琉球列島高等弁務官
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琉球列島高等弁務官(りゅうきゅうれっとうこうとうべんむかん、英:High Commissioner of the Ryukyu Islands)は、琉球列島米国民政府に置かれた高等弁務官。
概要
1957年(昭和32年)6月5日、アイゼンハワー大統領は大統領行政命令10713号「琉球列島の管理に関する行政命令」を発令[1]。この行政命令によって民政副長官制から高等弁務官制に移行し、琉球列島米国民政府(USCAR)に高等弁務官府が置かれた[1]。
1972年5月15日に沖縄が日本に復帰(沖縄返還)したことにより廃止[1]。15年間に6人の高等弁務官が就任した[1]。
高等弁務官はアメリカ合衆国大統領の承認を得て、国防長官が現役アメリカ陸軍将官から任命した(全6代が偶然、中将だった)。 高等弁務官の権限は強大で、しばしば琉球政府の施策に介入したが、逆にそれが沖縄住民の反発を買い、復帰運動は激化していった。
職務権限
- 行政主席や琉球上訴裁判所裁判官の任命権
- 琉球政府全職員の罷免権
- 立法院が制定する立法の拒否権
- 琉球民裁判所が扱う訴訟の米国民政府裁判所への移送権
- 収監されている受刑者への恩赦権
- 戸籍法による戸籍の閲覧及び確認権
歴代高等弁務官
代 | 氏名 | 写真 | 在任期間 | 出身地 |
---|---|---|---|---|
1 | ジェームス・E・ムーア陸軍中将 James Edward Moore |
1957年7月4日 - 1958年4月30日 |
マサチューセッツ州 ニューベットフォード |
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2 | ドナルド・P・ブース陸軍中将 Donald Prentice Booth |
1958年5月1日 - 1961年2月12日 |
ニューヨーク州 オールバニ |
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3 | ポール・W・キャラウェイ陸軍中将 Paul Wyatt Caraway |
1961年2月16日 - 1964年7月31日 |
アーカンソー州 ジョンスボロー |
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4 | アルバート・ワトソン2世陸軍中将 Albert Watson II |
1964年8月1日 - 1966年10月31日 |
イリノイ州 マウントバーノン |
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5 | フェルディナンド・T・アンガー陸軍中将 Ferdinand Thomas Unger |
1966年11月2日 - 1969年1月18日 |
ペンシルベニア州 ピッツバーグ |
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6 | ジェームス・B・ランパート陸軍中将 James Benjamin Lampert |
1969年1月28日 - 1972年5月14日 |
ワシントンD.C. |
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
琉球列島高等弁務官
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「アルバート・ワトソン2世」の記事における「琉球列島高等弁務官」の解説
ワトソンは1964年8月1日に琉球列島高等弁務官に就任した。しかし国務省は元々チャールズ・H・ボーンスティール3世を任命するつもりであったが、彼の視力が低下した為、高等弁務官の職務を全うできないと判断した国務省は代わりにワトソンに申し出た。 1965年8月、ワトソンは当時の日本の内閣総理大臣佐藤栄作を出迎え、日本の首相と会談を行った最初の高等弁務官となった。ワトソンもまた、沖縄に前任者のキャラウェイよりも遥かに大幅な援助を行うことを日本に認めた。彼はアメリカ軍と琉球立法院との良好な関係を築き上げようと試みた。自治権拡大と日本との関係を強化も行い、琉球諸島の住民に対して柔和な態度で臨んだ。しかしながら、彼はアメリカが掌握している沖縄の施政権を放棄するのを拒否したが、その背景としてこの頃アメリカ軍隊の機動力が低下し始め、国家の安全保障を脅かす危険性を懸念したと考えられる。 好調なスタートを切ったにも関わらず、前任者に引き続き、ワトソンと当時の駐日アメリカ合衆国大使を務めたエドウィン・O・ライシャワーとの関係が悪化したままであった。協定破棄と重要情報を知りえる中から追放された理由で、二人とも互いを告訴した。ワトソンは2個目の殊勲章を、任期終了を迎える頃に受章した。
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