キャラウェイ旋風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 14:36 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動![]() | この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2014年1月) |
キャラウェイ旋風(キャラウェイせんぷう)は、琉球列島高等弁務官、ポール・W・キャラウェイ(在任:1961年2月16日 - 1964年7月31日)がとった一連の強権発動政策のことである。彼の施策は、大きく政治面と経済面に分けることができる。
政治面
キャラウェイは「沖縄の自治は神話にすぎない」と公言し、米国民政府の法令である布令を度々発動して、琉球政府の権限を制約してきた。そのため、親米路線をとっていた与党・沖縄自由民主党の党内抗争が激化。西銘順治那覇市長ら党内反主流派は脱党し、民政クラブ→沖縄自由党を結成して沖縄自民党は分裂するに至った。これらの混乱の責任を取る形で大田政作は沖縄自民党総裁と琉球政府行政主席を辞任、紆余曲折を経て松岡政保が後任の党総裁と行政主席に就任する。
また、沖縄における日本政府の影響力を排除するために積極的にアメリカ資本の導入を図ったり、復帰運動への規制を強めていった。その一方で、大東諸島の土地所有権問題について島民の土地所有権を認める裁定を下すなど、キャラウェイ旋風の意外な側面があったのも、また事実である。
経済面
キャラウェイ旋風が最も激しく吹き荒れたのは金融業界であった。キャラウェイは金融業界の刷新を図るために強権を発動した。
まず普通銀行や相互銀行の検査を行い不正を摘発し、各銀行首脳を退陣に追い込んだ。続いて琉球銀行の株主総会に、キャラウェイ本人が筆頭株主(米国民政府が51%の株を所有)として出席し、その席上で経営陣の責任を追及し、経営陣の総辞職を行わせた。
また、農林漁業中央金庫や琉球農業協同組合連合会などの協同組織金融機関や保険会社にも検査が行われ、容赦ない摘発が行われた。
結果
キャラウェイの政策は、いくつかの不正摘発を行うという成果は上げたものの、住民の自治権を軽視する独裁的な政策は、沖縄住民の反発を増大させた。
日本復帰を望んでいた沖縄住民はもとより、親米派の沖縄住民もキャラウェイに、ひいてはアメリカに反発する者が相次いだ。親米派は政治的な抗争が激化し、親米派から日本復帰派に路線変更するものも多く現れるなど、徐々に弱体化していった。一方、日本復帰派は逆に影響力を増大させ、沖縄の日本復帰運動も日増しに強まっていき、キャラウェイの目算とは全く逆の結果を招いた。
キャラウェイが高等弁務官の職を退いてからもこの流れは収まらず、沖縄は1972年に沖縄返還によって日本に復帰した。
関連項目
外部リンク
- 沖縄県公文書館
- 守礼の光-米国琉球列島高等弁務官府機関誌 - ウェイバックマシン(2004年6月26日アーカイブ分)
キャラウェイ旋風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 07:17 UTC 版)
「ポール・W・キャラウェイ」の記事における「キャラウェイ旋風」の解説
キャラウェイは1961年2月16日から1964年7月31日まで第3代琉球列島高等弁務官を務めた。しかし、アメリカ上院議会が彼の中将昇進を未だ承認していないにも関わらず、沖縄に到着した彼は中将の証である3つ星勲章を身に着けていた。これは沖縄住民に強い印象を与え、そして一刻も早く住民の地位を確立することが重要だと考えたためである。 キャラウェイは、沖縄は中国に対する防衛のため、アメリカ軍支配における重要な地域であると考え、さらにアメリカ軍による占領は、沖縄にとって前向きな力になると信じた。沖縄経済は彼の支配下で成長し、沖縄が日本復帰すれば権威主義者による支配や沖縄住民に対する差別が行われると考えた。キャラウェイは沖縄の政治家は有能とみなしたが、彼らとは対等な立場にないと考えた。 「自治とは現代では神話であり存在しない。琉球が再び独立国にならないかぎり不可能」 — ポール・キャラウェイ、1963年3月5日 金門クラブ3月月例会 彼は電力価格の値下げ、また著名な銀行の幹部を詐欺の容疑で逮捕するなど沖縄の金融業界の改革を行った。実際にはキャラウェイ本人が行った命令ではなく、高等弁務官命令という名目で琉球政府が金融機関への不正摘発に踏み切ったとされる。占領下における銀行・水道・電力・石油事業は実質的には「米国民政府の独占経営」状態だったといわれており、これらの沖縄での事業から得られる収益の一部は「弁務官資金」としてストックされ、親米派の政治家にばらまかれる仕組みになっていた。彼は住民による自治運動を厳しく鎮圧し、カリフォルニアの当時の地元紙は「左翼組織からは非難を受けたが、沖縄の外国の実業家からは賞賛された」と伝えている。 本土復帰を望む運動には鎮圧をさしむけ、琉球政府の存在を軽視し、立法院が議決した法案にはつぎつぎと拒否権を発動した。また沖縄の議員選挙に介入しては人民党候補者の候補資格を失効させ、また、軍雇用者の採用には厳しく思想調査をおこない、反米と見なされれば容赦なく追放された。「高等弁務官」という強大な権限をふりまわす行為は、住民からはキャラウェイ旋風と呼ばれた。1963年3月5日、当時、沖縄の鹿鳴館と呼ばれていた那覇市のハーバービュー・クラブにおける金門クラブ月例会で、「沖縄住民による自治は神話に過ぎない」「琉球政府への権限委譲は行政命令にも規定し、努力も払われているが現在の琉球政府の状態ではまだまだ」と発言し、住民らによる自治を否定した。 大城将保は、米大統領行政命令によって「高等弁務官」に与えられた権限は絶大なもので、①裁判の移送権、②法令の公布・立法の拒否権、③公務員の罷免権、④刑の執行の停止・恩赦、⑤安全保障上必要な場合のすべての権限の行使を含み、これらを縦横無尽に行使すれば、いとも簡単に「80万沖縄住民は基本的に専制支配のもとで無権利状態におかれる」ということを歴史的に実証したものだと指摘する。 「5 Fools より Tokyo 6 が怖い」強権的な統治手法で知られたキャラウェイ高等弁務官の口ぐせだった。 — メディアの役割「復帰」まで関心薄く(沖縄 返還交渉と安保:5)朝日新聞 (1996年4月11日) キャラウェイは、彼が 5 Fools と呼んだ地元紙を侮蔑していたが、閉じられた占領地の状況が、Tokyo 6 と呼んだ日本「本土」の時事、共同両通信、朝日、読売、毎日各新聞、NHKの特派員らに伝わることを何よりも警戒していたという。米国民政府はボーローポイント基地などに傍受のための外国放送情報局 (FBIS) や CIA の拠点を持ち、住民の動向から地元メディア、さらに本土のメディアまで傍受し記録していたことが情報公開でわかっているが、このように、米軍の箱庭となっていた沖縄占領を持続するためには、日本の「無関心」が必要だということをキャラウェイはよく理解していた。 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} (左)当時の那覇市長西銘順治とキャラウェイ(中)本部町で視察を行うキャラウェイ(右)報告書に署名するキャラウェイ
※この「キャラウェイ旋風」の解説は、「ポール・W・キャラウェイ」の解説の一部です。
「キャラウェイ旋風」を含む「ポール・W・キャラウェイ」の記事については、「ポール・W・キャラウェイ」の概要を参照ください。
- キャラウェイ旋風のページへのリンク