来歴等
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 07:30 UTC 版)
1959年、新潟県南魚沼市出身(実家は、浄土宗寺院万蔵寺)。新潟県立六日町高等学校、早稲田大学卒業後、外務専門職員として外務省入省。ルーマニア赴任などで8年勤務。深夜のニュース番組の最後に、職務経験者募集のスポット広告が出ていたのを見て応募、1990年フジテレビへ中途入社。報道局外信部でニューヨーク特派員、ワシントン支局長を務める。帰国後は、2009年から『ニュースJAPAN』編集長を2012年夏まで担当し、外信部長、編集委員などをつとめる。2017年7月、報道局解説委員室解説委員。2019年4月1日から2020年9月25日までLive News it! のメインキャスター。2020年9月28日より FNN Live News α の解説キャスター。
※この「来歴等」の解説は、「風間晋」の解説の一部です。
「来歴等」を含む「風間晋」の記事については、「風間晋」の概要を参照ください。
来歴等
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:58 UTC 版)
独学でギターを始め、フランスのECOLE GRENIER SUR L'EAU PARIS卒業。パリ証券取引所のコンピューター室に勤務。16歳でロックバンド「レ・シャンピオンズ(:fr:)」結成。ヨーロッパで大人気となり、演奏前の前座はビートルズが務めた。20歳でバンドから独立し、ソロ・アコースティックギタリストとして活動を始める。1964年にギター曲「夜霧のしのび逢い」が世界的にヒットし、「哀愁のギタリスト」として知られる。ただし「夜霧の -」は日本版タイトルであり、スペイン語の原曲タイトル「La playa」の意味は「浜辺」である。フランスのACCディスク大賞受賞。その後、映画『夜霧のしのび逢い』が公開されたが、世界的にはクロード・チアリの曲「夜霧のしのび逢い」とは関係ない。しかし、日本のみ、この曲を映画の随所に使用し公開された。 1967年に初来日。1975年に日本人と白系ロシア人とのハーフの女性で元モデルのジェーン矢田と結婚して日本に永住するようになる。1985年に日本に帰化し、日本名である2012年現在の本名・智有蔵上人に改名する。帰化したばかりの頃、ニコニコのりのテレビCMに出演し、お中元の署名としてこの日本名を毛筆で書き込むシーンが入っている。家族とは関西弁(神戸弁)で話すため、海外旅行をするとホテルの従業員などに「あなたはどこの国の人なのか」と聞かれることがある。 1979年から放送のバラエティ番組『アイ・アイゲーム』(フジテレビ)に解答者として出演。タレントとしても活動した。『年忘れ必殺スペシャル 仕事人アヘン戦争へ行く 翔べ!熱気球よ香港へ』(朝日放送)、『てるてる家族』(NHK)、『世界・わが心の旅』(BS2)『「午後は○○おもいッきりテレビ』(日本テレビ系)などの番組にも出演。 1989年には、「新自由クラブ」(河野洋平らが設立した新自由クラブとは別組織)から、第15回参議院議員通常選挙の比例代表区で出馬したが落選。 ギタリストになる前はコンピュータ技師をしており、パソコンにも造詣が深い。インターネットの前身、パソコン通信創生期の代表的な人物の一人である。1980年代から1990年代にかけて、NECが運営していたPC-VANでは「チアリコンピュータワールド」(旧称:「NEC98 by チアリ」)というSIGを運営。オンラインソフトの集積場として、PC-VANの看板的存在であったが、SIGの運営では独善的な面も見られ批判も多かった。 1995年の阪神・淡路大震災では、自身も被害を受けるも、日本各地でチャリティーコンサートを開催。震災復興に協力。1990年兵庫県文化功労賞、2005年西宮市民文化賞受賞。近年では、世界一周クルーズ乗船演奏会、世界豪華客船演奏会、コンサート、ディナーショー、講演会活動などをおこなっている。
※この「来歴等」の解説は、「クロード・チアリ」の解説の一部です。
「来歴等」を含む「クロード・チアリ」の記事については、「クロード・チアリ」の概要を参照ください。
来歴等
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:26 UTC 版)
村松藩主堀家の末裔として1919年2月1日、福島県に生まれ、宮城県仙台市で育つ。父は公務員。旧制仙台第一中学校に進むが、家庭の事情で東京に転居することとなり、旧制東京第一中学校に編入。その後、第一高等学校(理科甲種)に進学、卒業。東京帝国大学工学部で電気工学を専攻する。 1941年に大学を卒業すると、特別幹部候補生として陸軍に入隊、技術将校となる。主に航空分野に携わり、航空本部調査課等に勤務する。終戦時、陸軍技術大尉。 戦後、朝日映画社を経て朝日新聞社に入社、学芸部等に配属。主に科学報道に携わり、ニューヨーク特派員(当時はニューヨークに同社の支局が開設されていなかった)などを歴任。同社の科学報道の一線で活躍。なお、科学分野にあっては、比較的社歴の浅いうちから社説を書いており、論説委員となっている。 朝日新聞社の現東京本社社屋が建設される際、鉛活字を一切使わず、コンピュータ製作による新聞製作システム「ネルソン」導入の主幹を務め、「新社屋建設委員会」では事務局長を務めた。日本語印刷におけるネルソンを導入したのは朝日新聞が最初であり、当初は日本語では無理とも言われたが、奥田らの働きで実現したといわれている。 陸軍の航空技術将校、つまり航空エンジニア出身ではあるが、ネルソンなどコンピュータ黎明期のエンジニアとして活躍した反面、記者として科学分野に関する多彩な記事を執筆、多才さを見せた。 1966年より、朝日新聞論悦委員として、科学技術庁原子力局長期計画専門部会総合文化会委員・核燃料分科会委員を務める。 その後、朝日カルチャーセンター社長。 晩年も、著述業として執筆の仕事をする一方、旧制第一高等学校同窓会の幹事を務め、同校の歴史・資料を電子化する作業をしていた。 2010年春、急逝、訃報の公式発表無し。 子の奥田明久も、同年10月2日に自死した。彼は元朝日新聞記者・週刊朝日副編集長・アサヒパソコン編集長・出版業務部長・アサヒカメラ編集長であった。またほかの子に、独立行政法人産業技術総合研究所総括研究員の奥田義久などがある。
※この「来歴等」の解説は、「奥田教久」の解説の一部です。
「来歴等」を含む「奥田教久」の記事については、「奥田教久」の概要を参照ください。
来歴等
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 03:21 UTC 版)
幼少の頃よりお笑いに傾倒し漫才師に憧れるが、大学の演劇部に入部したのを機に演劇に転向。 学生劇団を引退後、小劇場の劇団を転々とした後、1996年、自らの劇団「スクエア」を旗揚げ。以後、劇団の演出家であり、また看板俳優として全公演に出演。リーダーを務める。また同劇団は関西屈指のコメディ劇団として高い評価を得ている。 役者として、文学的作品からエンターテイメント作品まで、幅広い出演の依頼があり、さまざまなキャラクターを演じられる俳優として評価を得ている。 また、リアルで緻密な劇づくりと笑いやエンターテイメント性を兼ね備えた演出家としても、活躍している。
※この「来歴等」の解説は、「上田一軒」の解説の一部です。
「来歴等」を含む「上田一軒」の記事については、「上田一軒」の概要を参照ください。
- 来歴等のページへのリンク