本土復帰へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 03:35 UTC 版)
「アメリカ合衆国による沖縄統治」の記事における「本土復帰へ」の解説
サンフランシスコ平和条約が発効されてちょうど8年、1960年(昭和35年)4月28日に沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成し、以降毎年4月28日にはデモ行進が行われ、また沖縄本島の辺戸岬沖で海上集会を行った。1962年(昭和37年)3月19日、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは 沖縄が日本国の一部であることを認め、日本の対沖縄援助について継続的に協議する沖縄新政策を発表した。ところが、米国の軍部は、この協調路線で日本政府の関与が深まり沖縄における米軍の軍事的利益が侵害されることを懸念した。琉球列島高等弁務官に就任したポール・W・キャラウェイ陸軍中将は絶対的な権力を利用して、議会が採決した法案を次々と拒否し、また経済界にまで介入し、日本と沖縄の分離策を進めた(キャラウェイ旋風)。日米協力に混乱をきたすとして、ケネディ大統領はキャラウェイを更迭した。 1965年(昭和40年)8月19日に当時の佐藤栄作首相が訪問し、「沖縄が日本に復帰しない限り、戦後は終わらない」と述べた。来沖した背景としてはベトナム戦争に対する反戦運動と復帰運動があった。戦争が激化すると沖縄は米軍にとって非常に重要な存在となり、連日飛行場から頻繁に爆撃機の離着陸が行われた。反戦復帰運動が高まり、戦争に支障をきたす恐れがあり、住民の反米・反戦感情を抑える為、民政府は佐藤に目を付けた。 しかし、それと裏腹に1968年(昭和43年)に嘉手納飛行場でB-52爆撃機の墜落事故、1969年(昭和44年)には基地内でVXガスが漏れる事故、そして1970年(昭和45年)12月20日に本島中部の旧コザ市(現在の沖縄市の一地域)で数千人の住民が暴徒化し、米軍車両数十台を焼き払う事件が発生した(コザ暴動)。 1968年(昭和43年)2月1日に立法院の定例会議に出席したフェルディナンド・T・アンガー高等弁務官は、行政主席を選出すべく住民による直接選挙を実施すると発表した。選挙当日は立法院議員選挙と那覇市長選挙も行われた。結果、革新派の屋良朝苗が当選した(第1回行政主席通常選挙)。
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