来歴・生い立ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 08:55 UTC 版)
両親は東大阪市の銭湯に住み込みで働き、父親はボイラー技士、母親は脱衣場で子供の世話や掃除をしていた。3つ上の姉、2つ下の妹、4つ下の弟、9つ下の妹を合わせた7人家族で、銭湯裏の6畳一間に暮していた。幼少期はラジオから流れる歌謡曲や浪曲を聞いては、風呂場で歌ったりして育つ。その歌声は夏祭りののど自慢大会で一等賞になるほどで、父親の自慢でもあった。一家はかなり貧しく、家計を支えるために小学2年生のときから姉と近鉄瓢箪山駅の前に机を置いて新聞販売、4年生からは新聞配達を200軒近く配っていた。このころ働きづめで、母親は栄養失調で何度か倒れ、中学2年生の時には半身不随になり話せなくなっていた。結局、母親は1カ月程寝込んだ末、43歳の若さで他界した。母親の死後、家族は離散することになる。姉は中学卒業後に住み込みで働きに出た。弟妹たちは京都に住む父方の叔母の家に預けられた。美律子は近所の河内音頭と歌好きな人物に預けられ、歌謡教室や高校に通わせてもらう。 興國商業高校在学中に初音家賢次の門に入り、研鑚する。河内音頭の音頭取り(歌い手)、初音家みつ子の名前で河内音頭の櫓に立ち、一晩で数か所のかけ持ちをする人気者、「天才音頭少女」として評判になる。プロダクションに所属するが、デビューまでの下積みとして台湾で1カ月の契約で興行にいき、帰国後メジャーデビューのはずが、3か月間帰国できずプロダクションに騙される。その後、自主製作盤を小松みつ子の芸名で1975年にテイチクより発売し、1979年に日本コロムビアより発売する。三十路を過ぎた頃、一念発起して浪曲師春野百合子に師事する。自主活動の歌謡ショーで作曲家富田梓仁と出会い、1986年に「恋の肥後つばき/夜の千日前」でワーナーパイオニアよりメジャーデビューする。1988年に東芝EMIに移籍、2枚目のシングル「女のみれん/待つだけの季節」を発売する。ヘルスセンター(JR西日本尼崎駅前「あま湯ハウス」)やスナックで地道なキャンペーン、宣伝活動を続けたが、なかなか世に出られなかった。 1988年に3枚目となる「河内おとこ節」を発売する。1991年頃から東大阪市や八尾市に始まって口コミでじわじわと拡がり、2社ある有線放送のリクエスト上位にランクインして世間の注目を集める。その後は破竹の勢いの如く活躍を見せる。 『演歌一夜』(テレビ大阪)や『乾杯!トークそんぐ』(MBSテレビ、2代目メイン司会)では長年司会を務め、軽快なトークと親しみやすいキャラクターでお茶の間の人気者となる。年末の大晦日恒例の『NHK紅白歌合戦』には、1992年の第43回に自身の代表曲である「河内おとこ節」で初出場。その後も紅白や各種演歌番組の常連歌手として活躍を続け、特に紅白は2010年の第61回まで合計15回出演を果たしている。1993年の第44回では同年シングルを発売した「島田のブンブン」を歌った。 2005年発売のシングル「風まかせ」は、瀬戸内寂聴による初の作詞で話題となる。 2007年にゴールデンミュージックプロモーションへ移籍した。移籍第1作の「だんじり」を機に岸和田市観光大使となり、またマルホン工業から『CR中村美律子の人生祭りだ!だんじりだ!』が発売された。
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