ダグラス・マッカーサー マッカーサーのアメリカ議会証言録

ダグラス・マッカーサー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/03 02:31 UTC 版)

マッカーサーのアメリカ議会証言録

総司令官解任後の1951年5月3日から、マッカーサーを証人とした上院の軍事外交共同委員会が開催された。主な議題は「マッカーサーの解任の是非」と「極東の軍事情勢」についてであるが、日本についての質疑も行われている。

日本が戦争に突入した目的は主として安全保障(security)によるもの

質問者より朝鮮戦争における中華人民共和国(赤化中国)に対しての海空封鎖戦略についての意見を問われ、太平洋戦争での経験を交えながら下記のように答えている。

STRATEGY AGAINST JAPAN IN WORLD WAR II [488]

  • Senator Hicknlooper. Question No.5: Isn't your proposal for sea and air blockade of Red China the same strategy by which Americans achieved victory over the Japanese in the Pacific?
    • (ヒックンルーパー上院議員・第5質問:赤化中国に対する海空封鎖というあなたの提案は、アメリカが太平洋において日本に勝利したのと同じ戦略ではありませんか?)
  • General MacArthur. Yes, sir. In the Pacific we by-passed them. We closed in.・・・

    There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack great many other things, all of which was in the Asiatic basin.

    They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore in going to war was largely dictated by security.

    The raw materials -- those countries which furnished raw materials for their manufacture -- such countries as Malaya, Indonesia, the Philippines, and so on -- they, with the advantage of preparedness and surprise, seized all those bases, and their general strategic concept was to hold those outlying bastions, the islands of the Pacific, so that we would bleed ourselves white in trying to reconquer them, and that the losses would be so tremendous that we would ultimately acquiesce in a treaty which would allow them to control the basic products of the places they had captured.

    In meeting that, we evolved an entirely new strategy. They held certain bastion points, and what we did was to evade those points, and go around them.

    We came in behind them, and we crept up and crept up, and crept up, always approaching the lanes of communication which led from those countries, conquered countries, to Japan.

    • (マッカーサー将軍:はい。太平洋において、我々は、彼らを回避して、これを包囲しました。(中略)・・・日本は産品がほとんど何もありません、蚕(絹産業)を除いて。日本には綿がない、羊毛がない、石油製品がない、スズがない、ゴムがない、その他多くの物がない、が、その全てがアジア地域にはあった。日本は恐れていました。もし、それらの供給が断ち切られたら、日本では1000万人から1200万人の失業者が生じる。それゆえ、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障(security)の必要に迫られてのことでした。原材料、すなわち、日本の製造業に必要な原材料、これを提供する国々である、マレー、インドネシア、フィリピンなどは、事前準備と奇襲の優位により日本が占領していました。日本の一般的な戦略方針は、太平洋上の島々を外郭陣地として確保し、我々がその全てを奪い返すには多大の損失が生じると思わせることによって、日本が占領地から原材料を確保することを我々に黙認させる、というものでした。これに対して、我々は全く新規の戦略を編み出しました。日本軍がある陣地を保持していても、我々はこれを飛び越していきました。我々は日本軍の背後へと忍び寄り、忍び寄り、忍び寄り、常に日本とそれらの国々、占領地を結ぶ補給線に接近しました。)
— p.170、General Macarthur Speeches & Reports: 1908-1964[489]

秦郁彦は、小堀桂一郎などの東京裁判批判を行う論客たちがこの発言を「(マッカーサーが太平洋戦争を)自衛戦争として認識していた証拠」として取り上げる論点であると指摘している[490]。小堀はこの個所を「これらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼ら(日本政府・軍部)は恐れてゐました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分がsecurity(安全保障)の必要に迫られてのことだつたのです」と訳している[491][492]。マッカーサーが、「絹産業以外には、国有の産物はほとんど何も無い」日本が、「安全保障の必要に迫られてのことだった」と証言した意味には、暗に米国の日本に対する厳しい経済封鎖が巻き起こした施策(戦争)であったという含意が看取できる[493]


日本人は12歳

公聴会3日目は5月5日の午前10時35分から始まり[494]、午前12時45分から午後1時20分まで休憩を挟んだ後に[495]、マッカーサーの日本統治についての質疑が行われた。マッカーサーはその質疑の中で、人類の歴史において占領の統治がうまくいったためしがないが、例外としてジュリアス・シーザーの占領と、自らの日本統治があるとし、その成果により一度民主主義を享受した日本がアメリカ側の陣営から出ていくことはないと強調したが、質問者のロング委員よりヴァイマル共和政で民主主義を手にしながらナチズムに走ったドイツを例に挙げ、質問を受けた際の質疑が下記の通りである[496]

RELATIVE MATURITY OF JAPANESE AND OTHER NATIONS

  • Senator Long.(ロング上院議員)
Germany might be cited as an exception to that, however. Have you considered the fact that Germany at one time had a democratic government after World War I and later followed Hitler, and enthusiastically apparently at one time.
(しかしドイツはそれに対する例外として挙げられるかも知れません。ドイツは一度、第一次世界大戦の後に民主主義の政府を有したのに、その後、一時は熱狂的にヒトラーの後を追ったという事実をあなたは考慮しましたか?)
  • General MacArthur. (マッカーサー元帥)
Well, the German problem is a completely and entirely different one from the Japanese problem. The German people were a mature race. If the Anglo-Saxon was say 45 years of age in his development, in the sciences, the arts, divinity, culture, the Germans were quite as mature.

The Japanese, however, in spite of their antiquity measured by time, were in a very tuitionary condition. Measured by the standards of modern civilization, they would be like a boy of 12 as compared with our development of 45 years.

Like any tuitionary period, they were susceptible to following new models, new ideas. You can implant basic concepts there. They were still close enough to origin to be elastic and acceptable to new concepts.

The German was quite as mature as we ware. Whatever the German did in dereliction of the standards of modern morality, the international standards, he did deliberately.

He didn't do it because of a lack of knowledge of the world. He didn't do it because he stumbled into it to some extent as the Japanese did. He did it as a considered policy in which he believed in his own military might, in which he believed that its application would be a short cut to the power and economic domination that he desired.

Now you are not going to change the German nature. He will come back to the path that he believes is correct by the pressure of public opinion, by the pressure of world philosophies, by his own interests and many other reasons, and he, in my belief, will develop his own Germanic tribe along the lines that he himself believes in which do not in many basic ways differ from our own.

But the Japanese were entirely different. There is no similarity. One of the great mistakes that was made was to try to apply the same policies which were so successful in Japan to Germany, where they were not quite so successful,to say the least.

They were working on a different level.

(まぁ、ドイツの問題は日本の問題と完全に、そして、全然異なるものでした。ドイツ人は成熟した人種でした。アングロサクソンが科学、芸術、神学、文化において45歳の年齢に達しているとすれば、ドイツ人は同じくらい成熟していました。しかし日本人は歴史は古いにもかかわらず、教えを受けるべき状況にありました。現代文明を基準とするならば、我ら(アングロサクソン)が45歳の年齢に達しているのと比較して日本人は12歳の少年のようなものです。他のどのような教えを受けている間と同様に、彼等は新しいモデルに影響されやすく、基本的な概念を植え付ける事ができます。日本人は新しい概念を受け入れる事ができるほど白紙に近く、柔軟性もありました。ドイツ人は我々と全く同じくらい成熟していました。ドイツ人が現代の国際的な規範や道徳を放棄したときは、それは故意によるものでした。ドイツ人は国際的な知識が不足していたからそのような事をしたわけではありません。日本人がいくらかはそうであったように、つい過ってやったわけでもありません。ドイツ自身の軍事力を用いることが、彼等が希望した権力と経済支配への近道であると思っており、熟考の上に軍事力を行使したのです。現在、あなた方はドイツ人の性格を変えようとはしないはずです。ドイツ人は世界哲学の圧力と世論の圧力と彼自身の利益と多くの他の理由によって、彼等が正しいと思っている道に戻っていくはずです。そして、我々のものとは多くは変わらない彼等自身が考える路線に沿って、彼等自身の信念でゲルマン民族を作り上げるでしょう。しかし、日本人はまったく異なりました。全く類似性がありません。大きな間違いの一つはドイツでも日本で成功していた同じ方針を適用しようとしたことでした。控え目に言っても、ドイツでは同じ政策でも成功していませんでした。ドイツ人は異なるレベルで活動していたからです。) — p.312、Military situation in the Far East. Corporate Author: United States.(1951)[497]

この発言が多くの日本人には否定的に受け取られ、日本におけるマッカーサー人気冷却化の大きな要因となった(#マッカーサー人気の終焉)。当時の日本人はこの発言により、マッカーサーから愛されていたのではなく、“昨日の敵は今日の友”と友情を持たれていたのでもなく、軽蔑されていたに過ぎなかったことを知ったという指摘がある[498]

さらにマッカーサーは、同じ日の公聴会の中で「日本人は12歳」発言の前にも「日本人は全ての東洋人と同様に勝者に追従し敗者を最大限に見下げる傾向を持っている。アメリカ人が自信、落ち着き、理性的な自制の態度をもって現れた時、日本人に強い印象を与えた」[499]「それはきわめて孤立し進歩の遅れた国民(日本人)が、アメリカ人なら赤ん坊の時から知っている『自由』を初めて味わい、楽しみ、実行する機会を得たという意味である」などと日本人を幼稚と見下げて、「日本人は12歳」発言より強く日本人を侮辱したと取られかねない発言も行っていた[500]

また、自分の日本の占領統治をシーザーの偉業と比肩すると自負したり、「(日本でマッカーサーが行った改革は)イギリス国民に自由を齎したマグナ・カルタ、フランス国民に自由と博愛を齎したフランス革命、地方主権の概念を導入した我が国のアメリカ独立戦争、我々が経験した世界の偉大な革命とのみ比べることができる」と証言しており、マッカーサーは証言で、自身が日本で成し遂げたと考えていた業績を弁護していたという解釈もある[501]

一方で、マッカーサーは「老兵は死なず……」のフレーズで有名な1951年4月19日の上下両院議員を前にした演説では「戦争以来、日本人は近代史に記録された中で最も立派な改革を成し遂げた」や「賞賛に足る意志と、学習意欲と、抜きんでた理解力をもって、日本人は戦争が残した灰の中から、個人の自由と人格の尊厳に向けた大きな建造物を建設した。政治的にも、経済的にも、そして社会的にも、今や日本は地球上にある多くの自由国家と肩を並べており、決して再び世界の信頼を裏切る事はないであろう」と日本を称賛しており、「日本人は12歳」発言は日本人はドイツ人より信頼できることを強調したかっただけでマッカーサーの真意がうまく伝わらなかったという解釈や[502]、マッカーサーと関係が深かった吉田茂のように「元帥の演説の詳細を読んでみると「自由主義や民主主義政治というような点では、日本人はまだ若いけれど」という意味であって「古い独自の文化と優秀な素質とを持っているから、西洋風の文物制度の上でも、日本人の将来の発展は頗る有望である」ということを強調しており、依然として日本人に対する高い評価と期待を変えていないのがその真意である」との好意的な解釈もある[503]。なぜマッカーサーが「12歳」と言って「13歳」でなかったのかは、英語の感覚で言えば12歳は「ティーンエイジャー」ではまだないということである。まだ精神年齢が熟しきっておらず、新しい事柄を受け入れることが可能だと強調しているのである。

その他

この委員会では、他にも「過去100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは共産勢力を中国で増大させたことだ。次の100年で代償を払わなければならないだろう」と述べ、アジアにおける共産勢力の脅威を強調している[390]

ラッセル・ロングからは「連合国軍総司令部は史上類を見ないほど成功したと指摘されている」と水を向けられたが、「そうした評価を私は受け入れない。勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方がよい結果を生み出すことはない。いくつか例外があるだけだ」「交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない」と答えている。また、別の上院議員から広島・長崎の原爆被害を問われると、「熟知している。数は両地域で異なるが、虐殺はどちらの地域でも残酷極まるものだった」と答えて、原爆投下の指示を出したトルーマンを暗に批判している[390]


注釈

  1. ^ マッカーサ、マックアーサーなどとカナ表記される場合もある。
  2. ^ 議会が1939年8月に司令官(4人)を中将職とするまで、第一次世界大戦後のアメリカ陸軍に中将はいなかった。An Act To provide for the rank and title of lieutenant general of the Regular Army.
  3. ^ フィリピン防衛計画作成の作業料という名目で、7年間にわたり多額の金をコミッションとして渡す契約。マッカーサーはアメリカ軍人の任務として防衛計画を作成するのであり、その見返りを受け取ることはアメリカ国内法で違反だった。
  4. ^ アジア艦隊のトップが大将なのは、上海などで砲艦外交をする上で仕事をやりやすくするためという理由があった。
  5. ^ マッカーサーがウェストポイント校長時代、アナポリス校長はハートであった。
  6. ^ リパブリック讃歌の替え歌)ダグアウト・ダグ・マッカーサー 岩の上に寝そべって震えてる。どんな爆撃機にも突然のショックにも安全だって言うのにさ。ダグアウト・ダグ・マッカーサーはバターンで一番うまいもの食っている。兵隊は飢え死にしようってのにさ。
  7. ^ 1日の兵員1,000名に対する平均死傷者数 ○太平洋戦域 戦死、行方不明1.95名 戦傷 5.50名 総死傷7.45名 ○ヨーロッパ戦域 戦死、行方不明0.42名 戦傷1.74名 総死傷2.16名
  8. ^ Commander for the Allied Powers(略称 SCAP)
  9. ^ マッカーサーが日本陸軍の兵営を訪れたとき、日本陸軍はコレラの流行に悩まされていた。軍医が処方する薬を兵士が服用せず、困った軍医が薬箱に「薬を服用するのは天皇陛下の御命令である」と書いたところ、全兵士が薬を服用した様子を見たマッカーサーは天皇命令の絶対性を思い知らされている。
  10. ^ 永井和によれば、重光の具申により方針を撤回させたことは重要であり、無条件降伏があくまで日本軍に対するものであって国に対するものではないことに基づくとする。
  11. ^ 1945年にアメリカで行われた世論調査では、天皇が有罪であるという意見が合計70%、うち死刑まで求めていたのが33%、それを受けて9月10日にアメリカ上院で「天皇を戦犯裁判にかけることをアメリカの方針とする」という決議がなされている。
  12. ^ 児島襄の『東京裁判』によれば民間情報教育局局長カーミット・R・ダイク准将がマッカーサーの意思を汲んで日本側にはたらきかけたという証言がある。
  13. ^ : General Head Quarters of the Supreme Commander for the Allied Powers、略称 GHQ/SCAP
  14. ^ トルーマン側に示された正式な理由は「マッカーサーが長い期間、東京を離れるのは危険である」とされた。
  15. ^ マッカーサーが12月24日に提出した「進行妨害標的リスト」には原爆投下目標として26か所が示されているとともに、敵地上軍への使用として4発、中国東北部にある敵航空機基地に4発の原爆使用が要請されていた。
  16. ^ : Old soldiers never die; they just fade away.
  17. ^ 松井は出版する気であったが出版に至らず、遺族の意向により全面的な公開はされておらず、一部が『朝日新聞』で記事となった。
  18. ^ 手塚治虫の漫画『どついたれ』でマッカーサーを恨む山下哲が、第一生命館前の人ごみに紛れてマッカーサーを暗殺しようとする描写がある。
  19. ^ 父アーサーも南北戦争で叙勲されており、2016年時点で親子揃って名誉勲章を受けたのはマッカーサー親子だけとなる
  20. ^ 側近2名の回想だが、研究が進んだ今日では、双方とも(回想録と同様に人物研究以外では)史料としての価値は低いとされる。
  21. ^ ラッセル・ブラインズは、当時AP通信東京支局長で、マッカーサーに最も近いジャーナリストと言われた。

出典

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