皇帝 東アジアの皇帝

皇帝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/12 13:29 UTC 版)

東アジアの皇帝

中国の皇帝

はじめて「皇帝」を名乗った始皇帝

東アジアにおいて「皇帝」号を最初に使用したのは、中華圏における国家であるであり、その後も20世紀に至るまで多くの王朝の君主が皇帝を称した。皇帝は中華歴史・思想と密接に関係している。

「皇」と「帝」と「王」

「皇」という漢字は、「自」(はじめ)と「王」の合字であり、伝説的な人類最初の王を意味している。中国の伝説で最初に中国(したがって天下)を支配したのは、三皇であるとされている。

その次に続くとされたのが、などを含む五帝であるとされている。「帝」という漢字は、元来、3本の線を中央で束ねるという意味(現代ではこの意味で用いる時は、糸偏をつけた「締」と表記する)だが、宇宙の全てを束ねる至上神という意味で代に用いられるようになった。三皇と五帝は神格化された存在であると同時に、現世の支配者であると考えられていた[49]王は、祖先や山河などを神として崇めていたが、より上位の神を崇めることが生まれ、「帝」あるいは「上帝」と呼んだ。殷末期の王に対しては帝乙帝辛(紂王)など帝の字が用いられるようになった[50]

五帝のあとに続くのが「王」が支配する[注 6]の王朝であった。

周王は地上世界(すなわち天下)を治めるべく天命を受けた天子とされた。周の封建制の下で諸侯は領地()を治め、最高位の爵位は「」が与えられた。しかし、周王朝が衰えると、南方のが、自国の君主の称号として「王」を使うようになり、戦国時代に入ると、他のかつて周王朝に従っていた諸侯も「王」の称号を使うようになったとされる[51]。しかし金文史料では西周時代から夨王・豊王・豳王など、周王以外にも王を称する存在があったことが確認されている[52]

紀元前323年には周王が天子であると宣言され、他の王に優越する存在であると確認され、実質的な最有力者であった威王は「覇王」を称した[53]紀元前288年には昭襄王湣王に対し、他の王を従えていることから互いに「帝」と称するよう呼びかけ、一時的に「帝」が使用されることもあった[50]

「王」以前の君主の称号として、「后」というものがあったということが考古学的発見や文献学的研究からわかっている。王が君主号として用いられて以降は、后は君主に準ずる存在に対する称号となった。君主の妃や母親は君主に準ずる存在とみなされ、「皇后」は皇帝の妃、「皇太后」は皇帝の母親を意味することとなり、「后」は原義を離れて「きさき」の意味で固定化された[要出典]


「皇帝」の登場

紀元前221年、秦が中国の統一王朝となり、王であった嬴政は重臣らに「其れ帝号を議せ」と命じた[54]。王を超える帝号は、当時の法家の間では広く求められており、『韓非子』では「五帝を越え三皇に等しい」存在の出現が待ち望まれており、丞相李斯韓非と同門であり、嬴政も韓非の著作に傾倒した時期がある[55]。重臣らは秦王の業績がかつての五帝をも上回る存在であるとして三皇に並ぶ存在としての「秦皇」の称号を提案した[54]。しかしこれは受け入れられず、嬴政は「秦」の字を取って「帝」の字をつける「皇帝」という称号を自ら考案した[54]浅野裕一は嬴政の意図が「帝」の中の筆頭的な存在としての帝王号であったのに対し、重臣が「皇」扱いしたことを引き戻すためであったとしている[54]。こうして「皇帝」の称号を名乗った嬴政は、最初の皇帝として『始皇帝』の名で呼ばれる。

秦において「皇帝」が五帝を超える存在であるとされたことには、五帝や王たちが封建制を廃せなかったのに対し、秦では郡県制を敷くことができたからとされている[55]


」という言葉はもともと広く自称の言葉として使われていたが、始皇帝は「朕」を皇帝専用の自称とした[56]。他にも「制」・「」などの皇帝専用語も策定した。

皇帝の定着

始皇帝は自身から始めて二世皇帝、三世皇帝と続かせる意図であったが、反乱が相次いだため、秦の皇帝は2代15年で終わった[57]。始皇帝から数えて3代目の嬴子嬰は、始皇帝死後の反乱によって中国全土を支配することができなかったため、単に「王」と称した。秦末・楚漢戦争期の群雄の多くは各地で「王」を称した。戦国時代の楚王の末裔である懐王は、諸王の盟主として扱われ、秦の滅亡後は「義帝」と呼ばれた[58][注 7]。一方で最大の実力者であった項羽は「西楚の覇王」を称したとされる。

紀元前202年、楚漢戦争で項羽を倒した漢王劉邦は、配下の諸王から「皇帝」を称するよう献言された。劉邦は「帝は賢者の称号である」として再三辞退する動きを見せた後、の「皇帝」に即位した[59]。ただし漢においては諸侯王を各地に封じる封建制が採用され、五帝を超える存在としての皇帝号としては扱われなかった[59]。浅野裕一は、漢の皇帝が三皇五帝を始めとする帝王を超越した存在ではなく、継承者として扱われていたとしている[60]。さらに劉邦は、一族や功臣を「王」として各地に封じた。これにより、皇帝が王を封じるという図式が成立した。また、「帝」は「皇帝」の略として広く使われるようになった。以後、歴代の中国の支配者は「皇帝」を名乗るようになった。

戦国時代中期以降から天の代理人である「天子」は諸侯を率いる存在であるとされ[53]、秦時代には余り用いられなかったが漢代に至って盛んに使用されるようになった[61]文帝天人相関説を強調することで、皇帝が天からの代理人であり、「天子」であることを強調した[62]中華思想においては近代的な国境という概念はなく、周辺諸国の君主も「天子」である皇帝に従うべき存在であるとされた。周辺諸国との交流は、周辺諸国の君主が皇帝の徳を慕って使節を送り、皇帝がそれを認めてその君主を王として冊封するという形をとった。したがって皇帝の支配する国という意味での「帝国」という概念は存在しなかった。

代には、高宗が皇后武則天の影響で「天皇大帝」という別称を採用した時期もあったが、皇帝号は最後の王朝であるまで使用され続けた。

皇帝の並立

三国時代、中原を支配したのみならず、の君主もそれぞれ皇帝を称し、五胡十六国時代五代十国時代など中央の王朝の力が弱まった時代には、周辺の勢力の君主も皇帝を名乗るようになった。南北朝時代には2人以上の皇帝が同時に存在した。

軍事力に劣った北宋の皇帝は、北の異民族王朝であるの君主を皇帝と認めた上で自らを格上(叔父と甥の関係、兄と弟の関係などと表現された)に位置付け、辛うじて面子を保たざるを得ず、中国君主が地上の唯一の皇帝であるという東アジアにおける理念を自ら覆した。金と南宋に至っては、南宋の皇帝のほうが格下という位置付けになってしまった。

日本の皇帝

日本においては、古代からの君主であった天皇と、外国の君主に対する称号として皇帝が用いられた。

日本における皇帝号の使用史

韓国併合ニ関スル条約」に関する李完用への全権委任状。文中に「大日本國皇帝陛下」と書かれている。

古代の日本は、「天皇」号を和名の君主号「すめらみこと」に当てた。歴史学者の間では、「天皇」という称号の出現は7世紀後半の天武天皇の時代からであり、道教などの文献から採用した[注 8]という説が通説であるが、5世紀頃から「天王」号を用いており、「王」を「皇」と漢字を改めたという説もある[63]

701年大宝律令儀制令公式令において、「天子」および「天皇」の称号とともに、「華夷」に対する称号として「皇帝」という称号も規定されている[64]。「華夷」の意味については、「内国および諸外国」と解する説と「中国その他の諸外国」と解する説が対立していた。実際、律令を制定した文武天皇期に新羅国王に対して出された国書で「天皇」号が使用された事例がある[65]。また『古事記』や『日本書紀』においては天皇の命令である「みことのり」に「詔」や「勅」の漢字があてられているが、これは中国において皇帝のものにしかあてられない漢字である[66]。また自称として「朕」を用い、正妻の称号は「皇后」であるなど、中国皇帝と同じ用語を用いた。

天皇(すめらみこと)と異なる用法での尊号としては、758年に淳仁天皇が即位した際、譲位した孝謙天皇に「宝字称徳孝謙皇帝」、孝謙の父聖武天皇に「勝宝感神聖武皇帝」の尊号が贈られている。また、翌年には淳仁天皇の父である舎人親王が「崇道尽敬皇帝」と追号されている。「文武天皇(もんむてんのう)」といった今日使われている漢風諡号は、聖武および孝謙(称徳)を除き8世紀後半に淡海三船が撰んだことに始まる[67]ため、その直後に完成した『続日本紀』では原則として巻名に天皇の和風諡号が用いられているが、孝謙天皇のみ巻第十八から巻第二十まで「宝字称徳孝謙皇帝」の漢風尊号で記載されている点で特異である[68]。なお、重祚した巻第二十六から巻第三十では巻名に「高野天皇(たかののすめらみこと)」の和風の号が用いられている(重祚後の漢風諡号は称徳天皇)。

近世以降の西洋においては、日本に関する最大の情報源であるエンゲルベルト・ケンペル著の『日本誌』において、徳川将軍は「世俗的皇帝」、天皇は「聖職的皇帝」(教皇のようなもの)と記述され、両者は共に皇帝と見なされていた。その一年前に出版された『ガリバー旅行記』においても、主人公のガリバーが「江戸で日本の皇帝と謁見した」と記載されている。

安政3年(1854年)の日米和親条約では条約を締結する日本の代表、すなわち徳川将軍を指す言葉として「the August Sovereign of Japan」としている。これは大清帝国皇帝を指す「the August Sovereign of Ta-Tsing Empire」と同じ用法であり、アメリカ側は将軍を中華皇帝と同様のものと認識していた[69]。しかし日本の政治体制が知られるようになった安政5年(1858年)以降、徳川将軍が称していた外交上の称号「日本国大君」から「タイクン(Tycoon)」と表記するようになった[70][注 9]。一方で天皇は「ミカド(Mikado)」「ダイリ(Dairi)」[71]、「テンノー(Tenno)」などと表記されていた[72]

慶応4年1月15日(1868年)、新政府が外交権を掌握すると、兵庫港で各国外交団に「天皇」号を用いるよう伝達し、外交団もこれに従った[70]。しかし外国君主に対する「国王」号の使用が、外交団から反発を受け、「皇帝」号を使用するよう要求された。日本は「皇帝」は中国()の号であるから穏当ではないとし、各国言語での呼び方をそのままカタカナで表記する方針を提案したが、各国外交団はあくまで「皇帝」の使用を求めた。このままでは国家対等の原則から外国君主に対しても「天皇」号を用いなければならない事態に陥る可能性もあった[注 10][73]。結局明治3年(1870年)8月の「外交書法」の制定で、日本の天皇は「日本国大天皇」とし、諸外国の君主は「大皇帝」と表記するよう定められた[74]

明治7年(1874年)7月25日の太政官達第98号でこの方針は確認され、条約締結を行った君主国の君主は全て(国名は「○○王国」であっても)「皇帝」と呼称することが法制化された。ただし実際にはこの措置は王国に限られ、ルクセンブルク大公モンテネグロ公ブルガリア公モナコ公等、公国の君主に対しては「大公」もしくは「公」と呼称されている[75]

ただし李氏朝鮮との関係では、朝鮮を「自主ノ邦」[76]としながらも、冊封関係を否定することを恐れていた朝鮮側を考慮し、「君主」や「国王」の称号を用いながらも、「陛下」や「勅」など皇帝と同様の用語を使用していた[77]。日清戦争後、朝鮮が国号を大韓と改め、皇帝を称するようになると「皇帝」の称号が正式に使われるようになった[78]

しかし明治4年に清と締結された「日清修好条規」では両国の君主称号は表記されていない。これは清側が天皇号を皇帝すら尊崇する三皇五帝の一つ「天皇氏」と同一のものであるから、君主号とは認められないと難色を示したためであった[79]。明治6年1月(1873年)頃から次第に外交文書で「皇帝」の使用が一般化するようになったが、これは対中国外交で「天皇」号を用いていないことが、再び称号に関する議論を呼び起こすことを当時の政権が懸念したためと推測されている[80]。この時期以降、外国からの条約文などでも「Mikado」や「Tenno」の使用は減少し、「Emperor」が使用されていくようになった[81]

これ以降、天皇号の他に皇帝号の使用も行われ、民選の私擬憲法元老院の「日本国憲按」などでも皇帝号が君主号として採用されている[82]。また陸軍法の参軍官制や師団司令部条例でも皇帝号を用いている[83]。政府部内でも統一した見解はなかったが、明治22年(1889年)の皇室典範制定時に伊藤博文の裁定で「天皇」号に統一すると決まり、大日本帝国憲法でも踏襲されている[84]。伊藤は外交上でも天皇号を用いるべきと主張したが、同年5月に枢密院書記官長の井上毅が外務省に対して下した見解では、「大宝令」を根拠として外交上に「皇帝」号を用いるのは古来からの伝統であるとしている[83]。井上は議長の指揮を受けて回答したとしているが、この当時の枢密院議長は伊藤である[83]。この方針は広く知られなかったらしく、後に陸軍も同内容の問い合わせを行っている[85]

大正10年4月11日の大正十年勅令第三十八号[86]で外国君主を皇帝と記載する太政官達は廃止されたが、以降の条約等[87]でも国王や天皇に対して皇帝の称が使用されている。

国内使用では殆どの場合が「天皇」号が用いられたが、「日露戦争宣戦詔勅」など一部の詔書・法律で皇帝号の使用が行われた。大正期までは特に大きな問題とはならなかったが[88]、昭和期になると国体明徴運動が活発となり、昭和8年(1933年)には外交上も「天皇」号を用いるべきとの議論が起きた[89]。外務省は条約の邦訳に対してのみ「天皇」号を用いるが、特に発表はしないことで解決しようとしたが、宮内省内の機関紙の記事が新聞社に漏れ、昭和11年(1936年)4月19日に大きく発表を行わざるを得なくなった[90]。ただし、外国語においては従来どおりとされた[91]

その他の東アジアの皇帝

朝鮮高麗朝の草創期やベトナム阮朝のように、中国王朝と冊封関係にあり、中国王朝に対しては王を称しながら、国内に向けては密かに皇帝を称することもあった。五胡十六国時代など中国の統一王朝が存在しないかまたは弱体である時期には、契丹などの異民族国家において独自に皇帝を称することもあった。中国北部のモンゴル帝国(大元ウルス)ではクビライ以降「カアン(ハーン)」の称号が皇帝の称号とされた。クビライや帝国の開祖チンギス・カンは、漢文の諡号でも皇帝と称されている[92]。カアンの地位はチンギス・カンの子孫によって継承され、1635年にエジェイが後金(清)に降伏するまで続いた。

近代に冊封体制が崩壊すると、君主制をとっていたアジア諸国でも皇帝を称する動きがあった。日本ととの間で下関条約が締結された後の1897年、朝鮮国(李氏朝鮮)が、清の冊封体制から離脱したことを明らかにするために、王を皇帝に改め、国号を大韓帝国1897年 - 1910年)とした。日本が中国東北部に建設した満州国においては、旧清帝国の皇帝であった溥儀が皇帝となった。また天津条約によってフランス領インドシナの支配を受けるようになった阮朝は、第二次世界大戦末期にベトナム帝国を宣言し、バオ・ダイが皇帝を称した。


  1. ^
  2. ^
  3. ^ 原文:“monarchists and pretenders to the throne”[11]
  4. ^ 原文:“a more ‘caring’ and ‘effective’ style of rule”[47]
  5. ^ 原文:“Really at heart the Russian person is a monarchist. We can’t have democracy in the Western understanding of the word in Russia. ... Putin is the president but Russians view him as a Tsar”[48].
  6. ^ 夏王朝の実在性については議論があり、中華人民共和国が行った夏商周年表プロジェクトでは、二里頭文化を築いた勢力が夏王朝であると認定されている。
  7. ^ 「義帝」の名は生前から用いられているため、「義」という帝に対する諡号ではなく、由来は不明である。「仮の帝」という意味だとする説もある(杉村伸二 2011, p. 8)
  8. ^ 三皇五帝の一人天皇に由来するという説や、高宗が一時称した「天皇」に由来するという説もある。
  9. ^ 英語の Tycoon はこの後意味が転じて「財界の大物・重鎮」を表す普通名詞の tycoon に変化した。日本語由来の単語でありながら日本の文化とはまったく関係ない意味を持つようにった稀な単語の一つである。
  10. ^ 実際に、フランス公使がフランス皇帝ナポレオン3世にも天皇号を用いるべきではないかと強く要求した。日本側は君主が対等だから同じ称号を名乗るのであれば、「法王(ローマ教皇)」を名乗ってもよいのかと返答したために、フランス側はこの提案を撤回している(島善高 1992, p. 276)






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