(5世紀の西ローマ帝国滅亡以前は、東西の皇帝は即位の際に互いに承認し合っていた)。その結果、812年になって、東ローマはカールを皇帝(ただし、「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」ではない)として承認した。

以後、西ヨーロッパの皇帝は西ローマ皇帝の後継者、キリスト教の守護者の意味を持つようになる。また、本来ローマ皇帝は「元老院・市民・軍隊」によって選ばれるものだったのだが(東ローマ帝国では最後までその建前が守られた)、カール大帝の戴冠の経緯は、ローマ教皇が皇帝の任命権を主張する根拠ともなった。

神聖ローマ帝国

カール大帝以降のフランク王による帝位の継承は1世紀余りで途絶えてしまっていたが、962年に東フランク王オットー1世は、ローマ教皇ヨハネス12世から皇帝の冠と称号を受けた。ここに復活した帝国は、大空位時代を経ていわゆる神聖ローマ帝国となる(なお、実際の称号は「皇帝」や「尊厳なる皇帝」などであって、「神聖ローマ皇帝」と称したことはない)。以後、皇帝の称号を帯びるためにはローマ教皇の承認を得なければならず、それまでの帝国君主はローマ王を名乗った。時代が進むにつれ帝国は諸侯の緩い連合体に変化し、皇帝の権力も弱まっていった。

1356年カール4世金印勅書を発布し、選帝侯がローマ王、ひいては皇帝を選出するようになり、ローマ教皇の干渉を受けなくなるようになった。1438年ハプスブルク家アルブレヒト2世が選出されてからは、女性当主のマリア・テレジアの例外を除いてハプスブルク家が皇帝位を独占するようになり、皇帝は帝国の最有力諸侯であるオーストリア大公のハプスブルク家が帯びる名誉称号に近いものになった。特に三十年戦争以後は、各諸侯領はほとんど独立国家同然となり、皇帝とは名ばかりの存在になっていった。この頃には「ドイツ人の帝国」もしくは単に「帝国」と名乗ることも多かった。皇帝も、ローマ皇帝ではなくドイツ皇帝と称するようになる。1806年フランツ2世が帝国の解散を宣言して、神聖ローマ帝国は名実共に滅びた。

スペイン(全ヒスパニアの皇帝)

フランス皇帝ナポレオンと「ローマ皇帝」の消滅

アウステルリッツの三帝会戦ではフランス皇帝オーストリア皇帝ロシア皇帝と3人も「皇帝」が一堂に会した。もはやカール大帝以来の「全キリスト教世界の守護者」「(西)ローマ皇帝の後継者」としての皇帝の意味はほとんどなくなった。

フランスでは、フランス革命によって共和政が成立した後、1804年ナポレオン・ボナパルトが議会の議決と国民投票によって、「フランス人の皇帝ナポレオン1世」となった。「皇帝」号の採用は、革命によって廃された「国王」号の忌避の他に、古代ローマの皇帝が共和政下の市民によって推戴された点を踏まえたものといえる。このときに「西ローマ帝国の継承国家は神聖ローマ帝国である必要もなく、皇帝がドイツ人である必要性もないという当然の事実」が明らかになり、神聖ローマ帝国を支える帝国議会に代わりライン同盟が結成された。ナポレオンの皇帝即位を神聖ローマ皇帝フランツ2世は承認し、さらに自らは神聖ローマ皇帝位から退位し、神聖ローマ帝国を解散し、「オーストリア皇帝フランツ1世」を名乗った。ナポレオンはオーストリア皇帝を承認した。これはハプスブルク家が名乗る神聖ローマ皇帝位が単なる名誉称号と化していた事実の反映であるとともに、ハプスブルク家がハンガリーなど神聖ローマ帝国の領域外に支配領域を広げ、強固な「ハプスブルク帝国」を築き上げていた事実の反映でもあった。

ナポレオンのフランス皇帝即位とフランツ1世のオーストリア皇帝即位により、ヨーロッパに複数同時に存在することが受け入れられたことで、カール大帝以来の「全キリスト教世界の守護者」「ローマ皇帝の後継者」としての皇帝の意味はほとんどなくなった。これにより、西ヨーロッパの伝統的な理念に基づく皇帝は消滅し、ナポレオンが没落した後も蘇ることはなかった。これと前後して、西欧からは単なるロシアの大公とみなされていたロシア皇帝も、西欧諸国からも正式に皇帝とみなされるようになったが、「東ローマ帝国の後継者」という元来の意味は忘れ去られた(ロシアの君主が皇帝を名乗る経緯は後述)。

19世紀の皇帝と西ヨーロッパ的皇帝の消滅

19世紀には皇帝ナポレオンにならって、中南米に新興の皇帝が生まれた。ハイチでは1804年の独立時にジャン=ジャック・デサリーヌが、1849年にはフォースティン=エリ・スールークがそれぞれハイチ皇帝に即位し、特にスールークはクーデターで打倒されるまで「フォースティン1世」として圧政を敷いた。メキシコではアグスティン・デ・イトゥルビデ1822年に皇帝に即位したが、翌年に廃位された。1864年にはハプスブルク家のマクシミリアン大公が、メキシコへ干渉したフランス皇帝ナポレオン3世によってメキシコ皇帝マクシミリアン1世に担ぎ上げられたが、在位わずか3年で革命軍によって捕らえられ、処刑された。

ブラジルでは、1831年ポルトガルジョアン6世の王太子でブラジル摂政だったペドロが、ポルトガルから独立したブラジル帝国の皇帝ペドロ1世となった。ブラジルの帝政は中南米の他の「帝国」とは異なり半世紀以上にわたり持続したが、1889年、第2代皇帝ペドロ2世の時に革命が起き、共和制になった。

ヨーロッパでは1852年から1870年まで、ナポレオン1世の甥ルイ=ナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝ナポレオン3世を称し、帝政を敷いた(フランス第二帝政)。また1871年には、オーストリアを除くドイツを統一したプロイセン王国の国王ヴィルヘルム1世ドイツ皇帝を兼ね、ドイツ帝国が成立した。

第一次世界大戦の終結と共に、敗戦国であったドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国オーストリア帝国ハンガリー王国が共通の君主としてオーストリア皇帝=ハンガリー王を戴き、軍事・外交・財政のみ共通の政府が管掌する体制)では革命が起きて帝政が倒れた。また後述するオスマン帝国ロシア帝国でも、革命によって帝政が崩壊したために、ヨーロッパには皇帝が1人もいなくなり、ローマ帝国以来のヨーロッパにおける皇帝の歴史は幕を閉じた(インド皇帝を兼ねていたイギリス国王は唯一の例外であったが、こちらも1947年のインド独立により有名無実化した)。

東ヨーロッパ

この地域の皇帝概念は東ローマ帝国を経由してローマ帝国のそれを受け継いだものである。前述のように東ローマ帝国では皇帝は「バシレウス」(「王」の意)と称し、「カイサル」(ラテン語のカエサルに由来)は副皇帝を示す言葉だったが、東ヨーロッパのスラヴ系の言語では聖書に出てくる賢人や東方の君主などの称号として用いられるとともに、善良な王を指す言葉として「カエサル」由来の「ツァーリ」を用い、東ローマの皇帝をツァーリと呼んでいた。

ブルガリア帝国とセルビア帝国

東ローマ帝国以外では、920年にブルガリア王シメオンが東ローマ帝国征服を狙って「ブルガリア人とローマ人の皇帝(ツァーリ)」を称し、以後、第一次ブルガリア帝国920年 - 1018年)と第二次ブルガリア帝国1188年 - 1396年)を通じて「皇帝」という称号が使われた。また14世紀セルビア王国の王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンも東ローマ帝国の征服を企図して、1345年に「セルビア人とローマ人の皇帝」と称し、翌年にはセルビア帝国(1346年 - 1371年)の皇帝として即位した。なお、「ツァーリ」の称号は近代ブルガリア王国においてフェルディナントが復活させたが、これは通例「王」として扱われる。

ロシア(東ヨーロッパ・ユーラシア)

ロシア連邦

デューカ・アレクサンドル・ウラジーミロヴィチの学術論文(2017年)では、現代のロシア系エリートたちの間の皇帝主義的見解とその実践が検証されている[11]。同論文によると、ソビエト連邦崩壊からの「ソビエト後」(ポストソビエト “постсоветская”)的なロシアでは[44]1991年1992年君主主義者や帝位請求者らが新興エリートたちと交友した[45][11][注 3]。(新興財閥(オリガルヒ)も参照。) その後、ロマノフ家(キリロヴィチ家)における一部の集団が政権に接近し、政治と経済の再結合(統制経済)、ロマノフ朝の記念日などの帝国的な権威化、ロシア正教会の活発化などが進んだ[46]。2014~2015年では、ウクライナとの紛争クリミア併合に関して、国民と政治勢力が動員された[11]。2016年では、皇帝制の復活を政府だけでなく一般市民も議論するようになり、君主たちに関するプロパガンダ的な記念碑がロシアの諸都市に置かれるようになった[11]

マシュー・ブラックバーンの学術論文(2020年)では、皇帝制と反民主主義との関連が研究されている[12][13]。ブラックバーンは「想像の国家」(“imagined nation”)という観点から、都市部のロシア人が国家や指導者の政治的形態をどう捉えているかを研究した[12]。研究手法は、ロシアの3つの都市における約100件の聞き込み(インタビュー)調査とその分析である[12]。回答者たちの中には、国家が非民主化を通して「より『思いやりがある』上に『効果的』な統治様式」になることを称賛する傾向があった[47][注 4]。その「統治様式」には、指導者に最高権力(主権)を委任して物事を解決してもらうという考えが伴っている[13]。ある回答者によると、「ロシア人は彼〔プーチン〕を皇帝として見ている」のであり、ロシア人という本質的な君主主義者らは西側的な民主主義を持てないのだと言う[48][注 5]

ブラックバーンの論文いわくロシアには、想像上の「親プーチン」社会を支えている以下の三本柱があると考えられる[12]

  1. あらゆる権力を大統領の手に『委任する』ことが、国家と社会を規律し形作る最善の方法であるという信念」[12]
  2. 「ロシアの『国民性』への否定的な見解に並置される、『本物の男』として入念に製作されたプーチンのイメージの受容」[12]
  3. 「『救世主らの政府』が正常性をもたらし、『一度滅びた』国を救済するという親プーチン神話内面化[12]

ここには「内面的なオリエンタリズム」(“internal orientalism”)も関わっている[12]

前近代ロシア(モスクワ大公国─ロシア帝国)

15世紀に北東ルーシの統一を進めつつあったモスクワ大公国イヴァン3世は、それまでビザンツ皇帝に対して用いられていた称号「ツァーリ」を自称し始めた。ツァーリとはラテン語のカエサルに由来する。1453年オスマン帝国によって東ローマ帝国が滅ぼされると、イヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスの姪ソフィア・パレオローグ1472年に結婚し、東ローマ帝国の紋章「双頭の鷲」も使い始め、モスクワが東ローマ帝国の後継者であることを位置付けた。

その後、イヴァン3世の孫イヴァン4世は、1547年にツァーリとしての戴冠式を執り行い、「ツァーリ」の称号が正式に用いられ始めた。この頃から、モスクワ大公国はロシア・ツァーリ国という名称を用いるようになった。

ただし、それ以前にルーシの人々は、モンゴル帝国の皇族バトゥが創始したジョチ・ウルス1224年 - 1502年)のハンをも「ツァーリ」と呼んでいた。モスクワ大公の「ツァーリ」称号の主張は、東ローマ皇帝の後継者としての意味合いと同時にジョチ・ウルスの支配の継承を意図するものであったと見る説もある。イヴァン4世は1576年、皇子(ツァレーヴィチ。当時のロシアの用語例では、ハンの血を引くモンゴル系貴族のこと)シメオン・ベクブラトヴィチに一度ツァーリ位を譲った後、再び自身が譲位を受けるという行動を取るが、この説に立つ人々は、これをハン(ツァーリ)の後継者としての宣言であったと解釈している。

ピョートル1世1721年に西欧式の「インペラートル」の称号を用い始め、国号を正式にロシア帝国としたが、ロシアの君主は以後も「ツァーリ」の称号を併用した。あくまで自称であり、西欧諸国からは皇帝とは認められなかったが、前述の通り「ローマ皇帝の後継者が皇帝を名乗るという建前」が西欧において消滅した頃には、ロシア皇帝も東ローマ帝国の帝位の後継者という意味が忘れ去られた格好で、西欧諸国からも正式に認められるようになった。


  1. ^
  2. ^
  3. ^ 原文:“monarchists and pretenders to the throne”[11]
  4. ^ 原文:“a more ‘caring’ and ‘effective’ style of rule”[47]
  5. ^ 原文:“Really at heart the Russian person is a monarchist. We can’t have democracy in the Western understanding of the word in Russia. ... Putin is the president but Russians view him as a Tsar”[48].
  6. ^ 夏王朝の実在性については議論があり、中華人民共和国が行った夏商周年表プロジェクトでは、二里頭文化を築いた勢力が夏王朝であると認定されている。
  7. ^ 「義帝」の名は生前から用いられているため、「義」という帝に対する諡号ではなく、由来は不明である。「仮の帝」という意味だとする説もある(杉村伸二 2011, p. 8)
  8. ^ 三皇五帝の一人天皇に由来するという説や、高宗が一時称した「天皇」に由来するという説もある。
  9. ^ 英語の Tycoon はこの後意味が転じて「財界の大物・重鎮」を表す普通名詞の tycoon に変化した。日本語由来の単語でありながら日本の文化とはまったく関係ない意味を持つようにった稀な単語の一つである。
  10. ^ 実際に、フランス公使がフランス皇帝ナポレオン3世にも天皇号を用いるべきではないかと強く要求した。日本側は君主が対等だから同じ称号を名乗るのであれば、「法王(ローマ教皇)」を名乗ってもよいのかと返答したために、フランス側はこの提案を撤回している(島善高 1992, p. 276)






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