禅宗の坐禅における禅定の種類
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 22:44 UTC 版)
栄西は『興禅護国論』で『楞伽経』を引いて坐禅は四種類あると説いている。 愚夫所行禅 凡夫・外道が、単に心をカラにして分別を生じないのを禅定だと思っている境地。達磨大師は、内心に悶えることなく外に求めることもないこの境地が壁のように動かなくなれば、そこではじめて仏道に入ることができると説く。 観察相義禅 小乗・三賢の菩薩が、教わった仏法を観察し思惟する境地。しかし、いまだ仏法・涅槃を求める強い欲心があるがために悟りを開けないでいる。人々がいつまでも苦しみの輪廻を逃れられないのは、このように我が身にとらわれて自分さえよければと欲求することが、結果的に罪業を作る結果となるからである。夢窓国師は、もし自分を忘れ一切の欲を投げ捨てて利他心を起こせば、すぐさま仏性が発揮されて、生き仏になることができると説く。 攀縁如実禅 大乗の菩薩が、中道を覚って三業を忘れ、有るでもなし空でもなしと達観する境地。生きとし生けるものすべての生滅の苦しみに同情し、苦しみを抜いて楽を与えるべく苦慮しており、その姿勢にはもはや自他の区別がない。しかし衆生を救う願があるがために如来清浄禅に入ることができない。 如来清浄禅 如来と同じ境地に入り、みずから覚って聖なる智慧が現れたすがた。禅宗で、坐禅によって本分の田地、本来の仏性に知らず知らずに立ち返るというのは、前記の二禅を飛び越え、愚夫所行禅から直にこの位に達することを意味する。それゆえ如来十号も菩薩五十二位も枝葉末節であるとされる。 また、愚夫所行禅から如来清浄禅に至るまでの上達の様子については『鉄眼禅師仮字法語』に詳しい。
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