ぜん‐しゅう【禅宗】
禅宗
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禅宗(ぜんしゅう, Zen Buddhism)は、中国において発達した、禅那(ぜんな)に至る真の教えを説くとする大乗仏教の一宗派。南インド出身で中国に渡った達磨僧(ボーディダルマ)を祖とし、坐禅(座禅)を基本的な修行形態とする。ただし、坐禅そのものは古くから仏教の基本的実践の重要な徳目であり、坐禅を中心に行う仏教集団が「禅宗」と呼称され始めたのは、中国の唐代末期からである。こうして宗派として確立されると、その起源を求める声が高まり、遡って初祖とされたのが達磨である。それ故、歴史上の達磨による、直接的な著作は存在が認められていない。伝承上の達磨のもたらしたとする禅は、部派仏教における禅とは異なり、了義[注釈 1]大乗の禅である。
注釈
- ^ 了義(りょうぎ)。解りやすく崩したり表現を変えるようなことをせず、完全・明白に説かれた教え。『涅槃経』の四依品には、末代の人は了義によるべきであり、不了義によってはならないとある。
- ^ 棄悪(きあく)。心の正しき働きを覆い隠すような一切の悪を捨て去る
- ^ 功徳叢林(くどくそうりん)。衆徳のあつまること叢林のようである。
- ^ 念修(ねんしゅう)。修は習得すること。習得して得られるものは棄悪・功徳叢林である。
- ^ 悟りは文字によって得ることはできないとはいえ、沈黙によっても得ることができないとされるため、一切の説明を行わないということはなく、臨機応変な方便として様々な方法で説かれる。
- ^ 教外別伝(きょうげべつでん)。人格を相伝すること。文字や言葉を残す以外にも、禅師の全人格をそのまま弟子に伝えることが重要であるとされる。
- ^ 師資相承(ししそうしょう)。悟りの機微は師から弟子へと受け継ぐべきものであり、それが法脈となって後世の人々を救う。生きた仏として残るため個別のケースに応じた柔軟な指導が可能となる。そのため固定の戒律を持たず、固定の修行方法を持たず、特別な本尊を定めることもなく、必ず出家しなければならないというような決まった形もない。
- ^ 臨機応変(りんきおうへん)。例えば、あまりに経典を大切にしすぎる人には、正法眼蔵も世尊拈華も真実の悟りから見れば寝言のようなものであるといって捨てさせたり、あまりに経典を軽んじすぎる人には読経を勧めたりといったことである。
- ^ 実は『六祖壇経』に慧能は「本来正教無有頓漸(正しい教えに本来は頓も漸もない)」と説いている。従って差異があると主張していたのは神会である。
- ^ 教宗では俗人と仏とを別々のものと考えた上で仏性という言葉を使うが、禅宗では俗人も欲を除けばそのまま仏であるという意味で仏性という。全ての人がそなえていると書いたが実際は人に限らず生きとし生けるものすべてが円満に持っており、姿形は動物によって違うが仏性は平等であるとされる。ただし、このように読んで頭で理解するにとどまって体感を伴わないことを嫌うのが禅宗である。
- ^ 悟って如来と同じ境地に入ること。体験を経てから涅槃に至るまでの一連の流れについて頓悟漸悟あるが、人の利鈍によって早い遅いがあるにすぎない。
- ^ 不立文字・教外別伝(ふりゅうもんじ・きょうげべつでん)。言葉や文字によらず、直に本性を指し示すこと。教宗にはない禅宗の特徴とされる。例えば、月とはこういうものだと口で言って説明するのではなく、黙って月を指さすようなものである。ところが、その指を見ても何のことかわからずに、指の長短や肌の濃淡を論じるような者のために教宗があるとする。ただし、禅宗が指すものは悟りの境地であり、教宗が指すものも悟りの境地である。それゆえ禅・教は表裏一体のものであり、禅の中に教があり、教の中に禅があるため、双方を両立するに何ら矛盾はなく、特に他宗派を誹謗する者に対しては禅教の両立が推奨される。
- ^ 有田秀穂 東邦大学医学部生理学教授
- ^ 世尊拈華、迦葉微笑(せそんねんげ、かしょうみしょう)。故事。釈迦が入滅するに際し、大衆居並ぶ説法の席で一枝の蓮華を拈って見せた。みな何のことかわからず押し黙るなか、ひとりマハーカーシャパだけが微笑してうなずいた。それを見た釈迦はマハーカーシャパが悟りを開いたことを知り、我が不立文字・教外別伝の正法はあなたにゆだねると言って仏法伝授の使命を授けたというもの。
- ^ 到達するといっても、なにか悟りという別の境地があってそこへ向かって進むわけではなく、その境地が元々の自分(いわば出生以前の自分)であり、その境地が底なのである。
- ^ 外道とは仏教以外の宗教者のこと
- ^ 壁は、外から来る妄念から内心を守り隔てるものの例えである。のちになって、物質的な本物の壁の意味に解されたが、これは誤りであろう。(柳田聖山『達磨の語録』P51)
- ^ 身口意の三業(しんくいのさんごう)。みだりに殺すこと、盗むこと、犯すこと、罵ること、騙すこと、綺語を言うこと、詭弁を言うこと、貪ること、怒ること、邪なことの十悪。
- ^ 身口意の三業。来世の生存は業を因縁として決定する。悪業に限らず、善業であっても善果としての来世が決定してしまうため、輪廻を逃れることができない。そのため善悪そのものを離れてしまうことが重視される。そして苦楽や生死についても同様に、とらわれないことを重視する。生死にとらわれなければ、輪廻もまた消滅するので、すべてが寂滅した世界観が開ける、というような意味である。しかし、このように学んだだけで実感を伴った悟りに至る人はまれである。それゆえ禅宗では話をせず、一切を投げすてて悟りの本分に直行させるために教外別伝を行う。
- ^ 禅宗以外の仏教宗派では衆生を成仏させきってから自らが成仏するのが菩薩であるとされるが、禅宗では先に自らが成仏して如来となってから衆生を導くことを謳う。この両者は手段が違っているだけで、衆生を済度しようという目的は同じであるため、どちらが間違っているということはない。もしこの両者について正誤にとらわれる者があるならば、彼は自分自身が小乗に陥っていないか省みる必要があるとする。
- ^ 睡眠中も無意識ではあるが、眠りという無明が付着しているために夢を見て一喜一憂する。理法に目覚めながら目覚める対象にとらわれないのが仏である。
- ^ 只管打坐(しかんたざ)。真実の只管打坐は単なる無念無想や無意識というようなものではなく、意識があるでもなくないでもなく、無念でも有念でもなくて、心身が澄み渡った空のように清くありのままを映し出す鏡のように感じられるところにあるとされる。ただし、この境地すらいまだ大悟徹底ではない。しかし大悟徹底の前段階であるとして歓迎される。
- ^ 修証一如(しゅしょういちにょ)。坐禅は、まだ悟っていない者が修行によって悟りに到達するようなものではなく、生来的に仏性を持っている(悟っている)はずの者が改めて修行をするのであって、それは修行がそのまま悟りなのであるという意味の喝。どんな凡人・外道も本質は仏なのであって、もともと悟った仏である者が、ことさら悟りを求めて坐禅するということがあってはならない。仏が仏になることを目指すというのであれば、大乗仏教が元々仏たる性質を指摘する本意に反するからである。
- このように、心そのものが即そのまま仏であると教えるのは、悟り・涅槃・仏性に執着させないための方便である。
- ^ 心がけの良くない修行者とは、はじめから本気で仏道を求める気持ちが無く、禅僧としての名声を求めていたり、金稼ぎを目論んでいたり、他人に言い負かされたくない一心で、あるいは知識をひけらかすために経典の学習を優先し、初心者に対して褒め貶しを行うような者。
- ^ 心身は幻であると聞けば、諸行無常のことを言っているのだと理解するかもしれないが、大乗教では実体がないことを理由に固定観念をうち破って中道に至らせる意味で使う。水面に映った月は、実相であるとは言えないが、確かに姿を映しているように見えるから実相ではないとも言えない。有るわけでもなし無でもなし、しかし有でもあり無でもあるという中道にこそ実相があるという意味である。禅宗では、世界はこのように曖昧であるから捨て置け、坐禅せよと教える。
- ^ 唯識では迷妄と悟りが調和した境地を第八識、常住不滅の衆生の本心を第九識などと区別して教えた。
出典
- ^ [1]曹洞宗と臨済宗「個別に記載を」教科書会社に要請産経新聞(2019年2月21日)2019年3月4日閲覧。
- ^ http://www.motivation-up.co.jp/zendera/
- ^ 『広辞苑』「禅」
- ^ デジタル大辞泉「禅」 - goo辞書
- ^ 『大正大蔵経』[2]; 岩波文庫本、14頁
- ^ 佐々木閑・宮崎 哲弥『ごまかさない仏教: 仏・法・僧から問い直す』 (新潮選書、2017)
- ^ 佐々木閑『別冊NHK100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』(NHK出版、2017)
- ^ 曹洞宗関東管区教化センター「作務」(禅のこころ ー曹洞宗ー)
- ^ 横田南嶺「鈴木大拙に学ぶ」(臨済宗大本山円覚寺公式youtubeチャンネル)
- ^ a b c d 伊吹 敦「禅宗の起源」『国際禅研究』第8巻、2022年、19-32頁、doi:10.34428/00013041。
- ^ デジタル大辞泉「五家」 - goo辞書
- ^ デジタル大辞泉「五家七宗」 - goo辞書
- ^ 古田 1996, p. 27.
- ^ 岡本 2011, p. 90.
- ^ 小黒 2011, p. 80.
- ^ 「「宗教っぽくない」のが最大のメリット!? 禅が多くの人に受け入れられる理由」枻出版社
- ^ 冨嶋 2011, p. 72.
- ^ 薄井 2011, p. 49.
- ^ 山口 1956, p. 118.
- ^ “インド人が語る白隠禅師”. 中外日報. (1990年3月9日)
- ^ a b 『禅宣言』市民出版社、1998年3月21日。
禅宗
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詳細は「禅宗」を参照 禅(日本ではゼン、中国ではChanという)は道教に深く影響を受けた大乗仏教の一形態であり 、意識、瞑想、および直接体験を強調する。禅宗は、言語と教義的主張の限界、すなわち文献解釈学に関する決定的視点を与える。座位での瞑想である坐禅は中心的慣習である。禅宗は直接的意思疎通を理由に教典研究を非難し、師弟関係を重視する。理想的指導者は説話の中で名士となっている。教えの系統は、正統教義のテストとの比較よりも重要であると考えられている[訳語疑問点]。公案と呼ばれる対話と説話は禅宗独特の特徴である。公案はしばしば、逆説的で無意味に思われるが、それらは、弟子の視点や意識を変化させるための伝達手段として展開される
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禅宗
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禅宗においても、無は根本的なテーマとして掲げられてきた。「狗に仏性はあるか」という問いに対し、「無い」と喝破したことを伝える「無門関」の第一公案は、極めてその方向性を強調している。ここでいわれている無もまた、決して単なる非-有(Non-being)ではなく、有と無の対立を超えて、それらを包括するような絶対的な根源としての無である。この公案の登場人物である趙州は、この無を理解する事こそ最初の要であり、そして最終的な到達点でもあると述べている。
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禅宗
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かつて岡村に南潮山智勝寺が在ったが、20世紀初期の火災の際に政策により無くなり檀家は潮音山善照寺(後述)の門徒となる。
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禅宗
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禅宗においては、語録は唐代中期頃から作成され始められた。 当初はその人物の弟子それぞれが書き記していた断片的な問答集を、その人物の死後に集めて編集していたが、五代になると、その人物の生存中にその人物の監修を受けて編集されるようになった。 代表的な語録として『臨済録』、『碧巌録』、『古尊宿語要』等がある。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
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「禅宗」の例文・使い方・用例・文例
- 禅宗
- 禅宗坊主は精進料理で達者だ
- あれは代表的禅宗坊主だ
- 禅宗坊主は精進料理を食って健康でいる
- 禅宗の教義の信奉者
- 禅宗や浄土宗で,一寺をもたず師僧のもとで学問修業している僧
- 禅宗において,大衆に食事を大声で知らせる役
- 禅宗でにおいて,大衆に食事を大声で知らせる役の僧
- 禅宗の修行の際に導師が発する掛け声
- 鎌倉時代に禅宗とともに宋から伝来した仏寺の建築様式
- 禅宗において,監寺という役職
- 禅宗において,監寺という役職にある人
- 禅宗において,仏祖の教えを言語によらず心から心へ伝えること
- 禅宗において,身に備わる仏としての本性を見きわめること
- 自己の本性を見極めて悟りを得るという禅宗の教義
- 外記という,禅宗の僧職
- 禅宗の最高の寺格をもつ五つの寺
- 中国で,禅宗の五つの流派
- 禅宗で,他寺を隠退して本寺に住んでいる長老
- 禅宗で,住職以外の長老の僧侶
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