来歴・生涯
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大分県大分市出身。大分県立別府第二高等学校(現在の大分県立芸術緑丘高等学校)、東京芸術大学卒業。マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ、中山悌一に師事し、1953年『椿姫』のジェルモンでデビュー。歌劇を始めミュージカル、テレビ番組への出演も多く、NHK紅白歌合戦にも1963年から1966年まで連続4回出場した。代表的な役は『こうもり』のファルケ博士や『フィガロの結婚』のフィガロなど。1960年代後半、芸名を「清登(読み方は“すみと”のまま)」に改名。姓名判断の大家の先生に診てもらったところ、「澄人という名前は強すぎてそのあまり、悪いことが身内に降りかかってしまう」と言われる。実姉を飛行機事故で亡くし(後述)、従弟も交通事故に遭ったことで「他にも影響が及ぶかと思うと怖くなった」と思って改名したという。 代表曲は『みんなのうた』で放送された「大きな古時計」、1980年にリリースされた「阪神タイガースの歌」など。オペラ以外にも童謡、歌謡曲など幅広いジャンルで歌唱を残している。 立川は細い目をした親しみやすい風貌、オペラでも上記の役やパパゲーノ、レポレロなど喜劇系を得意としたユーモラスなキャラクター、機知にとんだ語り口から本業の歌手以外でも司会等、テレビタレントとしても活躍。NHK『世界の音楽』や『音楽をどうぞ』の司会、フジテレビ系列『オールスター家族対抗歌合戦』の審査員などでも知られる。この他、FM東京系列『新日鐵アワー・音楽の森』の2代目パーソナリティー(初代は山本直純、立川の没後に羽田健太郎が引き継ぐ)や、NHK教育テレビの小学2年生向け学校放送番組『うたって・ゴー』にも出演した。1983年8月6日からには、同年4月の八木治郎の急逝で空席となっていた毎日放送(MBS)の土曜朝のワイドショー番組『すてきな出逢い いい朝8時』の2代目司会を務めた。 1973年、立川の出身地でもある大分県の民話にちなんだ創作オペラ「吉四六昇天」(清水脩作曲)の主役として特別出演した。 ところが1985年12月10日、鳥取県米子市内のホテルで開かれたディナーショーにて最後の曲「メモリー」を歌唱中に身体の不調を訴えそのまま入院、持病の高血圧が原因による脳幹出血により意識不明となった。立川も一時は意識を回復したものの、左半身麻痺を併発して12月31日に治療の甲斐もなく都内の病院にて脳溢血のため死去した。56歳没。 翌1986年1月4日、立川が司会を務めていた「いい朝8時」では追悼企画を組み、サブ司会者のうつみ宮土理と野村啓司(当時MBSアナウンサー)が立川の思い出を振り返った。また、同年1月13日、審査員を務めていた「オールスター家族対抗歌合戦」で追悼特番を放送、同じく審査員の近江俊郎が弔辞を読み号泣した。 姓の読みは「うたって・ゴー」のオープニングでも自ら「こんにちは、たちかわのおじさんだよ~!」とコールしているが、正式には「たつかわ」である。テレビ・ラジオ等に出演の際紹介される度に「たちかわ」と思い込んだ視聴者・聴取者からの「誤りではないか」との問い合わせが放送局に相次ぎ、混乱を防ぐためにやむなく芸名として「たちかわ」とした経緯がある。 1966年3月5日に富士山上空で発生した英国海外航空機空中分解事故では、夫の転勤先のミャンマーへと向かう実姉とその家族を亡くしている。
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来歴・生涯
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島田正吾と共に、新国劇の屋台骨を支えた1人。 少年時代に養子に出されるも、養家を13件も転々としながら関西甲種商業学校(現・関西大学第一中学校・高等学校)を経て、商業学校(現・大阪市立天王寺商業高等学校)を中退。 1919年、小林一三が国民劇創設のため作った「男子養成会」の創設メンバー(男子専科生第一期生)として宝塚入り。 1926年に旅回りの一座に入り、長野県で初舞台を経験。半年後、小林一三主宰、坪内士行文芸部長の「宝塚国民座」に入団して東伍作の名で舞台に立つ。 その後、澤田正二郎の魅力に惹かれ、1927年、道頓堀の浪花座で公演中の澤田を楽屋に訪ねて弟子入りを直談判し、新国劇への入団を許される。また、芸名を辰巳柳太郎と改める(由来は師匠の澤田が辰年、柳太郎が巳年生まれだったため)。しばらく端役が続いたが、1929年、澤田が急死すると俵藤丈夫文芸部長によって島田とともに澤田の後継者に大抜擢。また、その気質は島田と合わせて「動の辰巳、静の島田」とも呼ばれた。 豪放磊落に主人公を演じきり、島田と共に二本柱として新国劇を支えた。1947年に、辰巳自らが坂田三吉を主人公で描くように依頼をして北条秀司が脚本を執筆し、北条が演出も担当した『王将』に主演して大ヒット作となる。国定忠治、宮本武蔵、「大菩薩峠」の机龍之介、「王将」の坂田三吉、「無法松の一生」の松五郎、どぶろくの辰などが当たり役であった。 戦後になると映画界に進出。1949年に『どぶろくの辰』で初出演して以降、映画でも島田とたびたび共演。1954年からは日活の映画製作再開に伴い劇団ぐるみで同社と契約していたが、大衆演劇の衰退とともに観客数も減少。1987年の70周年記念公演終了をもって劇団は解散した。 1988年の夏ごろから体調を崩し寝たきり状態になり、1989年2月に肺炎を起こして1ヶ月間入院するも、4月12日に肺炎を再発し山王病院に入院し危篤状態となる。同年7月29日午後9時45分に入院先で心不全のため死去(享年84)。 弟子には大友柳太朗、緒形拳らがいる。 長女はジャズ歌手で女優の新倉美子。
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来歴・生涯
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東京大学卒業後は、史料編纂所に勤務し、「大日本史料 第二篇」の編纂に従事した。専門は日本古代史で、平安時代の貴族社会に関する論考が多い。特に摂関政治期の政治について、当時の通説であった摂関家の政所が政治の中心であったとする「政所政治」論を否定して、依然として太政官を中心とした政務が行われていたことを立証したことで知られている。土田の研究方針は、史料を精密に理解するの一言に尽き、後世に名を残すといった功名に基づく研究を嫌っていた。1993年1月24日、国立歴史民俗博物館長在職中のまま、肺炎のため死去。
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来歴・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 03:04 UTC 版)
満州生まれ。私立芝高等学校卒業。武蔵大学経済学部中退。東京都文京区旧・小日向台町出身。 1967年にデビューしたザ・モップス(実弟のスズキ幹治がドラムス担当)のボーカリストとして芸能界入り。モップス時代は「鈴木ひろみつ」「鈴木博三」とも表記。 詳細は「ザ・モップス」を参照 ザ・モップスが1974年に解散して以降、俳優・タレントとして活躍。1971年に放映されたモービル石油(現:ENEOS)のCM「のんびり行こうよ」編ではCM演出家の木村俊士とともにガス欠のクラシックカーを押す青年の役を演じ、昭和の名CMの一つとなった。1974年からTBSで放送された大映テレビ製作のドラマ『事件狩り』への出演に引き続き、刑事ドラマ『夜明けの刑事』『新・夜明けの刑事』『明日の刑事』にうだつの上がらない刑事役で出演、エンディング・テーマも担当した。 芸能界きっての美食家としても知られ、紀行番組のグルメリポーターとしても活躍、2002年に自らが堪能した絶品料理を紹介した単行本『食わずに死ねるか!』を出版した。 また、大の中日ドラゴンズのファンで(実の母親が名古屋市生まれだった)、東海テレビのドラゴンズ応援番組『ヒロミツのスーパードラゴンズ』(『ドラゴンズHOTスタジオ』の前身)ではメイン司会を務め、多くの選手や首脳陣と親交があった。しかし番組内で「こんなことなら、星野ドラゴンズって名前を変えればいいんですよ」と星野仙一監督を批判、このことが原因で番組を降板している。 NHK教育テレビで、中学生向けの英語番組の司会もつとめていた。 2007年3月14日午前10時02分、肝細胞癌のため東京都千代田区の病院で死去。60歳没。医師の診察を受けた際には既に病状が進行しており、告知も冷静に受け止めた。入院治療より家族とともに過ごすことを選んだ。戒名は「美雄永満愛大喜善居士」で、その戒名は生前に決めていたと言う。戒名には自分の名や家族の名前の一部が入っており、家族を愛する気持ちが込められている。亡くなる1週間前に行ったインタビューと、病床で書いた妻と子供への手紙をまとめた単行本『余命三カ月のラブレター』が死後出版された。 鈴木ヒロミツの死去を受けてモップス時代の盟友:星勝、長年の音楽仲間であった真木ひでと(オックス)、森田巳木夫(ザ・ジャガーズ)が故人との想い出を語った他、ギタリストの三根信宏も自らのサイトの日記にて鈴木ヒロミツを悼むコメントを記している。 死去の2ヵ月後に公開されたオムニバス映画『歌謡曲だよ、人生は』でヒロインの死病を告知する医師、同窓会の8ミリフィルム上映で小学生時代を回顧する初老男性の2役で出演しているが、撮影は自身が告知を受ける前だったといわれる。 一周忌を過ぎた2008年4月23日に、鈴木の所属していたホリプロの後輩である和田アキ子のデビュー40周年記念CDアルバム『わだ家』に、鈴木がボーカルを務めたモップスの代表曲「たどりついたらいつも雨ふり」の鈴木と和田のデュエットバージョンが収録される。生前の鈴木の歌声に和田が新たに歌をオーバー・ダビングした。 鈴木が死去直後に和田が自身のラジオ番組『アッコのいいかげんに1000回』で「ヒロちゃんはホリプロで一番古い先輩で、私がデビュー直前から現在まで本当によくかわいがってもらっていて、芸能生活が長くなってからも私を叱ったり注意してくれたのもヒロちゃんだけだった。お見舞いに行ったときに自分が生きてる間にもう一度桜の花が見たいなって言ってたけど、咲く前に亡くなってしまってほんと悔しかった。」などと鈴木との思い出話を番組内で語っていた。
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来歴・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 03:43 UTC 版)
「渋谷天外 (2代目)」の記事における「来歴・生涯」の解説
楽天会の主宰者初代渋谷天外の長男として京都市で生まれる。8歳で同劇団で初舞台を踏む。1906年の父の死去(10歳で死別)後、楽天会は解散する。 しばらく舞台から離れていたが、1922年(大正11年)「志賀廼家淡海一座」に加わる。1923年(大正12年)から、曾我廼家十郎のすすめで劇作にも意欲的に取り組んだ。この時、十郎からは「しっかりものを書くんやで。出来は悪うてもええ、自分のもんを書け。ただし泥棒はあかん、癖になるさかいな。」と教えられた。後年天外は「何でも、ようメモはとります。…けど、実際に役に立つのは、十分の一ですな。…言いたいことを吐きだすのが一番と違いますか。」と小林信彦のインタビューに答えている。(小林信彦「日本の喜劇人」) 1928年(昭和3年)、曾我廼家十吾、石河薫らと松竹家庭劇を結成し、角座で旗揚げ公演を行う。翌1929年(昭和4年)、2代目渋谷天外を襲名し、全国的に活躍する。1930年、松竹家庭劇の女優の浪花千栄子と結婚。 戦後、1946年(昭和21年)松竹家庭劇を脱退し、劇団「すぃーとほーむ」を結成するが、1948年(昭和23年)、「五郎劇」、「松竹家庭劇」と合同して、「松竹新喜劇」を結成し、中座で初公演を行う。 1951年ごろ、新喜劇の新人女優の九重京子との間に子供が生れたのをきっかけに、浪花と離婚し、九重と再婚。ただし千栄子が籍をぬかなかったのでこの時点で正式な離婚は成立していない。1954年12月に正式な離婚と1955年3月に入籍となった。 曾我廼家五郎、十郎、十吾、渋谷天外、藤山寛美という流れは、演劇表現の保守派と革新派が交互に現れている(ただし、時系列を全部逆に並べた実験的戯曲などを書いたといわれる曾我廼家十郎は鎌倉の曾我兄弟と同じく五郎より実年齢は上である)が、天外は革新派にあたり、三島由紀夫や谷崎潤一郎の劇化にも挑み、実現はしなかったがチェーホフの翻案なども念願していた。楽屋では、原稿用紙、ノート類、演劇専門書が山の様に積まれるなど学究肌の面があった。天外自身、自作自演について、自制力が必要と説き「自分で脚本書いて、演出して、しかも主役をやったら、どないなりますか?お山の大将、独裁者です。」として、その悪しき例にチャップリンの晩年の作「ニューヨークの王様」を挙げている。 1956年(昭和31年)に十吾は退団するが、自身の弟子的存在で、以後、人気俳優となる藤山寛美とのコンビで人気を呼ぶ。 その後、看板俳優兼作家として大活躍。執筆した作品は556篇にのぼり、合作、脚色もあわせると1000篇を超える。代表作に「親バカ子バカ」「桂春団治」などがある。 1957年(昭和32年)、「毎日演劇賞」、1964年(昭和39年)、「NHK放送文化賞」を受賞する。 1965年(昭和40年)、松竹新喜劇の人気が急上昇する中、公演中に倒れ、回復後は麻痺が残るも1967年(昭和42年)舞台に復帰する。その入院中に寛美が多額の借金問題で当時の(株)松竹新喜劇の勝忠男社長に解雇され、天外も病床にて事後承認せざるをえなかった。 1968年(昭和43年)、紫綬褒章、1977年には、勲四等旭日小綬章を受章する。 1983年(昭和58年)3月18日、逝去。76歳没。墓所は天王寺区宗慶寺。 1992年(平成4年)に次男の喜作(渋谷天笑)が3代目を襲名する。
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来歴・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 15:58 UTC 版)
兵庫県明石市で生まれ、岡山県岡山市で育つ。岡山市立南方小学校、岡山市立旭中学校、山陽女子高等学校、日本大学文理学部卒業。 中学時代から田中聡子のあとの日本水泳界を背負う最大のホープと騒がれる。100m自由形が主であったが、400m自由形や背泳ぎ、バタフライ、個人メドレーなどでもトップクラスのオールラウンダーであった。進学した山陽女子高校には水泳部がなく、また岡山には冬の間泳げる温水プールはなく、和歌山県白浜や広島県呉市の海上自衛隊の室内プールに通う。 高校在学時に1964年東京オリンピックに出場し「ミミ」の愛称で一躍アイドル選手となった。競技を引退後は東レの水着モデルを務めるなどタレントに転向。その後、東レ関連会社の役員や自らの水着ブランドや水泳教室を運営するなどビジネス界に進出。40歳を超えてからマスターズ競技に復活し日本記録を樹立している。また各種スポーツ団体や岡山県関連の理事・委員に加え、2005年より日本水泳連盟初の女性理事を務めるなど多方面で活躍していた。 2007年10月13日、神奈川県平塚市内のプールで親子水泳教室の指導中に倒れ、意識不明のまま、平塚市民病院に搬送された。一時は意識を回復したものの、同18日午前1時25分、クモ膜下出血のため死去。59歳没。戒名は寶珠院秀泳智照大姉。葬儀は築地本願寺にて社葬で執り行われ、喪主は兄の木原信良が務めた。 死去した10月18日に遡って、日本政府より旭日小綬章が贈られた。 2009年10月、岡山県総合グラウンド内に顕彰碑が建立された。
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来歴・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 15:05 UTC 版)
セメント会社の作業員だった父は三橋が3歳の誕生日前日に落盤事故で亡くなる。母は渡島当別に転居して川田男爵イモ農場に住み込みで就職し、翌年には作業員の男性と再婚。この夫婦の間には3人の弟と1人の妹が出来る。その後は養父が国鉄の職員となり、函館市万代町へ転居。一方の三橋は5歳の頃から舞台を踏み、民謡歌手だった母に幼い頃から鍛えられ、小学校の入学と同時に叔父から追分を習い、9歳の時に全道民謡コンクールで優勝。この頃に海で右耳をウツボに突っつかれ難聴になる。その後は巡業に参加などしつつ家計を支え、12歳の時にコロムビアで民謡を吹き込む。小学校卒業後は国鉄・木古内保線区に日雇作業員として就職する傍ら、津軽三味線を習い初め、白川軍八郎一座とともに修行を続ける。16歳の時には三浦為七郎民謡一座、陸奥乃家演芸団に参加。 19歳の時に「歌だけではなく違う世界も知りたい」と三味線一本を持って上京し、榎本健一・古川ロッパの家に弟子入り志願で出向いた事もあった。その後は横浜市の綱島温泉「東京園」で民謡教室のアルバイトをする傍ら、ボイラーマンの仕事もしていた。人一倍真面目に働き、その勤勉さを風呂屋の主人に見込まれ、21歳になった1951年には明大中野高校定時制に通うことを許された。高校入学と同時に「東京園」で世話になった北沢家と養子縁組をしたほか、NHK「邦楽オーディション」に合格。高校では普通の生徒よりもずっと年上で、彼らから「おとっさん」と呼ばれ親しまれた。 1953年、弟子の吹き込みに三味線伴奏者として同行した際、三橋のレッスンの声がディレクターの耳にとまり、キングレコードの専属歌手として契約。明治大学への進学も決まった1954年に「酒の苦さよ」でデビューすると、1955年に「おんな船頭唄」が大ヒット。たちまち人気歌手の仲間入りを果たすと、学業どころではなくなったため大学を中退。その後も昭和30年代には「あの娘が泣いてる波止場」「リンゴ村から」「哀愁列車」「母恋吹雪」「おさらば東京」「夕焼けとんび」「古城」「達者でナ」「星屑の町」などの歌謡曲、「北海盆唄」「花笠音頭」「ソーラン節」「津軽じょんから節」「炭鉱節」「黒田節」などの民謡がミリオンセラーとなり、「三橋で明けて三橋で暮れる(三橋で暮れて三橋で明ける とも)」と言われるほどの人気を得る。キングの全盛期を春日八郎・若原一郎と共に築き上げ、「キング三羽烏」「三人男」と呼ばれる。 1974年からはカール(明治製菓)のコマーシャルソングを担当し、同年12月の「雪だるま編」から1993年1月の「おしゃべり貯金箱プレゼント編」まで20年間で31作も歌った。三橋が歌うことになったのは小坂一也の推薦による。当初三橋はCMソングを歌うことに難色を示したが、「小坂の推薦」ということ、小坂が歌ったデモテープを聴き興味を示したことで承諾した。ACC CMフェスティバルでも何度も受賞しており、1976年には「ひっくりカエル/おじさん独唱/落葉」の3作がテレビフィルムCM部門秀作賞を受賞し、2001年にはCM殿堂入りを果たす 。1983年「春 おじさん橋編」・1985年「夏 祭りだいこ編」が秀作賞、1987年「秋 つり鐘編」・1990年「池のほとり編」・1992年「きもだめし編」が優秀賞を受賞 。ラジオCMも1976年の「バターミルクあじ編」がCM音楽部門ACC賞、1978年にはラジオCM「カールこぶし教室 北海盆歌/佐渡おけさ/黒田節」がラジオCM部門秀作賞を受賞している。 1976年5月には帝国劇場で藤本義一脚本の舞台「津軽三味線ながれぶし」に出演し、片岡仁左衛門・山田五十鈴・赤木春恵・市原悦子・花紀京・浜畑賢吉と共演。連日超満員の記録を作った。同年8月には「日本各地に残る民謡こそ日本人の歌の故郷」という想いから、自ら家元になって「民謡三橋流」を創設し、1977年12月には東京都世田谷区南烏山の自宅に「根本道場是空庵」を開設。門下に千昌夫・細川たかし・石川さゆりらがいる。 1978年には「電撃わいどウルトラ放送局」(ラジオ関東)のパーソナリティに抜擢され、自身初めてのDJに挑戦。「ミッチー」の愛称で若者にも人気を得て、周囲の度肝を抜いた。番組中には当時の流行語「フィーバー」を使い、1980年に出演したカップ麺「激めん」(東洋水産)のCMでは、流行語の元になった映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の主演であるジョン・トラボルタ風のスーツ姿で「激れ!激れ!」と連呼。1979年にはゴールデン・アロー賞特別賞も受賞し、同年7月1日にはSDTの開局記念特別番組「翔べ静岡第一テレビ」の司会を務めた。1981年には世田谷区烏山に「三菱堂ダイヤモンド店」をオープン。1982年11月には上越新幹線開通記念フェスティバルで新潟県民会館・新潟市体育館に両日出演し、その模様がNST・BSNで生中継された。1983年には日本の歌手として史上初めてレコードのプレス枚数が1億枚を突破する記録を打ち立て、生涯のレコード売上は1億600万枚となった。ブラジル(1979年)・香港(1981年)・韓国(1985年)でも公演を行っており、ブラジルでは最高勲章を受賞。1985年にはハワイ「NBCコンサートホール」で公演を行った後、ディズニーランド創立30周年記念公演も行った。1986年には静岡県熱海市に高級リゾートホテル「サン三橋」を落成し、45億円を投資した。1988年には親交が深かった春日・村田英雄と三人の会を結成し、演歌界の活性化を図った。
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来歴・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 13:59 UTC 版)
東京電機大学高等学校卒業後、喫茶店のボーイや花屋の店員などを経て、30歳より声優に転向。東京アナウンスアカデミー(現:東京アナウンス・声優アカデミー)卒。楡プロダクションを経て最後は青二プロダクションに所属していた。数々のアニメで重要な役柄を演じた他、深夜ラジオ番組のDJやパーソナリティー、バンダイやポピーなどの玩具会社をはじめとする数多くのCMや、テレビアニメのナレーターや洋画の吹き替えを務めた。特にCMに関しては最盛期には月に60本も請け負っていたという。 1985年10月2日、東京都港区のスポーツジムでトレーニング中に突然倒れ、東京都渋谷区恵比寿にある東京都立広尾病院に運ばれたが意識は戻らず、同年10月13日に急性クモ膜下出血により43歳で死去。 死去から2週間後の1985年10月27日、『キン肉マン』第110話Aパートのサブタイトルが「ラーメンマンは死なず!」に急遽変更されて放送された。スタッフによると最後のラーメンマン(同時期にキン肉マンの師プリンス・カメハメも担当していた)を演じた蟹江に対する追悼の意をこめたサブタイトルだという。また、この日は蟹江の告別式が営まれた日でもあった。 大の子供好きであり、仕事休みには近所の公園で当時小学生の息子、幼稚園入園前の娘と遊んでいる姿を目撃されていた。仕事で多忙の中でも、小学校のPTA会長も務めていた。死後も東京都大田区久が原二丁目にある自宅によく、息子の友人たちが「ラーメンマンのおじさんに」と、焼香へ訪れることが多かったという。
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