禅宗への普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 07:52 UTC 版)
禅宗における最初の事例として、永明延寿著『慧日永明寺智覚禅師自行録』第九に当時の禅僧が大悲呪を読誦していたことを示唆する記事があるが、日常的に依用していたかどうかは不明である。大慧宗杲『大慧普覚禅師普説』「巻4」には陀羅尼の表記における字の異同をめぐる議論があるが、陀羅尼がこの頃広く知られていたことは考えられる。このように禅僧たちによる陀羅尼への言及が増え始めたのは、早ければ北宋初期、遅くとも南宋末期を下らないと考えられる。 後の時代に、禅宗の日常の勤行の中に大悲呪が定着していった経過は、清規の変遷の中にある程度見出すことができる。禅宗の諸清規のうちで、まず最初に陀羅尼の名が見られるのは、南宋末期成立(1263年頃)の『入衆須知』で、読誦回数2回と示している。続いて弌咸著『禅林備用清規』(1311年)では14ヶ所、『勅修百丈清規』(1336年~1343年)では18ヶ所(バリエーションを含めると23ヶ所)と年代とともに回数が増加している。なお中峰明本著『幻住庵清規』(1317年)は9ヶ所となっているが、附録『開甘露門』に施餓鬼会または盂蘭盆会にあたり最初に『大悲心陀羅尼』を唱えるよう指示があり、現在の儀礼に近くなっている。 日本の臨済宗の開祖とされる栄西が布教を始めた頃(1191年)や、曹洞宗開祖の道元が南宋から帰国して興聖寺を開いた時(1220~1230年代)には大悲心陀羅尼は未だに禅宗に定着していなかった。日本の禅宗にこの陀羅尼が普及したのは鎌倉末期から室町時代以降と推定されるが確証はない。
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